嫌な夢を見た。
嵐の夢である。
寺院に暮らすようになって少ししてからのことだった。大嵐になってしまって、森の中。あたりの音が一層恐ろしくなる真夜中。山中の寺院、付近には獣もいるだろうけれど、その酷い嵐ではひっそり、ひっそり、何もかもが息を潜めている。そういう有様の中で、もただじっと、じぃっと、使っておらぬ暖炉の中に隠れて体を震わせた。はこの寺院になど来たくなかった。どこにもいたくなかった。母を恋しがるわけではない。ただ、どこにも存在したくなかった。ひっそりと、息を潜めて寺院のなか。預かった子供を捜す尼僧たちの声に耳を塞ぎながら、ただただ怯えた。嵐の音が恐ろしい。それを恐ろしがる己が恐ろしい。何かを恐れている、ということは、きちんとそこに、いる、ということだ。自分が存在していることが、にはおぞましかった。
嵐が何もかもをかき消す。荒れ、荒れ、荒れて、打ち付ける。そういう中でカタカタと体を振るわせ続けて、次第には、恐ろしさに慣れた。いや、何が恐ろしいのかを忘れた。朝日が昇る頃には、もうすっかりと、は、何もかもを諦めた。
そういう、あの頃の夢を見た。
トカゲお母さん05
「悪夢の方がマシだったってどういうことだろうねェ」
ぱちり、と目を覚ましてはとりあえず毒づいた。びっしょりと汗をかき、正直目覚めなければ気でもおかしくなったかもしれないと思いつつも、こうして目覚めて最初に見る顔がこの男というのは、なんと言うか、本当、こちらの方が悪夢である。
「失敬な。この私が手厚く看病してやったというのに、卿は礼の一つも言えんのかね」
には見覚えのない部屋だった。寝室だろう。どこか愛らしい家具が置かれていることや、の目にも覚えのある便箋が机の上に整えられていた。妹の部屋だ、と即座に思いつつ、そうであるのに、この面子は何だと罵りたい。
淡い色のベッドの上に、どうやら自分は寝かされている。天井はの暮らした僧房よりも随分高いが、これがヨーロッパでは通常の高さである。
ベッドの脇の椅子に足を組んで座っているのは、壮年の紳士である。いや、格好こそは紳士の装いであるけれど、この男は東洋の生まれ。こうして一級の仕立て屋のものとわかるスーツをまとっていても、その佇まいがの馴染む地域とは別のところの「教養人」であることがわかる。つまりは、見慣れぬ振る舞いであっても、それが粗野や野暮ということではなく、洗練されているのだ。
その男、白髪の混じった髪を後ろに撫で付けて、口元を歪めている。こちらの反応に嫌味のような物言いをしたものの、その実楽しんでいることは明らかだ。
「手厚く看病?松永殿が?」
「疑うのかね?倒れた卿を抱き上げて服を脱がせ、泥を洗い落とし、熱を冷ますために薬を飲ませたのは、まぁ、卿の妹だが、三十分前からずっと、悪夢に苦しむ卿の顔を眺めていたのは私だよ」
「それを看病と堂々と言い切るのかい…!!?」
何故この男はそんなことで大儀そうな様子を見せるのか。は起き上がり額を押えた。熱、と言っていたが、いつもの微熱だろう。
「看病云々で君にお礼を言う必要がないことはわかったけど、ぼくは別のことでお礼を言うべきかい」
身を起こせばポロリ、と額に置かれたタオルが落ちた。はそれを拾って枕元の盥に戻しながら、松永に顔を向ける。
意識を失う前のことを思い出した。
ドンキホーテ・ドフラミンゴと己は対峙していたのだ。どちらがどちら、というのはそもそも己らでは種類が違いすぎて、誇るものが違いすぎて、勝敗を決めようという方がおこがましいものだ。けれど、あの時は妹たちを守るために不慣れな防衛に徹しなければならなく、そして、守るために相手に勝らなければならなかった。
しかし、あの状態で己に出来ることなどたかがしていただろう。こうして寝てすっきりした今ではそれがよくわかる。けれど、今、ドフラミンゴの嫌みったらしい声がどこにも聞こえず、己は「手厚く」看病されている、この家の中、ということは、つまり、ドフラミンゴはどうにか退けられたということだ。
それをこの男がした、というのは明らかで、はそういう意味での礼は言うべきか、と問うのである。
「感謝されるようなことなどしていないよ」
「おや、殊勝なことを言うねぇ。良い人だと思われるのが嫌かい」
「卿に借しを作りたい、というわけでもない。何、私はただあの男に『私もこの娘たちに用がある』と言ったまでだ。引いたのはあの男の、そうだな、礼儀正しさとでも思っておきたまえ」
あの傲慢そうな男に礼儀正しさなど、どういうタチの悪い嫌がらせかとしか思えないが、しかし詳しく話す気がないのはよくわかった。
大方堂々と「散歩」だなどとのたまい、周囲を包囲した状態でご登場なさったのだろう。
「ふぅん、ねぇ、そういえば、この家の周りに黒塗りの車と黒服の連中がいるみたいだけれど、これは、やっぱりお礼を言うことではないんだね」
「目敏いな、卿は」
ドンキホーテ・ドフラミンゴと松永久秀。二人のやり取りをこの目で見れなかったことを残念と思いつつ、は油断ならぬ男を、こちらも油断ならぬ目で眺める。この男が味方である、などという盲信はにはない。どちらかと言えば、この男は誰の味方にもならないのだ。
「君ともあろう男まで“蜥蜴の娘”を狙っているのかい」
「一々言わねばならぬのかね。私は贋作が好きではないのだよ。なんであれ、本物でなければ気に入らない」
松永は眼を細め、足を組み替えながら静かに答える。そういう男だ、とも頷いた。悪いことしかしないような組織に属しているものの、この男は通人としての気構えが強い。松永久秀がこれまでトカゲの能力を利用したことがないわけではないだろうが、しかし、それでもこの男は、贋作が存在することを認めぬのだ。
「何企んでるの、松永殿」
ドフラミンゴを退けて、今そして、監視という意味ではなく「保護」という意味だけでこの農場を配下に囲ませている。そのことがには信じられない。あの子を入手することが目的ではないというのなら、なぜここまでするのだろうか。
「私が卿ら姉妹の誰かの実父である、なんてオチはないよ」
「そういう展開はぼくもごめんだね。ぼくの父親だった日にはトカゲの最愛の人が君になるわけだ。それは、嫌だねぇ」
「あぁ言えばこういう。全く卿には可愛げというものがない」
「ぼくの取り分だった優しさとか愛嬌は、お腹の中に忘れてきてしまって、下の子に贈与されたらしいよ」
コロコロと軽口を叩く。松永が面白そうに口元を歪めた。
「彼女が蜥蜴の娘か」
ぴたりと、は笑いと止めた。松永は特定の名を出した。カマをかけられた、とは思わない。そういうつまらぬことは、この男はせぬ。こちらの反応を窺う素振りも見せないもので、は観念したように息を吐いた。
「ひょっとして、母さんから聞いたの?ふぅん、まさか、君が殺したとか?」
「何、監禁されている彼女に面会するくらいの権限は持っている。半殺しにされた彼女をそこから逃がす代わりに娘の名前を聞いただけだ」
「よく母さんが答えたね」
言いながらはその時の母の心境を探る。
つまり、母は手紙を燃やして逃げた。その後一度捕まり、監禁されたということか。その後どうなったのか、また逃げた、ということだろう。そうでなければ、遺言書を書くことはできなかったはずだ。しかし、その時に松永に「娘」の名を告げたのはどういうつもりだろうか。
命を惜しむような人ではない。「娘」の名と引き換えにしてまですることがあった、ということだ。それは遺言書のことか、とも思うがそれだけでは納得できない。それに、この男にしたって謎が多い。はじぃっと辛抱強く松永の表情を見つめた。
「ぼくらの居場所を知っているのは、君を含めて何人?」
「聞いてどうする」
「ただの興味さ」
ドフラミンゴクラスの人間が相手になることはわかっていることだった。今回は遅れを取ったが、それがどうした、というのが正直なところ。戦う必要があるのなら、そうするだけのこと。けれど、その為には情報が必要だった。組織の人間であるこの男からも、できる限りのことを聞いておきたい。どう利用できるのか、は集めてから判断すればいい。がじっと松永を見つめ返すと、白髪の混じった男、思案するように口元を抑えた。
「私を含め、例の手紙を読んだのは三人。ドンキホーテ・ドフラミンゴと、それにサー・クロコダイルだ」
「クロコダイル?」
覚えのない名には首を傾げた。裏社会の「悪人」ならたいていの名を記憶しているつもりだった。
「おや、ホルンベルクの魔女ともあろう者が記憶にないかね」
「生憎とね。誰だい、それは」
「知りたければ自分で調べたまえよ。私は君の辞書ではない。あぁ、今風に言えば『ググれよ』とでもいうのか」
「…ぐぐ…?」
聞きなれぬ言葉にきょとん、と顔を幼くする。飛行機やホテルの中でとの会話でもいろいろわからぬことがあったのだが、いや、本当、最後に世間に出たのはいつだったか、とは気が滅入ってきた。
気が滅入る、といえば、妹たちのことだ。思い出しては顔を顰める。
母の死はドフラミンゴによって乱暴に知らされることとなった。は今頃ボガードを詰問しているのだろうか。は大丈夫だろうか。考えなければならないことを頭の中に上げ、はベッドから飛び降りた。一瞬ふらり、と体がぐらついたけれど、松永が支えようとする、などという気遣いもなく(そんなことをされたらは本当、気色悪く思う)足で立つ。
「……これは、うん、まぁ、くんのかな?覚えがあるような…」
「卿が着ると聊か、滑稽だな」
そこでは尼僧服を脱いだ自分が今着せられている寝巻きに気付く。以前クリスマスの折に自分がに送ったネグリジェである。柔らかな布を用意して、が編んだレースをあしらったワンピースタイプのものである。使ってくれていたことに喜ぶべきか、それとも「女の子だから可愛いものがいいよね」と、趣味など全く気にせずファンシーに仕上げた自分を呪うべきか。
自分には裾も随分と長い。は笑いを堪えている松永を睨み、丁寧に洗ってたたんであった修道服を手にとって素早く着替えた。しっかりとプレスまでされていることには驚きつつも、着替えられたことにほっとする。
「そういえば、卿が阿呆のように口をあけて惰眠を貪っている間に、卿の妹の一人と話をしたのだがね」
「ぼくのお着替えタイムを見たことに対する請求は後日するとして、侮辱した慰謝料も上乗せするよ」
「出て行け、とは言わなかったはずだが」
「普通出て行くものだよ。紳士はね」
「淑女なら男の前で肌を曝す振る舞いはしないだろう」
お互い本気で言っているわけでもないので、は手を上げてその不毛な言い合いを止めた。
「なぁに」
「と話をしたのだよ。あの娘はいぢめ甲斐がある」
先ほどからこちらと話していた時とはまるで違う、機嫌のよさそうな松永の態度にはひくっと顔を引き攣らせた。
「ねぇ、に何したのさ?」
「?おや、珍しい。卿が人を呼び捨てるとは」
「お黙り。話を逸らすんじゃァないよ。あの子は普通の子なんだから、君の嫌味を間に受けて傷ついてしまうよ!」
妹たちへの呼び方については、ボガードにもからかわれたが、は突っ込み不可、でいきたい。家族なのだから呼び捨てるのは当然だろう。だけれど、これがまた、己には似合わぬことに、、を前にして実感させられた。恐らくと会ってもそうなるだろうが、妹たちを面と向かって呼び捨てには出来そうにない。なんというか、気恥ずかしいのだ。それであるから、のことをボガードと二人の会話では「」と呼べても、当人を前にすれば「くん」と距離を置いて呼んでしまう。その辺を松永も悟っているだろうに、からかう。本当に性格の悪い。
しかし、そんなことよりは外道鬼畜俺様松永様がに「興味」を持ったことに驚いた。睨むように見上げれば、松永久秀、それはもう、楽しそうに眼を細める。
「卿の目は節穴かね?あの娘はただか弱い「お嬢さん」などではないよ」
「は普通の女の子なんだよ!」
「そう思っていたいだけではないのかね。“蜥蜴の娘”がすぐに傷つく硝子細工のようなつまらん娘なら腕を切り落としてやろうとも思ったが、いやはや、さすがは神に愛されし娘だ」
先ほどからぼかし続けた事実をきっぱりと突きつける松永に、は思わず目を見開き、松永の首に短剣を付き付けた。服を脱がされても護身用の短剣は奪われなかったらしい。反射的な己の行動に舌打ちをしつつ、は男を睨み付けた。
「卿の妹は勇ましいな、ホルンベルクの魔女。「自分の所為」で卿やこの農場がどうなっていくのか、話した時の顔は良い見物だった」
湧き上がる激情を、はゆっくりと呼吸することでなんとか押えた。何を感情を乱しているのだ、と、はスカートの下で自分の足を踏む。この男がこういう性格であることなどわかっていることではないか。
こういう、まるで油断できぬ男であるからドフラミンゴを退けられた。そのことを思い出しながら、はゆっくりと短剣を下ろす。
「下に降りて妹たちに何もかも話すつもりだけど、君はどうするの」
「卿も目を覚ましたのだ。そろそろ邪魔者は消えるとしよう」
そういえば、結局この農場はどうなるのだろうか。あまり自身に興味はないのだが、仮にも妹の育った場所である。失えばは悲しむだろう。一応、農場主の弟をバラして売る、という案があるのだが、採用されることはないだろうし、にできることと言えば、ベラミーの居場所を探し出して泣くまで蹴り飛ばすだけである。
それもいいかもしれない、と本気で思っていると、松永がこちらを外道な生き物でも見るような眼をして眺めている。
「いやはや、卿には容赦というものがないのかね」
君にだけは言われたくない、と、心底は思った。
Fin
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