「このおれの迸る才能の使い道としては申し分ないような気はしなくもないがそろそろ面倒くさくならないか、」
もったいぶった、というよりも回りくどい言い方をされては神経質そうに眉を跳ねさせた。夕暮れの礼拝堂。外部の参拝者など滅多におらぬ山奥の教会、その入り口にいつの間にか長身の女が立っていた。尼僧が丹精込めて育てている薔薇よりも赤々しい髪を背まで伸ばす姿は娼婦か何かのようである。いや、街角に立つ女程度にはない気品があることから、どちらかと言えば高級娼婦と言えよう。どちらにせよふしだらであることに変わりはないけれど。そんなことを胸中で呟いて、は立ち上がるのも大儀そうにゆっくりと膝を伸ばし、来訪者に向かい合った。
トカゲお母さん
「そろそろ首を括る覚悟でもしたのかい」
「おい、十年ぶりになる実の母との対面だぞ。もう少しドラマチックにしろよ」
ふん、と双方よく似た仕草で鼻を鳴らした。は、今は尼僧服ですっぽりと隠れている髪がこの女とまるで同じ色なことに毎朝毎晩呪いたくなるような感情が浮かぶが、こうして目の前にしてみて、その確信は強まるばかりである。
実母、と言うが共に暮らしたことは五年程度だ。その後はこのドイツの教会で暮らしている。時折この女が尋ねてくるたびに厄介ごとを押し付けられ閉口していた。それも、この十年ばかりは何の連絡もなかったもので、ついに死んでくれたのかと清々していたものである。
「またどこぞで子供でも産んだのかい」
「人を猫か何かのように言うんじゃァないよ。可愛げがない子だな。は愛らしい子に育ったというのに、お前はどこに優しさを落としてきたのか」
「君の腹の中じゃないかい。次に生まれたは、人一倍心優しい子だからね。も君の娘とはどうしても思えないほどに可愛げがある」
「まぁ、そうだな。あの子たち、会うたびにお前のことを案じている。カードは届いているのか?」
は自分の妹に当たる二人の少女を思い出し、若干怒気を和らげた。トカゲがを訪ねて来たことはこれまでで五回ほど。そのうちの二回は「妊娠した。おれは連れて周れんから暮らす場所を確保しろ」とどうしようもない頼みごとである。
父親は誰だとか、そういうレベルの問題ではなかった。トカゲ、時々子供を産む。父親にあたる男には一切頼らず、妊娠を告げずにさっさとトンズラこく。一所に半年以上留まらぬのが彼女の流儀らしかった。しかし、それでいて、娘たちには一所で落ち着く「平穏」を与えたいというのだから、この女が根っからのろくでなしでないことがわかる。
「届いているよ。クリスマスや新年だけじゃなくて、二人とも、一ヶ月に一度は必ずカードを送ってきてくれる」
「返事を書いてやれ。一ヶ月前にに会ったんだが、自分が何か悪いことをしたんじゃないかと気に病んでいたぞ」
は日本にいるトカゲにとって三番目の娘である。確かまだ学生だったはずだ。この春には高校に入学するのだと、その為に今は受験で希望の学校に受からなければ、と少し前に貰ったカードに書いてあった。
妹たちに返事を出したのはいつが最後だろうか。書かなくても送ってくるので、つい放っておいてしまっている。
「ふん、このぼくが、写真でしか見たことのない妹に情など沸くとでも?」
「ふふふ、ふ、そうか」
「なぁに」
「いや、情の欠片もないようなお前が、会ったこともない人間をそれでも「妹」と認識してくれておれは嬉しいよ」
にやにやと笑うトカゲに、は燭台を投げつけてやろうかと思った。しかし、トカゲの指摘どおり、まるで情がないというわけでもない自覚はあった。口ではいいつつも、しかしいつも、は妹たちの日々を案じていた。トカゲの安否なんぞどうでもいいので、毎朝毎晩のお祈りでが願うのは妹二人の平和である。神仏の存在を信じているではなかったが、他に祈りたいこともないのでそれを願う。にとって育ての親である老シスターは、その姿を「とても熱心ですね」と微笑むけれど、それは気のせいだと、はいつも否定している。
手紙を出さぬのは、何を書けばいいのか判らぬからだ。
妹たちの手紙やカードの内容は、にはまるでおとぎばなしのように思える。山奥にひっそりとあるこの教会にはない世界が、妹たちの生き生きとした筆で書かれているのを読むたびに、は気後れした。この生活に不満はない。尼僧の慎ましい生活以外を知らぬのだから、それは当然だ。だが、妹たちに、それを知らせて彼女たちは退屈しないだろうか?
「一度くらい会ってやればいいものを。は美しい娘になったぞ」
は二番目の娘である。フランスのサン・タンドレ大聖堂の司教とは面識があったので、彼を経由してをフランスのボルドーに送っている。時折港町やブドウ畑の様子を知らせてくる内容を思い出しながら、は、そういえばと違っては自分の写真を送ってきたことがないと思い出す。
写真や手紙から判ずるに、は愛嬌のある少女だ。トカゲのいやらしい色気をまるで受け継いでいないのはとてもいいことである。太陽のような明るさを備えた妹の姿を思い出しながら、しかし、次女に当たるの顔は、そういえば知らないとは今更ながらに気付いた。
「まさかぼくとおんなじ顔とか?」
「お前…美しい娘という前フリの後にそうのたまうのか」
「ぼくが美人なのは地球が丸いくらい当然のことだよね」
「おれに似ているからな」
傲慢さはお互い様のようである。
確かに自分の顔は母親であるこの女と酷似していると認めないわけにはいかなかった。は父親に似たのか髪の色から目の色までまるで違うのに、とトカゲはその配色が鏡を写したようにそっくりだった。
「で、今日はどんな厄介ごとを持って来たんだい」
あまり妹たちのことを長く話題にはしたくない。自分で思い出すのはいいが、人とその心を分かち合う意味がにはわからない。この女がやを、目に入れても痛くないほど溺愛していることは知っている。己の娘の話を何の遠慮もせずに話せるのは己だけだということもわかっている。けれども、自分の感情を人に語るという理由が、にはまるで理解できない。顔を上げると、そこでトカゲの、母の目がふっと細くなった。
「おれが死んでも、お前は悲しみそうにないな」
は、先ほどのように嫌味を返そうとして、しかし、黙った。目の前にいる女が死ぬかもしれないという可能性は、とても高いことを知っている。冗談で「殺されるかも☆」と口にした直後本当に殺されかけるような生活を、この女は送っている。
トカゲという女性のことを、はそれほど深く知っているわけではない。母親であるから、ある程度のことを知っておいたほうがいいとは思い、知っていることもある。だがそれは、この女から直接聞いたことではない。
トカゲは、画家を目指していたのだという。ふらり、とどこからか現れて、画家になろうと志した。彼女の描く絵は何もかもがすばらしく、すぐさま美術界では知らぬ者のいない人物となった。だがしかし、同時に彼女には、いっそ不幸とも言えるもう一つの才能があった。
彼女の手はどんなものでも模写することが可能だった。いや、模写と呼ぶ表現さえ足りぬほど、正確に、何もかもを写し変えることが出来る。モネであろうがピカソだろうが、それこそミケランジェロだろうが、時代、タッチ、材料に関係なく、トカゲは様々な画家の絵をその通りに描くことが出来た。
一言に言ってしまえば、その彼女の才能が、結果、彼女を美術界から追放させた。詳細は知らない。だけれど、トカゲの名は今では画家たちの間でささやかれるときは侮蔑と軽蔑を孕んだ声音でひっそりと吐かれるらしい。
その後のトカゲの才能を見込んだのは裏商人だった。贋作の制作、本物と同じ価値を出す絵画をあっさりと作り出せる天才画家。トカゲに罪悪の概念は特になかったらしい。描ければいいと、別段躊躇わずにトカゲは、求められるままに描いた。描いた、描いて、描いて、描き続けた。
どこかに所属するわけではない。あちこちを転々と回る。善人の依頼も悪人の依頼も様々こなしたという。たとえば、が耳に挟んだものは、戦前妻が愛した絵が戦火に焼かれてしまい、白黒の写真と僅かな美術資料のみが残っているという老人。妻が病床につき、せめて最後にその絵を、とトカゲが資料と思い出を頼りに複製した。
そこで終われば良い話。
だけれど、結局、本物は消滅したものの、本物とまるで同じその絵が、本物となって、価値を知る遺族たちが骨肉の争いをしたという。
そういう有様を、トカゲはいつも見てきたらしい。今は、確かどこかの裏組織が行方不明になっている名画の模写を依頼していて、そこに、トカゲにしては珍しく五年近く居座っているようだ。いや、アトリエは半年置きに移動しているので、いついていない、といえば彼女の信念どおりだが。
トカゲは組織や、様々なものに命を狙われている。六年前は偽札作りにも協力したらしい。その時、原版をちょろまかしたのでマフィアに半殺しにされた、と、教会に半死半生で転がり込んできた。
「死んで涙を流すには、君の思い出が少なすぎる」
は短くそう言い、目を伏せた。トカゲのことを、いくつか知っていても、それは所詮人から聞き、そして推測したに過ぎぬこと。この女は、何一つ己には話さない。そういう人だ。であるから、何か知っていても、それは思い出にはならない。
「死ぬのかい、トカゲ」
「そろそろ面倒くさくなってきてな。名画が何故消えたのかなど連中には興味もないらしいが、おれは最近思うんだ。名画は、人に見られることに耐えられなくなったんじゃァないか」
時々、この女は妙なことを言う。しかし、は娘であるためか、まるでわからぬというわけでもなかった。そんな自分に、つくづく嫌気が差しながら、はやっとトカゲに近づく。真っ白い尼僧服と、トカゲの黒衣は対照的だった。
「君の言う名画というのは、その絵固体ではないのだったね。君は、その絵に写る「もの」それ自体を全て一つと考えているのだったね。休みたいから、消えたと思うの?」
母の心情を当てて見れば、ふわり、と柔らかく微笑まれた。そしてぽん、と手を置く。母の右手は焼けどで覆われている。己が生まれる前、描かなければ腹を蹴る、と言った男を暖炉に放り込んだときの物だ。
はゆっくりと息を吐いて、そして緩やかに首を振った。
どこまで逃げても同じこと。母を殺そうとする殺意が、明確になるとはは思っていなかった。トカゲを狙うものは、トカゲを「殺そうとする」ことに意味がある。殺すことは、絶対にない。その二本の腕さえ無事であればいいのだ。そして、生命の危険など、トカゲには意味がない。のらりくらり、と逃げる。しかし、逃げられないのだ。トカゲの才能は人を引き寄せる。
本当にもう何もしたくないのなら、トカゲは自ら命を絶つ以外の方法がない。だがしかし、トカゲは自殺などするような女ではなかった。
死んだらどうか、とトカゲに言われて何も感じぬのは、自身、けしてトカゲは死なぬという確信があるからやもしれぬ。
たとえトカゲ自身がその人生に疲れを覚えていても、トカゲは死ぬという選択肢を選べぬだろう。
「君が死んでも、ぼくはここから出る気はないよ」
「お前はあの子を護ってくれると信じているよ」
は脳裡に『蜥蜴の娘』のことを思い浮かべた。
トカゲは様々な組織からその才能を狙われている。トカゲに娘が、それも三人もいれば、誰か一人くらいは彼女の才能を受け継いでいるものがいるのではないかと、そう考えている連中がいることをは知っていた。
トカゲが存命であれば、組織はそれほど必死になって探しはすまい。いや、たとえ探そうとしていても、トカゲ、そしてがそれをことごとく阻止してきた。
しかし、トカゲが死ねば今の状況はがらりと変わる。世界が変わる。それを、は予期している。自分の世界も一変するだろう。何もかもがおもがわりをして、自身も変わらなければならなくなる。変わるだけの何かが己にある、とははとても盲信できなかったけれど、一つの意地があった。
それは、にとってはとても「見っとも無い」類の意地である。
(トカゲが死んだら、ぼくは変わらなければならなくなる。それを判っていて、トカゲは死ぬのか)
この女は己の母親である。は肉親の情というのを知らない。けれど、期待はあった。母親なら、子である己を省みてくれるのではないかと、そんな、にしては青臭い期待があった。
トカゲが死ねば、は『蜥蜴の娘』を護るためにこの寺院を離れる決断をせねばならぬ。けれど、そうしたいわけではない。しなければならない、ということを自覚しているだけに、選ぶだろうけれど、したいこと、ではない。母は、トカゲはそれを知っている。
それでも死ぬのか。
トカゲは、己の平穏を引き裂いてまで自分の望みをかなえるのか、と、そう、は考えていた。
そして、そう考える自分、結局のところ、この女を愛しているのかもしれないと、ぼんやり思いながらトカゲの青い目をじぃっと見つめていた。
その一ヵ月後、はトカゲが死んだという知らせを弁護士から受け取る。
Fin
|