【注意】

この話には本誌ネタバレがあります。
また、若干、性的・グロテスクな表現がございますので苦手な方はご注意ください。



 

 

 

 

 






上陸した島は海賊の遊泳費で何とかやっていけている、という島だった。グランドラインではさほど珍しくもない。行き来の困難な海で島は孤立しがちだ。その島は運悪く次の島、あるいは前の島まで一週間以上かかる上にその前後の島は無人島で、グランドラインに生きる者の常以上の苦労をしなければならない島だった。

「こんなばかげた海をそれでも平然といけるのは海賊連中くらいなものだ」

ローがカウンターでコインを一つ置くと、慣れた様子でジョッキを寄越してきた店主が気軽に言った。二階は宿場、一階は酒場になっているというありきたりな作りの店は昼間から騒々しい。銃声やら怒鳴り声やらがひっきりなしの状況。それでも島にここしか酒場はなく、ローは一人で飲みたかったので、酒を買って船に戻るわけでもなくこうしていた。店主は「ばかげた海」と言いながらも、その口ぶりに悪意は感じられない。腕を見れば海賊の刺青が彫ってある。海軍が捉えた海賊の手首に刻むものだ。一度捕らえられたが、この店主は逃げ延びたと見える。ローは(確認してはいないものの)自身の生業の先者に敬意を示すようにジョッキを軽く上げて、それから口をつけた。店主はその仕草、己の腕を見落とし、肩を竦めた。

そうしてそのまま奥へ引っ込んでいく。その背に興味はないもので、ローはぐるり、と椅子を回してカンターに背を預けた。グランドラインでも指折りの「騒々しさ」だというジャヤほどではないだろうが、それでもひっちゃかめっちゃかな有様で、ガッシャン、と何かが割れる音が、いったいどれだけ割れるものがあるんだと思うほどに続く。これで別に殺し合いをしているわけではないのだから面白い。騒々しさと愉快さと、そして殺し合いというのは似ているのかもしれない。ローは一人で飲みたかったが、静かなところを希望している、というわけでもなかった。それなら自身の船室に篭ればそれで足りる。仲間以外がいる騒々しさのある場所で、一人で飲みたかったのかもしれない。ジョッキに口をつけた。お世辞にも美味い、とはいえない酸っぱいビールである。

女の悲鳴が上がった。思考に沈もうとしていたローの耳をいい具合に襲う悲鳴である。女の、つんざくような甲高い声に一瞬目を見開き、そして次の瞬間、ローはどろっとしたものに塗れた。

「………殺されたいのか……」

避けられなかった自分も悪いが、上から肥をぶっかけられて、ローはすぅっと神経が冷えた。手に持ったビールにまで肥が入っている。元々美味いとも思わないが、いっそう味が酷くなっただろう。いや、飲む気はないが。頭から突然肥をかけられて笑って許せるのはどんな人間だ、とローはあれこれ考えた。普段であればこんなものはっさり避けたろうが、生憎今日ばかりはそうもいかない。どろどろと、そして臭い肥まみれになり、そして、女の悲鳴の後に若い青年がそんな有様になった、ということで、一瞬酒場が静まり返った。

一人でも笑い出したら即行首を跳ねてやる。ローは目を伏せて乱暴に顔を拭い、沸騰しそうな怒りを抑えた。それでもにじみ出る殺気じみたものはどうしようもないらしい、店内の海賊たちがじりっと後ろに下がる。店員らしい人物が数人、血の気の引いた顔で慌てて店の置くへと走り、すぐにタオルとバケツを取ってくる。それをローが受け取る前に、二階からカラカラと、軽快すぎる女の笑い声が響いた。店内に明らかな緊張が走る。その、聊か嘲笑を孕んだ声が癇に障ったローが顔を上げて睨み飛ばせば、ローの真上にいるその女。バケツをひっくり返した体勢そのまま、赤々しい唇をいっそう吊り上げて眼を細めた。

割れたランプ、ひっくり返されてハエの集る料理の散乱する、粗野な店内。頭からかけられた肥は吐き気を催す酷い臭いの中、それが“死の外科医”トラファルガー・ローと“人魚姫”の出会いである。




+++





あの女は小さな街の娼館の、気の狂った女だという。大人しく客の相手をしていたかと思えば、ふらり、とどんな最中でも突然立ち上がって、どんな状況だろうと(それこそ本番中だろうと)自分の好きなように行動するらしい。

「頭がイカレてんですよ。あの女、自分のことを人魚だって、そう言うんですよ」

店主に命じられてローの服を洗っている年老いた洗濯女が顔を顰めながら話す。皺だらけの顔がいっそうしわくちゃになった。服が洗濯されている間、ローはたっぷりと湯を張ったバスタブで体を洗った。湯船に浸かるために用意されたのだろうが、能力者であるローは己の船以外では湯船に浸からぬ。この肥溜めぶっかけられました☆事件が実は店主やらローの首を狙う賞金稼ぎの陰謀で、能力を使えぬ状態にするためではない、とも言い切れない。いや、しかし、油断させて裸にして風呂に入れるのに肥溜めの中身をぶっかける、という手段をとる人間がいるかどうかは疑問だが。

「そりゃね、歳を取ると尾びれが二股に分かれるっていうじゃァありませんか。丘にもいるでしょうよ。でもあの女は違いますよ、まだ18にもならないんですから」

老婆はローが答えぬことには興味を払わぬらしい。ぶつくさといいながらローのジーンズをお湯の中に押し込む。乱暴な手つきだが、長くその仕事をしているだけあって乱雑、ではない。ローは人魚を見たことはなかったが、いずれ見ることにはなるだろうと思っていた。グランドラインをログの通りに進んでいれば必ず魚人島を通る。だから魚人島は荒れねばならなかったのだろう、と頭の隅で思いつつ、頭から湯をかける。泡だか泥だか肥だかわかわぬものに塗れていた体がすっきりとした。すん、と腕に鼻を近づけてみる。まだ少し臭うかもしれない。自分の鼻ではかすか、という程度。船に戻ったときにもう一度洗えばいいか、だがベポが気付く。ローはスポンジを握ったままじぃっと眺めて、結局もう一度泡立てた。綺麗好きというわけではないけれど、妙な臭いをさせてベボに顔を顰められるのは却下だ。「そういう風に気遣うから船長はベポに甘いんだって言われるんですよ」ローの脳裏に幼い顔が蘇る。ばっしゃん、と、ローは乱暴に水を跳ねた。老婆がびっくりしてこちらを見る。ぽたぽた、とローの黒髪の先から水が滴った。普段よりも隈の増した目でじろり、と老婆を見れば、喉の奥で一瞬止まったような悲鳴を上げて老婆が一目散に逃げていく。バタバタと乱暴な足音を聞きながら、ローはずるずると床に尻をついた。

ローの体はあちこちに刺青がある。素っ裸でも恥じる体はしていないが露出狂の気もない。それでも体中に刺青をしていると、素っ裸という状況でもさほど羞恥を感じぬから不思議である。服は洗われたが当然濡れている。替えの服をあの老婆はどこに置いたのだろうか、と顔を上げるのも億劫というに、このままでは風邪でも引きかねぬものでローは部屋を見渡した。というか、せめてタオルでもないのか、ここは。

タオルはあった。それと、ご丁寧に粗末で簡素だが、着替えもあった。バスカーテンの向こうの机にちょこん、と置いてある。ローは体を拭って袖を通した。そしてその窓から見える光景に、軽く眉を跳ねさせる。

店のすぐ裏庭で、女が一人、木に括りつけられて数人の男たちに殴られていた。長い、真っ白い髪に隠れて女の顔は見えぬものの、先ほど自分に肥をかけたあの女だろうと思った。二階に立っていたあの女、唇の人工的な赤さは印象的だったが、それと同じくらい、下品な薄いドレスに身を包み、そこから覗いた真っ白い足が目に残っている。木に縛られ、男たちに代わる代わる殴られ、体が揺れる。ローはじぃっとその様子を眺めた。あの女のこの折檻風景がこちらから見えるのは、何も偶然というわけでもあるまい。海賊(それも、高額の賞金首)であるローに無礼を働いたあの女をこうして、ローの目の前で弄ることで、「自分たちがちゃんと始末をつけています」と訴えているのだ。ここは海賊連中とうまくやっていかねば生き残れぬ島。海賊を怒らせて皆殺しにあうなどご免だ、ということ、そして、だからこそ、必死に必死な、その折檻。女は悲鳴を上げなかった。というよりも、猿轡をかまされているので仕方ない。女の悲鳴は聞いていて気分の気分のいいものでもないから、こちらに聞かせぬように、との処置だろう。あの女は娼婦ではないのか。それなら傷つけていいのか、とそんな程度のことは思う。殴られた女の体から飛び散った血がこの窓のガラスにまで飛んできた。内側から、女のその赤い血を指でなぞり、ローはくるり、と背を向けた。

暖炉の前に服を置いたらすぐに乾く、と、そう店主は請け負った。借りた妙な服で船に戻るのも億劫で、ローはその言葉に無言で頷き、空けられた二階の部屋、粗末なベッドに横たわる。まだ夕方には少し早いくらいの時間だ。夜には戻る、と仲間には言ったが、戻らないかもしれないと連中が思っていることには気付いていた。ローは埃臭い枕を床に落とす。眠るときは枕を使わない。子供の頃、聞いた話を思い出す。人魚、人魚、人魚のお姫さまの話を思い出す。洗濯女は、あの折檻を受けていた女が「人魚」だと思いこんでいると言っていた。それであるから思い出したのだろう。人魚の話。グランドラインにはいるが、北の海にはいなかった。いたのかもしれない。しかし、ローは見たことがない。ベポもないと言っていた。でも、見てみたい、とは言っていた。だからローは魚人島に行くのは絶対だ、と思っている。

人魚、人魚、人魚の話。北の海の絵本にも、人魚の話があった。嵐の夜に男を助けて、それが確か王子だったとか、そういう話。それで、王子に惚れ込んで傍にいたいと願ったものの、海の魔女は足を与える代わりに人魚の声を寄越せと言った。人魚は承諾して、それで王子の傍に行ったけれども、幸せにはならなかったとか、そういう話だったか、確か。

ローは天井を見上げて、眼を細める。天井には染みがなかった。こういう粗末な場所であるのに、天井ばかりは嘘のように磨かれている。ごろん、と寝返りを打った。ローは眠るときはうつぶせになっている。しかし、眠れそうな気もしない。ひと眠りすれば服も乾いて船に帰れる。けれど、自分は帰りたくはないのだと、判っていた。

(先日、仲間が一人死んだ)

一人きりになって、やっと、ローはそれを胸のうちで呟く。グランドライン、常識などない海、そして、進むにつれて強者が増える海だ。ローは医者だ。「死の外科医」なんぞと呼ばれているが、何も医療ミスが多いわけでもない。そして、ローは船長でもあった。航海をしていて仲間が死ぬ、その時の「医者」「船長」としての対応の仕方はわかっていた。

「入っても構いません?」

コン、と軽い音がした。開けっ放しになった扉の前に黒髪の女が立っている。ユラリ、ユウラリ、と丘にいるはずの人間が、船乗りが丘酔いしているような立ち方をしている。ローは閉じていた瞼を軽く持ち上げて、扉の下の女を眺めた。先ほど裏庭で殴られていた女だ。顔は殴られなかったか、あるいは厚化粧で隠しているのか、真っ白い顔をしている。しかし体、肌は痣だらけ。荒縄で縛られた痕がくっきりと腕についていた。唇は毒々しい赤、紅を塗りたくっている様は「女」らしいと思うべきだろうがそうは見えない。薄いドレスは薄汚れていた。擦り切れて、短いスカートがさらに短くなっている。ローの印象に残った真っ白い足は、今は両足ともに泥だか血だかで赤黒く汚れていた。

足の内側に血がこびりついているという様子は中々象徴的だとローは思う。両足の付け根から流れる血は破瓜を思わせる、べっどりと汚されているのを平然と受け入れているところから複数の男性経験を持っていて、それを苦と思うておらぬことが窺えよう。ローはその姿を気に入った。

「なんだ」
「店主がね、おにぃさんの機嫌を取って来いって」
「必要ない」

面倒くさそうに扉の下に立っている様子は、まぁ、娼婦に見えなくもない。だがしかしやる気というものが感じられない。女の装いだが、女臭さのない生き物を前にしても、ローは抱く気も犯す気も起きない。肥をかけられたという事実はあるものの、洗い流せばどうということもない。

ローのきっぱりとした言葉に女はふぅん、と鼻を鳴らした。そして一度じぃっとこちらを眺める。じろじろと値踏みするというよりは、興味津々、という様子。別段珍しい顔もしていないだろうに、とローは思いながら、体を起こしてベッドの上で胡坐をかいた。

「怒ってないんですねェ。部屋に入ってすぐに首を切られるんじゃァないかって冷や冷やしていたのに」
「まるでそうは見えないが」

コロコロと女が喉を鳴らす。笑い声というよりは、鈴でも転がすような音である。ラム酒の臭いをさせた場末の娼婦にしては妙に品のある笑い声だ。ローは聊か興味を持って、女の白い顔を見つめる。飛びぬけた美女、というわけでもない。厚化粧かと思った真っ白い顔は自前のようだ。では顔は殴られなかった、ということだろう。判じて寛げば女が「近くに言っても?」と問うてくる。ローは無言で隣を空けた。女はゆっくりとした足取りで近づく。このやり取りを楽しむ手練手管に長けた遊女というよりは、やはり、どこか貴族のような、堂々とした気配がある。女はローから少し離れた、ベッドの隅っこに腰掛けた。きしっ、とベッドが小さく軋む。

「無礼をされた理由とか、聞きたいですか?」
「いや、興味ねぇ」
「ここはこう、こちらの胸倉でも掴んで「何しやがるっ!」とか怒鳴ってくれないと面白くないじゃァないですか」
「笑いものにされたんだ、これ以上アンタを楽しませる気はない」
「誰も笑っちゃァいなかったろうに。つまらない、皆お前さんを怖がっていましたよ」

ローは目を細めた。それでもお前は大笑いしていただろうと言ってやろうかと思ったが、止めた。確かにあの場、自分は随分とマヌケな姿になっていたが笑ったものはこの女一人だった。全員笑えば皆殺しにするつもり、しかし、あそこで誰も笑わなかったら、ローはやっぱり全員皆殺しにしていたかもしれない。八つ当たりもあった。理不尽だ!と叫べる権利なんぞなさそうな連中だから、まぁ、構いやいだろう。

女が笑いながら体をゆすれば、さらり、とその黒髪の間から真っ白い髪が見えた。ローは手を伸ばして、黒髪をひっぱる。ずるり、とそのまま、真っ黒い髪の部分が盛大に落ちる。つまりはカツラだ。

「女性に対して礼を尽くすのが殿方じゃァないんでしょうかねェ」

ひとの頭上に肥をぶっかけた女が何を言っているのだろうか。
ローは女のカツラをひょいっと投げて落下させ、それを繰り返しながら首を傾げる。

「そっちの方が客がつくんじゃないか?」

明らかになったのは、部屋の中でもはっきりとわかる白髪である。老婆の白さというよりは、アルビノではないかと思うような「白」だ。ヒトのアルビノは先天的なメラニンの欠乏により体毛や皮膚は白く、瞳孔は毛細血管の透過により赤色を呈するという。先天性白皮症と呼ばれ、日光に弱いなどという点もあるが、しかし、この女にはそのような点が感じられなかった。「真っ白い生き物」は観賞用として高い値がつけられる。ローはこの女が「人魚」だと思いこんでいるという話を思い出した。それは、言葉通りの人魚、という意味ではなくて、売り買いされる人魚と同じ生き物である、という意味なのか、と思う。

「まさか。世の殿方というのは色白の黒髪を好むんですよ。目が覚めてベッドに真っ白い髪の女がいたら『やべっ、おれ、ばぁちゃんと寝ちゃった!!?』とか焦るそうで」

実際にうろたえた客でもいたのか、そのセリフを誰ぞの声真似であるようにしてみせる。笑うと赤い目がほんの少し輝く。紅を塗りたくった赤い唇は、何もせぬままでも構わぬのではないかと、間近に見ながらぼんやり思った。少し吊り上がり気味な唇はひそかに世の中をバカにしているように見える。

「おにぃさんが白髪好みだってェいうのなら、このまま致しましょうか」

先ほどから妙な言葉遣いだが、最後の言葉だけはやけに丁寧である。情交を「致しましょうか」と切り出してきた女は始めてである。ローはぎしり、とベッドを軋ませて、壁に背を凭れさせた。

「同じことを二度言わせるな、必要ねェ」
「わたしはともかくとしても、店主さんがねェ、それじゃあ気ィも収まらんでしょう。わたしが気にいらなきゃァ首を跳ねるか無残に切り刻むかしてくれないと」
「したたかに殴られてまだ足りないのか?アンタのSM趣向に巻き込んでくれるなよ」
「黙って眺めてたお前さんもお人が悪い」

互いに言葉は責めるかからかうようであるが、その実まるで興味ないのだ、とローは気付いた。それで、ぐいっと、女の白い顔を掴んで引き寄せる。

「人魚だって?」
「下のおばァさんが仰ってましたか」
「あぁ、自分のことを人魚だって触れ込んでいるイカレた女だそうだ」
「おにィさんの感想は?」

頭は悪くないようだとローは口に出さずに思った。こちらが他人からの言葉を信じているか、信じていないか、わかるように暗に言えば、それをあっさりと見破って、そうして聞いてくる。眼を細めて、女の真っ白い髪を引っつかみ、ベッドに押し付けた。柔らかい女の肉である。その上に跨って、右足の、太股の裏側を手で押す。くいっと間接が曲がって、足が開かれた。ローは折り曲げた足をゆっくりと指でなぞり、そのまま足首を軽く撫でた。その指先に生えた5本の指、手入れのされていない歪な形の爪をじっくりと数え、首を傾げる。

「人間の足以外には見えない」
「いやらしいことをされている感じが全くしないんですが、あなた本当に海賊ですか?」
「海賊だ。医者でもあるが」
「なるほど、どうりで」

診察をされている気分になった、と女が笑う。鈴のような声でもなくて、おかしくて笑う、というその様子のそのあどけなさか奇妙だった。それでいて、女の足には血がべっどりとこびりついている。ローは内側に付着した血が、もう随分と古いものであることに気付いた。風呂に入っていないのだろうか、この女不衛生なのか、と嫌な予感がしたのだが、それに気付いたらしい女が、ゆっくりと、懐かしそうに眼を細め、己の足の内側を愛しそうに撫でる。

「お医者さまが見たってわかりゃァしないんですよ。だってこの脚は魔女がくれたんですからね」
「おれは医者だが、精神科医じゃないぞ」
「妄想じゃありませんよ。あれ、そういえばわたし、名前教えましたっけ?」
「いや、だが聞いても覚えない」
「狭い部屋に男女が二人、それで名乗りあわずの情交というのも中々素敵ですよね」
「ローだ」

素早く名乗った。女はころころ、と笑う。そうしてきちんと膝を閉じてから、ベッドの上で正座をする。ぴっしりと姿勢を整え、こちらに向かって三つ指ついて頭を下げた。

ですよ。脚の血は染み付いて消えないだけ、朝と夜と情交後にはお風呂に入ってますから変な病気もありゃァしません」

女、、と名乗ったその女、堂々と奇妙なことを言い放つ。ローは眉を寄せ、とりあえずこの女はどうすれば出て行くのだろうかと考えた。

抱くなり犯すなりしてみれば「任務完了!」とばかりに出て行くのか。だがしかし、ローはこうしてベッドの上にが乗っていても、まるでやる気が起きない。体つきが確かにほっそりとしすぎているが、ローは豊満な女性よりもどこか中性的な女の方が好みであるから問題はないはずだ。髪の色も白だろうが黒だろうが関係ないはず。目の色は真っ赤だが、閉じるなり後ろ向きにさせるなり、どうとでもできる。しかしやる気が起きない。

喰え、といわれているからか。命令されるのは気に入らない。だがしかし、お膳立てされて何もせぬのもどうだ、という心もないわけではないのだから、これはまた別のように思える。しかし、目の前の、真っ白い髪をした真っ白い顔の、脚の間が赤黒い血で汚れている女をどうこうしよう、とは思わない。

「この血はお気になさらず。わたしの王子の心臓から流れた血ィなんですよ。姉さんたちが魔女に髪を渡して作ってもらった短剣はちょっと鋭すぎて、刺した私の脚やらお腹にまでべっとりかかってしまって」

困ったものですよねぇ、と、コロコロと、が笑う。笑うと妙に可愛げがあるが、しかし、どう聞いても言っている言葉は可愛げどころか、正気が感じられないものだ。ローは胡坐をかいたまま方杖をついて、やはりこの女の頭はおかしいのだ、と判断するか一瞬迷った。しかし、面白いことにこの女の目はどこまでも正気であるし、言葉にも嘘というのも、狂気と言うのも見当たらない。狂人こそは真実を掴んでいる、という格言を思い出しつつ、ローはぎしり、とベッドを軋ませる。

「王子を刺したから、アンタは泡になって消えずに済んだのか」

子供の頃の絵本を思い出した。確か、そういう話だ。『人魚のお姫さまは大好きな王子さまと結婚することはできませんでした。王子さまは別の女性を愛してしまったのです。王子さまに愛されなければ、人魚のお姫さまは泡になって死んでしまいます』ローは男だったから、その話をとくに好きだとも嫌いだとも思わなかった。けれど確か、母親が好んでいた。毎晩毎晩、何度も何度も、ローにその物語を読んでくれた。だというのに、今日の今まですっかり忘れていた。おふくろは泡になって消えたかったのか、と問いかけてみたいが、生憎もうそれもできない場所にいる。

「えぇ、だって、わたしは自己犠牲が尊いなんて思いませんからねェ」
「女ってのは悲劇のヒロインになりたがるもんだろ」
「偏見ですよ。昨今はどちらかといえばS系ヒロインのほうが人気があるそうで」
「どこの情報だ、そりゃ」
「グランドラインで大人気、シェイク・S・ピアの小説のヒロインは全員強気です」

言われた名前にローも聞き覚えがある。グランドラインで広く知られる解剖学書から応用のきく晩御飯の作り方までありとあらゆる本を書いている詩人の名である。なぜか「モテる白くまのポーズ」などというものもあって、ベポが真剣に読んでいた。(その姿は本当に愛らしかった…!!!とローは日誌に書き殴っている)

「で、自分が死ぬのが嫌で王子を刺したのか」
「当然でしょう。助けたのはわたしなのに、あのひと気付かないで別の女とベッドを共にしたんですよ?なんでわたしがそういう人のために死なないといけないんです」

あの話は、確か自分の命よりも相手の命を尊び、そしてそれこそが深い愛情だとか、そういう教訓話ではなかったのだろうか。この女が本当にその「人魚のおひめさま」かどうかはさておいて、聊か童話を侮辱した発言である。それがローには面白く、うっすらと唇を吊り上げた。

「妙だな、血を浴びたら尾びれに戻るはずだ。でもアンタは人間のままに見える。その脚もまだ本物に見える」

ローがを人魚だと信じているかどうかなど、当人にはあまり興味がないようだった。それも当然、恐らくはこの島の住人原因がをイカレた女だとそう思っていて、そしてはここにいたのだ。そういうことは慣れていて、そして次第に意味を失ったのやもしれぬ。疑うような言葉をあえて向けても気分を害した様子もなく、肩を竦める。

「海の魔女は意地が悪いんですよ。声と命は返してくれても、海には戻れないようにしたんです」
「魔女の恨みでも買ったか」
「女の恨みを買ったんですよ、面倒なことにね」

は面倒くさそうに長い髪を梳いて息を吐く。こうして見てますます、その仕草は「色っぽい」部類にはいるはずなのに、まるで色気を感じないという意識が強くなる。この女が本当に人魚だとすれば、あれか?魚相手に欲情したら人間終わりだとかそういう防衛本能か?とも思う。

「王子さまの結婚相手の女、わたしが王子さまを刺したら悲鳴を上げて海に飛び込んだんです。金銀財宝で着飾ったお姫さまですからね、あっさり沈んで、海の魔女に会いに行きましたよ。それで、あの女はわたしが海に戻れないようにって、呪いをかけたんです。海水に浸かると泡になるんですよ、わたし」

とりあえずどこから突っ込みを入れるべきか、とローは真剣に考える。これが頭のおかしい女の空想ではないのなら、あれだろうか、グランドラインって不思議だな!とその一言で終了させられる問題なのだろうか。悩むが、しかし、実際のところ自分に何か実害があるわけでもない。この女がたわごとを連発させたからといって、愛らしいベポの真っ白い毛が所々黒くなってパンダになるわけでもない。(いや、それでも愛らしいが…!!!)

それにしても女というのはやたらと身の上話をするか、それともまるで話さぬかのどちらかだが、こうも堂々と作り話っぽいものをされるのは始めてだった。そしてそれがもしも本当の話だとしたら、いくらなんでも初対面のこの自分にここまで話すのは聊か妙である。何か企んでいるのか、と、ローは探るようにの真っ赤な目を覗き込んだ。嘘などまるでつかぬようで女というものは平然と嘘をつく。男も嘘はつくものだが、しかし、女の嘘の恐ろしさは意味のなさである。何の裏もなく、ただ自分に疑わせるためだけにこういう言動をする、という可能性もないわけではない。ローが真っ直ぐに瞳を見つめると、が眼を細めた。

「確かにこのお店、一階じゃァ今現在おにぃさんの賞金を頂いてしまおうって店主さん以外はやる気になっているし、ねぇさん方はにぃさんをどう色で落としてその首を頂こうかって思ってるみたいですけどねェ、おにィさん、わたしが興味あるのはにぃさんの首やら賞金じゃァなくて、お船だって言ったら、乗せてくれますか」
「よく喋るな」
「ずっと喋れなかった反動でしょうねェ」
「おれの船を知ってんのか」
「小さな港ですよ。あんな面白いものが出てきたら皆すぐに知れます」

隠しているわけでもないのでローは納得した。ローが船長を務めるハートの海賊団、その船は潜水艇である。海賊かそれ、と突っ込みを入れられたこともあるが海賊旗を掲げていれば海賊である。そしてローはの言葉の前半部分を考えた。この港には海賊ばかり、まぁ、ローは自分が負けるなどとはつゆほども思わぬが、いろんな連中が束になってかかればどうにかなると夢を抱くのもわかる。昨今自分は億越えのルーキーと呼ばれていて、そう呼ばれているのはローを含め全部で11人。その中で一番「普通」の外見をしているのは自分と、あとは麦わらの海賊くらいなものだ。他はそれぞれ一目で「犯罪者」という顔をしているのは手配書で確認済み。そういう連中の中でさして強面でもない人間がいれば、侮りやすくもなるというもの。

来たところで返り討ちにするだけである。それも普段なら面倒と思うが、今は何も考えずに済むのでいい、とそういう心。しかし、じぃっとがこちらを見つめている。

「なんだ」
「わたしを海の中に連れて行ってくれませんか」
「受ける理由がない」
「そこをなんとか」
「なるわけあるか」

仲間以外を船に乗せることは滅多にない。潜水艇は玩具ではないのだ。扱いも難しいし、潜水中の注意もある。仲間であれば出来ること、観光気分で乗られても面倒なだけだ。あっさり断って、ローはベッドから降りると暖炉の前かけた自分の服を掴む。まだ多少濡れているが、着れないこともないだろう。どの道仲間のところに戻れば一度着替えるつもり、さっさと着替えを始めると、ドンドン、と扉が叩かれた。が入ったときに扉は閉められ、ご丁寧に鍵までされていたらしい。こうなると、あながちこの女の言っている言葉も(下で狙われている云々)嘘ではないのだろう。

ローは刀を肩にかけ、さてどうしようかと眼を細める。の妙な寝ぼけた話を聞いている最中は考えずに済んだが、しかし、こういう冷静な頭になると、嫌でも【仲間が死んだ】そのことを思い出す。

つまりは、冷静であり、そして好戦的デアルトラファルガー・ローというのはハートの海賊団のキャプテンであり、船長しての心構えを常に持っていなければならない生き物で、それであるから負けなど許されずまた、常に、仲間のこと頭に入れているのである。

ベッドの上ではそうではなかったのか、と、改めてローは考える。いや、明らかに妙なことばかり言われて脳が必死に理解しなければと他のことを考えるスペースも駆使していただけだろうか、しかし、ローは、一人でこの酒場で飲みたいと思って、それでも静かなところよりも騒がしいところを求めていた。つまりは、雑音にでも意識を引っ張られて何も考えないでいい状況を作りたかったのではないか、と、そう、それを、改めて、こうして、再度、トラファルガー・ロー、になって思うのであった。

仲間は好きだ。だが、自分だけが船の中で船長だ、と時々ローは思うのだ。船長、船長、船と船員を守る者。ローはそれだ。ローは仲間を心から愛しているが、彼らは船長ではない。ローは船で一人ぼっちだった。仲間はいる。愛している。本当に、愛しているんだ。でも、ローは、船長はたった一人だった。それであるから、仲間が死んだ。皆、悲しんだ。苦しんだ。だがしかし、ローと同じ苦しみは誰にもわからないのは、当然のことだった。仲間を失って悲しむ仲間の中に、ローは入れない。そして、誰もローと同じ気持ちではないのだ。同じ「悲しみ」ではあるけれど、それはまるで違うものだった。ローは、仲間を失ってそれが顕著になると思う。どうしようもないことだ。仲間の一人はそんなローを察する。しかし、それでも、彼でもどうしようもないことだ。

「おい、アンタ」
ですよ。可愛らしくちゃん☆とか呼んで下さってもそりゃァ構いませんが、キャラ考えて発言してくださいね」
「アンタ、シェイク・S・ピアの本を読むのか」
「えぇ、読みますよ。出版されて一般人が手に入る本ならほとんどね」
「そうか」

を船に連れて行けばベポが喜ぶ。仲間内で読書をする者は、ローを含め何人かいるものの、同じ作家を愛読、というもの今のところ、いない。ひょいっとそのまま女の腰を抱き上げて、ローは窓の外へ飛び出した。が一瞬驚いたように喉の奥で悲鳴をあげ、しかし、すぐにやけに真剣な声で「ここはこう、ロマンスの定番、出会って数分でおひめさま抱っこ、してください」と言って来た。このまま落としたい衝動に駆られながら、ローは何とか脳内でベポの笑顔を思い浮かべることでそれを耐えた。

そういう、ノリだか勢いだかわからぬ理由でがハートの海賊団に乗船することになった。仲間は「船長のいつもの気まぐれ」とさして驚くこともせず、寧ろ女の形でまるで女の気のしない、といって男くさいわけでもない妙な生き物のに、すぐに馴染んだ。中でもベポが一番喜び(聊かローは嫉妬を覚えたほど)あれこれとに船のことやら何やらを教えている。もう少し警戒しろ、とは思いつつ、もしもが何かしら悪意を持った生き物であったとしても、ローたちはあまり困らぬ、という原点があった。

は女の子だから、おれの下ってわけじゃないよ。おれは男だから、女の子は大事にするんもんなんだ」

仲間の一人が冗談交じりにベポに「自分より下が出来てよかったな」と声をかければ、ベポはオレンジ色のつなぎ姿、胸を張って自慢げに言う。それが本当愛らしいとローは日誌に(以下略)

は「人魚の話」を平然と船員にする。最初は聊か疑わしげな目をした連中も、当たり前のようにが「そうなの」と振舞うもので、次第に「そうなんだ」と飲み込むことにしたらしい。それを、そういう、妙な暗示なのか、それとも放置なのかよくわからない、その、認識がいきわたるのを、じぃっとローは眺めていた。

「気になるのか」

食堂の机に肘を突いて、ベボとを眺めているとPENGINと書かれた帽子を被ったクルーが近づいてきた。先日ベッドの下からエロ本が発見されて、罰ゲームで「ペンギン」と呼ばれることになった仲間である。本名をローは忘れないように日誌に書くが、何となくもうペンギンでいいんじゃないかと思う。当人が知ったら落ち込みそうなのでいわないが。そんなことをぼんやり思っていると、ローの向かいの椅子に腰を下ろして、ペンギンもとベポに顔を向ける。

「あの子をどうするんだ」
「お前はどう思ってる」
「俺が聞いてんのに、聞き返すのは卑怯だな」

女には弱いが、船の中で一番話しが合うのがこの男だとローは思っていた。仲間は全員好きだが、話のテンポが合うのだ。こちらが聞き返したら、一応の文句を言いながらもペンギンは一瞬考えるようなそぶりを見せて、肩を竦める。

「ゲスト」
「まぁ、そうだろうな」
「仲間だって挨拶じゃなかっただろ。あれは」

連れて来た時のの様子を思い出す。はこの船の仲間、ではない。海賊、でもない。ただ船に乗っているというだけ。お客様扱いだ。ベポがあれこれ言って何かしらはする。けれど海王類に出くわしたときや戦闘の際には船長室に閉じ込める。皆には慣れたが、誰もを仲間、とは思っていない。

もそれは同じようだ。連れて来た時「乗せてもらいますねェ」とあのやる気があるのかないのかわからない顔で言っただけである。

そういう中途半端な状況は自分だったら屈辱だ、とローは思う。しかし、それが女と男の違いなのか、はたまた、がそういう生き物なのか。女心なんていうものはさっぱりわかりもせぬもので、さらにの心境なんぞ考えてもわからぬもので、ローはさて、どういうつもりであの女はここにいるのか、というのを、もうすぐ次の島に着くことがわかっていて、改めて考えた。

海の中に連れて行ってほしい、とそう言ってついてきた。潜水中でも海の中は見れる。ローはとりあえずは約束であるからと、連れて来てすぐにに海の中を見せた。ローは能力者。海に嫌われている。この船でなければ、もう二度と海の中を見ることは出来ない。それであれば、同じように海から拒絶されたの心も多少なりともわかろうかと思いがちだが、その、海の中をじぃっと、じっと、何時間も何時間も眺めて、それっきりだった。

「どうする?キャプテン。もし、が政府か何かの人間で頭のおかしいフリしてキャプテンに近づいて、この船を調べてるとしたら」
「それなら単純で助かる」
「確かに。ホントに人魚だったりしてな」

ペンギンが冗談めかして笑った。黙っていればそれなり、しかしこの男は口を開くと三枚目になる。ローはそれが面白いと思っているのだが、時折騙される女がいるらしく酒場などで「うそつき!」と平手打ちをかまされた姿を何度か目にしていた。

人魚、といわれてローもの姿をじぃっと眺める。「そういう」つもりでつれてきたわけではないので未だに手は出していない。の部屋になっているのは空き部屋だ。前は物置に使っていたが、今は簡単な寝床だけ用意させてが使っている。ローの部屋からさほど離れていないが、近いというわけでもない。けれどこの船の船長はローで、そしては「お呼ばれ」された立場であるから、抱かせろ、犯させろ、と言えばどうにでもなる関係である。しかしローは未だにに手をつけようとは思っていなかったし、わりと好色な仲間もを「女」とは見ていない。いや、男として前に出て背に庇うべき対象である、とは思っている。しかし、性別的に自分たちとは違う、という差別はあっても、意識はしていないのだ。それがローには奇妙に思う。やはりは人魚なのか、とそんな結論を出したら何もかもあっさり解決するのではなかろうか。

ローはじぃっと、今度はペンギンの顔を見る。妙な帽子を被っているが己とそう年齢も変わらぬ男。北の海から一緒にいて、いろんなものを見てきた仲間である。ローは少し前に死んだ仲間の顔を思い出す。仲間といると、必ず考え、思い出してしまう。

あいつが死んだのは俺が弱かったからだ。誰もが違う、といってもローはそう思う。船長だから、自分は船長だから、船員を守らなければならなかった。仲間が強いのはわかっている。しかし、海にはもっともっと強い連中がいて、ローは、仲間がそこまでの強さにはまだなれていなくても、自分は絶対に、そこまでいかなければならないのだと、そう、信じている。船長だからだ。

それなのに、ローは絶対無敵の船長にはなれなかった。力が足りなかった。

「あァ、ペンギンのおにィさんも来てたんですか。ねェ、聞いてくださいよ、ベポさんの好みのくまの話を聞いてるんですけどねェ」

思考に沈みかけるローの頭をぐわぁんと殴ったように、はっとさせたのはの声だ。顔を上げればランプの下で妙に目立つ白い髪のがローとペンギンを眺めていた。


++



真夜中に廊下を歩いていると、真っ白いショールを肩にかけたと遭遇した。身一つで船に乗せたが、女の着替えなどあるわけもなくは自前の、ぼろ布のような粗末なドレスと、そしてハートの海賊団の制服のようなつなぎを代わる代わる着ている。しかし就寝時は薄いキャミソールのみらしく、それでは風邪をひくと案じたペンギンが古いシーツを渡した。するとは器用なもので鋏やらなにやらを使って、あっという間にショールを作った。女は布一枚渡せばカーテンからドレスまで何でもこしらえられるもんだと、ローは以前誰かが言っていた言葉を思い出す。

「海の中は暗い」
「ここは夜半の挨拶から入ってさりげなく会話をって言う流れじゃァないんでしょうかねェ」
「面倒だ。夢を見る人魚姫、実際の海は暗いだけだろ」
「おにィさんがニンギョヒメとか言うと医薬品の名前に聴こえるだけでロマンチックさがまるで感じられませんねェ」

廊下には海を覗ける丸いガラス窓がついている。軽口を叩きながらも、じぃっと、じっと、身じろぎもせずその外側を食い入るように眺めているの姿は必死で、必死で、不気味ですらあった。

ローはを始めて連れてきたときから、「海の中はどうだ」という感想を聞いていない。聞きたくなかったのかもしれない。海の中。海の底。子供の頃は何があるのかと、不思議な世界、キラキラ光っているように思えたものだ。天空、海底、見たことのない場所。おとぎばなしを愛する心美しい少年、であった黒歴史なんぞはさすがにないが、しかし、海底に夢を見ていたことは確かだ。能力者となって海からいっそう引き離されては、なお、その夢は募った。己はもう二度といけぬ世界。もう二度と、知ることのできない場所だと、そう夢に見て、そして、この船を得た。

自分が始めて、この船で、安全に守られた状態で、深い深い海の中を潜った時は何を思っただろうか。思い出そうとして、ローは止めた。

透明な窓ガラス、分厚い窓に指をつぃっと触れさせた、ゆっくりとこちらを振り返る。足元にあるランプのみが光源だ。ローの顔も、の顔もよく見えない。それであるのに、じぃっと、真っ暗なだけの海など眺めるのは、やはり頭がおかしいのだろうか。

「ここはそういう所じゃァありませんか」

何を言っているんです、と、呆れるように、やけにあっさりとが口を開く。黙っていれば、この女は様子が奇妙でイカレているんじゃなかろうかと疑いたくなるが、しかし、言葉を話せば正気しか感じられない。(言っている言葉は少々アレだが)

ローは壁に寄りかかって、腕を組む。が振り返って、ショールを肩口で抑えた。真っ白い髪がぼんやりと暗闇の中に浮かぶ。老婆というよりは、何か毛皮でも被っているのではないか、というような色だ。

「わかってて、ここに来たかったのか」

潜水艇、というと夢を見る。海の中がキラキラと輝いて、魚のパレードでもあるような、そんなことを夢に見る。しかし、実際の海というのは真っ暗だ。魚に遭遇して眺めることはできるが、それなら深い海の中でなくとも、見ることはできよう。

は「これがそう」であるとわかっていた口ぶり。ローは首を傾けて、眼を細める。は白い頭をローに向けて、再びじぃっと窓を眺める。

「えぇ、それでも、もう一度海の中を見たかったんですよ」

ぽつり、と小さな声。ローが沈黙して五分ほどたってからやっと返ってきた。ローは自分が問いかけた言葉の返答であるのか、それとも独り言なのか判じかね、ついっと、腕を伸ばし、指先を伸ばしての白い、後ろ髪を掴む。長い髪は若干ウェーブがかかっているゆえに、ひょいっと指を動かせばそのままくるくると巻きつけることが容易かった。女の髪に指を絡めるという動作は何か睦言を連想させるはずであるのに、相変わらずの体からは、女臭さがない。聊か乱暴に引っ張ってみればが振り返る。

「海の底にいるってのは、どんな気持ちだ」

ローはが恨みがましい目をせぬもので、ただじぃっとこちらを見るだけなもので、それが腹立たしく思えた。心が狭いのか自分は、とローは考える。いや、そうなのかもしれない。己はに足して、こちらにまるで興味と関心を抱かぬことに、この暫く、妙な苛立ちを覚えているらしかった。妙な出会いをして、それで、妙なノリで船に乗せた。船に、馴染んでも、それでもけして「仲間」にはならぬ、この女。そして、別段自分の居場所を作ろうとローのベッドに忍び込んでくるわけでもない。トラファルガー・ローにもハートの海賊団にも興味がない。無関心というわけでもないだろうに、一定の「ゲスト」としての線を越えようとせず、相手がそうであるからハートの海賊団は誰もそれ以上、この女を引っ張って来よう、とはしない。しかしローは、はただ海の中を見てみたいと、それであるから己に近づいた、と、そういうあっさりとしたものしかないのではないかということが、どうも気に入らない。

それはローがに関心がある、ということではないのだ。ただ、ここはローの船で、ローの海賊団で、ローの家だ。そこに入り込んだというのに、ローの中でという女がまるで馴染まぬのが、妙な気味の悪さ、得体の知れなさを感じさせる。

なんであれ、出来るだけ立ち居地というのははっきりとしていたほうがいい。この女を本当に『人魚』として扱うかそれとも「狂人」として扱うかどうか、と判じるためローは問いかけた。で、あるから、本当に海の中で暮らしていたのか、と、探るような、聊か意地の悪さもある言葉である。

はパチリ、と、その霜のような白く透明感のある睫を瞬かせ、そして伏せる。

「惨めですよ」
「そんなところに戻りたいのか」
「海の底でじぃっとしてるのって、結構惨めですよ。暗くて、寒くて寂しくて、それで、丘に幻想を抱くんです。キラキラ光っていてとても美しいから、そこに優しさがあるんじゃァないかって、そう、思い込んでしまうんです」
「で、出てきたってわけか」

そして現実を知ったのか、とローは続けて呟いた。仮にこの女が本当に人魚であったとして、そして「魔女」によって脚を手に入れたとして、憧れた丘の上、恋焦がれた王子とやらの元へ出て、はたして突きつけられた現実というものをローは思う。なるほどそれならば海に戻りたいという女の考えも、まるでわからぬというわけでもない。傷心ゆえに逃げ帰る、などという単純なことでもあるまい。再び暗い、寂しい海の底。その孤独の褥に横たわれば、はるか海面の丘、キラキラと輝く幻想を再度抱けよう。ここはとても酷いところだから、と、己を最下層に突き落とす。これ以上の寂しさなどはないのだと、それであるから上を見れよう。

いっそ丘に上がらねばよかった、などということは考えない。いや、寧ろ不運に見舞われるだけの時間であったとしても、僅かでも「本物の丘の記憶」があれば、胸のうちで美化して大事に大事に、繰り返し思い出すこともできるだろう。そういう浅ましい考えをローは別段軽蔑はしなかった。

は再び貝の様に口を閉ざし、じぃっと、海を見つめる。真っ暗で何もない海をなぜそこまで熱心に見ることができるのだろうか。薄い背、肩はローが触れて少し力を込めれば折れてしまいそうなほど頼りないのに、今その背は真っ直ぐにピンと伸びて、ローが話しかけるのを拒絶していた。

海水に浸れば、この女は死ぬのだという。そのことを思い出す。

「死にたいのか」

じぃっと見つめるその姿にローは問いかける。無視されるかと思ったが、ゆっくりと十秒ほど経ってが肩越しに振り返る。

「まさか。それなら何のために、あの人の血を浴びたかわかりゃァしませんよ」
「その時はそうでも、今はどうだ。死にたいのか」
「一応、お医者さまなのでしょう。おにィさん、そんなことを聞くのはヤボってもんじゃァありませんか」
「聞いたんだ。答えろよ、

初めて名前を呼んだ。ははっとして振り返る。その顔には驚きがあり、ローは満足した。そうしてはっとした、その顔に驚きと、僅かの正気のようなものが垣間見える。この女は頭のおかしい言動をしているが、その実まるで狂ってはいないのではないかと、そうローは確信した。告げられた言葉が全て事実かどうか、それはさておいて、この女は狂人の類、ではないのだ。

ローがここではっきりと名を呼んだ、その底にあるものに気付いた。他人などお構い無しに生きている生き物には出来ぬ「察知」である。

じぃっと、ローは辛抱強くの顔を見る。相変わらず女という気配はしない。しかし、見苦しい顔でもない。どちらかといえば良い女の部類に入ろう。それであるのに女の欲を感じさせぬその清々しい顔。こちらの意図をはっきりと悟ろうと念入りに見つめてくる瞳を見つめ返して、やはり互いに沈黙した。

もうすぐ次の島に着く。ローはを下ろすつもりだった。ベポと話をさせ、喜ばせることもできた。それでローは満足であるし、も海を見れたのだから、お互いに何も「約束が違う!」などと思うことはない。

しかし、ローは、気付いていた。己が何か思考に沈む(それがあまり、好ましくないことを考えている)時、必ずがローの気を引いた。意図されたものではない。それは確かだ。しかし、はそういうところがあるらしい。いや、あって当然なのだろう。船の「仲間」であればローの、考え込むその様子を気遣って放置する。しかしにはそういうものがない。それであるから、自分の心の赴くままにローに話しかける。そのタイミングが常に絶妙なのだ。男女の関係において体の相性というのがあるが、とローは、そういう、タイミングが良かった。

自分を「人魚」だというの言葉、それはローにはどうでもいい。だがしかし、ここでが「正気の生き物」であるとわかって、その上で、己の傍に今しばらく置いておこうと、そう決めた。それであるから名を呼んだ。そして、そのこちらの意図をは気付いた。

どう答えるかは次第である。ローは船に誰かを「乗せる」時、けして無理強いはしない。来るか、とそう言葉、あるいは態度で問いかける。決めるのはいつだって相手に任せる。船に乗ればある程度はローに従わなければならなくなる。それであるから、自分の意思で決めさせるのだ。

ローはを特別欲しい、とは思っていない。だが、来るなら来い、とは思った。それであるから、その、僅かな興味はあったから、こういう選択肢を提示する。こなくてもそれはそれで構わない。次の島で別れればそれっきり、ローはもうを思い出さないだろうし、も自分たちのことなど忘れるだろう。その程度のものであった。だが、ローは、今のこの状態、どこまでも「ゲスト」である、というの状況を続けるのが「気持ちが悪い」と思うのだ。それであるから誘いをかけたのかもしれない、とも思う。がいれば、嫌な思考に沈むことがなくなる、という利点よりも、こういう、正体の定まらぬ、敵にも味方にも何にもならぬ不気味なものがいることが、いやなのかもしれない。その為に「どっちだ」と問うているのかもしれない。

は長い睫を2、3度上下させて、静かに息を吐く。

「わたし、生まれはグランドラインなんですよ。おにィさんは北の海、でしたっけ?」

グランドラインで名を他人から叫ばれるときは、ローは“死の外科医”という二つ名よりも「北の海の」とつけられることの方が多い。隠すことでもない。も知っているらしい。頷けば、は再び海に白い顔を向ける。

「ねぇ、グランドラインの海水はダメだけど、もしかしたら、北の海の水は潜れるかも知れないと思いませんか、ロー船長」

言って、静かにが腰を折る。裾のキャミソールの両端をちょんと指で掴んで広げ、恭しく頭を下げる。その途端に、はハートの海賊団の団員になった。カッチリ、と何か不揃いだったものがきちんと収まる音をローは頭の中で聞く。不気味で正体不明だったの顔が、途端、ローにとって馴染みのある「仲間」の顔になる。恐らくは、が見る己の顔も、恐らくは、「船長」の顔になったのだろう。

その途端、ローはと出会ってから消えうせていた孤独が再び襲ってくるのではないかと身構えた。船にいるのが常に「船長」と「団員」でしなかった、と会う前に戻るのではないかと、そう覚悟した。しかし、どれほど待っても、その恐怖は襲い掛かっては来ない。

もう一度、ローはの顔を見つめた。じぃっと、同じように見つめ返してくる目を覗き込めば、がニコリと笑う。笑うとえくぼができる、という愛らしさはない。こちらの状態に気付いているような顔だった。ローは眉間に皺を寄せ、何か言おうと一度口を開いたが、しかし何を言おうとしているのか自分でも一瞬、わからなくなる。

しかし、とにかくこの女は、今この瞬間からローの船の仲間になった。それは確実だ。だから、ローはを守る義務ができた。開いた口を一度閉じ、また開く。

「歓迎する。ようこそ、ハートの海賊団へ」





 

 

 

 



偽った舌先が剣(ツルギ)になる

(さて、誰のどの言葉が“嘘”でしょう)











ヴィン様主催の「T.L」企画に参加させていただきました…!!ロー…!!ロー夢…!!迸る愛はあるのですが…どうも…あれ?これ夢要素は…?と首を傾げました。ですが、書いてて楽しかったです!
ですが…他の参加者様がたの素敵作品に気圧されて「わ、私などが参加していいのか…?」と不安です(笑)
この企画のために夢主は書き下ろしたのですけれども、続編書けそうですね…これ。

ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。
また、素敵企画に参加させてくださって本当にありがとうございました!!

(2010/05/21 14:44)