自分の感情を考える、ということが、は妙に苦手だった。
客観的に様々なことを判じることは、それなりに出来ている。けれどもその中で「私」ということを、省みることがどうも、よくわからないところがあった。
時々は(鏡の前に立ってじっくりと己を眺めるたび、その瞳の奥に移る何かを自覚するたびに)自分というものがないのではないかと、すら思う。暗闇の中でじっくりと自分を自覚させられるたびに、何もない、空っぽな、なんにでもなれて、何にもなれないような、そんなつまらぬものがあるような気になって、恐ろしい。
傲慢に振舞うことは楽だった。運の良いことに、己はそのように振舞うに足るものがあった。そうして傲慢に尊大に振舞っていれば、それが自分の個性のようなものであると、安堵することもできた。けれども、その真下。仮面性の強い素顔の下に、何もないことを暴かれるのではないか、あるいは、自らがはっきりと自覚しなければならなくなるようなおぞましさがあるのではないか、その瞬間をは、ひっそりと恐れていた。
そうして、夜空の下、妹から逃げ出した、夜の道を走りながら、走りながら、唇をかみ締める。
は戦おうとしている。たとえどれほどトカゲが「何も知らないまま」というのを望んでいても、相手は人間。まるで何も知らないまま、ただ守られるお姫さま、のようになれるとは、そこまではを見縊ってはいなかった。事実を知れば戦おう、とそうするだろうということをぼんやりと、思ってはいた。
それであるから、今、こうしてが決意に満ちた目をしていることを、聊かうろたえる心がないわけではないけれど、しかし、どこかで、そうなるだろうということは、わかっていたというのが本当だ。
は、トカゲほど人に期待してはいなかった。状況が人を殺すことを、よく知っていた。こちらがどれほど、を平和な世界に押し込めたところで、彼女の運命はあっさりと、その枠から外れようとする。
(けれど、は優し過ぎるんだよ)
あんな優しい心を持った子が、「こちら側」に入ることなど、絶対にできはしない。
トカゲお母さん07
南フランスとスペインの間を結ぶ交通機関のハブとしての利用、独特の文化の中心地としてボルドーは、優れたホテルを有し、観光地としても有名であった。少し車を走らせればブドウ畑を見ることもできるし、港町では新鮮な魚を味わうこともできる。世界でも屈指のワインを作り続けるその土地はリゾートホテルを手がけるドフラミンゴにとって、手を出さない方がおかしい、という場所だった。
ドフラミンゴが経営するホテル・ラ・マンチャはモダン様式である。18世紀に建てられた建物をそのまま買い取り、ホテルとして利用できるように手を加えた。活気あるボルドー市内から数分の立地にあり、市外に近い場所にありながら、喧騒を離れて静かな朝を迎えることができるため人気を集めていた。
その自身のホテルのスゥートの一室で、ドフラミンゴは機嫌悪そうにどっかりと足を組みかえる。十分な広さの居間には現在二人の人間が、それぞれ勝手に寛いでいる。窓辺には立っているだけで品のある、白髪交じりの男。様式の中にあって一人和装をしているものの、それが妙に色気を出している。口元に薄っすらと浮かべられた皮肉まじりの笑みは、先ほどから不機嫌を面に出し続けるドフラミンゴを眺めているゆえだろう。
からん、とドフラミンゴはサーフボードテーブルの上に用意されたウィスキーグラスを手に取り、ソファに背を凭れさせる。
数巻前、ボルドーのワイン農家で顔を合わせたドフラミンゴと松永。折角こちらが有利だったというのに、この男の登場で何もかもが台無しになってしまった、と内心毒づかずにはいられない。組織に関わっている人間同士、敵ではない、などという認識はドフラミンゴにはなかった。松永久秀はトカゲに「松永殿は、履歴書に「趣味:謀反」と書いたほうが良い」と言われるような男である。
折角ドフラミンゴがクロコダイルより先にトカゲの娘を三人セットで見つけることができたと言うのに、この男は、よりにもよって、三姉妹の側に付いた。いや、何か企んではいるのだろう。しかし、あの農場ではっきりと、松永の目はこちらと敵対するということを告げていた。
あの場でやり合うことは得策ではない。
あの土地の権利はベラミーのつまらない仕業のお陰でこちらの手にある。そこからこちらの思い通りになるようにするつもりだったが、こうして松永が出てきた以上、やりづらくなることをドフラミンゴは覚悟した。
しかし、一体どういうつもりであの姉妹の側についているのか、その真意を探るべく、ドフラミンゴはこうして己のホテルに堂々と宿泊していた松永を待っていたのである。松永がホテルに帰宅してきたのは今から十分前。そうして、こちらがいることにさして驚く様子もなく、窓の外を眺めているのみであった。
「必死こいて探し回ってるクロ子ちゃんがからぶって、さして興味も持ちそうにねェあんたが見つけちまうなんて、どんな手を使った?松永さんよォ」
ドフラミンゴは室内であるのでサングラスを外し、松永を眺める。こちらが声をかければ、松永は嫌味ったらしいその口元から白い歯を僅かに覗かせて、笑みを深める。己の笑い顔も厭味ったらしいものであると自覚はあるが、この男も相当なものである。
「いや、なに。卿と同じく「蜥蜴の娘」に用があったのだよ。居場所を記した例の手紙は卿も目を通しろう?読んで興味を持たぬはずもあるまい」
「冗談だろう?アンタは『何であれ偽物は認めない』っつー主義だ。贋作作りの天才に何の用だよ」
「決まっている。見苦しい偽物など量産されてはかなわんからな。その腕を折る」
それならあの場でこちらを退ける必要などなかったはずだ。ドフラミンゴの目の前で「蜥蜴の娘」の腕を折ってやればいい。いや、松永のことであるから腕を切り落とすくらい平然とするだろう。それを見せ付けられればドフラミンゴは即座に「蜥蜴の娘」への興味を失ったに違いない。手っ取り早い方法はそう、であるはずなのに、松永はそうはせず、寧ろ、姉妹を護るようにドフラミンゴと相対していた。
「と、まぁ、そのつもりで農場を訪れたのだがね。ふむ、少々、事情が変わったのだよ」
納得するわけのないドフラミンゴの顔を見て、松永が喉を鳴らして笑う。邪気のまるでなさそうな笑い声であるけれど、どこまでも「松永らしい」と思わせる声である。ドフラミンゴは眉を跳ねさせた。
「事情?」
「いやはや、この私としたことが手に入れたいと思ってしまってね」
聞き返したところではぐらかされるかと思いきや、あっさりと松永は答えた。ドフラミンゴは相手の嘘に強い。何が本当で何が嘘か、ある程度は見抜ける自負があった。それであるから、松永の言葉が本心である、とはわかる。
「作らせるのか?アンタが」
「つまらん偽物なんぞ手に入れてどうするというのだね?能力なんぞに興味はないが、「蜥蜴の娘」のありようには、少々興味があるのだよ」
卿は阿呆か、とさえ続きそうな言い方に一瞬イラっとくるが、この男は人を不快にさせることに人生かけている、といっても過言ではない。喜ばせてどうする、と何とか堪える。
「卿も見たと思ったが、記憶にないか。あの業火のような女の娘の一人に、灰のような娘がいたろう」
「灰、あぁ。そういやァ、そんな色の頭の小娘がいたな」
「姿かたちはまるで違う。けれども紛れもない“蜥蜴の娘”が、己の背負った何もかもをつきつけられてどう、その瞳を濡らすのか、興味はないかね?」
ドフラミンゴは己を蹴り飛ばした尼僧の背後に庇われていた、農場主の養女らしい娘の姿を思い出す。こちらを睨むようにしていた、そういえば、顔立ちはどことなくトカゲに似ているものの配色がまるで違っていた。しかし、松永の言葉を借りるとすれば、トカゲが業火のような女であれば、つまり、その娘はその業火によって焼き尽くされた何物かもの灰を被っている、ということになろう。なるほど、上手い言い回しである。
「アレが『蜥蜴の娘』か?なんで判る?」
「まさか卿は長女がそうとでも?」
「いや、長女はホルンベルクの魔女。あいつじゃァねェだろうな。あんな小生意気な生き物ならトカゲが命をかけて護る必要もねェ」
「農場主の養女は次女のようでね。次女が『蜥蜴の娘』でないわけがなかろう?」
うん?とドフラミンゴはその言い回しに引っかかった。松永が言いたいのは姉妹の特徴、ではなくて、生まれた順番にこそ意味がある、というように聞こえる。
それでドフラミンゴは思案する。この男にわかったこと、己に解けぬはずもない。少し思考をめぐらせて、その答えに気付く。寧ろなで気付かなかったのか不思議なほどである。ドフラミンゴは喉の奥から、低い笑い声を響かせた。
「フッフッフ、酷ェな、おい」
パンパン、と拍手を送りたいくらいであった。松永に、ではない。今はもうこの世にいないだろうトカゲに、である。
「考えればわかることだがね。一人目のあの女性が「そう」ではないということは早い段階で誰もが気付く。そうなれば、たとえば、二人しか娘がいない場合は、確実に誰が「そう」なのかわかってしまうだろう」
「もう一人いりゃ、少なくとも少しの時間は稼げる。三人目の娘はオマケか?」
「オマケ、ではなく身代わり山羊と言いたまえよ」
どちらでも非道さにかわりはないだろう。ふん、とドフラミンゴは鼻を鳴らした。長女ホルンベルクの魔女、次女「蜥蜴の娘」とそれぞれ業を背負っているのに対し、三女だけただ平和ボケした小娘なはずもない。そもそもあのトカゲという奇天烈な女が「アナタの子を産みたいの☆」なんて思考、していたわけがない。
「おや、まァ、ねぇ、いくらロクデナシなあの女でもねェ、そんなことを考えていたとはぼくは認めないよ?」
酷ェことをする、と笑いながら呟きかけたドフラミンゴの耳に、冬の泉のように透明感のある声がかかった。おや、と、目の前の松永が軽く眉を跳ねさせるものの、あまり驚いてはおらぬよう。ドフラミンゴはこのホテルのセキュリティには自信があったのだが、なぜオートロックのこの部屋に、あっさり侵入者がいるのだと疑問に思った。
「やァ、こんばんは。松永どの。それにバカ鳥。夜の地上がこんなに眩しいなんて、文明は進んでいるんだねェ」
いつのまにかドフラミンゴの背後に立ち、その喉に短剣の刃を押し当てているのは先ほども話題に上った「ホルンベルクの魔女」である。聖職者の装いをした「魔女」というその女。その純白の尼僧服が少し擦り切れて赤く汚れているような気がするのは気のせいだろうか。
それにしても、なぜ聖なる修道女が『魔女』などと呼ばれるのか、曰くとなった事件をドフラミンゴは記憶している。その事件の前から、ドイツの古い寺院にいる修道女は教会の微妙な問題を片付けてきてまことしとやかにその存在を囁かれていた。聞いた限りでは、法王の隠し子問題から、教会内での赤の法衣盗難事件の解決など様々だ。しかし、尼僧を有名にしたのは、十数年前にドイツの古城を改装させたホテル・ブルクホルンベルクで起きた立てこもり事件である。同じホテル業界にいるためドフラミンゴは当時の事件をよく覚えていた。
「フッフッフ、おっかねェなァ。手っ取り早く殺りに来たのかよ」
「まさか、ぼくはただ脅しに来ただけだよ」
顔は見えぬが、数時間前に見たときと変わらぬ傲慢で尊台な表情を浮かべているのだろう。こちらの首をいつでも?き切れるに違いないが、ドフラミンゴは足を組み、その上に手を置いた。しかし、それでは聊か物足りぬと思えて、ドフラミンゴ、ぐいっと短剣を素手で掴み、奪い取る。
「…おや、まぁ」
「抵抗しねェと乙女の聖なる力が失われちまうぜ?」
あっさりと剣は奪えた。手は切れたが、構うほどでもない。そのままドフラミンゴは自分の重みを利用してを組み敷く。細い腕を押し付け、抵抗できぬように両足の間に体を入れたのだが、抵抗する様子がない。 白い布に隠された女の肉の柔らかさが掌から伝わってくる。その首筋を覆うスカーフをはぎ取って、ドフラミンゴは目を見開いた。
「……おい、お前」
「この変態」
視界に入った首筋、そこにあるものが何なのかわかって、一瞬言葉を忘れていると、これまでまるで抵抗しようというそぶりのなかったが急に勢いを取り戻したかのように、がんっ、と、ドフラミンゴの下半身を蹴りあげた。
「っ〜〜〜〜!!!!!」
思わずどさり、とドフラミンゴはその場に倒れる。
外道だ。
何と言うか、外道の鬼畜極まりない反撃であった。
転がるドフラミンゴを情けない、とはさすがの松永も声に出しては言わぬようで、しかし、「何をしているのだね、卿は」と容赦ない目は向けている。
倒れたドフラミンゴの体の下からあっさりと逃げ出して、はその、自分よりも随分と大きな男の背を足蹴にした。
「調子に乗るんじゃァないよこのバカ鳥ハデ鳥アホウ鳥何息なんて吸ってるのさこの地球上の貴重な酸素を君程度が消費するんじゃァないよ生きていたかったら酸素を排出できるようにおなりそれまで息吸うなよなこの草以下」
ノンブレスで言い切った。
あれ?先ほどまでのシリアスムードどこ行った?という突っ込みは不可である。
そもそも、農場では遅れを取ったが、基本的に自分以外の人間などクズ以下としか思っていない。けれどドイツで妹の一人と再会させられ、あのの特殊能力「だってあたし、お姉ちゃんが好きだもん!」の容赦ない攻撃によって黒い部分を勢いよく浄化されてきた。動機息切れ、体調不良、眩暈が来るまで弱体化させられた体と、次女との強制的な再会+なんか面倒くさい事態で、自分らしさを失っていた。
しかし、このホテルは妹たちからは随分遠のいているし、何よりも自分と同じくらい「性格悪ッ」という松永との会話によって、は本来の黒さを取り戻していたらしい。
完全に、女王様とその下僕、という立ち位置に松永が感心したように手を叩く。
「いやはや、このホテルは個人の予約を何だと思っているのかね?帰宅すればいかがわしい男は居座っているし、こうして堂々と物騒な尼僧が入り込んでくるなど」
「いかがわしいってのはアンタのことだろ、松永サン」
「ホテルの人に十字を切りながらちょっとお願いしただけさ。ちゃんとキーを貰って入ったのだから、ぼくは何も悪くないよ」
ふん、とが言い切る。足蹴にされている体制でもドフラミンゴ、何だか威厳のようなものを必死に出そうとしてくれているのだが、かえって滑稽である。しかしそれを指摘するのはさすがに性格が悪いだろうと松永は自重することにして、そのかわりに携帯電話のカメラでさっと、その光景を撮ってみた。
ぴろりろりぃん☆と、中年のオッサンが持つにしては妙にかわいらしい音。おや、とは不思議そうに首を傾げる。
「なぁに、それ?」
「魔女殿はご存じないのかね?今時の携帯電話にはカメラ機能は常備されているのだよ」
「へぇー、ぼく無線しか知らない。文明は進化してるんだねぇ」
「ちょっとまて!松永!!!テメェ何撮ってやがる…!!」
「いやいや、別にこれを使って卿を脅し、株を巻き上げようだなんてそんな大それたことは考えていない。ただ、そうだな、卿と競い合っている会社の重役たちにこの写真を見せてやれば、少しは卿への恐怖心も薄れるかもしれない」
ドフラミンゴを足蹴にしたまま松永の手元を興味深そうに覗きこむ。松永は丁寧に携帯電話の写真機能をレクチャーしてやったのだが、使いこなせるとはつゆとも思っていない。ドフラミンゴはというと、松永のドS極まりない発言にひくっと顔を引きつらせ、聊か乱暴にをどかして立ち上がった。
「フッフフフ、何だこの漫才」
あ、やっと我に返ったのか、と突っ込みをしてあげて欲しい。ドフラミンゴは先ほどの短剣を握った時に切った掌そのままに自分のこめかみを押さえて、状況を把握しようとする。ちょっと血がべどっとしたが、まぁそれはこの際気にしない。
何と言うか、この自分が足蹴にされて写真撮られたってどういうことだ、と落着いて考えればあり得ない状況にふつふつと怒りさえ湧いてくる。それであるのに、目の前の幼女とオッサンは「漫才じゃないよね」「ふむ、近頃の若者の沸点がわからんな」などとのたまっている。
だから、なんだこの状況。
「いくつか確認させろ、ホルンベルクの魔女。俺は数時間前にお前の妹の農場で、お前ら三姉妹を把握した」
「そうだね。あっさりバレてしまって困ったものだねぇ」
「で、お前の妹の大事な大事なその農場の権利は俺が持ってる」
なのになんで今俺が一番立場が低いようなノリになっているんだ、と、ドフラミンゴは突っ込みを入れた。
この解釈は間違っていないはずだ。自分は姉妹の姿をしっかり目に焼き付けたし、松永のオッサンの助言もあったが、誰が「そう」なのかも見破った。その「蜥蜴の娘」を手に入れる、脅せるだけのものも、偶然だが手に入れている。
その自分の元へノコノコと長女がやってきたからと言って、返り討ちにして人質利用するくらいで、なぜ、足蹴にされなければならないのだろうか。
「あぁ、そうそう。やっぱり勘違いしてるよね?」
額を抑えて考え込むドフラミンゴに、がそれはもう愛らしい顔をして口元をほころばせる。尼僧服の皺になった部分を直そうと手で押さえながら、俯き加減でドフラミンゴを見上げ、そして堂々とのたまった。
「ベラミー坊やが奪ったのは「地面」の権利でね。上に生えてるブドウ畑とか民家の権利は一切ないんだよ?」
+++
尼僧服の裾を広げながら、はにんまり、と悪魔を誘うような人の悪い笑顔を浮かべた。
単身このホテルに乗り込んだことを、は別段無謀とは思っていなかった。ボルドーの酒場でベラミーとその一味を散々蹴り飛ばし殴り飛ばし、したたかにいぢめ尽くして、(忠誠心のあるベラミーは飼い主の居場所をけして割らなかったが、その周りの仲間が白状した)ドフラミンゴの居場所を知った。若干農場での鬱憤もあったので、はすっきり気分爽快、である。
もちろん、このホテルに出かけていることはたちには言っていない。念のためにボガードには告げたが、あの男は「お嬢さんが気付く前に戻ってきてください」と言っただけである。
、に面と向かって気遣いを向けられ、聊か取り乱しはしたものの、けれど、やるべきことは、かえって固まっていた。
あの子は優しすぎる。あの子が戦おう、という、その決意を否定するつもりはにはなかった。けれど、どんなに決意を固めたところで、は「こちら側」にはなれない。その上で、自分や、ドフラミンゴ、それに松永のような外道のオリンピック選手のような人間を相手にしなければならないのだ。
それならば、すべきことは、が「そちら側」にいても、戦えるように、自分が外道の相手をするだけだ。
(ぼくは、気遣いなどいらない。誰にも護って欲しいなんて、思っていない)
それは意地でもあるのだ。
農場を守る必要性をは感じていない。農場主が手放すと決めたのだから、それを放置するのが一番だろう。けれども、これは準備運動でもあるのだ。
とてドフラミンゴのような男と戦うには経験値が足りない。少しでも経験するために、今この男のところまで乗り込んでいるのである。
「地面の権利だァ?んな都合のいい権利書があるわけねぇだろ。土地の権利ってのは、その上にある何もかもを貰っていいんだぜ?」
身を起こしたドフラミンゴは、先ほどまでの下僕予備軍の気配がさっぱり消えている。今度時間がある時にゆっくり蹴り飛ばして調教してやろうかとか、そんな物騒なことを考えつつ、はスカートの中で足を組みかえた。
専門的な用語を抜きにして言えば、確かにドフラミンゴの言うとおり、土地の権利書というのは、その上にある何もかもの財産を頂ける。けれど、個別にできないわけでもないのだ。
は懐から一枚の書類を取り出してサーフボードテーブルの上に広げた。
「ところがね、あるんだよ。これはあの土地の“上”にあるものの権利書。綺麗にはっきり、きっぱりと、地面と、その上にあるものは“別”だっていう扱いさ」
「本物か?」
「本物さ」
ドフラミンゴがその書類を手に取った。もちろんコピーであるのではここでビリビリに破かれても痛くも痒くもない。
ちなみにこの書類、トカゲの遺作である。こうなることが分かっていた、というほど先見の目があったわけではない。トカゲがに残した書類は何百種類もの「権利書」だ。そのうちの一枚を、こうして利用しているのである。量が多すぎてすっかり忘れていたが。
ドフラミンゴとて、が持ち出したこれが偽物であるという可能性くらいわかっている。しかし、本物とまるで同じ出来栄えにしてしまうトカゲの能力を嫌というほど知っているのだ。これが偽物、無効である、という底辺での争いはせぬだろう。
じぃっと食い入るようにその書類を凝視して、ドフラミンゴはサングラスの奥の目を細める。
「フッフッフ、ベニスの商人か?」
「言いたいことはそういうことだよ」
シェイクスピアの有名な作品の一つの名前を出され、は満足そうに頷いた。
ベニスの商人の、有名な裁判シーンである。肉1ポンドを借金の担保としたアントーニオ。色々あって金は払えず、約束通り心臓付近の肉を寄越せ、とシャイロックに詰め寄られる。それで色々あって裁判になり、登場するのが、シェイクスピアの作品の登場人物の中でも「もっとも賢い女性」と言われるポーシャの男装した法学者である。「肉は切り取っても良いが、契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産を没収する」そう判決を下す彼女に、シャイロックは諦めざる負えなかった、とそういう話。
「君は地面の権利は持っている。けれど、その上のブドウ畑や家の権利はないんだよ。土地が二つの意味で分けられてしまった場合、地面の持ち主はどうすればいいのか、きみが知らないなんて信じないけど?」
「誰の入れ知恵だ?」
素早く問うてくる言い返しに、は珍しく心の底から、腹を抱えて笑ってしまった。
「ふふ、ふふふ、ふ、これだから殿方は面白い。女というものはベッド以外じゃ、自分で考えて策を練れないとでも思ってるのかい」
喉を鳴らしては身を折る。ドフラミンゴの頭がいいのは分っている事で、己はまるで見縊ったことはない。というのに、この男は、この期に及んで、こちらを女扱いしている。そのことが、ばからしくてにはおかしかった。
「アーサー・ヴァスカヴィルか。トカゲの背後にゃ、あの男がいたな」
「ねぇ、ミスター・ドンキホーテ・ドフラミンゴ」
とトカゲの共有の友人である有名な弁護士の名前を上げられ、は呆れたようにドフラミンゴを見上げた。
「目の前にいるのが誰か判って見縊っているのかい」
自分の名を誇るのはの趣味ではないけれど、こういう交渉というものはお互いがお互いのはっきりした実力を承知してこそのものである。このようにドフラミンゴに「所詮は女」と侮られては、何と言うか、気に入らない。
「おれはトカゲを知ってるがな。しょせん、あれだってただの女じゃねぇか。その腕が神がかってこそ価値はあったが、テメェにゃそれもねぇ」
「へぇ、このぼくが無価値って?それはそれは」
「いや、そうとは言ってねェさ。その両足の間を使う時くらいにしか利用価値はねェがな」
また踏んでやろうかとは素で思った。しかし、あえてこちらを怒らせようとしているのではないか、とふと気付く。ホテル業界にいるドフラミンゴがの昔の行いを知らぬわけもない。知っていて侮るのなら本当に小物だが、はたしてドフラミンゴともあろうものがそうか、とはは妄信できなかった。
「農場から手は引いてくれるだろう?」
は己を侮辱したドフラミンゴの言葉をきれいにスルーすることにして、その顔を見上げる。
「今ここでテメェが足開いてくれんなら引いてやってもいいぜ?」
「松永どの、この鳥去勢していいかい」
怒らせるために言っている、とは思ったが、は意外にあっさりぶぢっと血管が切れた。尼僧服からナイフを取り出してドフラミンゴの座っているソファの背に投げつける。耳の真横を鋭いナイフが通り過ぎても、顔色一つ変えずにドフラミンゴは笑みを深めるだけである。
「どちらも私には厄介者になるのでね、減ってくれるのならそれに越したことはないよ。存分に殺しあってくれたまえ」
この光景を何か出し物くらいにしか思っていない松永久秀。のんびりとした口調で言いながら、ドフラミンゴに拳銃を手渡す。おい、と思わずとドフラミンゴが突っ込みを入れると、松永はそれはもう、当然のような顔をしてのたまった。
「どうせ人は死ぬのだよ?」
うわ、と、はドフラミンゴは揃って顔を引き攣らせた。
誰だこの人に商才とか授けたの。ヘタに社会的地位があるため手出し不可。けれど裏ではすんごいことしかしてません、というような男の、外道極まりない言動。そのありようが垣間見えて、二人はすっかり毒気を抜かれた。
は聊か疲れたように額を押える。その手をドフラミンゴが取って、自分の唇を当ててきた。
「なんか汗の味しねぇか」
「走ったし、ここ階段長くない?」
「卿らはもう少し色気のある会話ができないのかね?」
この短い時間でドフラミンゴ急接近にはなれてしまった、今更そんなことで騒ぐことはせず、のんびりと答えると、松永がつまらなさそうに呟く。
楽しませる気はさらさらないので、はふん、と鼻を鳴らし、手を引っ込めた。
「階段って…おい、まさか態々階段使ったのか?」
一応経営するホテルについてのクレームは考慮しようとしたのか、の言葉を考えていたドフラミンゴが「まぢで?」というような顔を向けてくる。はきょとん、と顔を幼くして首を傾げた。
「使ったけど?」
フロントで松永の宿泊している部屋が最上階であると聞いたときは、少し怯んだ。けれど上がっていけばいつかつくと思えば、そう苦でもない。昔無酸素でドイツの高山を越えさせられた時に比べればはるかにマシである。
懐かしい尼僧修行時代の思い出には軽く涙を拭う。
本当辛かった…!!!バタバタと倒れていく見習いシスターたち…!!容赦なく振り続ける雨が鉛の入った尼僧服を良い具合に重くする…!!挫折、絶叫、裏切りの連続のあの山越え……!!!!(それ絶対尼僧の修行じゃない、という突っ込みは不可である)
「……卿は…エレベーターというものを知らんのかね?」
「知ってるよ」
「へぇ…知ってんのか…」
松永とドフラミンゴ双方に呆れたような目を向けられ、は眉間に皺を寄せる。二人とも自分を何だと思っているのか。確かに高層ビルなど「バベってしまえ」とは思うけれども、フランスからドイツまでの2日間である程度最近の文明については勉強している。
「じゃあなんで使わなかったんだ?」
「停電したら怖いじゃないか」
「いや、しねぇって」
即答すれば即行で返された。しかしはドフラミンゴの言葉など信じる気はない。
あれだ。映画じゃ船が絶対に沈む。ビルは崩壊する。飛行機は墜落するし、バスはジャックされるか爆破される。そういう理屈でエレベーターも故障して中に閉じ込められるのだ…!!!
ぐいっと、は首からかけた十字架を手にとり、敬虔なクリスチャンのように目を閉じて跪いた。
「神よ…そういう試練はぼくじゃなくて全部この鳥にお願いします」
+++
ずるずるとは松永の部屋から出てホテルの廊下を引きずられ、ふてくされたように唇を尖らせる。
「階段で降りるって言ってるじゃないか」
「フッフッフ、仮にもこの俺のホテルで「停電する」なんつー妙な疑いかけられちゃァ、気にいらねぇんだよ……!!!」
松永はこのくだらない問題に関わりたくないのか、きっちり今度はドアチェーンまでして部屋を閉め、自分の時間と空間を確保した。そういうわけでドフラミンゴとは3つしか部屋のない階の廊下を進みながら、エレベーターを目指しているのである。
「で?結局農場は手を引いてくれるんだろうね?」
いつまでも引きずられているのは性に合わぬので、は自分の足で大人しく進むことにして、ひょいっと体勢を整える。並ぶと随分と差のあるとドフラミンゴ。から手を離せば、ドフラミンゴはその手をズボンに突っ込んだ。手癖の悪い男である。
「またその話か。くどい女は嫌われるぜ?」
「きみに嫌われたって痛くもかゆくもない」
清々しい笑顔で言い切れば、ドフラミンゴが肩を竦めた。ベラミーや松永の手前であればこの男は傲慢な態度であるが、今はホテルの監視カメラがあるという意識なのか?先ほどよりは聊か皮肉めいた態度が消えている。
「一つ、聞いてみたかったんだがよ」
夜のホテルは静かだ。明りが消えている、というわけではないけれど、ひっそりとした空気がある。高い部屋らしいから一層なのだろうと思いながら壁にかかった絵を眺め歩いていると、ドフラミンゴが声をかけてきた。
母の絵はないが、どれも一級品であると感心していただけに、、聊か間の抜けた声を出す。
「なぁに?」
「会ったこともねェガキになんでそこまで入れ込める?」
おや、と、は肩眉を跳ねさせた。嫌みったらしい顔しかしていなかったドンキホーテ・ドフラミンゴ。いやらしい男だろ、と堂々とアピールしているような言動が目立っていたお陰での中では完全に「バカ鳥」認定していたのだが、しかし、こういう風に真面目な顔も出来るらしかった。
ガキ、というのは、それにのことだろう。は問われた意味を考え、立ち止まってドフラミンゴを見上げる。
「可愛い妹だから☆っていう理由で納得してくれないんだろうねぇ」
「百歩譲って、あのトカゲがテメェで産んだガキに情を持つってのはいいとしよう。お前は「こっち側」だろ?義務や責任なんてつまらねぇ理由で、安全なドイツを飛び出すわけがねぇ」
と言って、の価値を利用して、というわけでもない、とその目は続けていた。あれこれと理由を挙げるその声を聞きながら、は改めて、自分だってよくわからぬもの、とは思う。
自分の感情を考える、というのがどうも苦手だ。傲慢に振舞えば「それらしく」なるので楽だ。けれど、そこまでこの男に言う義理はないし、言ったところで理解することでもないだろう。
けれども誤魔化すようなことを言っても納得すまい。
は黙ったドフラミンゴを見上げたまま自分も黙り、一度真剣に考えてみる。
トカゲには妹たちを守るようにとずっと言い続けられてきた。「こちら側」と「あちら側」の話だけをよく、教え込まれてきた。それであるから、自分には手の届かぬの明るい世界、そこからがこちら側に来るのはよくないだろうと、そう思う。それは優しさではなくて、きちんと収まるべきものが収まった状態でないのが気に入らぬ、というだけになるのかもしれない。
妹、という立場のものはかわいらしい。自分の下だ。こちらを慕ってくれている目が面白い。けれど、それは別に、突き詰めてしまえば妹でなくともいいのだ。犬や猫を可愛がるのと、そう変わらない程度のもの。
けれど、そうではない。そうではなくて、もっと、もっと、単純なところが、あるのではないかと、そんなことを、ふと、思った。
毎月、二人から送られてくる手紙。絵葉書。時折、小さなおまけもついている。は海を見たことがあまりない。それをトカゲからでも聞いたのか、が貝殻を同封してきたことがある。そういう、些細なこと。
手紙を全て、大事に大事に、ブリキの箱にしまっていた。真夜中、嵐の番、恐ろしい夜には二人の手紙を読み返していた。
なんとも思っていないのなら、なぜ、に「護りたい」と言われて狼狽などしたのか。
「ねぇ、君って、何か好きなことある?」
「あ?」
「ホテル経営とか面白いからしてるんでしょ?」
思考から帰り、はドフラミンゴから視線を外し、壁のギャラリーをゆっくりと眺めながら、背後の男に問いかける。
「フッフッフ、これが面白れぇってわけじゃねぇさ。金儲けが面白い。金が金を産んでいくんだぜ?時には食われちまうがな」
ドフラミンゴはいかに商売相手を出し抜いて、未開のビジネスを発掘し築き上げていくのが面白いか、を簡単に語った。それを聞きながら、はそれについて自分が同調する日がくることはないとわかりつつも、一つ確実にいえることがあると気付く。
「心っていうのは重いんだよね。一人きりで持つのは無理なんだって。だから、自分以外のことに心を注ぐ。君のお金儲けに対する執着心も、ぼくの妹たちへの感情も、根っこは一緒だよねぇ」
はこの男がどういう性格なのか知っているわけではない。まだ顔を合わせて合計数時間程度だ。知るには短い。しかしながら、人の心については、寺院で暮らしていただけあって、ある程度のものさしを持っている。
人の心というものは、一人では抱えきれぬようにできている。無理に自分だけで持とうとすれば、身動きがとれなくなって、雁字搦めになって、どうしようもなくなって、苦しく、苦しくなる。だから、何かに心を預けて軽くするのだ。余裕が出来れば、身軽になれば笑えるようになる。けれど自分の心という大事なものはそう簡単に預けられるわけではない。だからこそ、難しいのだろうけれど。
は自分の心の重さを思い出してみる。やから手紙を貰うたびに、少しずつ軽くなりはしなかっただろうか。
「ぼくもヤキが回ったよねぇ。優しすぎるあの二人じゃ君みたいなのの相手を出来ないってわかってるから、なんとかしてあげたいみたいだよ」
いろんな感情はぐるぐると、今でも回っているのだけれど、いろんな意地やらプライドを取り払ってしまえば、結局のところはそういうことなのではないかとも思う。
あの二人が優しすぎて、正直一緒にいるのはかなりしんどいのだが、けれど、あの二人からカードが届かなくなったら、あんまり楽しくないのだろう。そういうのは嫌だった。だから、結局は、ドイツを出てよかったのかもしれない。
「なんでそんなこと聞くの?」
きょとん、と、は不思議そうにドフラミンゴを見上げる。この男、こういう話を「くだらねぇ」と一蹴にするだろうタイプだろうに、聞いてきた。似合わぬ言動はそれなりの罠かと警戒するように眼を細めれば、ドフラミンゴの腕がぐいっと、の腰を壁に押し付ける。ガタン、と勢いで額縁が揺れた。そのまま落下してこの鳥の頭に直撃しないか、とは神様にお祈りしてみたが、まぁ、叶うわけがない。
「フッフッフッフ、普通、ここはアレじゃねぇのか?妹思いの感情と、金儲けを同列になんざ、しねぇだろ」
「ふふふ、その辺の偏見をぼくに押し付けるんじゃァないよ。鬱陶しい」
何かこの男、すぐに押し倒したりあちこち触ってくるのだが、そういうのはもう少し背の高い女性とやらねばつりあいが取れないのではないだろうか。
乙女の聖なる力うんぬんを言われた時のように急所を蹴り飛ばしてやろうか、とも一瞬思ったが、一日に二回も食らったら、さすがに再起不能だろうか、とも案じてみる。
「え?なぁに、まさかこのぼくに惚れたって?困るよー、逆ハー要素はくんでお願いしたいのに」
「フッフッフッフ、平たく言やァ、惚れた」
「うわ」
冗談めかして言った言葉を肯定されるときほど鬱陶しいものはないだろう。
は思わず顔を引き攣らせる。というか、これまでのやり取りで何をどうしたら「好きになりました☆」などという展開になるのだろうか。あれか?これが飛行機の中でに貸してもらって読んだマンガの「出会って3秒、何か知らないけど恋に落ちました!!もう君以外見えません!!突っ込み不可!!」な状態なのだろうか?
「その強気な目を屈辱にまみれさせて俺の足元に跪かせる光景を想像するだけでたまらねぇ…!!!」
「うわ、変態」
すなおにドン引きした。遠目には長身、野心、人望やら実力やらはっきりある素敵青年実業家、に見えなくもない男。とて初見ではその只ならぬたたずまいに警戒して、一瞬だが「負けるかもしれない」と眉を寄せたほその男。
「こんな一面見たくない」
「フッフフフ、松永のオッサンは狙いだしな。フッフッフッフ!!俺は長女狙いで頼むぜ」
豆腐の角に頭を打って死ねばいいのに。
紐なしバンジーこのホテルの最上階からしてくれればいいのに。
酸素ボンベに二酸化炭素入れて海底に沈んでくれればいいのに。
何だか心底楽しそうに決意表明をする男の笑い声に、はこう、理解したくないのに強行突破で入ってくる言葉の暴力性を感じた。
しかし、まぁ、この色惚け発言はさておいて、こちらを屈服させるのが最終目標、というのはよくわかった。は松永、こちらはドフラミンゴが本気になっていろいろ仕掛けてくる、ということになるのだろうか。松永が実際本気であれこれ手を尽くしてくるとは思っていない。いやらしいまでの嫌がらせだろう、とは思うが、しかし、一番嫌なパターン。松永がドフラミンゴと手を組む、である。それだけは嫌だ。なんというか、生理的に嫌だ。
は素早くドフラミンゴから離れ、エレベーターに転がり込む。てっきり追いかけてくるかと思いきや、ドフラミンゴ、そこから動こうとはせず、扉が閉まる動作にあわせてゆっくりと腰を折る。
「それじゃあ、検討を祈るぜ?精々逃げろよ?Meine liebe Person」
「この……変態………ッ!!!!!!」
後半に続けられた母国語に、はぞわっと鳥肌を立てて声の限り叫ぶ。その瞬間にチン、と上手い具合に扉が閉まり、後にぼんやりとドフラミンゴの笑い声が響いた。完全にコケにされた気がする、とは怒りがふつふつとわいてくる。
結局農場についてのあれこれも決まらずじまいだった。いや、ドフラミンゴがアーサーとやりあう道を選ぶ、とは思わない。農場の件、最悪アーサー・ヴァスカヴィルに処理させれば何とでもなるだろう。あのやり手の弁護士と、争うことが既にこの世界では「汚点」となる。あのアーサーに目をつけられた、ということが、評価を下げるのだ。ドフラミンゴほどの男が、たかだか小さな農場のためにそこまでやる、とは思えない。あの土地は、確かにへのカードにはなるが、切り札にはならない。そのくらいのものだ。ドフラミンゴなら、もっと強いカードを用意する。
それを出されたときの切り替えしが出来る、こちらも十分な備えをしなければ。
はエレベーターの壁に背をつけ、腕を組む。
松永やドフラミンゴとこうして顔を合わせて、多少なりとも相手と探りあいはできるようになった。あとは彼らとどう戦うか、だ。
は戦う決意をしている。だが、その方法までは決まっていないだろう。
危険な目にあわせず、しかし、連中とやりあえるだけの経験を詰める手段はないだろうか?
思案するの耳に、再度チン、という軽快な音が届いた。はっとして反射的に顔を上げれば、まだ一階についたわけではなく、途中の階で誰か人が乗ってきたのだと判る。
エレベーター内の作法はわからないが、は隅に移動して、無礼にならぬよう入っていた人物を凝視しないよう顔を俯かせた。入ってきたのは男性だ。ドフラミンゴと同じくらい背が高いような気がする。顔を下げても、視界にはその人物の足が入っていた。濃い赤のスーツである。仕立ても悪くなさそうで、さすがはあの男が運営するホテルだけあって、センスの良い客が使っているようだ。
そのままエレベーターは降下していく。は再び今後のことを考えようと意識を沈めかけて、ガダンッ、と、エレベーターが急停止した。
「っ…!!!!」
突然のことで、はバランスを崩して倒れかける。同乗者は上手くバランスを取ったらしい。二本の足で体勢を直し、の腕を掴んで助ける。
「大丈夫か?」
かけられた言葉は日本語である。真っ暗になった個室では相手の顔は見えないが、流暢な言葉遣いなので日本人だろうとぼんやり判断付ける。は「うん」と軽く言葉を返し、今すぐドフラミンゴの胸倉を掴んで怒鳴りたくなった。
(やっぱりエレベーターなんて停止するためにあるんじゃないか…!!!!)
Fin
・まさかフランス編で登場することになるとは…。
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