戦闘中でもないのに吹っ飛んできた人が視界のまん前を横切れば誰だって戸惑うだろう。 いや、けれど今回は宙を舞っていた人物が人物であった。 それでも驚くことには変わりない。 サリューは手に持つ書類を一応握り締めたまま、飛んだ人物の方へと駆け寄った。 見慣れた小さな姿、その顔にくっきりと殴られた跡が残っているのでサリューは顔を顰めざるを得ない。 ひどい、と。 唇が声も無く音を紡ぐのをリノハはしっかりと見た。
「大丈夫…ではありませんね」 「慣れてるよ、これくらい」 「そういう問題ではありません」
ぴしゃりとサリューが言い切ればリノハは困ったような顔をしてみせた。 その目線はうろうろとサリューの背後を探り、彷徨い、それからすとんと地面に落ちる。 それで何も察せぬほどに、サリューは鈍くない。 そもそも先程から感じているのだ、背中を刺す存在感と、鋭い空気を。 サリューはそっとリノハの頬を撫で、小さく唇を噛む。 それからすっと立ち上がって、何でもないように後ろを振り返ると同時に敬礼する。
「背中を向ける無礼、何卒お許し下さい」 「構わん」 「感謝致します」
大将赤犬・サカズキ。 三人の大将の中で最も激情家、最も容赦無いと有名な男。 サリューにとって苦手、というよりは恐れや畏怖を抱く相手である。 面識はそう多くない、そもそも彼と面と向かって話したのは、レルヴェが死に、サリューがドレークのもとへ移る際、ドレークに連れられ三人の大将に対面した、それが初めてだったのだ。 本部少将の殉職は、やはり多少なりと痛手であったらしい。 その時はこれほどにサカズキに対峙して危機感を抱かなかった。 もしかすると上官を失ったことで感覚が一部痺れていただけかもしれないが、それでもサリューには思うところがあった。
“目を掛けられている”、というよりは“目をつけられている”気がしてならない。
気のせいだとすればそれまでの話である。 周囲に話したところで自意識過剰と嗤われるのが落ち、サリューは未だ己の気掛かりを周囲に話したことは無い。 或いはドレークやデュノなら真面目に話を聞いただろうか。 今更にサリューは思ったが、あの二人に話すと心配されそうな気もしたので結局話す気は起こらなかった。
「あれが迷惑を掛けたな。仕事に戻ってくれ」 「…その前に、ひとつお尋ねしても宜しいでしょうか?」 「内容による。言ってみろ」
こくり、とサリューの喉が鳴る。 サカズキの発する威圧感、圧力、何でも良いが敵意や殺気とは違う何かが声帯を鷲掴みにしているような気がする。 感じているのは恐れか、嫌悪か、だがそんなことはどうでも良かった。 とにかく己の舌が、言葉を吐き出そうと疼く。
「……リノハを、殴ったのは…大将赤犬であられますか?」
潰れそうな喉で、潰れそうな声が、潰れそうな問いを紡いだ。 これに是と答えられたら、否と答えられたら。 それぞれの返答の後にどう行動するかなど、サリューは全く考えていなかった。 そもそも何故こんな問いをしたのかと問われると首を傾げざるを得ないだろう。 大将、それも赤犬相手に何て不遜な! なんて、詰られれば頷くことしか出来ないだろうこともサリューには分かっていたが、それでも問わずにはいられなかった。 己の中でもう一人の自分が囁くのだ、今問わなくては後悔する、と。
サリューはリノハのことを良くは知らない。 寧ろほとんど知らぬと表現するのが適切であろうか。 ドレークも彼女についてはほとんど語ろうとしない。 正確に言うと“語れない”のだろう、つまり彼よりも上の人間が口止めをしているか何か、である。 デュノもリノハについてはほぼ無知。 ならば死んだレルヴェ少将はどうであったのか、サリューには分からなかった。 快活で、ある意味あけすけな一面もあったが優秀な海兵であった彼。 おそらく上に口止めされれば話すことは無いだろう。 それが“命令”によるものか、その命令を破るのにサリューを巻き込むのを懸念してのものか。 もうそれを問う術は無いけれども。
「だったらどうしたと?」
サリューはきゅっと拳を握った。 次いで裾を控えめに引かれる感覚にそちらにそっと顔を向ける。 リノハが、サリューの上着の裾を小さく摘んでいた。 殴られた後の未だ痛々しい顔を、痛々しい笑顔で彩って、大丈夫だよ、と。 そう言って見せるのだがサリューに言わせてみれば何が大丈夫なのか全く分からない。 そんな悲しそうな、寂しそうな顔をして、迷子の幼子のように泣きそうな顔で、どの口が大丈夫などと。
だからサリューは己の上着を引くリノハの手にそっと触れた。 リノハは一瞬びくりと震えたが、何事も無かったかのように許容する。 触れるだけでこんなにも大袈裟に反応するなんて、普段はこんなこと、無い。 もう涙が海色の双眸から零れそうになっているその表情は、見ているだけでつきんと痛みを覚えさせる。 それが親愛の情から来るものか、同情から来るものか、サリューには分からない。 分からないが、それでもその感情は無視できないのだ。 だからサリューは視線をサカズキに戻す。 先程から少しもサリューから目を逸らさぬこの男の威圧感は生半可なものではない。 正直に言うとサリューは背中や手の平をじっとりと冷や汗が湿らせているのをしっかり感じていたし、心臓が緊張の余りいつもより早く鼓動しているのを自覚していた。 対峙しているのは世界戦力、サリューがどう足掻いても敵う相手ではないのだから当然である。 サリューの背後から、か細い呼吸の音が聞こえてきた。
「……何故、でしょうか?」 「問いの意味を判じかねるが」 「何故、リノハを殴られるのですか?彼女がそれほどまでに悪事を働いたならまだしも、そうではありませんでしょう?」
問いを冷たく一蹴されれば、サリューは珍しく畳みかけるように言葉を続けた。 まずい、と。 一応サリューは思いはしたが後の祭り、言葉は既に投げられた後である。 本当は、そもそも保護の対象を殴るのはどうなのかとか、もっと手酷い言葉を口にすることも出来たのだけれど、少なからずサカズキにはリノハを思う心があるのをサリューは知っていたからそこまでは声に出せなかった。 慈しんでいるのなら、それをもっと素直な形にすれば良いのに。 守りたいのなら、それをもっと分かりやすい形にすれば良いのに。 己が言うのも何だが、不器用なものだとサリューは思う。 けれどどんなに不器用だって、その人物によって目の前で知った顔が理不尽に殴られているのを黙って見ていられるような性格をサリューは持ち合わせていなかった。
「ね、ぇ…サリュー、やめて…」 「申し訳ありませんが、今回ばかりは無理なお願いです」 「お願いだから…!やめてってば!」
背後から響くリノハの声に、サリューは顔こそ向けなかったが小さく首を左右に振る。 途端、リノハの嘆願に含まれる悲痛さが増して、サリューの鼓膜を貫通した。 けれどサリューが無言のままでば、続いて聞こえてきたのは息を呑む音と、嗚咽になり損ねたような吐息の音。 ああ、泣かせてしまったのか、と。 それなら手を上げていなくてもそれに匹敵するだけのことをしてしまったかもしれない、と。 サリューは思いながら赤犬の名を冠す大将を見据えた。 そこに浮かぶ色はただ冷たく、そして鋭い。 恐ろしいほどに静かで、その静けさそのものすら凶器とも言えるような目線である。 だからその視線を、急にサリューの前に飛び出してきたリノハが真っ向から受けることになってサリューは軽く目を見開いた。
「サカズキ、もう行こう」 「………」 「リノハ、私はまだ大将赤犬と話しています」 「サリューはちょっと黙って!」 「…申し訳ありませんが、聞けません」
く、とリノハの肩を引き寄せれば小さなリノハの体はいとも簡単に傾ぐ。 リノハを、まるでサカズキの目から隠すように背中の後ろへやって、サリューはサカズキを再び見据えた。 リノハを隠したせいは分からぬが、サカズキは先程よりもいっとう鋭い目を、容赦無くサリューに向ける。 侮蔑とか、怒りとか、何か色々な物をないまぜにしたような色。 結局根本にあるものが何なのか、サリューには良く分からない。 分からないから、問うしか無いのだ。 ただ、そこには慈悲の心とか、そういうものがあるのだけは確信している。
「何も知らぬのに問うか。浅ましい」 「知らぬから問います。リノハが、何をしたと?」 「それは罪人だ」
“それ”?“罪人”? いや、リノハを“それ”と言ったのに大した意味は無かったのかもしれない。 けれどささくれだったサリューの心にはしっかりと引っ掛かったその単語。 それから“罪人”。 後ろで何故か、リノハが震えた気がした。
「正義が正義であるための罪人、それがリノハだ」
意味など、理解できなかった。 “正義が正義であるための罪人”、ならばリノハがいなければ“正義”とは脆くも崩れ去るようなものであったのだろうか。 どうして、とか、そんな言葉はサリューの口から出て来なかった。 罪人、保護、何でも良いけれど、リノハを守りたいと思うのならどうして殴るのか、生憎とサリューには分からない。 彼女がサカズキの掲げる正義に、疑問を抱き、理解出来ないように。 正義とは何か、海軍とは、政府とは、リノハは何者か、罪人とは。 正義、正義正義正義。
―――私は、何を信じれば良い?
「…それは、リノハを傷付けて良い理由ですか?」 「減らぬ口だな」 「こんな迷い子のような顔をした者を、彼女を守ろうとしながら傷付ける正義は正義なのですか!?」 「…っ、サリューっ、イヤ、やめて…!!」
かっとなった勢い、熱に浮かされたかのような感覚に、サリューは目眩すら覚えそうな気がした。 そのまま思ったことが、いとも簡単に唇から滑り出していく。 これはサカズキに対する非難か、それとも己への自問か、サリューには分からなかった。 それほどに混乱していると言ってしまえばそれまでである。 だが、か細いリノハの悲鳴がサリューを突如現へと引き戻した。 こんな風に声を荒げるなど、どれだけぶりかサリューには思い出せない。 もともとそういう性質ではない、静かすぎて不気味がられることはあったけれども。 サリューはリノハを、そっと見下ろした。
「大丈夫、だから」
笑って見せる、その少女。 彼女に問いたい、何が大丈夫なのかと。 何が、大丈夫なのかと。 そんな顔をして、そんな顔をして、そんな、顔をして。
けれどサリューはそれをぐっと嚥下した。 リノハがそれを望まぬのなら、これ以上事を荒立てるのは望ましくない。 本人が、それを許容しているのなら。 サリューが立ち入る隙は無く、また意味も無い。
「……ご無礼を、お許し下さい」 「……」 「処罰ならば喜んでお受け致します」
頭を下げれば、今更ながらに声が震えた。 海軍本部を追い出されて左遷されようが、首を切られようが文句は言えない。 随分と無謀なことをしたな、と。 心の中だけで溜息。 けれどこの無謀を犯さねば、サリューの心の中で燻った何かはずっと彼女を苛んだであろう。 今、それが全て消えただなんて思わないが。 ただ確かなことは、後悔だけは微塵も無かったことだ。
沈黙、数秒。 かつり、と目立つ足音が立った。 それは次第に遠ざかっていき、最後には薄れ、消える。 左手に握り締めた書類がくしゃりと音を立てた途端、サリューの足からふっと力が抜けた。 がつん、と膝が固い床を叩く鈍い音。 それなりに痛かった、けれど本当に痛いのは別の場所だ。
「サリュー、サリュー」 「…大丈夫です。ただ…己の無力を痛感しました」
心配そうに顔を覗き込むリノハに、サリューは嘆息混じりの返答を寄越す。 海色の双眸が、泣きそうになっていた。 彼女が、リノハが何者であろうとも、こんな顔をする生き物を、見捨てるなんてサリューには出来ない。 甘いのか、慈悲があるのか、その境界線はあいまいだと常々思っていたが、今ほどその線引きが分からないと思ったことは無い。 けれど、サリューは自分が間違っているとは思えなかった。 無論、合っているかなんてもっと分からなかったけれど。
「…手当、しましょうか」 「ぼくは大丈夫だよ。寧ろサリューの方がさ…」 「手当します」
最初のようにぴしゃりと言い切れば、リノハは困ったように、暫く無言。 けれど諦めたらしい。 最後には笑ってくれた。 その笑みがどうしようもなく、仄暗いものを抱えているのをサリューは知っている。 それが何なのかなど知らない。 知っていたところで、何が出来るというのだろう。 サリューは無言のまま、小さなリノハをぎゅっと抱き締めた。 何て小さな、体。 リノハが抱えるものの重さなど決して理解できないのだろう。 決して、誰にも。 サリューにはこうして、抱き締めるしか手段が無い、力も、無い。 何て無力。
泣きたくなって、けれどサリューは涙を押し込めた。 泣くのは、本当に絶望した時だけで十分だ。
「無力とは、悔しいものですね。久しぶりに思いました」 「…サリュー?」 「…私がもっと強かったら、また違ったのかもしれません」 「サリューは十分強いよ。剣でサリューに敵う奴なんてなかなかいないでしょ?」 「…私など、まだまだですよ」 「…サリュー、泣いてるの?」 「いえ。でも、こうして貴女を抱き締めるしか術を持たないのは、」
悲しいですね。 悔しいですね。 苦しいですね。
どんな言葉が続くのかはサリュー自身分からなかった。 だからリノハを抱き締める腕に力を込めた。 薔薇の匂いが鼻を掠めた。
鈍色の正義に跪け
(そして己の無力を知るがいい)
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常白 七海閃光様あとがきです↓
魔剣嬢は赤犬に対して何とも言えない複雑な感情を抱いていそうです。勿論尊敬しているけれど、恐れてもいて、そして何より彼の正義に対しては不信感と言うか、疑問を持っている。だからリノハさんが殴られる瞬間を目撃したらきっと赤犬に噛みつくに違いない…!そんなところから出来たお話でした。 2008/12/10
ひとはいちか感想です!↓ あ、ありがとうございました!!!もう最初に読んだ瞬間ふるふると震えが止まりませんでした・・・!なんでしょう、この、感動、久しく覚えていないほどの衝撃です!!! サカズキVSサリュー嬢・・・そしてリノハさん、とても嬉しく、楽しませていただきました!本当にありがとうございます!!!
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