腹部から流れる血をべっどりと手に付け掲げながら、トカゲは片方しかない目を細めた。随分と酷い有様である。半死半生、になったことは過去に何度もあるけれども、さすがに今回は「まずい」と思うほどのものだった。トカゲは呻きながら路地裏に身を隠す。今もバタバタと「連中」が自分を捜しまわっているのが気配でわかった。

「……ふ、ふふふ、ふふ」

知らず、口元から笑みがこぼれる。自嘲のもの、ではない。連中を出し抜いたことに対する満足感でもなかった。

あるのは、恐怖だ。

すぅっと息を吐いて、トカゲは気配を消す。このままでは朝までも持つまい。けれども、この体を連中の手に渡すなど己のプライドが許さなかった。死体となっても、けして己は誰かに所有されたりはしない。孤高のものである、という意味ではない。最初から、己はあの男一人のものと決めている。

「……」

トカゲは脳裏に、もう何十年も前に出会った一人の男を思い浮かべた。共に生きたのはほんのわずかな時間。それでも片時も忘れたことはない。あの男と共に過ごした時間は、一分一秒とて忘れはしない。何度も何度も何度も、何度も何度も、何度も、トカゲはこの、濃く長い人生の中で、あの男と過ごした、たった数時間を思い出してきた。

撃たれたのは腹だけではない。肩も二発ほど撃たれた。流れ出す血のにおいに咽ながら、トカゲはゆっくりと目を伏せる。

あの連中が、ついに己の娘たちの存在に気付いた。その時の恐怖をどう言葉にすれば人に伝えられるかトカゲはわからない。わかって欲しい、とも思わないが、しかし、あれほど、恐怖を覚えたことはない。

娘、と、トカゲは口の中で呟いて、掌を握りしめる。娘は三人。それぞれ父親は違うが、それぞれ素晴らしい美徳を持っていた。しかし、あの連中にとって最も価値があるのはそのうちの一人だけだ。絶対に、見つかってはならないと、そう必死に隠してきた。あちこちふらりふらりとしてきたのも、どこへ立ち寄っても何か目的がある、とは思わせぬためだ。

、己の娘の顔をじっくりと、トカゲは思い出す。

上のは、己によく似ている。しかし、頑固なところは父親に似たのだと、時折胸が苦しくなった。容姿は本当に己に似ているのに、性格は父親そっくりだ。己に似ているため、苦労も多いだろうと案じていたけれど、あの性格があの子を守るだろう。そう確信があった。今はドイツ寺院で大人しくしているが、あの子はそんなたまではない。己に何かあった場合、トカゲは必ず最初にがそれを知るように手配していた。伝言はアーサー・ヴァスカヴィルに頼んである。あの男なら確実だろう。己が小娘の時分、花売りをしていた頃からの付き合いだ。

己の異変を知らされて、が大人しく寺院に引きこもっている、とはトカゲは思わなかった。いや、暫くはそうするだろう。何事もないように、母親失格と言う女の死ごときで己の人生は変わらぬと、そう、意地のようにその生活を続けようとするだろう。だがしかし、あの子は、その程度の生き物ではない。

妹二人を、しっかりと守る。その確信があった。そのためなら、自分の日常程度あっさり捨てる子だ。そこにあるのは愛情、などではない。あるのは、自分自身へのプライドだ。は、けしてトカゲを裏切らない。本人が気付いているのかいないのか、それはトカゲにもわからない。しかし、は妹たちを守る。そのためなら自分の常識だって、捨てるだろう。それは確定していることだ。

二人の娘と違い、には愛情を教える人がいなかった。博愛、寺院の人間は教えられただろう。だが、万人を平等に愛する精神、などに付くわけがない。自然、あの子は今でも愛を知らない。妹たちに何かしらの情を抱いている気配はしたが、しかし、それとて本物かどうか、という疑問がある。

愛情を知らぬから、は、二人の妹を「大事」に思うしかないのだ。

「…うっ……」

ずりっと、体が崩れ、トカゲはうずくまる。泥の中に落ち、服が容赦なく汚れた。不快ではない。こんなことは、慣れている。泥水を啜った反省、草の根を噛んで空腹を紛らわせたことなど何度あっただろう。

「あの子」を、己と同じ運命に巻き込んではならない。そのことを、強く思う。はあの子を隠しとおせるだろうか。連中は娘三人の居所を捜しあてた。だが、「誰」が、「そう」なのかは、わかっていないはずだ。わかる前に、トカゲは娘たちの資料全てを盗み、そして現在、死にかけている。資料は燃やした。あとはそれを読んだ人間の記憶にあるのみだ。

己が盗む前にあの資料を読んだ人間を、トカゲは検討づけている。心当たりは、三人だ。

サー・クロコダイル。ドンキホーテ・ドフラミンゴ。そして、松永久秀。その三人が、恐らくはあの資料に目を通している。

どいつもこいつも厄介な人間。頭も良すぎて腹が立つ男たちだ。記憶力もいいのだから、ゆっくりと思い出し考えれば、いずれ「誰が」「そう」なのか、気付くだろう。

因果なものである、とトカゲはひとりごちた。何も教えることのできないロクでもない母親だったというのに、一番教えたくないことを、教えずとも受け継いでしまったなど、どういうことだ。ではないが、都合の悪い時だけ、こう、神を罵りたくなる。

のことを、トカゲは再び考えた。「誰が」「そう」なのか、には教えている。知った時、あの子の様子はどうだったか。思い出そうとして、急に眠気が襲って来た。己は死ぬのだろうか。死ぬ、と一か月前にに話したことがある。あの子は動じなかった。そういう子だった。だけれど、トカゲは、薄暗い教会の、蝋燭ばかりの明かりの中で、ほんの僅かにの青い瞳が揺れたのを知っている。

二人の娘は、が守るだろう。それだけの知恵も、度胸もある。だけれど、では誰が、を、あの、小さな子を守るのだろうか。

妹たちを護るために、はどんなことでもする。できるだけの知恵もある。そうすることはけして悲劇的なことでも、自己犠牲の精神でも、なんでもない。したくなければしなければいいという道もあるのに、しかし、はそうはしないのだ。憐憫の点があるとすればそこだろう。トカゲは、己を卑怯だと思った。が妹たちをけして見捨てられないのは、トカゲがそういう風に仕向けたからだ。

冷たい石の壁の中、外の世界、にはまるで届かぬ柔らかな世界の価値を、ただの会話で刷り込んだ。どれほど尊いものなのか、激動の中に身をおく己らがどれほど、その世界とは縁遠いものなのか、突きつけてきた。

は二人を守るだろう。
己らにはけして得られぬ世界にいる二人を、尊いものという根底の意識でもって、守るのだ。は己によく似ていた。だから、トカゲは容赦せずにすんだ。

ゆっくりと、瞼を持ち上げる。路地裏は暗く、湿って寂しい場所だ。こういう所で己は生まれ、そして今死んでいくのだろう。それを思い、トカゲは口元を歪める。雨が降っていなかっただけ上出来だ。己の人生にしては、よい終焉である。




Fin