時間は少し前に遡る。
未だ意識を取り戻さぬ姉の顔をじぃっと見つめ、は眉間に皺を寄せた。常日頃共にいるボガードが見れば、普段滅多にせぬ表情に眉を跳ねさせただろう。喜怒哀楽がないわけではない。しかしながら今浮かべられている表情は、困惑というよりも、若干の、何か妙な黒い、いや、ドス黒くはないももの、何か良いものとは言いがたい、何か、普段のであれば消して抱かぬ感情をかかえてしまい、当人それをどうすればいいのかわからぬ、しかし、打ち消してしまうことが妙に難しい、だからこそに、わからない、という、奇妙な顔である。
は下で養母と共にの尼僧服を洗濯している。純白の美しい尼僧服はドフラミンゴ、あの乱暴者の所為で泥がついてしまっていた。はの服が無残に汚れているのを直視できなかった。一緒に育ったわけではない。知らぬことのほうが圧倒的に多い姉だ。しかし、姉の白いスカートが泥に穢れ、それを纏う姿に何の違和感もなかったことがを動揺させた。これまで「お姉ちゃんの服は真っ白で素敵」と思っていた。だが、本当に、己はその汚れ一つない姉の姿が「当然」だと思っていたのだろうか。は、小さな体で大きな男に挑み、そして傲慢な物言いをして相手にまるで怯まなかった姉の姿、そして、泥に汚れたその姿を「これが本当」なのだ、と納得したのだ。
トカゲお母さん
この農場に着てから起きた、まるで日常的とは言いがたい出来事も、の純白のスカートがひらり、と翻り相変わらずの白さを保っていたのなら、こうまで動揺しなかったように思える。だが、ドフラミンゴによって地に押し付けられたのその姿を「これがお姉ちゃん」なのだと、認識し、そしてそうなのだ、と理解してしまった。「これこそが」と、まるで最初から「純白」に対して違和感を、己が抱いていたような、この今の状況がにはわからなかった。
のベッドに横たわる、姉は時折苦しそうに呻いた。外傷はない。しかし、苦しそうだ。そのたびにはタオルを絞って、姉の頬を拭った。びくり、と肌が一瞬震えるのは魘されている所為ではなく、自分が触れたからだとわかり、悲しくなる。と看病を変わろうかとも思ったが、は少なくとも自分はよりも先に姉に会っていて、そして何日か共に過ごしているという自負もある。宿泊したホテルでが悪夢に魘されていたことも当然知っている。よりはまだ多少はを知っていて、それであるなら自分が姉を看病するべきだと、そういう使命感を覚えていた。
(お姉ちゃん、お母さんが死んだって、本当?)
そうしてじっと、の青白い顔を見つめながら、は声に出さず問いかける。農場であの男が言っていた言葉はの耳にも入っていた。や養母がの服を脱がせている間、はボガードに問い詰めた。「どういうこと?」と、何か知っているのなら教えて欲しいと、必死にせがんだ。いや、己は今のこの、どうなのかわからぬ状況、不安定さがいやで、そして、ボガードに否定して欲しかったのだ、と思う。しかし、ボガードがにくれた言葉は「それは、おれの口からお答えする問題ではありません」と、それだけだった。いや、だが、ボガードはある意味でに従順な言葉であった。宙ぶらりんであったの状況は、その言葉で、変化した。
はけしてバカではない。ボガードは、もしもドフラミンゴ、あのハデな男の言葉がただの戯言、や自分たちを動揺させるためのものなら「あんなクズの言葉は即刻お忘れください」と言っただけだろう。だがしかし、ボガードは「自分の口から言うことではない」と、そう答えた。
それはつまり、母の死について、肯定であるという回答だ。
の疑問に、ボガードはいつもきちんと答える。それがボガードの忠誠心であると、以前は手紙でに教えられた。
まともな返信など滅多に返してくれぬだったが、以前一度だけ、養父母にも、そして二人の実の子、にとっては義兄に当たるボガードにも話せぬ悩み事を、必死に必死に、長く長く、に書いたことがある。あまりの長さ、そして支離滅裂な言葉、涙で滲んだインクを姉は鬱陶しく思うのではないかと、ポストに投函してから悔いた。しかし、はその一週間後に返信をくれた。
その時もそっけない返信だった。は離れている姉にはわからないのだ、と、感情的になってその手紙をぐしゃぐしゃにしてしまった。(そのあとすぐに拾って引き伸ばしたが)その時の、の手紙に「それが彼の忠誠心だ」と書かれていた。
(違うの、ちゃん。お姉ちゃん、あたし、ボガードにボディーガードなんてしてもらいたくないの。ボガードはあたしのお兄ちゃんでいて欲しかったの)
あの時の感情、そして、今のこの状況を思い出して、の目に涙が浮かぶ。忘れもしない。が12歳になった、中学生に上がって少しした、夏の頃である。
養父が病で倒れた。不治の病、というわけではない。しかし、回復した後も時折体が少し痺れるという後遺症が残った。
『、ボガード、話があります。こちらへ、座りなさい』
静かな声で、父は二人を部屋に呼んだ。養父はとても落ち着いた人だった。はその現役時代を知らないが、を引き取る前は警察の狙撃部隊にいたという。とても静かで、冷静で、が悪戯をしたり、何か悪いことをしたときもけして声を荒げたり、手を上げたりはしなかった。
『ボガード、今日からあなたが、を守りなさい』
父はそう言った。それ以上は何も言わず、にはなぜ今更そんなことを言うのか不思議だった。ボガードはずっとを守ってくれていた。近所の意地悪な男の子からや、犬に追いかけられた時は追い払ってくれた。友達から仲間はずれにされたときも、ずっと話を聞いてくれて、一緒に遊んでくれた。
『わかりました』
しかしボガードは、には思い当たらぬ何かを承知のようだった。すっ、と畳の上に指をそろえて、父に向かって頭を下げた。それがには、以前テレビで見た何かを「シュウメイ」した時のような、妙に芝居がかった態度に「お兄ちゃん、変」と言いそうになるのを堪えていた。
けれど次の瞬間、ボガードの取った行動に、はそのおかしさが一気に消えた。
『今日からおれが、あなたをお守りします。お嬢さん』
丁寧に、ボガードがに頭を下げた。先ほど父にそうした以上の、そこには「敬い」が見て取れた。はまだ子供だったが、その、恭しさははっきりと感じられた。それほど、ごまかしなどない、完璧な姿だったのだ。
夏の暑い日だった。表では蝉が鳴いていて、風鈴の音もした。チリーンと、その涼しげな音だけが、暫くその部屋には響いていて、合間に外で遊ぶ子供の声が聞こえた。
『違うよ、あたし、お嬢さんじゃない。お兄ちゃん、なに言ってるの?へんなの、そんなの似合わないのに』
は笑った。笑わねばならぬ気がした。ガラガラと何かが壊れていくような、そんな音を聞きたくなくて、自分の、引き攣った声も聞きたくなくて、それで、、必死に風鈴の音を聞いた。
『お父さんも、ねぇ、おかしいでしょ。お兄ちゃんが、あたしのこと「お嬢さん」って、あたし、だよ。ねぇ、そうでしょ?』
父は笑わなかった。優しげな面差しのまま、を見つめ、そして緩やかに首を振った。
『今日から、ボガードと、そう、名で呼びなさい』
静かな声で、父はに告げた。チリーン、と、風鈴の音の中に紛れる、とても、とても、綺麗な声だった。
その日の一週間後、はに手紙を書いた。そして、その日から、は風鈴の音が大嫌いになった。
あの「時」あの手紙、そして、あの時からのボガードの変わりよう。はどこかで判っていたのではないか。ドイツにいるが、己の傍にいるボガードが、己の知る世界の常識ではないものを持っているのではないかと、それを、あの日に、気付いていたのではないだろうか。
ぼんやりと気付きながらも、必死に、必死に、必死に必死に必死に、は、気付かぬフリをしていたのでは、ないだろうか。
それであるから、姉のあの、純白のスカートが汚れ、しかしまるで違和感のない様子、乱暴な男たちを前にしてまるで怯まず、そして、が追いやられているのを見ても動かずただの傍らにいたボガードを見ても、動揺できなかったのではないか。は、いや、あの時驚いていた、動揺していた。だがしかし、それは、動揺できぬ自分自身に対しての、動揺であったのではないのか。
「お姉ちゃん、ねぇ、あたし……あたしたち、これからどうなっちゃうの…?」
苦しむ姉の顔を見つめ、はぽつりと、頬から涙を零す。母の死によって、の心から何かがぽっかりと消えた。しかし、そこを必死に埋めるように貪欲に、の心は「何か」を求めていた。それが何なのか、にはわからない。
判らないことが、多すぎる。血の繋がった姉のこと、ずっと一緒にいるボガードのこと、そして恐らく『絵を描く』から狙われているのこと。は何もわからなかった。
けれど唯一つ、には判っていることもある。
ドイツへ向かう飛行機の中で、が思い描いた未来は絶対に来ない、とその点だった。
少しずつ、少しずつ、何かが変わってきてしまう。いや、何もかもがごっそり変わってしまって、それでも、ボガードが、を「お嬢さん」と呼ぶようになってからも、その後の生活は何も変わっていないように見えた、その、確実な変化がありつつも、何も変わらぬその、歪な状態、妙な、居心地の悪さ、いっその気色悪さに、は胸を押さえ、吐き気を堪えた。ぐわぁん、と頭の中が真っ暗になる。眩暈、なのか何なのかわからない。
(お姉ちゃん、お姉ちゃん、、お姉ちゃん)
は顔を顰めながら、眠るを必死に呼ぶ。
昔と違い、今はこんなに近くにいるのに、それでも姉は、は、に何の言葉もくれない。
+++
ただの停電、というわけでもなさそうだとサカズキは携帯画面を開いて判じた。仕事柄、圏外状態では話にならぬのでサカズキの携帯は通常販売されているもの、警察内で支給されているもの、とは少しばかり違うものを使用している。その携帯が、現在この停電して停止したエレベーター内部で「圏外」となっていた。
当然、エレベーターに設置されている緊急用の通信も使用不可。完全に外からの連絡と遮断されているが、それはこのエレベーターに限ったことではないのだろう。少し耳を澄ませば扉の向こう、少し上のほうからホテル内の混乱が伝わってきた。時刻は夜だ。就寝してこの事態に気付かぬ者も多いだろう。救助するべきか。あるいは問題が解決するまで騒がぬべきか、と、サカズキは思案した。
このホテル、ラ・マンチャは何かと黒い噂の耐えぬドンキホーテ・ドフラミンゴという男が経営している。客を盛大に呼び込んでの商売、ではなくて限られた富裕層をターゲットにされたホテルだ。当然、利用客は通常のホテルよりも少ない上に、「善良な市民」ではない。ここでこのエレベーターから脱出することはそう難しいことではないだろうが、そういう連中を避難口に誘導するよりも、己はこの中に留まっておくべきであるように思えた。
利用客についてはホテルの従業員が対処するだろう。そのマニュアル・訓練もされているだろうし、己が手出しせぬ方がいいこともある。何しろ、今回サカズキは偽名を使ってこのホテルに宿泊した。ドフラミンゴに正体がバレるような可能性はあってはならない。
そして、ここに留まらねばならぬ一番の理由は、このホテルの利用客・従業員の安否を優先するよりも、このエレベーターの中に己とともに閉じ込められたもう一人の人間の存在であった。
「おい、大丈夫か」
「……うん」
「じきに復旧するじゃろう。それまで辛抱せぇ」
「……うん」
狭くはないが、けして広くはないエレベーターの中にサカズキと、もう一人利用者がいた。このホテルの利用者ではないだろう。乗ったときに見た姿は質素な尼僧そのものだった。子供、と呼んでも差し支えないほど小さな背、こちらが乗り込んだ折には顔を伏せていたため見えなかったが、サカズキも不躾に婦人の顔を除きこむ趣味はない。
なぜこのホテルのエレベーターにいるのか、それは気にならぬわけではない。この停電に関係しているのではないか、と仕事柄浮かぶ心もあったが、その尼僧、現在エレベーターの中、暗闇の中でカタカタと震えている。演技、というわけでもない、本物の恐怖心がサカズキに伝わってきた。
フランス国内であるのだからフランス語で話しかけるべきだったが、相手は日本語も通じるようだ。幼い、子供のように高く、だが今は恐怖で若干掠れた声に、サカズキは置いていくわけにはいくまい、と強く思う。
ドフラミンゴ、あの男のホテルでの停電だ。そしてこの、完全に電波を遮断されているという状況。何かあるに違いない。一般市民を巻き込むようなことも、平然とあの男はするだろう。
「……何か、喋って」
「ん?」
「暗くて、静かなところは嫌なんだよ」
静かな尼僧の言葉にサカズキは眉を跳ねさせる。流暢な日本語だ。日本人だろうか、と思われるほどである。なぜ日本語の堪能な尼僧がこのホテルにいるのか。よもや己をここに足止めしてその間にドフラミンゴが何か、などと一瞬疑う。だが、まずサカズキは「赤犬」がこのホテルを利用しているとドフラミンゴにはまだ気付かれていない確信がある。それであれば己は偶然、この異変に巻き込まれたという形の方が正しいのだろう。
「何を話しゃァえぇ」
「…わかんない、自分で考えなよ」
「それが人にものを頼む態度か。どういう教育を受けてきたんじゃァ」
聊か傲慢な物言いにサカズキはため息を吐く。尼僧、聖職者というのは謙虚な生き物だと思っていたが、世の中、やはり見かけどおりではないものの方が多いのか。サカズキにも聖職者の知人はいるが、あれを神父というのは随分と、憚られるような人物だ。それを思い出しながら、ゆっくりと息を吐く。
「暗い所が恐ろしいか」
「こわい」
「わしは話すんが苦手じゃけ、おどれで話しゃァえぇじゃろう。わしゃ聞くぞ」
「狭くて暗くて、静かなところで…自分の声しかしないのがこわい。何か、言って」
ぎゅっと、サカズキは自分の腕が掴まれたのを感じた。腕を掴む、という大げさなものではない。服の、腕の部分を少し摘んだ、という程度だ。その掴まれた箇所が小さく震えている。サカズキは顔を顰め、何か話すことはないかと考えたが、思い浮かばない。この尼僧、声や背が随分と幼いように思える。だが、子供、という感じはしない。だが子供でなくとも、サカズキは女性の、それも聖職者に話してやれるような話の心当たりがない。部下のディエス・ドレークであれば(随分前に歳の離れた女きょうだいがいると言っていた)何かできるのではないかと思うが、生憎自分に、そういう予備はない。
「このホテルは朝食に和食の用意がねェな。わしは朝は米に納豆と決めちょるんじゃが、せめて味噌汁でもありゃァ、ちったァ、マシじゃろう」
話すことが見当たらず、それで、サカズキはとりあえず今朝思ったことを口に出してみた。一瞬キョトン、と尼僧が反応したのがわかる。文句を言われたら、とりあえず何か話したほうがいいのだろうと、返すつもりであった。しかし尼僧は何も言わず、ただじぃっとこちらに目を向けているようである。日本語が堪能であるというのなら日本人なのだろうか。目の色は見えぬが黒だろうか、と思う。
「ここにゃァ仕事で来たが、観光地だけあって華やかじゃのう。おどれはここに何しに来た、観光か」
「違う…妹に会いに来たの」
「このホテルか?」
「まさか、こんな趣味の悪いトコ」
「まぁ、尼僧が来るにゃァ、ハデじゃのう」
自分の声しかしないのがこわい、とこの尼僧は言うわけで、それは一人きりが際立つこと、という意味なのだろうとサカズキは判断した。それなら、「会話」させればその恐怖心も和らごう。
「趣味が悪いっちゅーなら、何しに来た?」
それは気になることだった。サカズキは、先ほどと同じ声音で言いつつも、若干尋問するような響きにならなかったかと注意を払う。尼僧は警戒するそぶりも見せず、あっさりと答えた。
「主の前では皆平等だっていうのに調子づくバカに身の程を教えてあげようと思って」
「尼僧のセリフじゃねェな」
強制的に懺悔でもさせに着たのか。確かにこのホテルを利用しているだろう連中はこういう少々過激な発言をする尼僧に足蹴にでもされねば悔い改めないだろうと、経験上知るサカズキ、それもありか、と思いながら頷くと尼僧が体を動かして少し近づいた。隣に座ったらしい。花の匂いがする。サカズキは女の香水に詳しくはない。クザンであればわかるだろうか。だが、甘ったるい人工的な匂いではない。薔薇か、と気付く。
「きみは、仕事って何してるの?」
「おどれと似たようなもんじゃろう」
「ふぅん。日本人?」
「あぁ。明日の朝の便で日本に帰るつもりじゃけ」
会話することで恐怖心が薄れてきたのか、あれこれと尼僧が問い始めてくる。あれこれ女に詮索されるのは面倒だと思っているが、この暗闇で、そしてこの尼僧相手ではそちらの方が楽だと思い、サカズキは問われたことにぽつり、ぽつり、と言葉を返した。
Fin
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