ホテルから飛び出しては無我夢中で走りだした。心臓の音がうるさいくらいになって、全身の血がおかしなほど熱くなってやっと安心する。あのままあの場所に居続けることがどうしても良いこととは思えない。あの同乗者と光の中で目を合わせるようなことがあっては、自分が誰かに縋りたかったという事実を、相手の目の中に自分がいるのを確認してしまってからでは、もう何もかもが台無しになるような気がした。
コツン、とはアスファルトに躓き、速度を止める。2、3歩よろめいてそのまま電信柱に手をついた。乱れる呼吸そのままに、肩で息をしながらは唇を噛み締める。ぎゅっと目を強く握り、乱暴に自分のコイフをはぎ取った。ぱさり、と視界に入るのは燃える炎のような赤い髪。路上駐車された車の窓ガラスに映る自分の姿を確認してはかすれたような笑い声を立てた。
トカゲお母さん10
農場に戻れば一番にが飛び出してきた。赤と灰の目を大きく見開いている様子は愛らしいというよりも「どうしたのか」と只ならぬ様子にとて思わず顔を顰めてしまうほどのものがある。
「ちゃん!!大変なんです!」
自分も大変な目にあったが、それはもう解決しているので別段話すことではない。この農場は町から離れていて停電に巻き込まれなかったのか。そのことにはほっとしつつ、自分に飛びつかんばかりに近づいてきたを見上げて首を傾げる。愛らしい顔を真っ赤にしつつもどこか血の気が失せたような、そんな奇妙な顔色だ。なんぞあったに違いないが、ならツバメが屋根から落下してもこのように血相を抱えるだろう。
「どうしたの?」
口に出してからは眉を潜める。無意識ではどうも普段通りの口調にならない。まだあの男の余韻が残っているのかと自分を叱責する。はそういう些細なことに気付く余裕がないのか、の尼僧服を強く掴んだ。
「ちゃんがいないんです…!どこにも!」
「ボガードくんは?」
慌てて話すの言葉に軽く眉を跳ねさせ、は素早く周囲を見渡して中折れ帽の姿を探した。がいない、ということはそれはそれで驚きだが、まず確認すべきことはボガードの所在である。ここにないということはと一緒か、と当たり前だが確認しているとが不安そうに声を潜める。
「今探しに行ってくれているんですけど…何の連絡もなくて」
「…おや、ボガードが見失ったということかい?」
なぜ一緒に出て行かなかったのだと、は眼を細める。が出て云った云々は別段構わない。連れ戻せばいいとそれだけだ。だがボガードが、の「後見人」の地位にいるあの男がなぜ今探しに行っている、という状況にあるのだ。が納得いかぬ顔をしていると、先ほど入ってきた玄関が開き、ボガードが姿を現した。
「ボガードさん。ちゃんは…?」
まずに注目してからボガードは駆け寄ったに首を振る。あちこち走りまわったのだろうことは珍しく浮かんだ汗でわかる。この農場は中々の広さがある。一人で走り回るだけでも十分時間と体力が必要だったろう。携帯電話、というものをは持っているはずだが、のこの様子から言って置いて行ったに違いない。そうなれば探す手段はこのあたりをしらみつぶしに、という程度しか取れぬのが普通か。
それはさておき、と、はボガードの前に進み出て、の肩を叩いて横にどかすとそのまま足を振り上げる。
「…何するんです。八つ当たりですか?」
「おや、避けるか」
一撃目は予想済みだったかボガードは持っていたアタッシュケースでそれを防ぐ。しかしそんなことはこちらも予測済みだ。そして容赦する義理はこちらにはない。薄っすらと目を細めて2撃目でボガードを床に伏せさせ、背を踏んだ。小さく呻く声はの悲鳴にかき消された。
「ちゃん…!!?」
こんなときに何を、とそのようにには聞こえた。まずを探しに行かねばならぬのに、なぜボガードを害するのかと、その燃えるような赤の目が申している。こちらに対して疑惑というよりは困惑。がするのだから悪意あってのことではないのだろうが、しかし、なぜ、と必死に理解しようとしてくれている目が場違いなことにには嬉しく、ボガードを見下ろす目とは打って変わった優しげな眼差しではを見上げる。
「ねぇ、くん。悪いんだけど、ペペとメメにアーサー・ヴァスカヴィルに連絡を取るよう言ってくれるかい?今すぐに」
「でも、」
「お願いだよ」
ね?とそれ以上を許さぬように言えばはまたわずかに躊躇い、しかし奥へと駆けていった。その足音を聞きながら、は踏みつけた背から足を退けて、ボガードが起き上がろうとする前に肩を蹴り飛ばし、壁に叩きつける。さすがにそれ以上はと思ったかボガードが抵抗するような素振りを見せたので、は眉を跳ねさせ首を掴んだ。薄らと苦しげに呻くの後見人を見下ろし、愛らしく小首を傾げる。
「ぼくはさァ、くんを守るナイトはくん至上で何においても、どんなことがあってもくんの身を優先させる人じゃないとダメだって、そう決めてるんだよね?」
「…存じてますよ。ホルンベルクの魔女、が生まれた時にあなたが態々父に何をしたのか、おれが知らないとでも?」
「彼は完璧だったよ。文句ない、今日この瞬間までね。自分の後釜にこんな半端者を指名するなんて、これまでの功績を全て台無しにするような振る舞いだ。まぁ、彼がいうのならと特に試験もしなかったぼくも悪いか」
ドイツにを連れてきたことも何もかも、は本心のところではボガードをそこまで「ダメじゃん!」とは思っていなかった。自分に対してぞんざいな口をきいても、不敬としか思えぬ態度をしても、それでも、だからこそ至上が強調されて「良い」のだとすら思っていた。
後見人、という名称にはなっているが、基本的にの傍に付けるのは「護衛」だ。はが生まれたときにトカゲと話し合い、とは違う処置を取ることに決めた。の身はの馴染みの司教が常に監視している。何かあれば即座にの耳に入るようにしている。しかしの周りには「こちら側」の人間は一人も置かなかった。言うなれば、もしもが何者かに襲われれば殺される可能性が大きかったのだが、それは今はいい。
とトカゲはにはそうはしなかった。あからさま過ぎるほどの「護衛」を傍に置き、調べる者が調べればが「ただの一般人」ではないことがわかるようにと、そうしていた。
ドフラミンゴの予想の通りが囮だった、などというつもりはない。には蜥蜴の娘としての交渉材料がある。だがには何もない。そういう娘がもしも「こちら側」の人間の手に渡ればどうなるのか、その可能性を「嫌だ」と思う人間を、はの「護衛」に選んだ。
何においてもを守りたいと。の命を守りたいと、そう強く思い、そのためならの感情すら考えず行動できる人間こそが、の「護衛」でなければならない。
「気安く「」だなんて呼ぶんじゃァないよ。後見人、義兄だなんて立場になったから勘違いしたかい?きみとの関係はプリンセスとナイトであっても、きみはあの子の髪一本にさえ触れられる立場じゃァないんだよ」
それが嫌なら「後見人」にならなければよかったのだ。
の目にはボガードがを「女」として見ていることが明らかだ。いやらしさという意味ではない。護衛対象・主という認識ではなく「大切な女性」という意味で見、だからこそ守っている。
時折がボガードを「お兄ちゃん」と知らず呼んでいることにはも気付いていた。当人に直接ではなくて、時折の手紙や、泊ったホテルで昔の話、をする時にはそのように言う。その時ののキラキラとした目の様子をはただじぃっと眺めた。
「がここを出て云った。それならぼくは連れ戻す。もちろん彼女の言い分くらいなら聞いてあげるけど、このぼくが顧みないことは君も分かっているね?」
「あなたが容赦のない方であることは、今改めて実感しましたよ」
「そう、ぼくは配慮がない。こういう言い方は好みではないけど、君みたいなのには言わないとわからないだろうから言ってしまうよ」
なぜがここを飛び出したのか、それをは考えるつもりはなかった。話をしたいのならが言うだろう。こちらに言ってもわからぬと思ったから何も言わずに出て云ったのか。それならそれでも構わない。しかし、はそれでもを見つけ出し首に縄を付けてでも連れ戻す気でいた。
ドフラミンゴや松永にこちらの正体がばれたのだ。すぐに組織だけではなく裏社会に情報が回る。彼らが広めずとも、ドフラミンゴや松永と「やりあっている人物がいる」ということであっという間に情報は巡るものだ。
もうやを別々の場所に置いておくことはできない。が「一緒に暮らしたい」と言って出てくるハメになったが、これは結果オーライということか。住む場所の見当を本気では付けていなかったが、これはアーサーにいろいろしてもらわねばならない。今頃日本での身の廻りの整理をしているだろうアーサーにこれ以上仕事を増やすのは酷だとは思うが、自分にできないことをアーサーがするのは当然だ。
「ぼくがくんに優しい言葉をかけるようになって欲しければ、ぼくの容赦なさを君がきちんとふるまってくれなければ困るんだよねぇ」
「人の所為にするんですか?」
この子供は、一体誰と話をしているのかわかっているのだろうか。は目を細めてボガードを見下ろした。
が出て行った。ボガードは現在必死に探している。がボガードに気付かれぬようにこっそり抜け出した、ということだ。あるいは、が少し外に気分転換にでも出ているのだろうとボガードはその外出を黙認し、結局見失ったという結果。はボガードに対して失望していた。何も甘やかして警護するだけが仕事ではない。当人が嫌がろうが嫌おうが何だろうが影のように付き従うのがとトカゲの定めた「のナイト」だ。最初のナイトは忠実だった。少々他人には過保護と写ったかも知れないが仕事を引退してまでの「教育」にあたり、そして常に傍らにいた。それであるのに、この道中聞いた話によればこの男、一時期と距離を取ろうとしたというではないか。
その時どのような結果を向かえ、そして今があるのか、それはの知るところではない。しかし、ナイトの称号を破棄せず今日を迎えた分際で、今更「の心を考えて一人にしておきました」などというのは、なんとも、中途半端に過ぎる。
「ねぇ、きみ。日本にお帰りよ」
はため息を吐き、同情するような眼差しをボガードに向けそのままの向かった居間へ向かうため背を向けた。
+++
目の前にあるのはたっぷりとクリームの乗った紅茶だ。ジャムを紅茶に乗せるのは知っているがクリームを乗せるのは初めて見た、とは眼を丸くする。そして惜しげもなく振舞われる色鮮やかな焼き菓子に目を奪われ、思わず瞬きをした。とたんギュルギュル、となんともかわいらしい音が腹から鳴る。はっとして顔を赤らめると、目の前の、このお茶会の主催者がふわりと花がほころぶような笑顔を向けた。
「どうぞ召し上がってください。あなたの為にご用意させていただいたのですから」
「あ、はい。あの、どうもありがとうございます」
笑うと顔に皺が刻まれるのになぜ歳を感じさせぬのか不思議だ。は勧められるままにティカップを手に取り、紅茶を口に含む。甘いというよりもまろやか。けしてくどくなく、寧ろなぜ今までこうして飲んだことがないのか不思議なほど、クリームの乗った紅茶は美味しかった。
「気に入って頂けたようですね」
無言でごくごくと飲んでしまうを主催者は満足そうに眺め、ギシリ、と椅子を軋ませる。こういうお茶会には相応しからぬ肘掛のついた古めかしい椅子は主催者によく似合っていた。は三段セットの下段に乗っているチーズパイを一切れ給仕に切り分けて貰うと礼を言うべきか、と少し悩む。以前のクリスマスに姉のが送ってきてくれた「淑女の礼儀作法」によれば使用人というか給仕役に一々言葉を投げるのはかえって無礼、と書かれていた。しかし自分に対して何かをしてくれたのにお礼を言わないのは日本で育ったには居心地が悪い。む、と眉を寄せていると、目の前の主催者、アーサー・ヴァスカヴィルがと同じようにケーキを取り分けてもらい、「ありがとう」と言葉を投げている。
「どんなことであれ、感謝の気持ちを忘れないというのは素晴らしいことですね。リトル・ミス」
「そうですよね。うん、ありがとうございます」
ぺこり、とが給仕に笑顔を向けて頭を下げると、黒服の給仕は丁寧に頭を下げ、にはわからぬ言葉で何か言った。言葉のニュアンスと雰囲気から「どういたしまして」という意味だろう。
そのまま給仕は下がり、は再びアーサーに向かい合う。
「助けて頂いてありがとうございました。あたし、自分がどこを歩いているのかもわからなくって、困ってたんだ、あ、じゃなくて、困ってたんです」
「普段通りの喋り方で構いませんよ。私はさんの妹君なら自由に振舞うべきだと思っておりますからね」
「ありがとう、アーサーさん」
にこりと、が笑えばアーサーも同じように笑顔を返してくれる。の周りにはあまりいないタイプだ。は数時間前のことを思い出し、瞳を揺らす。
なぜ農場を飛び出したのか自分でもわからない。そういうつもりもなかった。ただ姉のがどこかへ出かけたようで、帰ってきたら何か事情を話してくれるのだろうとぼんやり思った。そうして外の空気でも吸おうと思って、何ももたずに外に出て、それで、気付いたら町の方へ走っていたのだ。
たどり着いたのは昼間にタクシーを拾ったボルドーの町ではなく、その手前にある小さな村だった。日本で育ったには村、という概念がない。だが実際御伽噺のようにフランスには小さな農村が存在し、がたどり着いたのもその一つだった。小さいが、しかし暗いとことは暗いものをもっている村の路地には突然腕を引かれて引き込まれ、には聞き取れぬスラングで何か言う青年たちに囲まれた。
なぜ飛び出してしまったのか、は自分の軽率さを恥じた。自分に何かあれば、ボガードや姉たちがどれほど悲しむのか、どうしてわかっているのに、こんなところまで一人で着てしまったのか。
助けて、とそう小さな声で叫んでも誰も助けには来てくれなかった。当然だ、自分はたった一人でここに来た。ボガードを誘えばきっときてくれた。もきっときてくれた。姉のだって、きっと来てくれた。しかし自分は誰も誘わず、選ばず、一人でここに来た。
それなのになぜ「助けて」などいえるのか。
叫ぶを青年の一人が煩って、頬を殴ってきた。誰かに殴られたことなどはこれまで一度もない。幼い頃に火を使って父に手を叩かれたくらいだ。だがあの時は手の痛みよりも、叱られたということがショックで泣いた。今はそうではない。ただ呆然と青年たちを見上げる。
自分はどうなってしまうのか、そのことをは考えた。
いや、違う。今どうなってしまうのか、ではなく、その前からは、が帰ってきて何かが変わるのではないかと、どうにかなってしまうのではないかと悟っていた。
だから逃げたのか。
は泥の中に体を押し付けられ、上から青年の一人が押し乗った。全身を恐怖がかけのけ、は必死にボガードと姉たちの名を呼ぶ。それでも誰も来ない。泥塗れになった服に青年が手をかけ、そして次の瞬間、青年たちが壁に叩きつけられた。
『紳士たるもの、女性を横たわらせていいのは真っ白いシーツの上だけですよ』
おれたちは紳士じゃねぇ、などというごもっともな青年らの突っ込みを、突如現れたアーサー・ヴァスカヴィルは当然のように無視した。
「しかし、それにしても驚きました。日本での所用を終えたので明日の朝一番にさんにお会いしようと馳せ参じましたところ、妹君の絹を裂くような悲鳴が聞こえたのですから」
アーサーの物言いは少々大げさだ。はこの暫くで慣れたものの、自分の悲鳴が果たして今言われたような詩的な表現が似合うかと思えば、当然首を振りたくなる。
「なぁ、アーサー。お前さんさっきから当然のようにわしをムシしてくれておるんじゃが…わしだけ紅茶がないのはわざとか…?」
優雅にティカップを傾けるアーサーの隣で、これまで無言でじぃっとテーブルを凝視していたもう一人の紳士が呟いた。
「あ、本当だ。アーサーさん、どうしてジョージ先生だけお茶がないの?」
「ジョージは色のついた液体ならなんでも構わないんですよ。今水に絵の具を混ぜさせていますから余計な手間がかかっているんです」
「素直に紅茶にしてくれ!!!」
フルフルと体を震わせて老紳士が訴える。は先ほど会ったのが始めてだが、この全体的にぽっちゃりとした血色のよさそうな老紳士はアーサー・ヴァスカヴィルのオックスフォード大学時代の友人であるらしい。そしての主治医でもある、とは聞かされた。先ほど暴漢に襲われたの手当てをしてくれたのもこのジョージだ。だからはジョージ先生、と呼ぶことにしている。先生、といえばジョージは嬉しそうに笑う。「そう呼んでくれるのが余りいない」とそれはもう苦労たっぷりの顔だった。
「冗談ですよ。あなたは紅茶よりもチャイがお好きなんですから用意させているだけです。まぁ、もう少し放っておいて泣いたら出そうとは思っていましたが」
「お前さんというヤツは…!!!50年前からちぃっとも変わっとらんな!!」
「人間そうそう変われませんよ。あなたこそズボンを脱がされて逆さ吊りにされたときと泣き顔が変わってませんね」
には只管人の良い礼儀正しい英国紳士であったアーサー・ヴァスカヴィルだが、このジョージ先生を前にするとなぜこれほど生き生きとしているのか。は喜んでいいのかそれともジョージ先生を庇うべきなのか首を傾げ、給仕の人がチャイを運んできたので一時この妙な漫才は中断となった。
「それで、にはちゃんと知らせたのか。君を保護していると」
出されたチャイを注意深くゆっくりとすすっても髭には付いてしまうもの。そういうジョージ先生はなんだか子供っぽくてかわいいなぁ、とはぼんやり思いつつ、出された名前にびくり、と体を強張らせた。
そんなをアーサーはわが子を見守るかのような眼差しで眺め、眼を細める。
「いいえ。まだ何もお知らせしておりませんよ」
「本当?アーサーさん」
自分を安心させるために言ってくれているのか、とは窺ってしまう。アーサーと姉がどのような関係なのかはわからないが、長年の友人、というのは聞いている。アーサーから見れば自分などはその友人の妹、というだけだろう。義理立てするのならのほうに決まっているのに、なぜ庇ってくれるのか。
不思議そうに見上げるが面白かったのか、アーサーはふわり、と眼を細めて微笑み、の頭を優しく撫でる。
「ただの善意ですよ。お嬢様のように愛らしい方がその胸の内に深い悲しみと恐怖を抱えられているご様子は紳士として見過ごせません。もちろん、さんに引き合わせる義理もありますので明日の朝にはお知らせせねばなりませんが」
「…きっと心配してるよね。あたし、何も言わないで出てきちゃったの」
「あの方は自分の目の中で全てが行われていないと気がすまない方ですから、時には焦らせるのもいいと思いますよ。妹君であれば殺される心配もありませんし、これは特権だとお思いなさい」
ふわりとアーサーが微笑み、自らのカップに紅茶を注ぐ。ふんわりとした暖かな湯気がの頬を撫でるように立ち上り、薔薇の香りにはうっとりを表情を緩めた。
「あたし、怖いんです」
そのカップの中に注がれた紅茶がゆっくりと回り段々速度を落としていく、その様子を眺めながらはぽつり、と口を開いた。チャイに焼き菓子は合わぬからとアーサーが笑顔でジョージの手を弾いているところだっただけに、真剣な声も多少は、軽く聞こえただろうか。
「姉君が、ですね?」
「うん、怖いっていうのは違うのかもしれないけど、なんだろ、怖いの。お姉ちゃんが農場に帰ってきたら、もう取り返しの付かないところまで全部、全部変わっちゃうんじゃないかって、うぅん、違う、そうじゃない、あたしが本当に怖いのは、お姉ちゃんが何もかも変えちゃうことじゃ、ないの」
言いながらはカップを両手で包み込んだ。
違う、違う、と心の中でぐるぐると周る思考に訴える。怖い、ことは怖い。確かに自分は、が帰ってきて、何かしらの「結果」を持ってくることを恐れている。そうなればもう姉二人と同じ部屋で寝てずっとお喋りをしたい、と思うことすらできなくなるのではないかと、そういう予感が、確かに自分は恐ろしい。
でも、そうではないのだ。違う、違う、もっともっと、身勝手な「恐怖」があるのだ。
「あたしだけ何も、教えてもらえないんじゃないかって、思ったんだ」
ぽつり、と小さな、本当に小さな声では呟く。自分は何を言ってしまっているのか。恥ずかしい、と思う心が強くなる、耳まで真っ赤になって、今言った言葉を消してしまいたくなって、ぎゅっと、は目を伏せる。
(子供みたい、アタシ。うぅん、そ、アタシは子供。お姉ちゃんやちゃんから見たらまだまだ子供で、だから、お姉ちゃんたちは心配させないようにって、アタシを気遣って、何も言わないのかもしれないのに、アタシ、それが嫌だって、まるで自分が)
「いらない子のように思えましたか?」
すっと、アーサーの声が耳を塞ぎたくなったの耳に鋭く響く。声こそは先ほどと同じようにどこまでも柔らかいのに、はぎくり、と体を震わせた。
アーサーは真っ白い眉毛に隠れがちになった彫りの深い目をに向け、ニコニコとしている。
(昔、酷いことがあったの。アタシは何も変わってないのに、何もかもが変わってしまって、それなのに!誰もアタシに何も教えてくれなくて…!!!)
は、どう言葉にすればいいのかわからず、ただアーサーの真っ直ぐとした目を見つめ、ぼろぼろと涙を零した。農場で起きたこと、暴漢に襲われたこと、そんなことが怖いのではない。それよりもずっと前に、突きつけられたあの、風鈴の音のなる夏のことを、は思い出させられた。そして、あの時に感じた恐怖以上のものが、これから襲ってくるのではないかと、また自分は、自分の周りの何もかもが本当は全て変わってしまっているのに、自分の表面上だけは何も変わらぬ、奇妙な状態を突きつけられるのではないかと、それが恐ろしかったのだ。
わっ、と泣き出したに近づき、アーサーがそっと肩を抱く。
「さんがあなたを必要とされているのか、それは私にはわかりません」
は顔を上げ、涙で濡れた顔をアーサーに向けた。アーサー・ヴァスカヴィルはその泣き顔を痛ましいものでも見るかのように辛そうに顔を顰める。まるでの悲しみがわかるかのようなその表情にはまた涙が溢れてきた。
自分は姉に必要としてもらいたいのか、そうかもしれない。でも、違うかもしれない。にはもうよくわからなかった。だが、必要としてもらいたい、と思った瞬間、けしてが自分を必要としてくれない事実も自覚させられるような気がする。
そしてこれから、何が起きるのか。なぜ姉は何も教えてくれないのか。は叫びだしたかった。声がかれるまで「なぜ!」とに向かって叫びたかった。
にとってとは「変化」の象徴になりつつある。あの夏の日、そしてドイツの寺院での面会、農場で知った母の死。にとって重大なことは全てが関係している。それであるのに、はその何もかもを直接の口から聞かされた事がなかった。
がと話をしているのを、は農場の二階から眺めていた。はには感情をむき出しにして話していた。言葉は聞こえてこなかったが、の顔はの知るふわふわとした「」の顔から、どこか母に似た意思の強い、これまでとは違う「」の顔になっていた。そしてはその変化を受け入れたように見えた。
なのにどうして自分は?
ぐるぐるとの中で嫌な感情が周ってくる。これがどういう意味のあるものなのか、にはわからない。わかってしまうのがよくない気がする。しかし必死に必死に蓋をしたところで、いつか我慢しきれずに溢れてしまうような、そんな危うさがあった。
「さん」
思考に沈むの手を、ゆっくりとアーサーが取った。はっとして意識を戻し、はアーサーが席を立って自分に近づいてきたことに気付く。アーサーの目はとても優しい。だが何か深い悲しみを堪えているようにには思えた。
その途端、は自分のことばかり考えていた自分を忘れる。その途端に、はなぜアーサーさんのような人がこんなふうな顔をするのか、そのことが気になった。そして、そんなに悲しむことがあるのなら自分が何かしてあげられないかと、そんな気になった。それほどにアーサーの顔に浮かんだ悲しみが深かったからだ。
「それでも、あの方の傍にいてさし上げてください。さん」
ゆっくりと、丁寧にアーサーが腰を折る。はアーサーが礼儀正しい紳士だとは思っていたが、しかし、人に命令することに慣れた貴族であるという印象も同時に受けていた。言い回しこそは穏やかだが、けして人に頭を下げぬ人だと、そう思っていた。そういう印象のアーサー・ヴァスカヴィルが、今日本のただの学生であるに頭を下げている。
「ア、アーサーさん…!!?」
「あなたのような方があの方の傍にいて、当たり前のことを当たり前だと教えてくださること、それこそが、あなたにしか出来ぬことなのです」
そういって、アーサー・ヴァスカヴィルはの手の甲に軽く唇を押し当てた。
+++
「やはりフランスの伝統料理といえばガレットじゃよなぁ。なぜお前さんとこの料理人はイギリス人のくせにフランス料理が美味いんじゃ」
「それは偏見というものですよ、ジョージ。ところでそれ以上食べると今以上に豚になりますが、私はまだ豚小屋はあつらえていないので馬小屋で構いませんか?」
なぜこの男は地獄に落ちないのだろうかとジョージは常々思う。本当、とセットになって法廷に現れた時は悪魔よりもタチが悪かった。例の裁判の参加者は未だに悪夢に魘されるらしいのだから、本当に、ジョージはこの友人が人の皮を被っているのではないかと疑問に思うのだ。
夜食にと出されたのはブルターニュ伝統料理の一つだった。クレープ生地に目玉焼きやチーズなど好みのものを乗せて食べるもので、ジョージはフランスに着たら必ず食べるようにしている。というよりも食事の楽しみでも見つけなければフランスに足を踏み入れるなどしたくはない。
今回はが倒れた、というアーサーの急な知らせでイギリスから文字通り飛んできたというのに、アーサーは一向にの居場所を教えてくれぬ。大事のアーサーのことであるから、それなら大事にはいたらぬのだろうとアーサーは判断して寛いでいるが、それにしてもならなぜ自分を呼んだのかと怒鳴りたくなる。
ジョージはの妹、というが眠っている寝室に繋がる扉をちらり、と眺めて、ワイン片手に何か手紙を書いているアーサーに顔を向ける。
「わしにも話せないか?」
「何をです?」
「お前さんが話そうとしてないことじゃ」
「心当たりがありすぎますね」
アーサー、とジョージはやや口調を強めた。ジョージとて「トカゲ」の存在は知っている。そもそもを取り上げたのはジョージだ。その後の出産にも立ち会っている。の際は台風で飛行機が成田まで行けず間に合わなかったが、ジョージにとっても今回、アーサーやの間で起きている事件には無関係ではないはずだった。がそれとなくドイツ、あるいは移動先のホテルからこの数日ジョージ宛に連絡をくれている。だがが頼むのは新型のセンサーやら盗聴器やらと言った「なんで携帯も知らないお前さんがそんなハイテク機器を使いこなせるんだ」というようなシロモノの所望である。事情はさっぱりわからない。だがあの破天荒奇天烈はっきり行って常識というものをマッタンホールに捨ててきただろうトカゲが死んだことでが動かなければならない状況になっているのは判っていた。
てっきりジョージはアーサーに呼び出されて死体の1つ2つの解剖でもさせられると思っていたが、今のところ嫌味を言うだけで何も強制されない。
長い付き合いだ。ジョージは直感的に、アーサーが何か「企んで」いるのではないかと、そう疑った。
にとって悪意のあることではないだろう。それは確実だ。だが、アーサー・ヴァスカヴィル卿が「恩人」と慕うにまで秘めている「企みごと」とは何だ。
ジョージは隣で眠るを思い出す。先ほどのお茶会の折、ジョージはあえて口を挟まなかったが、しかし、もしこの場にがいたらアーサーの先ほどのへの言動をどう評価しただろうか。
長年の付き合いであるが、ジョージ・ペンウッド卿はアーサー・ヴァスカヴィル卿ほど「慈善」からかけ離れた男はおらぬと思っている。あの男が微笑んでチャリティに参加したら確実に同日どこかでマフィアが潰されている、とそういうものが常識となるような男だ。いくらの妹とはいえ、先ほどあそこまでアーサーが丁寧な対応をした、その真意は何だ。
「あの子を利用するのか?」
「紳士はレディを利用したりはしないものですよ」
よくアーサーが使う言葉である。だがそういう度に、ジョージは切り替えして使いたい言葉があった。だが今ここでそれを言うのは意地が悪すぎるか。その言葉に納得した、あるいは押し込められたようにジョージは唸り、椅子に背を凭れさせた。
(お前さんが昔、の母親を利用していたことくらい、もうとっくにわしもも知っとるわい)
Fin
(2010/06/14 19:37 )
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