厄介な女がいる。一人は、無自覚にこちらを苛立たせる女。一人は、自覚があって人の神経を逆なでする女である。そして今、クロコダイルはその後者の方の女と相対していた。
海軍本部円卓会議室隣の部屋。珍しく七武海の収集に応じたクロコダイルは、会議が始まるまで、一人椅子に腰掛け沈黙を守っていた。クロコダイル以外に部屋に人の姿はない。もちろん、ドアが開けば絶対にわかる。それなのに、それはドアを介すことなく突然現れたのだ。

「おい、暇だなクロコダイル」

まるで手品のように現れた。何処から現れた、などと聞くだけ野暮だろう。だからクロコダイルは敢えて何も言わない。
椅子があるにも関わらずテーブルに腰掛け、その長い足をこちらに向けて組んでいる女。傲慢という態度と顔がよく似合うその女は、クロコダイルを見下ろすと、血の色の紅を塗った唇を弓なりにして笑った。
見下されるのは誰であろうが好きではないが、この女にそれを言ったところで「それがどうした」と言われるのはわかっている。仕方なく、「何の用だ」と下から睨んでやれば、女は、「もっと可愛く上目遣いとか出来ないのか」と何とも気色悪いことを言う。

「てめぇに愛想振りまいてどうする」
「もっと愛嬌があればとびきり可愛がってやるものを」
「いらねぇよ。てめぇの慈悲なんて反吐が出る」

言ってから気がついたが、この女に慈悲などあるのだろうか。いや、ないだろう。女は、クロコダイルが知る限り人を思いやる気持ちだとか心遣いだとか、そういう類のものとは一番縁遠い生き物である。
女の名はトカゲ。世にも美しい生き物ながら、その正体は何ともおぞましい魔女と呼ばれるものだ。

「なんだ、卿は俺に優しくされたくないのか?」

どの口が優しさなどと言うのか。誰かこの女を大嘘つきとして舌を引っこ抜いてくれはしないだろうか。そうすれば、海軍本部も明日から実に静かになるだろうに。
そんな、想像するだけは出来て現実には到底無理なことを思いながら、クロコダイルはトカゲから視線を外すと、葉巻に火をつけ深く吸った。立ち上る紫煙がトカゲの顔先を掠め、彼女はちょっとだけ顔をしかめた。

「口寂しいのか」
「あん?」

目を細めるトカゲ。にたりとした口元は、だらしなく歪んでいる。あぁ、嫌な顔だ。なんて下卑た笑みを浮かべる女だろう。クロコダイルの眉間に、じわじわと皺が寄っていく。

「キスしてやろうか」

首もとのスカーフをぐいっと捕まれ、たばこを取り上げられた。息がかかるくらい近くにあるトカゲの顔は、まじまじ見ればよけいに美しいことがわかる。深い青の目も、きめ細かい肌も、長い睫も、形のいい唇も、神がこの世で一番いいものを選んでとってつけたような、そんな完璧さがある。見惚れるような、とはトカゲの為にあるのではないかと、ふとそんな風に思う。

「・・・・・・仏頂面だなぁ、卿は」

あと少し首を伸ばせば唇が掠めるだろう位置で、トカゲはつまらなそうに呟いた。

「これがあの娘なら、顔を真っ赤にしてしどろもどろになってくれるだろうに」
「悪趣味め」
「可愛い娘というのは、かまいたくなって当然だろう?」

トカゲはそう言うが、彼女のかまうというのは一般のそれとはレベルが違う。ほとんど嫌がらせも同じなのだ。相手に選ばれたものはたまったものではない。

「その性癖、どうにかしろよ」
「人を痴女のように言うんじゃァない。その言葉は、キキョウにお似合いだ」

トカゲは心外だな、と肩を揺らして笑った。この女は、こちらが何をどう言っても楽しむ姿勢らしい。いっそ憤りでも感じればいいのに。どこまで余裕の態度を崩さないトカゲに、クロコダイルは最早言い返すことにも疲れていた。

「ん?どうした、そんなに疲れた顔して」
「誰のせいだ」
「・・・・・・そうだ。そんな卿に、いいものをやろう」
「いらねぇよ」
「年長者の言うことは聞けよ」

ぱんっ!とトカゲが手を叩くと、空中に突然現れた赤い糸。それはするすると綺麗に自ら束になると、トカゲの手の中に収まった。

「俺特製、ドキッ!あの子とお近づきなれちゃうトキメキ恋のアイテム、恋愛運120パーセント増量、赤い糸!!だ」

堂々とそう言ってのけたトカゲ。見たところただの糸にしか見えないが、それを所有しているのがトカゲ、魔女であれば話は別だ。胡散臭いことこの上ないが、ただの糸でない可能性も大である。そしてそれは同時に、クロコダイルに嫌な予感をさせた。

「おい、面倒ごとはごめんだぞ」

先手とばかりに、赤い糸とやらに関わることを拒否するクロコダイル。しかし、己が何を言おうともトカゲには一切関係ないのだと思い出すのは、彼女の手によって、己の右手の小指にあっと言う間に糸を巻き付けられた後だった。

 

 

 

 

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結局トカゲに赤い糸を巻かれたまま、クロコダイルは会議に出た。会議中、こちらも珍しく収集されたドフラミンゴに散々からかわれたが、その度に鉤爪で引っぱたいてやった。
会議自体はこれといって目立った事柄もなく、来た価値があるのかと思わせるものだったが、面倒がないだけいいだろう。そう納得することにして、さてアラバスタへ帰ろうか、とクロコダイルが帰り道を進んでいる時だった。
前から歩いてくる海兵たちの話が耳に入ってきた。

「今回の任務は珍しく誰も死ななかったって、中将がほっとしてるらしいぞ」
「あぁ、さん・・・・・・ヴィオレッタか」

そのまま通り過ぎることも出来たが、ヴィオレッタという単語に、思わず足並みをゆっくりにしてしまう。
海兵たちはところどころ衣服が汚れていて、土と火薬の匂いを漂わせている。戦闘から帰ってきたのだと聞かなくてもわかった。

「そりゃそうだろうな。だって中将、その為にヴィオレッタに先陣を切らせたって話だし」
「誰もあの子の為に後ろを振り返らぬように、だっけ?」
「酷いことする、って思うけど、俺も死にたくはないしなぁ。助ける、なんて言えないな」
「いいんだよ。誰だってそうだ。誰が好き好んでこの世から道を踏み外すもんか」

それもそうだ、と海兵たちは笑う。その笑い声に一瞬殺意を覚えたが、すぐにそれを掻き消すと、クロコダイルは出口へと向かっていた足を別方向へと向けていた。

 

 

 

 

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やってきたのは、海軍本部内にある一画。海兵たちが行き来する場所からはちょっと離れた場所である。そこにぽつんと構えられているのが、の部屋だ。
扉の前に立ち、ノックしようと幾度躊躇っただろう。かれこれ十分、クロコダイルはこの状態である。
これといってに用事があるわけではない。ただ、あの海兵たちの話を聞いてしまい、先陣を切ったというからどんな具合かと、ちょっと思っただけである。は実力に見合わない任務にいつもつけられる。それは世界貴族の要望であり、に拒否権は存在しない命令であった。そもそも海兵になったのだって、元を辿れば貴族たちの要望から始まったことである。でもは嫌がること一つせず、平気な顔をして任務についた。そして、見るも無残に傷つきながら、毎度毎度何かを犠牲にして帰ってくるのだ。
クロコダイルの頭の中で、は酷い怪我を負っている。血の気の失せた顔で、大丈夫だと微笑む。それがどうにも腹が立ってしょうがない。やはりこのまま会わずに帰ろう。今の己には、にかけてやれる優しい言葉の一つも浮かばない。馬鹿だ何だと、きっと罵ってしまうだろう。ならば会わない方がいい。
そう思った瞬間、目の前のドアが静かに開いた。

「おや、これはクロコダイル様。ん?その可愛らしい指はお洒落ですか?」

中から出てきたのは、執事のような格好をした男。目敏くクロコダイルの指を見ながらにこにことして問うてくる、センゴクの懐刀にしてのお目付け、ドュマである。初老の男で、普段は穏やかだが、怒らせるとても厄介だというのは海軍本部内では有名な人物だ。

「申し訳ありませんが、お嬢様は今はお薬で眠っておりますよ」
「そうかよ」

ドュマが体をずらして、ドアの前を開ける。無言での室内への入室許可に、クロコダイルは彼の方をちらりと見た。視線がかち合えば、彼は丁寧にお辞儀をすると、後ろ手に手を組んで、その場から動かない。

「お入りにならないので?」
「・・・・・・用はない」
「左様ですか。でしたら、何の用もないのにわざわざこんな場所までお越しいただいた、お暇なクロコダイル様。私が戻ってくるまでお嬢様を見ていてください」

ところどころ引っかかる言い方だが、いちいち突っ込むことはしない。

「おい、大事なお嬢様だろう。そのお嬢様の部屋に、俺みたいな男が入っても?」
「私が大事に思っているとわかってらっしゃるなら、何をすればどうなるか、わからないあなたじゃないでしょう?」

銀縁眼鏡の奥の瞳が、ぎらりと光る。それはとても、穏やかなんて言葉が似合う男のものではなかった。

「替えの包帯とお薬を持って参ります。お嬢様のこと、お頼みしました」

ドュマはそう言うと、踵を返して去って行く。その姿が完全に廊下の端に消えてから、クロコダイルは室内に向かって控えめに声をかけた。

「・・・・・・入るぞ」

取りあえず、礼儀として声はかける。しかし、中から応答はない。軽めにノックして、もう一度入るぞ、と告げると、出来るだけ音を立てないように慎重にドアを開ける。何もやましいことがあるわけではないのだからもっと堂々と開けてもいいようなものだが、中にがいると思うと必然的に手つきにも気を配るようになっていた。
部屋の中はしんと静まり返っている。ドュマが開けていったのか、少し開いた窓から入ってくる風が白いカーテンの裾を遊ばせている。その、下。窓際に置かれたベッドの上に、青白い顔をしたが眠っていた。
足音をさせてベッドへ近づく。でも、は鎮静剤で深く眠っているのか、クロコダイルの気配にも気がついていないらしい。一向に目を覚ます様子はない。

「・・・・・・よく生きてるな、こいつ」

傍で見ればよくわかる。布団から覗く肌は包帯だらけ、顔にはガーゼを押し当てられ、鼻をつく消毒液の濃い臭いは部屋中に充満している。生きているというよりも、かろうじて生かされていると言ったほうが正確なその状態に、クロコダイルは思わず顔をしかめる。
かわいそう、だと思ったわけではない。こうなる人生を選んだのは、自身だ。
。通称ヴィオレッタ、堕落した女。世界貴族と奴隷の血を引く、本来なら決して許されない禁忌の娘。世界から外されることを未来永劫約束させられた存在であり、特例で海兵になった女の子。
まぁ、なんとも肩書きは悲劇的に立派なものだ。だが、それだけのこと。具体的に、に何が出来るわけではない。その体を巡る血さえ特殊でなかったなら、彼女は何処にでもいる普通の女の子だ。
規則正しい寝息を立てるの寝顔を見ながら、極力ベッドを揺らさないようにして脇に腰かけた。は、寝顔だけ見れば実際の年齢よりも随分と幼く見える。まだあどけない少女、そのものだ。そして実際、はいくら歳を重ねても少女のようだった。考え方も、行動も、クロコダイルに言わせれば甘ちゃんもいいところの純粋さ。あまりの純粋さに、あの悪意の魔女も舌を巻いたことがあると言うのは、風の噂で聞いたことである。

「ん・・・・・・」

が小さく声を漏らす。一瞬起きたのかと思ったが、すぐにまた寝息を立て始める。胸の上で組まれている腕が、肺の動きに合わせて上下していた。
ふと、クロコダイルはその腕が目に付いた。腕というよりも、その指先。火傷と傷の痕が残るそこを見つめること数秒、今度は自分の指先を見る。
トカゲによって赤い糸を結ばれた指。その糸の片方は空いている。トカゲは、これで繋がれた相手とは互いにときめくのだと言った。そんな媚薬のような赤い糸。腐っても魔女である女のお手製、その力は本物であるのだろう。そう言えば、誰かと試さないと絶対に外れないぞ、とトカゲはそうも言った。巻いたままでも支障がないが、トカゲの作った品を常に身近に置いておけるほど、クロコダイルも心が広い方ではない。出来ることなら早々に外したい。ならば、誰かと試さなければ。そして目に入ったのが、の指先である。
下手な相手と試すよりは、と打算的な心がなかったと言えば嘘になるが、それでも、別の人間と試すよりはだいぶマシに思えた。というよりも、別になら構わないと思ったのだ。万が一本当にときめいてしまっても、彼女なら、それでもいいと。
糸の空いている方を咥え、そっとの指先に近づく。片方しかない手と口を上手く使って器用に糸を操り、彼女の指先にしっかりと結んでから顔を上げる。
は相変わらず眠っている。閉じられた瞼も開く気配がない。血の気の失せた青白い顔も、この部屋にやってきた時から変わらない。

「なにもねぇじゃねぇか」

糸を結んでも、特にこれといった変化はクロコダイルに起きていない。
相手が眠っているから駄目なのだろうか?
期待をしていたわけではないのだが、ただちょっと拍子抜けしてしまった。こんなに近くにいるのに、無防備なにあえて触れたいとも思わないし、性欲が刺激されることも、口づけたいとすら思わない。
悔しいが、きっと自分はトカゲにまんまと騙されたのだ。こんな赤い糸なんぞ信じて、素直に指に巻いたままにしておくなんて、なんて馬鹿らしいのだろう。さっさと外してしまえばよかった。

「くだらねぇ」

溜息まじりにそう言いながら、の顔を見つめる。
やはり、何も変わらない。
ベッドの上で大人しく眠るその人は、「相変わらず」愛らしく、可憐で、犯し難い女であった。