「ねぇぼくはねわりと礼儀正しくしていようってそう思ってここに来ているんだ」
どちらかといえば一句一句を区切ってしっかり発音することの多い尼僧がノンブレスに言い切り、にこりと品の良い笑顔まで向けてきたものだからジョージ・ペンウッドはまるまるとして血色の好い顔から見事に血の気が引いた。
てっきり真夜中に来ると思いきや、太陽が昇りきって丁度良い時間。朝食の支度をメイドたちが終えて主人の部屋をノックする、という頃合いになってやっと登場したドイツに巣食う悪の枢機卿殿。その真っ赤な髪を純白のコイフに押し込めて染み一つない尼僧服をしっかりと纏っているものの神聖さのかけらも感じさせないのはさすがと言える。天使の顔をした悪魔は向かい合って蒼白になりガチガチと奥歯を鳴らす知己を気の毒そうに眺めるとわざとらしく小首を傾げて見せた。
「ねぇ、前置きはしたよね?ぼくが粗相をしでかす前にできるだけ早くいろんなことを始末してしまうべきじゃないのかな」
あぁ、怒ってる。
確実に、いや、これはもう、かつてないほどにが怒っている。
この魔女を幼いころから知り、そして散々迷惑をかけられてきたジョージは間髪入れずに悟った。いや、もちろん怒りが自分に向けられているのは見当違いも甚だしい。そしてもそんなことは承知だ。これは八つ当たりで、彼女の優しさでもある。ジョージが命乞いをする時間をくれたというだけだが。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!!わしは無関係じゃ!!アーサーのやつが何をしでかしとるのか知らないが…!!わしは関係ない!」
「ねぇ、ふふふ、そのセリフは三流の悪役のようだよ?」
これまでの発言で3度とも「ねぇ」と切り出された。気安げに話しかけられているのは親しい間柄ゆえではない。この「ねぇ」には「くだらないこと言わせるんじゃないよ」という意味が込められている。穏やかに微笑む瑠璃の目の恐ろしさ。ジョージはなぜ客の自分がドアを開けてしまったのかと激しく後悔した。
先ほどもあったようにジョージは真夜中の内にが到着して、三女との姉妹喧嘩が勃発するのではないかと思っていた。アーサーは「いずれ連絡しなければならないが今のところはしない」と気遣う様なことを言っていたが、あのが妹の行方を一晩も見失うわけがない。それで自分はいつでもすっきりした頭での応対ができるようにと寝ずに待っていたのに、結局明け方まで空振りで、うとうとと寝てしまったのがまずかった。ベッドではなくゆったりとくつろげる肘掛け椅子でうたた寝したジョージがはっとして目覚めるともう夜が明けている。屋敷は動き始めていて、それで結局は来なかったのか。それとも自分が知らないだけか。わけはわからなかったがとにかくジョージは妙な体制で寝たために固くなった体を動かしてしまいたくて、外へ朝食前の散歩へ出ようと思った。
そこでドアを開けた途端、冒頭のに出くわしてしまったというわけだ。
「無関係だなんて酷いですね。ジョージ、私と貴方の仲ではありませんか」
さてどうすれば自分は生き延びることができるか。医者のジョージ、弾丸やナイフが当たっても簡単には死なないだろう場所を頭の中で必死に思い浮かべていると、その背後からひょっこり、身支度をすっかり整えた英国紳士が現れる。
「ア、アーサー!!!どの面下げて言うとるんじゃぁああああ!!!」
あぁ、なんで今このタイミングでお前が出てくるんだ。巻き込まれてわしまで殺されるじゃないかと怒鳴ったところで無駄なこと。しかし抵抗する気持ちは捨てずジョージはアーサーの襟首をひっつかんで屋敷内に逃げようとし、そのついでに扉をばしんと叩きつけるように閉めようとしたのだが、その扉はぐいっと、が足を挟ませたため閉まることはない。
「Guter Morgen.
Arthur」
扉のわずか、靴ひとつ分あいた隙間からが青い瞳をのぞかせて母国語で穏やかに朝の挨拶を掛ける。
なんのホラーだこれは。
太陽の光が満ちたすがすがしい場所であるというのに、ジョージが感じるのはひたすら恐怖だけだった。
しかしアーサー・ヴァスカヴィルは友の折角の救いの手もぱしんと軽く払いのけて、一度乱れかけた首元を整えると、扉の向こうのに向かい丁寧に頭を下げる。
「おはようございます、さん。予想より早くいらっしゃいましたね。あなたにお会いできるのならば私にとっては至福の時、予定より早くとも疎ましいなどとは思いませんが、生憎とまだあなたを歓迎する準備が万全ではないことが心苦しい」
ん?とジョージはその言葉に首を捻った。の到着はジョージの予想では遅すぎるものだ。先ほども思ったが、が妹の失踪を半日も放置するわけがない。だというのにアーサーは「もっと遅れる」とそう予測していたのか?
わけのわからぬジョージを置き去りに、理由のわかっているは相変わらず扉の向こうに立ったままにこりとほほ笑んだ。
という生き物は礼儀作法をできるだけ重んじる。特に「相手が礼儀正しい人間で、こちらがそう接するべきと判断した相手に無礼な振る舞いはしない」というポリシーがあるらしかった。だから「相手が招かない」限り屋敷の中には入ろうとしないのだ。
「ふふ、ここへ来るまでになかなか趣向を凝らした出し物が何度かあったね。ぼく一人であったならあと二時間は遅れただろうよ」
おい、何したんだアーサー。
というかなんでここまでが怒っているんだ。
一応とアーサーの関係は良好なはずだ。自分だってに対してちょっとばかり苦手意識はあるが、それでもを敬愛している。アーサーは昔からを影からサポートし守ることを使命としてきたはず。それに誇りを持っていると、そう聞いたことすらある。そして何よりアーサーはに対して負い目があるはずだ。だから、の不利益になることはせぬはず。
それをお互いわかっているだろうから、は一見アーサーの妙なふるまいも信用の名のもと受け入れてきたはずではないのか。
その均衡が何か崩れかけている。そうジョージは感じた。
「失礼ながら、アーサー・ヴァスカヴィル卿、いつまで彼女をこの場に立たせていらっしゃるんで?」
「おや、君は」
扉の向こうから以外の声がする。アーサーは声の主に覚えがあるようで軽く眉を跳ねさせた後、納得したように頷いた。
「なるほど、ロブ・ルッチ。君がさんの手助けをされていたのですか。それなら私が用意したすべては子供騙しにすぎなかったでしょうね」
「ルッチくんはぼくがきみの「障害物」にぶち当たる前にぼくに接触してきてね。あれこれ教えてくれたよ」
「その男の言葉を信用なさるのですか?さん」
を招きいれようと屋主自らがドアノブに手をかけ、一瞬アーサーは動きを止めた。ロブ・ルッチトアーサーの関係は良好、とは言えない。某国の有能な諜報員であるロブ・ルッチは常にアーサー卿を失脚させる要素を求めているはずだ。さらにロブ・ルッチの直接の上司ではなくそのさらに上の人間はアーサー卿を嫌悪していると言っても良い。アーサーが大事にするを利用してヴァスカヴィル卿を失脚させようとするなど、当然考えられる手であった。
そうアーサーも即座に疑ったのだろうか?それともロブ・ルッチが「あれこれ教えた」ということに、なんぞ心当たりでもあるのか。それはやはりジョージにはわからない。しかし彼が見たのは長年付き合いのある抜け目ない老紳士が、ほんの僅かに肩を揺らしたと、それは確実だ。
「その男は諜報員ですよ。虚偽を含ませた甘言を、あなたにとって一番「信じたい」ことを吹き込むことなど造作もありません。あなた様ともあろうお方が、そのような身の者の言葉に耳を傾けるなど」
扉が静かに開かれた。アーサーはの手を取り屋敷の中へエスコートすると、それまでを護衛してきただろうロブ・ルッチに形式上の礼を告げてから再び向かいやって「忠告」を口にする。
アーサーのエスコートを受けながらは彼が奇妙なことを言っているという顔をしてその赤い唇を開く。
「ルッチくんはね、ぼくにとって味方ではないけれど、ぼくに嘘をつくことは絶対にないんだ。アーサー、きみがぼくの敵ではないけれど、ぼくに本当のことを言わないようにね」
「さようでございますか」
「だから、トカゲの娘の情報をバラまいているのは君だって事実を、ぼくは疑えないんだ」
+++
随分と長い間はその場にいた。朝目が覚めて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。日本にいるわけではないことは頭ではわかっていて、けれどフランスに来るまで泊まったホテルとも違う。豪奢なお屋敷。天涯付きのベッドの中で目が覚めて、気付けば自分は白いレースのネグリジェなんて着て。どこだったっけ、と思いだそうとして昨日あった出来事が頭の中にぐるぐると蘇ってきた。
(お姉ちゃんに初めて会って)
(ちゃんの家に行くことになって)
(お母さんが死んじゃったって、そう聞いて)
(それで、それで、あたし)
そうだ、ここはアーサーおじさんの家だ。
思いだしては顔を上げる。
(へんなの、あたし、お母さんが死んじゃったって聞いたのに、それ、今思い出したのに、なんで泣かないんだろ)
そうしてベッドを置き上がると、丁度いいタイミングで部屋の扉が開き、白いメイドさんが入ってきた。
「おはようございます、お嬢さま」
「へ?あ、え…?」
「旦那様が朝食はこちらで採られるようにと。マフィンとスコーンがございますがどちらがよろしいでしょうか。今朝のジャムは日本のアマオウという苺を使用しております」
顔を伏せと目を合わせぬままメイドが問う。歳は、とそう変わらないのかもしれない。やや茶色のかかった髪にメイドキャップを被り丁寧に頭を下げる少女。さてどう答えればいいのだろうかとは困惑した。
(ど、どうしよう。こういう時、なんて言えばいいのかな?)
から貰った「淑女の礼儀作法」にはメイドさんに対しての扱い方なんてものは乗っていなかった。あれこれ必死に考えたが良い案は浮かばない。困りきって時はにこり、と笑顔を浮かべるとベッドから飛び降りた。
「えっと、どうもありがとう!あたしはっていうんだけど、あなたは?」
「お嬢さま、使用人に気安く話しかけてはいけません。旦那様に叱られます」
床は裸足でも寒くないように毛の長い絨毯が敷かれている。柔らかい感触を足の裏や足首に感じつつがメイドに近づいて問うと、メイドは恐縮して身を強張らせた。
「え、でも、あたし、そうしたらなんて呼べばいいのかわからないし…それに、あたしと同じくらいの歳の子なら遠慮なんてしないで友達になれるかなぁって、変?迷惑?」
メイドの顔はとても可愛く整っていた。こんな子がいるなんてアーサーおじさんのお屋敷ってすごい!と妙なところでは感心し、運ばれてきた朝食に眼をやる。
「あたし一人じゃ食べきれないし…よかったら、一緒に食べて欲しいなって思うんだけど。ダメ?」
本当に困らせてしまってるのならそろそろ引き下がった方がいいだろうか。けれどはどうしても一人で食事はしたくなかったし、この「お嬢さま」という扱いを何とかしたかった。お姫様のように扱われる、なんて少し前はおとぎ話のヒロインのように思えていただろう。けれど今のはそういう「非日常」がとても恐ろしい。
なんとかしてなんとか、なんとかして、この、この、妙な「世界」から少しでも自分の「理解」できる世界に戻したい。このメイドの名前を知って「同じくらいの歳の子と、楽しく可愛いご飯を食べた」という、そういう時間にしたい。他愛もないことを話して、は自分の世界を取り戻したかったのだ。
ダメかな?と上目づかいにが頼むと、メイドはぎゅっと眉を寄せてあちこちに視線を飛ばしてから、観念したように息を吐いた。
「お嬢さまがそれをお望みなら」
「だからお嬢さまじゃなくて、って呼んで?今は誰もいないんだし、ね?」
「それはできません。私にも分別というものがあります。お嬢さま、さんの妹君をお名前で呼び捨てにするなど、けしてできません」
「えぇ、そうね。使用人風情がわたくしのリリスの名を呼ぶことだっておこがましくってよ?」
、とメイドの口から出された名にが体を強張らせるのとほぼ同時に、ぱたん、と扉が開き、瑠璃の髪の美しい女性が現れた。
「………パンドラ様…ッ……いつ、いらして…」
突然の訪問者。には覚えがない。しかしメイドは承知のようで途端顔から血の気が引いた。ぎくり、と恐怖の浮かんだ顔で一歩後ずさり、眼を見開く。
「お、お許しください……私は、その……」
「おはよう、リリスの大切な妹の…確か、さん、とおっしゃるのよね?」
恐れ慄くメイドには一瞥もくれず、まるでそこに存在しないかのように振る舞いパンドラと呼ばれた女性はに笑顔を向けた。
波立つ深い泉のように美しい瑠璃の髪に、象牙の如く白い肌、血のように赤い唇の美しい女性だ。纏う服はさっぱりとした仕立てのシャツとカメオのブローチ、白いスカーフと、そして革のズボンである。乗馬服だとが思い当たったのは以前学校の体験授業で乗馬を経験した折、講師が着ていた服と似ていたからである。けれどこの女の人の衣装の方が素敵だよね、とは思った。
「え…あ、あの…えっと?」
この人は誰なんだろう。リリス、というのはお姉ちゃんのことだろうか?謎が多い人だから、いくつか名前を持っていたってもうは驚かない。けれどこの女の人の顔はどこかで見たことがある気がする。
「あの…パンドラ、さん?」
「あらいやだ。よろしくってよ、あなたはわたくしを「リシュファおばさん」とそうお呼びなさいな」
「え、お、おばさん!?」
この人はどう見たって「オバさん」という年齢ではないだろう。見たところ20代後半だ。けれどおばさんと呼んで欲しいというその声、有無を言わさぬ響きが含まれている。
それでは一瞬躊躇ってから「リシュファおばさん…?」とそう呼んでみた。その途端リシュファが破願する。これほど嬉しいことはない、というほど喜びに満ちた顔をされ、はわけのわからぬままに「これでいいのかな」と思うことにした。
「外に馬を止めていてよ。朝の遠乗りには丁度いいし、お弁当を持って出かけましょう。えぇ、それがいいわ」
「パンドラ様…!!!この屋敷はアーサー・ヴァスカヴィル卿のものです!!勝手な振る舞いは…!!」
の手を握りリシュファが提案する。それをどう扱うべきか判断していると、存在を無視され縮こまっていたメイドが制止の声を上げた。
しかし次に聞こえたのはパンドラの怒声でも思いなおす言葉でもない。
ぱしん、と乾いた音がの耳を打った。
「………っ…」
「リシュファおばさん!!!どうして……!!!」
「あぁ、リリスの妹、そんな顔をしないで頂戴。あなたを泣かせたなんてリリスが知ったら悲しむわ!」
メイドの頬を叩いたことなどさしたことではないとパンドラは頬笑み、むしろの心を案じる。その傲慢な振る舞い、そしてとは考えの違う態度に軽い恐怖を覚える。打たれたメイドは頬を押さえることもできぬまま顔を伏せ、唇を噛んでいた。ぎゅっと握った掌の、エプロンドレスに皺が寄る。
「さぁ、支度をなさい。それともこの身の程をわきまえぬ使用人の言葉に耳を貸してしまうのかしら。嫌だわ、こんなものが余計なことを言うから、わたくしは貴方と遠乗りができなくなってしまったの?」
が断れば、この女の人はメイドにもっと酷いことをするだろう。それがわかった。だからは他にどうすることもできず、素早く着替えることにしたのだった。
+++
長いと言えば長いが、思ったより短い沈黙のあとアーサー・ヴァスカヴィルがゆっくりと口を開いた。この男は昔から感情を奥に奥にひっそりとしまいこむことが上手かった。そのことを思い出しながらは言葉に耳を傾ける。
「なるほど、お母上を失う理由を作った私に対して、今あなた様は憎しみの心を向けられているのですね」
これ以上しらばっくれることはしないようだ。言い方は取りようによっては事実の肯定のように取れる。アーサー程の男が曖昧な言動をしはしない。は「アーサーがトカゲを裏切った」と履き違えることのないよう己を律しながら、静かに「アーサーがトカゲの娘の情報を裏の世界に流した」という事実を胸に刻んだ。
そして「憎んでいる」とアーサーの問いかけには首を振る。
「ぼくが怒っている理由はそんなんじゃないよ」
「ではなんです。妹君を危険な目にあわせたことですか」
「いいや、違う」
「次女殿の養父母の土地を奪わせたことですか」
「いいや、違う」
あれこれ、とアーサーは思いつく限り、アーサーがトカゲの娘の情報を開示してから起きた、あるいは関係した出来ごとを上げていく。中にはが未だ気付いていなかったことまであったのだけれど、まぁそれはいい。今は驚くタイミングでもいない。
ひとしきり否定した後、は長年己の身を守ってくれた老紳士を見上げる。
アーサー・ヴァスカヴィルとの出会いは、正直なところ覚えていない。最初は、本人によれば寺院の慈善活動の一環で何やらが行動していた折に顔を合わせているらしいのだが、親しく、こうまで親しくなったのは、アーサーが家督争いに敗れて山中で殺されそうになったところをが拾ったと、その後回復するまで匿い、さらにはアーサーが今の地位を手に入れる手伝いをほんの少しした、と、それがあったからだ。
この長い時間、アーサーは己を守ってくれたし、己が望むならとトカゲや妹たちのことも引受けてくれた。もしこの世でが最も信頼できる人を上げるとするなら、それは今でもこのアーサー以外には思い当たらない。
だからこそ、は怒ったのだ。
「どうしてぼくに話さなかったの?アーサー」
たちの情報を流したことも、結果トカゲが命を落としたことも、の寺院での生活が終わったことも、そんなことはアーサーへの怒りの理由にはならないし、思いもよらない。けれど、アーサーは自分に「話さなかった」のだ。
「君のことだ。トカゲの娘の情報をあちこちに流したのも、トカゲを死に追いやったのも、くんやくんを危険な目にあわせたのも、それらはすべてぼくのためなんだろう。そんなの、わかってる」
行動する前でもあとでも、別によかった。ただはアーサーの口から何もかもを聞きたかった。けれどアーサーは、今この時だってきっとこちらに話すつもりはなかったと、そう思っているのだろう。そのことがには腹立たしい。
目じりつり上げて睨む。今でもこの場にはジョージとロブ・ルッチがいる。しかしはアーサーの存在しか意識に入れていない。一対一だ。互いは互いをないがしろにしないと、そうはその姿勢を貫いている。
アーサーは何も言わない。ただ相変わらず感情の読めぬ顔をし、いや、僅かに「なぜ」と、困惑した瞳の色をしている。
「もちろんぼくはくんやくんが大事さ。かわいいと思ってる。でも彼女たちを守るのにぼくの判断だけでは主観が入りすぎて、彼女たちの身の安全を優先させすぎて、根本的な解決には遠のいてしまうだろう。だから君の考えを、きっとぼくは否定しなかったはずだ」
姉としての心なら、一切合財なんの不安も彼女たちの心に与えず平穏で甘い生活だけをさせてやりたい。親の死という普通の子供なら耐えられぬ悲劇が彼女たちの身にふりかかったのだ。これ以上の悲劇を引き起こさせはしない。そう願う己の心は、甘いとわかっている。が決意した、それこそが現実だ。己ら姉妹はトカゲの娘、は妹二人を何もかもから守りきるには力が足りない。だから、「何か」しなければならないが、己はその「道」を見ないふりをしてしまうだろう。
だからアーサーが「相談」「提案」してくれれば、受け入れた。現実をしっかりと教えてくれる人が、アーサーだとそう信じていた。
「それともアーサー、きみは、ぼくがきみの考えを拒絶すると、そう思ったのかい」
卑怯な言い方をしたとは分かっている。そんなわけはないのだ。アーサーはこちらを見くびったりはしない。わかってくれていただろう。けれど、相談も提案もしなかった。
理由など、決まってる。
「ぼくの心を守るためだ。ぼくが、辛い決定をしないでいいように。『誰か』が勝手にやったことでぼくが重い腰を上げ寺院が出なければ「ならなくなった」のなら、ぼくは、被害者でいられる」
すっと、は手を伸ばしてアーサーの頬に触れようとした。背の違いがあるため容易くは届かない。けれどアーサーは意図を汲んで腰を曲げる。拒絶はしなかった。つまり、そういうことだ。
は眉を寄せながら、アーサーの頬、瞳をゆっくりと指で触れる。年老いた。出会った頃は少しばかり癇癪持ちで、不器用なひとだった。それでも昔から、彼はやさしい。
「あなたは……人間を信用しすぎています」
「ふふ、よく反対のことを言われるけどね」
「いいえ。さん。それはあなたというひとを表面的にしか判断できない者のたわごとです」
「そうかな」
首を傾げると、アーサーが目を伏せた。謝罪の言葉を口にするわけではない。もそれを求めてはいなかった。
アーサーは、トカゲを死に追いやろうとは思っていなかったはずだ。そいうつもりは欠片もなかった。己の母親なのだ。命を奪うという選択肢だけは、持てなかっただろう。アーサーはトカゲの娘の情報を流し、何かをしようと考えた。(それをは聞く気はない。ここまで来たのだ。もう聞いても仕方ないことだろう、きっと知らぬ方がいいことだ)しかし、トカゲは、誰かが情報を流した、というその事実に気付いて、自ら動いてしまった。彼女はアーサーの策の外に飛び出してしまった。みすみす踊らされているのが気に入らなかったのかもしれないし、気付いてなかったのかもしれない。
(トカゲは自分の意志で自分と、そして娘たちをどうにかしたいと思って行動し、その結果死んだんだよ)
その結果、トカゲはに「妹たちを守る役目」を自覚させた。寺院でが感じた失望感。己をトカゲにとってただの娘の一人にはしてくれなかった瞬間。それらはアーサーの意思ではなく、トカゲの意思だ。
結局、アーサーがあれこれしたことも何もかも、トカゲが台無しにしてしまって、だから己はここにいる。
「アーサー、きみを出し抜くなんて、まったくさすがは母さんだと、そう思わないかい?」
は笑い、そして親友に笑いかけた。
「和んでる場合じゃねぇぞ!!!あ、旦那さま、おはようございます」
これで朝食をゆっくり採れる、とがアーサーにリクエストを出そうと思っていると、バタバタと騒がしい足音がして、そして中央玄関のバルコニーに馴染みのメイド姿、マリアちゃんが現れた。
「おや、マリアちゃん。おはよう、君って今このお屋敷勤務だったのかい?」
「マリア、さんの面前ですよ。なんです、はしたない」
メイド姿をしているが列記とした男の子、のマリアちゃん。本名は別にあるのだが、まぁマリアという名前が似合っているのだからはこちらで呼んでいる。のアフガン時代の傭兵仲間だ。見かけは十代と幼いが、これでいい歳をしている。腕が立つためあこちちの屋敷に護衛やら何やらで雇われているのだが、今はアーサーが飼い主のようだ。
再会を喜びたいところだが、慌てているその様子。
マリアは一応主人のはずのアーサー卿の注意をしっかりシカトして、ドン、との前に飛び降りてくる。
「お前んとこの妹の給仕をさ!おれの後輩がしてたんだけどよ!!」
「おやまぁ、マリアちゃんがしたなら面白そうだったのに」
「うるさい!んで!そいつが泣きながら帰ってきたんだよ!!大変だって!自分は旦那さまに殺されるって!!首吊りそうなんだよ!!」
え、その子何したんだろうか。
くんに間違って味の付いてないスコーン渡したとか?そういう可愛らしいどじっ娘を想像して一瞬和んだんだが次の瞬間マリアの言った言葉に、は顔を引き攣らせた。
「パンドラがお前の妹を馬でカッ攫ったんだよ!!!」
「あぁ、もう、姉さんってば、どうしてこう絶妙なタイミングで面倒を起こすかなぁ」
額を押さえ、はジョージに頭痛薬を頼んだ。
(2011/05/30/2:36すっごい眠い)
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