尾けられている。そのことにが気付いたのは満月の明りの下路地裏に入り数歩、足音の規則正しさを把握するために自身はパイプ管にぶら下がって数メートル進んだ頃のことだった。何か気配が後を追っている、ということは農場を出て暫く悟っていた。だがそれが「尾行」なのかそれとも「監視」なのか、あるいは敵意あってのものなのかとその判断がはっきりと出来たのはこの瞬間だ。
相手は五人。殺意や敵意はないが、しかし何かにとって不利になることでもない限り無音でただ尾行する理由などあろうか。誰かが己の行動を監視している、というのは日常茶飯事。あの懐かしきドイツ寺院の内部でさえ常には監視されていた。院長となってからは尚更のこと。今更「一体なぜ自分が監視されているのだ」などと、考えるだけ時間の無駄だ。
を探す、いや、正確には迎えに行くためには一人フランスの夜道を歩いていた。あの子がどこへどう逃げようとそれは構わないが、しかし、この己が二人の妹を守る、と決意して、みすみす取り逃がすことなどあろうものか。はボガードを一蹴にした後、素早くアーサー・ヴァスカヴィルにの保護を頼んだ。フランスの教会やスラム街に名が届かぬわけではないが、のこと、聖職者をあてがえば己の関係者であると警戒するだろうし、貧困街のマフィアをけしかけるわけにもいかぬ。それにアーサーはボガードと同じ弁護士であり、にとっては己と「出会う前」に顔を知った人物。女性の警戒心をとくことなどやろうと思えばどこまでもそのように振舞えるアーサーに任せればの身は一時的には安心だ。
は己を拒むだろうか。そのことをほんの少し、考える。いや、別段拒まれようとなんだろうと、それは構わない。日本で暮らしたい、と言い出したのは彼女で、一緒に行こうとそう己を誘ったのも彼女だ。それであるのに「変化」を恐れて、その決定的な「変化」を拒み、今無謀にも夜の異国を飛び出した、トカゲの三番目の娘。哀れに思う心も煩わしいと思う心も、生憎にはない。あの子が何を恐れているのか、わからぬわけでもなかった。は以前ボガードの実父よりその時の様子の報告を受けた。食事することも拒み、笑うこともなくなって、どんどん顔色ばかり悪くなったあの子。夏の日のこと。珍しくあの男がこの己に「あんな思いを、もう二度とさせないで下さい」とそう言って来た。生意気な、と思う反面、それでこその養父に相応しいと感心したものだ。そう言いながらあの男は、またそういうことが起きると、そのことをちゃんとわかっていた。わかって、それでも「お願いします」と言ってきた、あの男は本当に、の後見人の地位に相応しかった。
(それなのに、その跡継ぎはとんだ未熟者だよねぇ)
ふぅ、と、思い出してため息を吐く。なぜあの完璧な男からあんな半端者が生まれるのか。いや、それを言えば外道極まりないトカゲの胎からやのような心優しい生き物が生まれることのほうがおかしいかもしれない。
まだ若いと言えば若いが、そんなくだらぬことを言い訳にするようなら、それこそ話にならない。
ボガードは一応日本行きの航空券を手配させ明日朝一番の飛行機で戻らせる。反論し、「お嬢さんの無事が確認できるまでは」と妙なことを言ってきたが、もうその時、はあの男をの、末の妹の後見人とは思っておらぬ。
『お嬢さん、だなんて呼ぶんじゃァないよ?もう他人なのだから、、と呼んでおやりよ』
そういった己に、てっきり何か嫌味や皮肉でも返してなんとか応戦するかと思いきや、強がりすら出なかった。物足りなさを覚える反面、ほんの少し、期待もした。
この己に足蹴にされることを屈辱と思う、その心があるのなら、己以上の実力と覚悟を持って、この己を退けるほど完璧なのナイトになればいい。その可能性を僅かに見つけたのは己だけで、はたしてボガード当人は見出せるのか。そこまで親切をするつもりはない。
それにしても、と、はひょいっと逆上がりの要領でパイプの上をくるりと回り、己をつけてきた黒服連中を頭上からのんびり眺める。
仕立てのよい黒のスーツ。それぞれこじゃれたことに色違いのハンカチをさしている五人はその動きからして只者、というわけではない。筋肉の動き、呼吸のしかた、視線の移らせ方のどれをとっても十分に訓練されていることがわかろうもの。
「でもさ、ぼくとデートしたいのなら、徒歩じゃなくて白馬でおいでよ」
こちらの所在をはっきりと告げるための声を出し、言葉が終わる前にはパイプをぶら下がって、そのまま勢いよく落下した。落下地点にいた黒服の一人を踏み倒し、そのまま掴みかかろうとしてくる二人目を、一人目の肩に体重をかけて回し蹴りすることでなぎ払う。足場が安定してないためそれほどの威力があるわけではないが、相手の顎くらいは砕けたよう。足先で感触を確認し、どさり、と二人の体が落下するまえに身体を捻って再び高く上がる。サイレンサー付きの銃がタン、と軽い音を立てた。
「っ、おい、発砲は許可されていないはずだ…!!」
「間接を狙う!相手はホルンベルグの魔女だ…!手を抜いて敵うと思うのか!?」
残った三人のうち隣り合った二人が口々に言い合う。
「そうそう、手抜きでこのぼくとダンスは難しい。普段であればぼくのほうは随分な手抜きをしてあげられるんだけど、生憎先を急いでいてね?」
「っ!!それならお前は右を、おれは左から回りこむ!」
の軽口など耳に入らぬ様子、素早く慣れた動きで連携始める二人。いい動きである。繰り出された蹴りをぱしん、と手で払い、沈み込んだこちらの左足を狙った銃弾は、読みどおりだ。カンッ、と靴の踵で弾を受け、相手が「何仕込んでるんだ…!!」などと最もな突っ込みを言う口を狙い、舌を掴む。
「さっきさんざんおしゃべりな鳥の相手をしてきたんだ。沈黙を美徳としてくれないと退屈してしまうよ」
「!おい、仲間を放せ!」
「きみがその物騒なものをぼくから離してくれてもぼくはこの男の舌を切るよ」
銃口をこちらに向けて脅してくる男に冷静に言い放つ。
訓練はされているが、一流、というわけではない。いや、もともと戦闘の能力を誇っているものたちではないのだろう。どちらかといえば、諜報員。
おや?と、は一瞬何か、嫌な予感がした。
「っ!!!」
本気で殺し合いをしている最中の己の勘はよく当たる。はその予感がなんだとはっきり確信する前に男の舌を話、真後ろに大きく跳んだ。
カン、カカカ、と一瞬前まで己のいた場所に何かが刺さる。月明かりに照らされ、判別できるのは、何か、杭か?という程度だ。
「……おや、まぁ。噛ませ犬に後輩を差し向けるなんて、悪い子だ」
「貴方が我々を攻撃する姿勢を見せなければ手荒なまねをするつもりなど」
先ほどの五人と同じ黒スーツ、だがこちらはシックなデザインで、ハンカチの色は真っ白い。大きなシルクハットを被り、その肩には夜だというに鳩を連れている。
予想していたわけではないが、恐らくそろそろ接触してくるだろう、とは思っていた人物には眼を細める。
「逢引の相手として俺は不足でしょうか?」
某国が誇る優秀な諜報員ロブ・ルッチが後ろ手にして立っていた。
(何、これ笑うとこ?)
トカゲお母さん 11
「ボガードさん、あの、これ」
壁に背を付けうな垂れたまま動かぬボガードに、どうしてよいのかわからず困惑すること暫く。己などが声をかけていいものかと、そう迷い、迷って、しかしどうしようもないというわけでもないのだと、そう思おうとは自身に言い聞かせ、濡れたタオルをそっと差し出した。
「あの、これ、その、顔、蹴られてましたから」
容赦というものを母トカゲの胎内においてきた、とのたまった、の目にはそれでも姉には優しさがあるように思えるが、しかし、目の前のボガードはしたたかに痛めつけられたあとだった。切れた唇を拭うのに使うだろうと差し出したタオルを、しかしボガードは受け取らぬ。普段であればや、それににとても礼儀正しく接するのがこの、妹の義兄の姿と思っていただけには困惑し、きょろきょろと意味もなく周囲を見渡す。あれだけボガードを蹴り、壁に叩きつけていたというのに、のその攻撃は家にはなんの影響も与えていない。が幼い頃に描いた絵やが贈ってくれた絵葉書は壁にかかったままであるし、花瓶の水はこぼれても揺れてもいない。
やはり、姉に優しさがないわけではない、とは確信し、ぐっと胸の前で拳を握る。
姉は「を迎えに行く」とそう短く告げた。探しに行く、のではなく迎えに、というその言葉には、あぁ、それならもうちゃんは大丈夫と、そう妙な安堵感を得た。出来れば己も付き添いたかったが、のその背はそれを許さなかった。を迎えに行くだけではないのだと、そうは悟る。
(ちゃんは、一人で「何か」をしようとしている。わたしは、まだそれに入れるものを持っていない)
一人で戦わせないと、そうは思うが、しかし実際のところは自分がまだ姉にとっては「足手まとい」にしかならぬことをわかっている。
しかし、それでも何か力になりたいと、必死に思う心はあるのだ。
「ボガードさん、顔、冷やしましょう。ずっとそのままじゃ、ちゃんが帰ってきたときに心配しますよ」
「……すいません、さん。少し、一人にしてもらえませんか」
「そうしてさしあげるのが一番だって、わかります。でも、ごめんなさい、できないです」
いつも自信たっぷりで頼もしいボガードのその姿。が見たら胸を痛めるだろう、ボガードの痛みを自分のことのように感じて涙を流すに違いない。はぎゅっと、苦しげに眉間に皺を寄せた。このままでいいはずがない。ボガードや、そしてなによりのためを思えば、このままで放っておけるわけがないではないか。
姉とてそれはわかっているはず。は、できれば姉はボガードにも優しさを向けてくれると思いたいが、しかし、現時点で言えば、恐らく姉は「妹」と言うものにしか情を抱いてはいない。しかし、その分その「妹」を大事に思うその心が強いようには思う。その「妹」のが悲しむに違いないボガードの今の悲痛な様子を、放って外に出て行った。
(ちゃんは、わたしにこの場を任せた)
姉は、「自分には優しさは必要ない」とそういう。どうして、本当は持っているのに、とは思うが、しかし、今の、まだ顔を合わせて1日も経っていない自分が何か言って姉を説得できるとは思っていない。頑なに、「優しさなど不要」という姿勢を見せる彼女は何も頑固ゆえではないのだろう。そうなるべくしてなった、あるいは、そうせざる得ない場所にいると、そういうことなのではないか。それなら、松永が言うところの「そちら側」である自分が、姉のこれまでの人生を否定するようなことを言っていいはずがない。
ならば出来るのは、姉に出来ぬことを、姉がせぬこと、選ばぬことを、姉とは「違う」己がすることではないのか。
言葉で言えば、おそらく姉は、は逃げる。農場のブランコの前でそうしたように、全身の毛を逆立てて、今にも泣き出しそうな顔をする。優しい言葉は、彼女を傷つけるだけなのだとは知った。
それなら、己は言葉を語らず、一切、行動で姉に訴えようと、そうは決意した。
「立てますか?ボガードさん、お願いです。立って、怪我の具合を見て、それで大丈夫そうなら、ちゃんとちゃんが帰ってきたときのために、一緒にスープを作りましょう。メメとペペ、わたしとボガードさんの四人で笑って迎えたら、ちゃんは出て行ったことをきっと「悪いことをした」と思ってないちゃうかもしれないけど、でも、笑って、迎えてあげましょうよ」
がこの場に戻ってきて、ボガードが落ち込んでいればは悲しむ。はが悲しむのをよしとはせぬだろうが、悲しませぬ方法を知らない。それであるから、が、には出来ぬことをして、今この、皆の「明るい未来」を作ろうと、そう思うのだ。
ね、と、ボガードの身体を軽く叩く。どこがどう痛んでいるのかはにはわからない。だからこそ慎重になる。ボガードはの穏やかな、だがどこか必死な声を無視などせぬはずだ。はボガードの優しさを信じた。いつも、自分にできるのは信じることだけ、と、そういつだったかはトカゲに、母に言った覚えがある。
あれは何年前だっただろうか。酷い雨の日だった。豪雨が降り注ぎ、外に出て傘を差さなければ肌が痛いほどだった。
そんな雨の、真夜中に母がふらりとやってきた。真っ赤な髪は雨に濡れ濃さを増し、突然の母の訪問を喜びながらもその異様な様子に慌て、は急いで湯を沸かした。初めて母とお風呂に入ったのもその日だったのではないか。赤ん坊の頃には入っていたとが手紙に書いてきたことがあるが、記憶がはっきりしてからは初めてのこと。
母は濡れて冷え切った身体でを抱きしめ、小さく、まるで泣き出しそうな声で呟いた。
『いつか、おれはお前を裏切ることがあるかもしれない』
はまだ小さかった。まだ「裏切る」というのがどういうことなのか、その小さな世界では見当もつかなかった。だが母が、あまりにも、普段、あの勝気で自信が人の形になったような母が、あまりにも、弱々しい言葉を吐くもので、は、何を言えば母が安心するのか、その、青の目から流れる涙を止めてくれるのか、必死に考えた。
自分がお母さんを苦しめているのか。自分が、何か悲しませることをしているのか。
必死に、必死に考えた。あれこれと、先日した失敗、間違って葡萄畑にみかん畑の肥料を撒いてしまったことや、小学校のテストで名前のスペルを間違えてしまったこと、自分が「悪い」と思うことをあれこれ、あれこれ、母に懺悔し、「ごめんなさい」と繰り返した。
だが己が何を言っても、母の震えは止まらない。いつもであれば、が自分の話をすれば目を細めて、大声で笑わずとも小さく口の端を吊り上げてくれた母が、ただ震えている。まるで世界の終わりでも来たような、教会で神父さまのお説教の中にあった「終末」が来たような、そんな怯え方だった。
懺悔することをなくし、はただ、それから、ただ、ずっと、シャワーが母の背に当たり、その背の大きな刺青を湯がおおうのを眺めながら、ただ、母の頭を撫でた。
『信じてるの、は、おかあさんを信じてるんです』
ただ、そう言った。裏切るとか、そういうことはよく、わからない。だが、は母を信じていた。母がどういう人間なのか、実の娘であるというのに殆どしらない。同じ年頃の子供には母親がいて当たり前のように毎日いるのに、母はそうはしなかった。それでも、はトカゲを信じていた。何かしたとしても、それは母が考えあってのこと。たとえ母が「悪人」であたとしても、それでもは、母を信じると、そう決めた。
たとえを苦しめるような未来を齎したとしても、母の中にある優しさが、その青の目の中にある、深い思いやりの心が、には信じられ、それさえあるのなら、何も悲しいことはないのだと、そう思った。
(今も、そう。わたしは信じています)
人には優しさがある。だから、その優しさが人を気遣い、そして辛いだけではないようにするのだ。
はボガードの言葉を待った。ボガードは優しい。優しいから、己の言葉に必ず反応してくれる。自分のことだけを考えない、思いやりの心があるから、必ず立ち上がってくれる。じっと待ち、数秒、ボガードの中折れ帽のつばが僅かに揺れた。
「……ここでおれが弱音を吐いたり、これまでの葛藤をあなたに告白するよりも、あなたはただ立て、とそう言うんですね」
顔をあげ、いつもの自信たっぷりな表情、ではないけれど、それでも聊か調子を取り戻し、いや、取り戻そうとしているボガードが、溜め息交じりに呟いた。
「わたしに弱音を吐きたいならそうしているでしょうし、葛藤を聞いても、わたしは答えを出せませんから。だから、一緒にスープを作りましょう。その間にならどれだけ内面で悩んでもいいです」
「なんでスープなんです?」
「お腹がすいてると人て機嫌が悪くなるじゃないですか。ちゃんに聞いたんですけど、ちゃんは飛行機でもあまり食べなかったし、ここに車で車酔いで気分が悪かったって。きっとお腹がすいてて気が立ってたんですよ、ちゃん。だから酷いことしたんです」
お腹一杯になったら、きっと大丈夫です、とそう笑顔で言えば、ボガードが沈黙した。何やら、が妙なことを言ったように、しかし「何ですかね、この説得力は。お母様譲りですか?」などと呟き、一度手で顔を隠す。
「満腹程度であの魔女がおれの言い分を聞くとは思えませんが、スープ作りは手伝いますよ。お嬢さんの好みなら、おれほど承知の者はいませんからね」
一度けほりと小さく咽せてから、ボガードはすくっと立ち上がった。立ち上がった途端、顔を顰める。思ったよりもダメージがないと、そう驚いている顔を見てはくすくすと笑った。
「ちゃんは優しいんですよ?」
そう言ってボガードの手を取れば、物凄く反論したそうな顔をされた。
Fin
(2010/07/27 18:06)
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