『ちゃん、誰にも内緒だよ?これは、二人だけの秘密だ』
真っ暗な部屋の中であのひとはいつも、いつもそう言った。トカゲの留守中、湿った暗い部屋の中。錆びた鉄の臭いと溝鼠の鳴き声がして、時々ぼんやりと天井のしみが見えた。暗い中なのにどうして染みがわかるのか、思い出すたびにはその奇妙な点に首をかしげる。そうして、なぜ当時はそれが「変」であるという疑問を持てなかったのか(そして、それは全てにおいて云えること)と昔の自分を怒鳴りたくなる。
「……」
「どうした?」
低い男の声がすぐそばで聞こえて、反射的にはびくり、と体を強張らせる。そして一瞬自分が、エレベーターの中にいるのではなく遠い昔に数年だけ住んでいた古いアパートの一室にいるような錯覚を覚えていたことを思い出す。
(このぼくとしたことが)
は密閉された暗闇が嫌いだった。ほとんど恐ろしいものなどないし、銃を突きつけられ肩を撃たれたとしても恐怖は覚えないが、しかし、暗闇だけは、どうしてもだめだ。星の、自然の明るさが遮られた、人工物の間。そこにひっそりと自分がいるのが恐ろしい。暗闇では何も見えず、とたんは普段頑なに纏う傲慢・尊大という鎧を見失うのだ。
「…なんでもない。ねぇ、何か話して。日本のことでもいいよ」
この暗闇に道ずれがいてよかったと思う反面、こうもあっさりと精神が丸裸にされている自分を初対面の、それも男に知られるというのは屈辱だった。しかし、この同伴者がいなければ今頃自分は小娘のようにしくしくと泣くしかできなかっただろう。誰も見る者がいないとはいえ、それこそ最大の恥辱だ。そんなことが起こること事態は耐えられぬ。カタカタと小さく震える自分の肩を押さえ、もう片方の手で相手の服を掴む。
「日本のことか…そうじゃのう、この時期は桜がよう咲いちょる。桜はわかるか」
「うん。日本で一番きれいなんでしょう」
日本に行った事は過去3度ほどしかない。季節はいつも冬だったため春に咲くという桜は見たことがないけれど、しかしその美しさは話に聞いていた。写真で見た薄紅色の花を思い出し、は目を細める。
「一等かどうかは知らんが、わしは好きじゃのう」
こちらの気がほぐれたのが伝わったのか、男の手がぽん、と頭を撫でる。エレベーターにこの男がはいってきたとき、は顔は見ていない。しかしこのホテルの利用客だ。善良な市民、というわけではないだろう。ドフラミンゴの知人の可能性とてある。だが、悪い人間、にはは今のところ思えなかった。こうして自分が震えていることを気づき、話に付き合ってくれている。とぎれとぎれの会話から、この人物が普段からあまり多弁ではないことが分かるゆえに、はその気遣いに感謝していた。
暗闇が恐ろしい。真っ暗中、自分ひとりでいる時間。小さな、音とともにあの男がやってくる。
ぞくり、とは全身を震わせた。これだけ長い時間暗闇に身を置いたことがない。こうして会話できていても、確実に恐怖が忍び寄ってきている。
「寒いのか?」
「そうじゃ、ないんだけど」
「手を貸してみろ」
何をするのか、と問う間もなく同伴者はの手をさっと握り、両手で包みこんだ。
「わしは人より体温が高い。ちったァましになるか?」
「……寒いわけじゃないんだよ」
「なんじゃァ、いやか」
誰かに手を握られるなど初めてのことだ。はただ驚いて目を丸くする。自分はこうしている間にも、それでも男に対して完全に無防備になっていたわけではない。密室で異性と二人きりになっているという状況だ。自分から近づき袖を掴むのではなく、相手が何か行動してきたときにはすぐに反応できるようにと警戒していた。それであるのに、この男はあっさりとこちらの手を掴んだのだ。
ドフラミンゴに押し倒され、肌をまさぐられた時のことを思い出す。別段不快感というのはなかった。当然だ。自分には相手を不快に思う心がマヒしている。それでも触れられぬようにと警戒するのは、触れられて「何も感じない」自分を自覚し、昔のことを思い出したくないからだ。
それであるのに、今この男の厚い掌に触れ、は自分の心臓が速くなったのを感じた。
「……エレベーター、動かないね」
このまま男の体温を受け入れてしまったら取り返しのつかぬことになりそうな、そんな予感がふとした。はごまかすように、先ほどからの疑問を口に出す。
エレベーターは止まるものだと思っている自分だが、その確率が低いことくらいはわかっている。その上、こうして閉じ込められた時通常なら非常灯がつくのではないか。さらに言えば、停電が原因だとしてこういう大きなホテルは予備電源があるはず。ドフラミンゴほどの男が粗末な設備で満足しているはずもない。一瞬はドフラミンゴが己をここに閉じ込めてその間に妹たちに手を出しに行っているのかと、そんなことも考える。だが、あの男はそんなつまらないマネはせぬだろう。
ドフラミンゴは(理由はどうあれ)己を屈服させるとそういったのだ。妹たちを人質にとった程度ではの精神は崩れぬと、その自信がにはあったし、ドフラミンゴも承知しているだろう。そうであるのだから、ドフラミンゴは全力で完膚なきまでに己に「敗北」を突きつける必要がある。こんな安い手は使うまい。
「ホテル経営者は何をしちょる。そろそろ15分は経つっちゅうに」
「15分経つと普通は復旧するの?」
「通常は停止して1分程度で管理センターに連絡がいく。ホテル内が全て停止していたとしても変わらん」
「……ホテルだけじゃなくて、街全部が停電しているとか、そういうことってない?」
ふと、は脳裏にある人物を思い浮かべた。こんなことが出来る人間の心当たりがには数人いる。しかし今自分の置かれた状況などを考えてその数人を切り捨てていけば、残るのは一人だけだ。
(でも、何のために?)
急速に、は本来の冷静さを取り戻す。暗闇の中でこのようにカタカタ震えてしまうのはどうしようもないとしても、それでも思考回路まで完全に奪われるわけにはいかない。何より、こうして誰かが共にいるのなら完全に心を喰われることなどまずありえない。
はその途端、顔を赤くした。
今、己は誰かがいれば傲慢の鎧をいつまでも奪われるわけがないと、そう確信した。それであるのに、この数分間己はこの見知らぬ男に対して、あまりにも無防備だったではないか。若い娘のように相手の腕に手をかけて、沈黙を恐れ言葉を求める。
(何を、生娘のような)
失笑したいが、はただ顔を赤くするしかできなかった。暗闇でよかった。でなければ相手に不審がられただろう。そして不運なことに、は己の状態を冷静に分析してしまった。
(甘えたかったのだ。誰でもいい、誰かに。見知らぬ人なら余計、都合がよかった)
このぼくが!!と、今ここにステンドグラスでもあればは思いっきり十字架を投げつけて粉々に砕いたかもしれない。思わず口元を押さえ、壁に背をつける。
「どうした?」
「!!なんでもない!」
奇妙な行動を取るに男が怪訝そうに顔を向けたのが気配でわかった。しかしは今それどころではない。
この己としたことが、いや、しかし、自分を過大評価しすぎていたのかもしれない。は、確かに今現在、様々なことで憔悴しているらしかった。
誰でもいい、本当に、相手は誰でもいいのだけれど、ほんの僅かな時間でいいから「誰か」に気を許したかったのだ。
ドイツで母トカゲの死を告げられてから現在まで、はノンストップで様々な問題を処理してきた。ホテルに泊まりながらも、が眠っている最中はアーサーやジョージと今後の対策をやり取りし、何が最善か、を考えてきたのだ。
まさかこれほど早く、出向いた先のフランスで今回の騒動があるとは思わなかったが、は始終気を張り詰めてきた。(そして一番神経をすり減らしたのはの無自覚な「お姉ちゃん大好き」攻撃である。いや、本当あれは辛かった)
しかし、ドイツ寺院のソファの上で、ほんの僅かに小指が動いたように、けして己とて、何も感じていないわけではなかったのではないか。
そして、が確実に「こちら側」に意識を向けてしまったことで、どれほど動揺したか。ドフラミンゴや松永と相対するのは、構わないといえば構わない。そんなことは慣れている。そういう「慣れ」が、こうして気を張り詰めていることに「慣れて」しまっていた己が、ここに来てほんの一瞬、弱音を吐いたのだ。
は奥歯を噛み、俯いた。悔しい、とは思わないのが悔しかった。この自分が、誰かを求めたその心、それは屈辱であるはずだ。それでも、確かにこの僅かな時間、は確かに「」だった。トカゲの娘でも三姉妹の長女でもホルンベルクの魔女でもなかった。その時間を、は疎めないのだ。
もしこれがドフラミンゴの立てた企みなら、悔しいが拍手喝采をしなければならない。それほどに、心を丸裸にされ、油断し、うろたえ、そして、確かに、安心してしまったのだ。
(ほんの僅かな時間だけれど、ぼくは安心していた)
己のことを知らぬ人。何も事情を知らぬ人。こちらの顔を見てもいなくて、こちらも相手の顔を見ていない。声と、伝わる情報だけでお互いを判断するこの状況、そして相手が己を気遣ってくれているというのが判り、は安心してしまったのだ。
「……ばかみたい」
ぽつり、と呟き、は手を握り締めた。その途端、ガタン、とエレベーターが揺れ、動き出した。
+++
一度ロビーについてからエレベーター内の電灯が復活した。その頃にはサカズキは立ち上がり、同乗者であった尼僧を振り返ったが、尼僧は扉が開くと素早くサカズキの脇を抜け、入り口へ走って出て行った。その真っ白い尼僧服、その背を見送る意味もなかろうと判断し、サカズキはこの騒ぎは何だったのだろうかとホテル側の説明を待つ。電力が復旧し、フロントは人で溢れていた。支配人らしい人間が落ち着いた声で(しかし、どこか困惑した様子がある)このあたりの電力が全て停止したのだ、という説明をしていた。
何か裏の事情があるのなら、すぐに自分のパソコンにメールが届くだろうとサカズキはその説明にはあまり興味を持たず、一度自分の部屋に戻ろうかと思案した。つい先ほど停止したばかりのエレベーターは利用したいと思わないのが普通だが、生憎サカズキの心臓にそういう繊細さはない。だが他の利用客はソウではないのか、結局サカズキ一人で再びエレベーターを使用することとなった。
もし再び停電して閉じ込められた場合でも、乗っているのが自分ひとりであればサカズキはどうにでもなると思っている。そしてゆっくりと上昇しながら、先ほどの尼僧のことを思い出した。後姿しか見えなかったが、あれはどういう人間だったのだろうか。最後ぽつり、と呟いていた言葉は独り言だろうが、あまりにもあの状況には不自然だ。
しかし、もう会う事はないだろう。自分がまともな聖職者とそれほど縁があるとも思えない。その上ここは異国の地だ。明日には日本行きの飛行機に乗る以上、会う可能性は極めて低い。会いたい、と思う理由もない。
エレベーターの壁に背を凭れさせ腕を組み、サカズキは今回のこのフランス行きが空振りに終わったことを自覚した。数日前、サカズキの家に直接一枚の手紙が届いた。内容は、以前からサカズキが追っているある闇組織の幹部が数人、同じ場所に揃うというきわめてそっけない内容である。だが記された名が名であっただけに、連中が顔を合わせれば何かあるに違いないと、そう踏んでここまで来たのだ。
松永久秀、ドンキホーテ・ドフラミンゴ、サー・クロコダイル。この三人が同時期にフランスを訪れる、というのだ。そしてそのうちの松永とドフラミンゴは同じホテルに滞在している。何かないわけがないと、そう思ったのだが、こうして数日経っても何も起こらず、その上松永は今夜最後のフライトでフランスを離れることになっている。ただの悪戯におどらされたのは気に入らないが、しかし、犯罪の可能性があるのなら徹底的に調べるべきだ。
「……ん?」
と、そこで目を開けて、サカズキはエレベーターの隅に何か、金色に輝くものが落ちていることに気付いた。反射的にひょいっと拾い上げる。金だ。重さから純金であることがすぐにわかる。それは金細工で出来た薔薇のペンダントだった。
「さっきの尼僧の物、か?」
サカズキは女性の装飾品には明るくないが、扱う仕事が仕事だけに美術品、宝飾類を見る眼は肥えている。そのペンダントの細工が一流の細工師の手によるもの、そして年代的にも価値のあるアンティーク品であることはわかった。繊細な金の薔薇の淵は真鍮か、どうやらアンティーク品を加工してロケットペンダントにしたようだ。
所有者を断定するため、それに仕事柄悪いとはさほども思わずサカズキはそのロケットを開く。あの尼僧の持ち物であるのなら尼僧当人の写真が入っているわけはないが、しかし聖職者でも写っている、あるいは彼女の主である神の子の小さな像でもはめ込んであるのだろうと、そういう見当をつけていた。
しかし、開いてサカズキは目を見開いた。
写真ケースには二枚の写真が丁寧に収められていた。右側には女性、左側には男性の写真が嵌めこまれている。随分古い写真のようだ。写真でもはっきりとわかる燃えるように赤い髪の、やけに挑戦的な微笑を浮かべる女に見覚えはない。だが、その男性にサカズキは見覚えがあった。
「……なぜ、ディエス・ドレークが写っちょる」
写真の写り具合か、記憶の年齢と違うがその顔は確かに、日本にいる捜査官のものだ。優秀だが、うっかりとヘマをするという定評を得ている警察官。なぜその写真がフランスの、そして、おそらくはあの尼僧の所持品に納められているのだ。
その時丁度、チン、という軽い音がしてエレベーターが開いた。サカズキの部屋のある階に到着したらしい。サカズキは目立つことを危惧して普段よりランクを落とした部屋を使用しているが、それでも階は上のほうだ。その辺この男の妙な意地があるらしい。
色々考えることはあるが、サカズキはとりあえず部屋に戻り、そして入ってすぐ違和感を覚えた。
出た時と何一つ変わっていない。だが、何かおかしい。すぐにその違和感の正体はわかった。アンティーク調のテーブルの上に見覚えのないメッセージカードが置かれている。真っ白い何の変哲もない、しかし上質紙だ。鼻を近づけてみてインクはドイツ製であることがわかる。見本に出来るほど整った筆記体で一行、文字が書かれていた。
『彼女が“トカゲのご息女”だ』
その文字は、サカズキをフランスに向かわせる原因となった例の手紙と同じ書き手のものである。
Fin
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