港に停泊して暫く、ログが貯まるまで数日かかると聞いた。キッドは昨晩の酒がなかなか抜けぬので、港に急いで降りる必要もなかろうと思い一人自室の寝台に横たわっていた。グランドラインの破天荒な天候。
気を抜けばあっさり殺される海に身を置いて嫌と煩ったことはただの一度もないけれど、けれど、時折こういう「平穏」を迎えることをキッドは歓迎していた。特に誰もいない空間、ただ惰眠を貪るのは最高の贅沢だと思っている。仲間といたくないわけではないけれど、時折そういう、ひっそりとした孤独をキッドはきちんと感じたくなるらしかった。
それで寝台の上に横になり、眠るときの癖でうつ伏せ、枕を腹の下にいれた体勢でぐだぐだと日中を過ごす。夜、日が沈んだ頃には酒も抜けよう。それからキラーたちと酒場にでも繰り出そうか。前回の島で聞いた話によればこの島の町の規模は中々に大きく、酒場、娼館がいくつかあるのだという。町の規模が大きくなり栄えればその分影もできる。スラム街があるのか知らないが、キッドの経験上、ここにもそういう、自分やキラーたちにとっては「馴染み深い」ある意味現在の褥となる海よりも親しい世界があるのだと、未だ陸に降りぬ身であれど、その気配を感じ取っていた。
キッドは、ユースタス・キャプテン・キッドは、港のある島に行きそこに娼館があれば必ず顔を出すようにしている。女たちはいい。打算や金への汚さはあるけれど、キッドにとってはその「汚さ」が心地よい。単純な顔をして、けれどみな一様に狡猾で、そして愛情深い生き物だ。キッドもキラーも、海賊として生きる上で他人の愛情なんぞ必要とは思っておらず、憎まれ嫌われることはあっても愛されることはなかろうとせせら笑っているものの、けれど、娼婦たちの病んだ肌に触れるとキッドは妙に落ち着いた。
「意外にお酒、弱いですよね、お頭さんって」
コンコンコン、とノックが3回。粗野で乱暴な海賊連中に囲まれてそれでも礼儀作法をけして破らぬ女、キッドが生きてきた、そしてこれから生きていく世界とはまるで違う場所にいるとありありとわかる女が入口に立っていた。キッドは扉を閉めぬ癖がある。いつでも出て行けるように、そして外の様子がわかるようにとそういう配慮、ではない。扉の下に立つ涼しげな容貌の女、シェイク・S・はノックした手をそのままこちらをじっと、そのアメジストの瞳で見ている。首だけ動かしてキッドはそれを確認し、面倒くさそうに唸る。
「あっち行けよ。今はてめぇの相手をする気分じゃねぇんだ」
「それはそれは、寂しいことを仰る。お頭さんがお相手してくれないならとくに趣味も友人もないわたしは釣りをするか詩を綴るか料理をするかショッピングをするか賞金稼ぎをするかあるいはキキョウ殿とガールズトークをしにいくかはたまたジョルゼルさんに新しいレシピを教えてもらいに行くくらいしか時間をつぶせることがないじゃあないですか」
「……」
テメェエエエエエエエエエエ!!!それのどこが無趣味なんだァアアアア!!!!思いっきりおれ=暇つぶしじゃねぇかァアアアアアアアアアアアアアア!!!!
いや、待て、言い返すな俺。
キッドは扉の下で平板な声のまま堂々とのたまう女を意識せぬようぎゅっと目を閉じた。シェイク・S・、詩人の魔女。自称文士というが、詩人と文士の違いはキッドにはわからない。一緒に育ったのになぜか自分より学のあるキラーなら分かるかもしれないが、のことをキラーに聞くのはどうも気に入らぬので聞いたことはない。その、言動の8割がからかいや揶揄というロクでもない女。まともに受け答えしては自分が苛立つだけとキッドは学んでいる。
ただでさえ二日酔いで頭が痛い中、さらに頭の痛くなる女とのお喋りなんぞ。冗談ではない。
無視するに限ると無言を決め込んでいると、は何か考え込むように「ふむ」とわざとらしく口元に手を当てる。気にしたくないが、気配の感じられる範囲にいればキッドは嫌でもを意識せざるえなかった。シェイク・S・、一目で「教養のある良い所の」とわかる女。世を密かに面白がっているとしか思えぬ口元はキッドにとっては腹立たしくあるだけであるのに、その気配ばかりは妙に、本当に、奇妙なことにキッドの中にしみ込んでくる。磁力でもあんのか、と疑惑を抱いたこともあるが、はころころと喉を猫のように震わせ笑っただけだった。
「そうですかそうですか」
ひたすら無言、の存在を追い出そうという姿勢を貫くキッドの背中。それをじぃっと眺めて暫く、がころころと面白そうに笑う。キッドは見たわけではないが、いつものように目を細めてにんまりと笑っているのだろう。その声音に、なんだかロクでもないことが起きる予感がしたキッド、けれどもここで顔を上げれば負けだと思うて耐えていると、そのままの言葉が続いた。
「それなら今トラファルガー・ローがこの船に来ていてキラーさんと一触即発の睨み合いに発展している、なんてわたしの好意的な感情による素早い報告を聞いてはくれないんですね」
「早く言えよ!そういうことは!!!!!!」
飛び起きて叫べば、シェイク・S・がその美しい顔を綻ばせててから優雅に腰を折った。
「おはようございます、お頭さん。それじゃあわたしと同伴してくださるんですよね」
愛が君の邪魔をする
慌ててコートだけ羽織ったキッドが甲板へ向かうと、そこには目立ったところにキラー、対峙する顔色の悪い男は紛れもないトラファルガー・ロー。死の外科医と言われ、キッドの耳にも悪い噂ばかりが入る男。億越えの賞金首に恥じぬ堂々とした様子で(一見は丸腰)立ち腕を組んでキラーを睨んでいる。
「何度も言わせるな。おれはユースタス屋に用がある」
「キッドに何の用だ。まずはそれを答えろ。敵船の船長に、おいそれと自分の船の船長を会わせられるわけがない」
「おい、キラー、何してんだ」
一触即発、というほど危うい空気ではないものの、キラーもトラファルガーも「常識人」と大手を振って触れ回れる人間ではない。キッドは何気ない口調を装い、今起きてきたという態度を崩さずぽりぽりと頭を掻きながら甲板を進んだ。
キラーや船番を残してクルーはおらず、だからこそ騒ぎになっていなかったのだろう。人数がいないからこそキラーは警戒したのだろうが。
「キッド、」
「よう、ユースタス屋」
「起き抜けに胸糞の悪ィ面見せんなよ、トラファルガー」
声をかければ振り向く二人。キッドはキラーに目配せをして「やりあうな」とだけ告げると、そのままスタスタとトラファルガーに近づいた。こちらも一見は丸腰。だが互いに海賊団の頭、手足縛られても相手を殺す手段を心得ていて当然の者だ。警戒せぬのは愚か者だが、キッドは臆病者ではなかった。
せせら笑い、とりあえず相手の出方を見ようと罵倒してみれば、トラファルガー・ローは食いつきもせずまっすぐにこちらを見返してきた。片眉を跳ねさせる程度の反応も見せぬ。
「……なんだ?」
真面目な反応だ。こちらの挑発を受け流すような男ではないはず。シャボンディでは「助けてやるよ」と言っただけで根に持たれた。(キッドも根に持っているが)
そういう男がこの反応。要件はなんだ、とキッドが声のトーンを落とせば、トラファルガー・ローは一度ちらり、とキッドの後ろ隣りに目をやって「そいつをうちの船に入れたい」とそう答えてきた。
「……キラーをか?」
「キッド、おれはこっちだ」
何となくキッドは振り返って後ろ隣りを確認したくなくて、とりあえずキラーかと確認してみた。すると、やはりキラーはキッドの目の前、トラファルガーの隣にいるわけで、それならやはり、うん、確認したくないのだが、自分の隣にいるのは。
「寝ぼけてんのか、ユースタス屋。シェイク・S・に決まってるだろう」
「テメェこそ目ェ開けたまんま寝てんじゃねぇのか、こんな女を船に乗せたって百害しかねぇぞ」
「酷い言われようですね、お頭さん、わたし傷つきました」
振り返らぬままでいたのにトラファルガーが容赦なく答えを突きつけてくる。キッドは真面目にトラファルガー・ローの正気を疑い、問えば、隣でが心外そうな顔をする。戦闘中に堂々と人の背中に鞭をしならせ邪魔をして、さらには人質になる常習犯のような女が何を言うのか。
しかし、シェイク・S・、と、この男の口から彼女の名が紡がれ、一瞬キッドは神経が逆立った。
得体の知れぬ女。魔女という女。詩人という妙な力を使う女。どうひっくり返してもまともではなく、そして厄介極まりない女を、何をどうトチ狂ったら「欲しい」と思うのか、それはキッドには理解でぬが、だがしかし、しかし、だからと言ってこの男がの名前を呼ぶのを許せるキッドではなかった。
戦闘の意志はないと感じ取っていたが、自然キッドの目じりが吊り上る。
そういうキッドの目つきに気付かぬわけでもないだろう。というのにトラファルガーはくいっと顎でを指した。
「そいつ、魔女なんだろ」
魔女、魔女。魔女。グランドラインを渡っていればそのうち知る「魔女」のこと。海軍本部にいる魔女こそが「魔女」を指すのだが、この場合トラファルガーが言いたいのは「能力者としての魔女」だろう。
「だったらなんだ」
キッドは幼いころ育った島で魔女を見たことがある。老女だった。貧しく、けれど知恵に富んでいた。彼女の話を聞くのが好きで、食べ物を盗んではキラーと共に彼女の小屋を訪ねた。老婆は炎に焼かれて死んだ。魔女はそういう死に方をすることが多いと、そう聞いていたが、未だにその光景、焼け付いた匂いはキッドの中に残っている。
を魔女と知り近づいてきた。警戒するには十分だ。キッドは、確かにシェイク・S・はロクでもない女で、何を考えているのかさっぱりわからずいつも他人を振り回し、それをころころと楽しんでいるような外道の女と思っていても、それでも、しかし、それでもシェイク・S・は己の船の一員で、船長であるキッドは彼女の力より強い者が彼女を狙ってきたら自分が守るべきだとそう決めている。
トラファルガーを睨みつけ反応を待つ。一見はやりあう気などないという顔をしている男だが、を「魔女」として「引き入れる」と言うのだ。油断など欠片もするわけにはいかない。
「ユースタス屋には関係ない」
沈黙して数秒、トラファルガー・ローは腕を組んだ体勢のままぽつり、とそっけなく答えた。愛想がないにもほどがある。
「関係ねェんなら人を名指しで呼び出すんじゃねェよ」
自分の船のクルーを勧誘しておいて関係ないも何もないはずだ。キッドが言えば、ローは目を細めを、そしてキッドを交互に眺めた。
「船を移動するなんてのは個人の問題だ。元々ユースタス屋を呼ぶつもりはなかった。町で見かけたそいつに声をかけて誘ったが、お前に話を通せと。よく躾けてんな」
なるほどそれでこうして態々船に来たらしい。
仮にも海賊が、敵船に単身乗り込んできた。それほどを欲しいのか?キッドはいったいなぜそこまでのリスクを払おうとしているのか、そのことが疑問だったが、その前に判明させておきたいことがあった。
「おい、。トラファルガーになんて言ったんだ」
「はい。それはもちろん『生憎私は身も心もキッドのお頭さんのもの…船を移動するならキッドのお頭の首と一緒でないといけません』と!」
「!!!!テメェエエエエエエエエッ!!!」
素晴らしい回答をしたと自信満々に答えるシェイク・S・。ぐっと親指を立てる仕草から完璧に「わたし良い事いいましたね!」と主張しているのがわかりキッドは額に青筋を浮かべた。
「いやですよ、お頭さん。ウィッチジョークじゃないですか」
なぜ怒鳴るのかと心外そうにが眉を寄せる。キッドは思わずの肩を掴んでいたが、この女に怒鳴ったところで無駄だった。
「そういうわけだ。ユースタス屋、気を楽にしろ、すぐに終わる」
「おれの人生もな!!」
「違いない」
がっくり肩を落とすキッドに容赦なくトラファルガーが声をかける。諦めるわけにはいかないので、キッドは素早く突っ込みを入れ、絶妙なタイミングでキラーがそれに続いた。
「おい!!」
「はい、お頭さん」
「念のために聞くが、あっちに行く気はあんのか?」
常々「わたし、トラファルガー・ローのお嫁さんになりたいです」とのたまうである。この申し出がどういう意図のものかはさておいて、にとってはまたとないチャンスなのではないか。キッドは「是」と答えたら自分はどうするか答えも見つからぬのに問うた。
綿毛のようにふわふわとした髪を潮風に晒し、シェイク・S・は一瞬きょとん、と顔を幼くさせる。
「お頭さんはわたしに行って欲しいんですか」
「聞いてんのはおれだぞ」
「えぇ、わかってます。でもわたし、お頭さんに「行くなァアアアア!!」って言って欲しいんです。お頭さんとお揃いですよ」
この女は何を言っているんだ。キッドは顔を顰める。自分は海賊団の船長だが、船員の意志をどうこうしようと思ったことはない。頭を貼っていても、キッドにとって船員は仲間で平等だ。キッドの考えや、あるいは進む道が自分とは違うと思えばすぐに出て行っても構わぬ。自由であるべき海賊だ。縛り付ける気などない。(いや、それは普段の思考だが、しかしこのときキッドはにそれを適用させる、という決意までには至っていなかったし、それを自覚してもいなかった)
だというのにはキッドが「行かない」と言って欲しいのだろうと、そう問う。
「違いない」
「どういう意味だ、キラー」
「いや、別に」
がどういうつもりでそんな勘違いをしているのか、判断つかぬままでいるとキラーがマスクの中で苦笑しながら呟く。
誰かに向けての言葉ではなかったが、キッドは拾った。軽く睨めばキラーが肩を竦める。
その反応は妙に気に入らぬ。それでどういう意味だと問い詰めようと口を開きかけ、その前に、ぐっと自分の胸に手を当てて、恍惚、とした表情をしたが叫んだ。
「憧れのトラファルガー・ローにプロポーズされ、それを受け入れようとしているところに、これまでまるで意識しなかったお頭さんからの愛の告白…!!そして揺れるわたしの恋心!!!なんて古典ラブロマンス!!ファンタスティック!!!!大丈夫ですよお頭さん、わたしは頑張って波乱万丈な恋愛物語をお届けします!!!やはり三角関係の定番はヒロインを巡っての命がけの決闘!でしょうか?」
「行くなァアアア!!お前絶対余計なことして問題持参で帰ってくる気だろォオオオオ!!!!」
「嫌ですね、お頭さん。そんな当たり前のこと叫ばないでください」
キッドの脳裏に一瞬、しっかりと『わたし、やっぱりお頭さんとローさんのどちらも選べません。お願いです、わたしのために戦ってください。できればデスマッチで』とのたまうの姿が浮かんだ。
この女はやる。
確実にやる。
人生を「物語」と言い切り、それに人様を巻き込むことをなんとも思っていない女だ。どういうわけか恋愛小説に傾倒しているらしく、普段から「いつかわたし自身が恋愛小説のヒロインになれたら……えぇ、楽しいでしょうね(笑)」と目を細めての呟いている女だ。
いずれ強敵になるトラファルガーとやりあう。それはキッドにとって早いか遅いかだけのことだが、しかし、海賊王、ワンピースを目指すキッドの人生だからこそそれは挑む価値のあるものだが、にさんざん好き勝手弄られて挑むのは……不本意極まりない。
自分の海賊王への未来のために、絶対にを野放しにはできないとそう深く実感した瞬間だった。
+++
「ですが、さすがのわたしも、まず最初に用件くらいは確認しますよ」
そんな、キッドが決意を新たにしていることなどどうでもいいというように、くるりとはローに体を向ける。飄々とした発言をしていたと思えぬ、唐突に真面目な女の顔になった。
そのアメジストの瞳を抜け目なく、仄暗く光らせてじぃっとトラファルガー・ローを観察する。
手配書を見たときから「まぁ、イケメン」と感心した顔が目の前にあるというのは、中々に面白いものだ。写真映りが悪いのか、実物はの想像以上に整った顔をしている。
その男が己を「船に入れたい」と言う。しかし、「まぁすてき。プロポーズですね」とシェイク・S・、本心で思っているわけではない。この男のことをよく知るわけではないものの、このように得体の知れぬ己を船に、自分のねぐらに「招く」無謀さを、奇抜さを持ち合わせているとは思えないのだ。
ローは己を「魔女」とそう呼びそして「だからこそ」必要としているのだという口ぶりではないか。はこれまで詩人としての能力を悪用されそうになったことは何度かあるが、魔女としての力は誰にも知られていないはず。トラファルガー・ローが知っている、とはこの時点でも思えない。だがローは「魔女」「であるから」己を「招こう」としているという事実がある。
どういう意図かと、それを探るにはまだ情報が少ない。それで答えを待つ姿勢を見せれば、トラファルガー・ローは首を傾けてため息のように息を吐いた。
「条件、いや、用件次第か」
「当然でしょう」
「うちの船にはおれのクルーが多く居る」
「えぇ、存じておりますよ」
ハートの海賊団の船員についてはある程度の情報を得ている。己がトラファルガー・ローのおっかけになりたい☆などということはさておいて、この海で、詩人として生きるのなら情報は水よりも重要だとお師匠様に教え込まれたゆえのこと。
頷けばローは「そうか」とだけ頷き、さらに続けた。
「そのうち女が一人だけいる」
「それは初耳です。女性がいたのですか…!お頭さん、わたし失恋しました!」
「あー、そりゃ残念だったな」
ローとの「交渉」に入っているからか、立ち去らぬにしても蚊帳の外扱いされているキッドがやる気な下げに返す。
もう少し怒鳴った突っ込みを期待していたはこの話題でキッドを苛立たせるのは難しいと切り捨て、再度ローを見上げる。
「それで?」
くるりと振り返り声の調子を戻す。その変わりように突っ込みをいれてくれてもいいものだったが、トラファルガーは聊かも驚いた様子なく、淡々と続きを話す。
「そいつの世話を頼みたい」
「海賊なのでしょう?誰かに面倒を見てもらわねばどうしようもないお嬢さんなのですか」
「ただ面倒だけならクルーに任せる。だが、それだけじゃない。だから魔女のあんたに声をかけてる」
の魔女としての力を欲しているのではない。魔女だからその「女性」の面倒を見れる、という主張。同じ魔女か?と一瞬は考える。いや、だがそれはないだろう。現存している魔女全員とは面識があり、トラファルガー・ローの元に誰かが行った、という話を聞いたことはない。
「乳母なら落ち着いた女性、あるいは同じルーキーのドレークさんをスカウトした方がよろしいかと」
「自分のことを童話の人魚だと思い込んでる女だ。魔女に呪いをかけられたと、そう言ってる。そういう女に付き合えるのは魔女くらいだろ」
ぴくん、とは眉を跳ねさせた。
今、この男、何と言った?
神経に電気を流されたような、そんな衝撃がに走る。びくりと体を震わせ今すぐにこの場から去らねばならぬと脳が警告を出す。
「一週間前に立ち寄った島で怪我をした。おれは医者だ、処置はした。だが、」
「……血も乾ききらぬうちにまた彼女は「客」を取ろうとした。違いますか」
「……「客」の話はしてないはずだ。なんでわかった?」
肯定さてた事実。は素早くキッドの背後に避難しようと足を動かしたが、しかし目的の位置にたどり着く前に(本当に、2、3歩の距離なのに)一歩足を動かした途端ごほり、とその口から血が溢れ出した。
「……!!!」
「……不覚です。わたしとしたことが」
げほりと、咽る度にどろっとした赤黒い血が泥と共に吐き出される。自覚、いや、の中の魔女が「そう」と肯定した途端のこと。
糸の切れた人形のように足元を崩したをキッドが受け止める。手のひらについた血でキッドの肌を汚すと、そう懸念する暇もない。
「あいつに何をされた…!」
「大変申し訳ありませんが、トラファルガー・ローさん。わたしではお役にたてません。お引き取りください」
焦り原始的な恐怖に身を引き攣らせる己など晒すのは許さない。は今も湧き上がる泥と戦いながら礼儀正しい口調でそれだけ言った。咽て吐いた所為で生理的に涙が出てくるが、拭おうにも手は泥まみれである。
今はできる限りトラファルガー・ローから離れなければならない。というのに体は動かぬ。このままでは穴と言う穴から血が噴き出てくるだろう。は上手く力の入らぬ体に苛立ちながらもなんとか立ち上がろうとした。
「キラー、を中に入れろ」
そうが一人足掻いていると、キッドが声を低くして呟く。キラーがそれに無言で頷き、泥を吐くを抱き上げた。外出時は手に刃物がついているが、今はないためあっさりと抱き上げられる。は素直に驚き一瞬目を丸くさせた。
「お頭さ、」
「お前はここに残るんだろ。海賊なんて連中が相手の主張を聞くものかよ。ならここにいられるように、おれがあいつをブッ飛しゃァいいんだ」
いえ、それは違うと思います。
は素直に常識的な突っ込みを入れようとしたが、言葉の代わりにごぼり、と赤い血の塊が吐かれただけだった。
++++
船内に去っていくキラーをローは別段追いかけるわけでもなかった。追おうとすれば即座にキッドは殺し合いを始めるつもり。それをロー本人もわかっているから「控えた」のか、あるいはが「お断り」を口にしたことで諦めたのか。
だがどちらでもキッドは構わなかった。
「に何をした」
「何もしてない」
「じゃあなんだっつんだ」
何もしていないのならなぜが血を吐いた。
きつくキッドはローを睨みつける。先ほどからの威嚇とは比べ物にならぬほど敵意と殺意を込めている。普段、シェイク・S・はその飄々とした態度でどんな危機でも無傷でいた。人質になって足手まといであっても、しかしは自分を傷つける状況にはせぬ女だった。だからこのグランドラインを移動し、そして喧嘩っ早いと自覚しているキッドの傍らにもう長いことついてきているのである。
キッドは、の血見たことがなかった自分に気付いた。自分と同じように赤く、だからこそ彼女が「傷つけられた」事実を実感した。
あの時ローが何かした様子はなかったが、自身は「なぜ」そうなったのか理解していて、そしてこの場から離れようとしていた。それだけで十分、キッドがトラファルガー・ローに殺意を向ける理由になる。
睨み続ければ、次第にトラファルガーの眉間にも皺が寄った。何もしてないという自身の主張をキッドがまるで取り合わぬことがさらに腹立たしいのかもしれぬ。双方にらみ合い、一触即発、という空気になって数秒後。
「それはァ、姫君の毒ってヤツですよォ」
トントントンと、軽い足音を立てて軽薄な声がかかった。
「こんにちは、ロー船長。それに、初めまして赤毛のおにィさん」
甲板から少し離れた位置にある、ステップを上ってきたのは一人の女。いや、年のころならまだ娘と言って差し支えない若い女。真っ白い髪をゆらゆらと背にたらし危なげな足取りでこちらにやってくる。
何者だと問うより先に、トラファルガーが舌打ちをしたのがわかった。
「ノア・といいます。私が名乗ったんですから、おにィさんも名乗ってくださいよォ」
一目みて「娼婦」とわかる気配の女だ。薄い体に粗末な服。赤が沁みた包帯で部分部分を巻かれ、左頬には大きなガーゼが当てられている。事故にでもあったか、殺し合いの現場に遭遇したか、というほど「重症」だろう姿。それを平然と引っさげて歩いている。どこか引き攣った笑みに、不健康極まりない肌の色。顔は化粧で飾り立てられ不釣り合いな赤みをさしている。そういう女。と名乗った女、そのままゆらりゆらりと定まらぬ足取りでキッドに近づこうとするが、その腕をローが掴み引き戻した。
「外に出るなと言ったはずだ。死ぬぞ」
「大丈夫ですよォ」
「おれの言葉が聞けないのか」
「私、ロー船長の海賊団のクルーですけど、個人の性欲までは船長権限で制限しちゃァだめですよねェ」
「おれ医者だ。医者の言葉くらい聞け」
「うふふふふ」
ふらふらとした様子、が笑う。キッドは珍しいものを見たと二人を眺めた。悪い噂しか聞かぬトラファルガー・ローがこの正体不明の女を「気遣って」いるように見える。いや、言葉そのものは抑揚のない、無愛想に過ぎるものだが、けれど、しかし、キッドも同じく船長であるからわかる。船長が船員を案じるその感情、以上のものがその声には含まれていた。
「私、名乗りました。おにィさんは名乗ってくれないんですか。ふふふふふ、名乗りあわぬうちからの情交っていうのも風情がありますよねェ」
「キッドだ」
「あら酷い。みィなさんこう言うと必ず名乗ってしまう」
残念と、寂しそうに女が眉を寄せた。キッドは突然現れたこの女が何者かよくわからぬ。だがロー船長と
呼んでいるからローの船の人間なのだと見当は付けた。
「このイカレた女はなんだ?」
ふらふらと揺れならが立つ女。その目はうっすらと正気のない光を耐えている。どう見てもまともな女ではない。(娼婦であることでまともではない、と判断するキッドではないので、それ以上の「踏み外した気配」を感じ取ったゆえの評価)それでトラファルガーに視線を向けてこの状況をできる限り説明しろと求める。トラファルガーは様々な感情を押し殺した声で短く答える。
「うちのクルーだ」
イカレ女という言葉は否定しないらしい。
「キッド、キッド、ユースタス・キャプテン・キッドのおにィさん。えぇ、ぇえ、聞いたことがありますよ。そうそう、はじめの娼館で姐ェさんたちが話してたっけ。粗野で乱暴な海賊ばかりの海だけれど、南の海の赤毛の海賊頭さんだけは違うって。女というものの扱い方を心得ているわけでないけれど、それでも娼婦の扱い方を知っている、と。そう聞いたことがありますよォ」
危うい瞳をしてる女が、キッドを見上げてその瞳をキラキラと星のように輝かせた。自分はいったいどういう風に広まっているのか。わりと乱暴な評判しか立たぬことをしているだけあってキッドは聊か腑に落ちぬものがあるが、このイカレた女の言葉、まともに受けるのもばからしいか。
は反応せぬキッドを「うふふ!シャイなんですかァ」とからかう様に上目使いに見上げた後、ぐるりと船を見渡す。
「このお船、着いたばかりですよねェ?それならログが貯まるまで二週間、どうですお暇ならわたしを、」
「。止せ」
女がついっと、キッドの袖を掴んだ。街角で娼婦が男を誘う仕草そのままだ。決定的な言葉をが吐く前に、トラファルガーが制止したけれど彼女はそんな船長を横目で一瞥するのみだ。
「ロー船長、だから、人の性欲は抑制できないんですってばァ。クルーのみなさんだって時々港で娼婦を買う。なら私が相手を探したっていいいじゃァないですか。ね、どうでしょう?赤毛のおにィさん、私を買いませんかァ。私は安いですよォ」
にっこりと、口紅を塗りたくり故意に赤くした唇が笑みの形を引く。キッドは基本的に女の誘いを断ることはない。だが掴まれた裾を払い、を見下ろした。
「怪我した女を抱く趣味はねェよ」
「血の匂いに酔えて普段とは違った悦びを味わえるかと!」
「…おい!トラファルガー!だからなんだこのイカレ女は」
「お前には関係ない。ユースタス屋」
短く言い捨て、トラファルガーはを連れて帰ろうとする。しかしはそれを拒絶し「酷いですよぉ」と非難の声を上げついにはしゃがみ込んだ。
関係ないと、人の船で痴話喧嘩をし、さらには自分をここまで関わらせておいて切り捨てる身勝手さに飽きれる。
しかし構うな、と全身で訴えるローに妙なシンパシーを覚えもした。いや、普段からこの男とは「船長」であるという立場ゆえの、互いにしか理解できぬ孤独があった。しかし今キッドが感じているのは「妙な女に惚れてて、どうしようもない」という、そういう親近感だ。自分もに振り回されている姿は周囲からこう見えるのだろうか。
「その怪我、客にでもやられたのか?」
キッドは駄々をこね動かぬつもりのをちらりと眺め問いかけた。
全身酷い有様だ。なぜ今立っていられるのか疑問に思うほど。トラファルガーが医者だとかいう寝言はさておいて「死ぬぞ」という警告は本物だろう。
その傷を作ったものはという娼婦を買った客ではないか。そう見当付けると、はこちらに顔を向け、幸福そうに微笑んだ。
「うふふ、そォですよォ。そういう趣味の方だったよォでェ」
思い出しぞくぞくと体を震わせる女。キッドは、やはりイカレていると確定させた。
「こいつを人質にすればおれの首を取れると勘違いした馬鹿の所為だ」
そういうの反応には慣れているのか、トラファルガーは淡々とした口調で補足する。なるほど、道理だ。億越えの己ら、賞金稼ぎや海軍にはよく狙われる。あるいは海賊相手というのもある。そういう狙う首の近くに女がいれば、利用するのが悪党だ。
「クルー一人守れねぇのかよ、トラファルガー」
ふん、とキッドは鼻を鳴らす。客を取ったのは当人の意志としても、それでこの女が現在このような怪我を負っているのは船長であるトラファルガーの「責任」「失態」「無能さ」「弱さ」だ。己らは無法者。何をされても被害者にはけしてならぬ。だからこそ力だけが己を守るもので、そして仲間を何よりも大切にする。
億越え、ルーキーなんぞと呼ばれていてもその程度の男かよ、と、そう見下せば、足元でがくいくいっとキッドのズボンを引く。
「赤毛のおにィさんだって、今、さんを守れなかったじゃァないですか。無様に血を、泥を吐くシェイク・S・!あと少し遅ければ死んでいたけれど、おにィさん、なぁんにもできなかったじゃァないですかァ」
薄ら笑い馬鹿にする表情をこれほど上手く浮かべられる女はそうはいないだろう。は侮蔑と軽蔑を孕んだ声で堂々とキッドを罵倒する。
先ほどのの様子を知っている。そして「毒」だとそういった。この女、なぜそうなったのかを知っているのだ。キッドはぐいっと、の胸倉を掴んで釣り上げた。
「おれに「買え」っつったが、おれがその客と同じことをしねぇとでも思ってやがんのか?」
「ふふふふふ、いいえいいえ。これっぽっちも、全くもって!どんな酷いことをされるんだろうと、体を期待と恐怖で震わせてしまいますよォ」
「そいつに触るな。ユースタス屋。殺されたいのか」
カチャリ、と何かがズレる音がした。目の前で掴んでいたはずのの姿は消え、代わりに樽がある。トラファルガーの悪魔の能力か。キッドはこちらも仕掛ける体勢を整える。
キッドの視界からの姿は見えなかった。樽のおいてあった場所と変わったのだろう。トラファルガーは腕を出した体勢のまま、キッドをきつく睨む。を害そうとしたからだろう。その視線には先ほどまで含まれていなかった殺意がある。
「あいつの怪我は、普通なら歩けもしない。それなのに「客を取る」っつって聞かなねェ。今度傷口が開けば死ぬだけだ」
「ならベッドにでも縛り付ければいいだろ。お前が抱かねぇのか」
「クルーとそういう関係になる気はない。おれは船長だ」
手癖の悪そうな男だと思ったが、そういうルールを自分に架しているらしい。それはキッドがどうこう言うことではないが、だからは「外」で客を取るのではないのか。それならもう首輪でもつけて繋いでおくくらいしか取れる手もなかろう。
を傷つけた、その「手段」がまだわからぬ。に血を吐かせた原因をキッドは許す気はないが、だが、ここでトラファルガーとやりあうことの無意味さも感じてはいた。
己にデメリットが多い。まず自分が暴れれば確実にこの船が壊れる。(とても重要だ)
沈黙していると、トラファルガーが一瞬殺気を納めた。
「お前に聞くのはシャクだが、おれには理解できない。ユースタス屋、お前ならわかるか」
「あ?」
「不自由はさせてない。戦闘にも加えてない。仲間ともうまくやってる。なのになんであいつは、今でもまだ「客」を取る」
もう必要ないはずだ。寝床も、着るものも、食うものもある。それなのには客を取る。島についた途端に娼館に身を寄せ、くだらない男に身をゆだね、くだらぬ女たちに交じるのだと、そうローは語る。殴られ怪我をすることなどしょっちゅうだ。その度にローは彼女を傷つけたものを血祭りに上げ、もう二度とするなと言いつける、だがは止まらない。
ローには理解できない女。だが、世に「不可思議」の代名詞のように扱われている「魔女」ならを説得できるのではないか。そう考え、遭遇したを引き入れようとしたのだろう。
「わからねぇんだ。なぜ、どうして、あんなことを続ける」
理由があるはず。だがそれがわからないとローは呟く。性欲ゆえだとは欠片も信じていなかった。怪我をして、死にそうな状態でまで快楽を優先させるのか。キッドにはわからぬが生物学的には危機的状況において子孫を残そうと繁殖行為に励むこともあるらしいが、のそれには当てはまらぬと、そう言う。
何度言っても、何度怒鳴っても、はローから離れて客を取り、そして殴られて帰ってくる。その怪我をローは彼自身ができる限り最高の処置で治療する。そういうことが続いている。
「わからねぇのか?」
「てめぇにはわかるのか、ユースタス屋」
苦悩しているトラファルガーが、逆にキッドには理解できぬ。
「そういう生き物なんだろ」
簡単なことだ。娼婦だから、そういう生き物だから。それ以上の答えがあるか?
言えばトラファルガーは伏せていた顔を上げ、ぐいっと、キッドをマストに押し付けた。
「もしユースタス屋がおれと同じ状況ならそうと割り切れるか」
「あぁ、言える」
押し付けられて不快には思った。だがまっすぐに、こちらを睨み上げる藍の瞳を見つめ返し、キッドはきっぱりと言い切る。
「おれは言えるぜ、トラファルガー。悪ィが、おれだけじゃねぇ、この船の連中なら全員、イカレ女じゃなくても、怪我をしている最中だろうと「娼婦」が「客」を取るのを止めるやつはいねェんだ。金に意地汚ェ売女、尻軽、淫バイ、「常識人」がどう呼ぶか知らねぇし、まァ呼び方はなんでもいい。娼婦ってのはそういうもんだ。息をするのと同じことなんだよ」
「あいつを侮辱するな」
「事実だ。お前はそれが事実だっつうことを知らねェんだろ?目つきも態度も行儀も悪ィ男だが、お前はまともな世界で生きてきた。だからわかれねェんだ」
そこまで言って、キッドは顔を殴り飛ばされた。瞳孔を開いたローが容赦なく拳を振り上げ、振り下ろす。その行動がきちんと見えていたのにキッドは避けなかった。どさり、と甲板の上に転がり、身を起こしてから唇を拭う。
「娼婦は息もするなってのか?傲慢だな、おい」
「あいつは娼婦じゃない。おれの仲間だ」
あくまでそう主張するトラファルガー。ここまで言ってなんでわからないのだ、とキッドは思わなかった。一生、わからないだろう。
そして、そうか、とだけ頷いて、殴られた分を殴り返すべく立ち上がった。
+++
「どォです、具合はァ」
ひょっこりと顔を出したのは見知らぬ女。白い髪の、一目で娼婦とわかる女。この船に来たということは賞金稼ぎか何かか?キラーは警戒するようにを背に庇うが、それをが制した。
「キラーさん、大丈夫ですよ。彼女はトラファルガー・ローさんのところの海賊さん。そうでしょう?」
の顔見知りなのか。だが確認、という形から初対面の可能性も否定できぬ。キラーが対応を判じていると、現れた女は当然のように部屋の中に入ってきた。
シェイク・S・が寝室として使用している部屋は簡素なもの。だがうっかり引出を開ければ彼女の集めた詩編が暴走しかねぬので好んで近づく者はいない。そういう場所に堂々と女は足を踏み入れる。
「お頭さんはどうしたんです?」
「ロー船長とお話し中ですよォ。声をかけたのに、赤毛のおにィさんは付き合ってくれなさそう。仮面のおにィさん、どうです?わたしと楽しいことしませんか」
「おれはキッド以外の前でマスクを外すつもりはない」
ついっと、女が指でキラーの服に触れようとする。一歩下がってそれを避けキラーは「トラファルガー・ローの仲間」という女を見下ろした。キラーはキッドからの身を任された。確かに、正直なところキラーは普段と折り合いが悪いが、しかし、この間だけは彼女を全身全霊で守る決意がある。キッドが自分に「頼む」と信頼し任せた。それに応えぬわけにはいかぬ。
警戒し敵意を露わにするキラーを女はちらりと眺めてから、の寝台に顔を向ける。
「もう少しで毒が全身に回ったんですねェ、サン」
「ずっと気づかないか、あるいはもう少し早くに気付けばこんな醜態は晒しませんでしたよ。わたしの息の根でも止めたいんですか?」
「いいえいいえ。赤毛のおにィさんがちぃっとも私の相手をしてくれない理由を見に来ただけですよォ」
先ほど血を吐いたは部屋に戻った途端に回復した。キラーは理由を聞いたが当然のようには答えぬ。しかし「大事には至りません」とそれだけは答えたもので、キラーはその言葉を信じた。
女はじぃっとの体を眺めどこか目立ったものはないかと探るように沈黙する。その視線は蛇が獲物でも狙うような、いや、女が相手の女の外見上の欠点を探す必死さに似ていた。
娼婦にしか見えぬ女。先ほどの言動から娼婦である、あるいはあった、というのは間違いないだろう。キラーがよく知る女たちと気配が似ていた。トラファルガーの愛人か?を「船に入れたい」と言ってきたが、愛人がいて何を考えているのだろう。
そんなことをキラーが考えていると、女はの外見上の欠点を見つけ出すことは諦めたよう、一度観念したように息を吐いてから再度顔を上げる。
「殿方が、抱けない女をいつまでも傍に置くと思ってるんですかァ?」
ぴしり、と、の耳のイヤリングが揺れた。
魔女の実を口にした女はその力を持続させる条件に「処女であること」というものがあるらしい。それであるからはキッドと同じベッドで眠っても女だけは持つ部分には指一本触れさせぬという。その事実はキラーも知っている。本人がそれをどう感じているのか、考えているのか、これまで推測したことはない。だが今の反応で少しだけ、キラーはに同情した。
「…………」
アメジストの瞳を一度伏せ、シェイク・S・が口元を緩める。伏せた短い時間、彼女は眉間に皺を寄せていたが、開いたときにはもう普段通りの表情だった。何を耐えたのだろう。キラーが判断していると、シェイク・S・はゆっくりと口を開いた。
「わたしとしたことがきちんと名乗っていませんでしたね。このままで失礼しますけれど構いませんね?」
「えぇ、どうぞ」
「ごきげんよう、わたしは階位コクマー、ペルル、荒野の魔女のシェイク・S・と申します。王子を裏切り生き残った姫、知り合えて楽しかったですよ。早々に、お引き取りください」
「怒ったんですかァ」
はっきり、あっさりと切り捨てる。そのを嘲笑う女、とは呼んだ。は目を細めてころころと笑い、優越感に満ちた瞳を細める。だが一度目を伏せて感情をコントロールしてきた、さほどの乱れも見せず、寧ろ不思議そうに首を傾げてを見上げた。
「いえいえそんなそんな…。あまり嫉妬をさせてはあなたの惨めさが増すと思いまして。慎みも処女膜もない未婚の女性がいかに中古品と蔑まれて、心に決めた方に最大の愛情を示せずみっともない人生を送るか、わたしには想像するしかできませんが、お察ししますよ」
「乳臭い魔女風情が」
「梅毒にでもかかって爛れ落ちてください、麗しき姫君」
顔ばかりは美しい笑みを浮かべ合い互いに呪いの言葉を吐く二人。の魔女としての顔を見ることなど滅多になく、それで十分驚きであるのに現れたがその「魔女」のと対等に渡り合っている。
とりあえずキラーは、この場から離れなかったことを激しく後悔した。
+++
日も傾いた夕暮れの海沿いを、トラファルガー・ローとノア・が進む。いや、進む、というのは誤りだ。性格にはローがを背負い、歩き進んでいるという状況。
「ふふふ、うふふふふうふふふ!やっぱりいつだって魔女というのは気に入りませんよねェ」
数時間ほど罵倒しあい呪いの言葉を吐きあって散々、はキッドとローが殴り合いを止めたと聞いて引き上げることを承諾した。
それで、キッドと殴りあって怪我をしているはずのローが「これ以上歩くな」とを背負っている。
「敵船で問題を起こすな。ユースタス屋のところじゃなかったらお前は死んでたぞ」
「ねェ、ロー船長ォ、船長はいつもいつも二言目にはわたしに「死ぬぞ」って言います」
「事実だ」
「死にませんよォ、前にも言ったじゃァないですかァ、わたし、死にたくなんてなィんですよォ」
ゆっくりゆっくりとローは進む。もう少し早く進めるだろうが、揺れがあってはの身に負担になる。そうと判断しているゆえの速度。はそれがきちんとわかっていた。それだから、時折体を揺らしてみる。その度にローは「落ちるぞ」と立ち止まってが収まるのを待つのだ。
背負う時に邪魔だからとローのいつもの帽子はが被っている。紫外線防止の意味もあるのかもしれない。には少し大きな帽子はすっぽりと頭を覆ってしまう。
「なら当分大人しく船に入ろ。今度出て行こうとしたら縛り付けるぞ」
「ふふふふふ、ふふふ、うふふふふ。そォですか」
は、ローが自分の行動を嫌がっていることを理解している。それで必死に止めようとしているのも、わかっている。縛り付ける、それをされればどうしようもないだろう。けれど、ロー船長はしない。それも、にはわかっていた。
どうして、ロー船長はわかってくれぬのだろう。そのことをは考える。他人に理解してほしければ自分がその人を理解すること、それが方程式だ。はローを理解しているつもりだった。だが、まだ足りぬのか。
「ユースタス屋に言われた。「諦めろ」と」
「そォですか」
「お前はそういう生き物だから、どうしようもねぇんだと、そう言われた」
「ロー船長が他人の言葉を聞くなんてェ、槍でも降りますかねェ」
「お前はおれに諦めて欲しいか」
まさかロー船長が魔女を自分の監視役のためだけに船に乗せようとするとは想像もしていなかった。実際そうなったらどうしただろうか。ありえないこととはいえ、は想像し、笑うしかなかった。
に会ったのは誤算だったが、しかし、キッドという海賊に会えたのはにはプラスになった。あの男は、あの赤毛の男はを「理解」している目をしていた。そして今ロー船長の言葉からもそれは肯定される。
そうだ、自分はロー船長に「理解」して欲しいのではない。
ローがぽつり、ぽつりと言葉を吐く。問いの形になるが、しかし独り言のようにも聞こえた。
「なんで客を取る。なんで怪我をするってわかってる相手を選ぶ。なんでおれの言葉を信じない」
必死に、必死に己を「理解」しようとはしてくれる。でも違う。違うのだ。そうでは、ない。そうではないのだ。ロー船長。
はその首に腕を回したまま背中に顔を埋めた。
「答えろよ、」
問うて、そして暫く、暫く沈黙。ローは歩き続ける。夕日で海が赤くなる。ぎゅっとがローの首に回す力を込めた。できる限り体を密着させても、それでもちっともは満足しない。
目を伏せて、背中に耳を付けて感じるローの心臓の音を聞いた。自分の心臓もなっている。同じ生き物だ。同じように血が流れている。それなのに、ローは己に「なぜ」とそう問いかけるしかない。
沈黙を続けるに、最後だという様にローが呟いた。
「もう二度と、客を取るな」
いつも、いつもそういう。その言葉を無駄だと思っていない。
そうではない。そうでは、ないのだ。どうして、どうして、と、そう、逆にの心にも疑問が沸く。己がしてほしいのは理解や、諦めではない。
知って、知って、知って、欲しい。認めて欲しいだけ。
「ロー船長の顔が見えませんよォ」
しかし口に出す無意味さをは知っている。人魚姫。声を失くしたころを思い出した。どれほど伝えたい言葉があってもけして相手に届かなかった。今の自分には声も、足もあるのに。それなのに、まるで昔と、何一つわかっていない。
明日は、ロー船長が眠っているうちに船を出て町に行こう。
はぎゅっとローの首に抱き着き、唇を噛んだ。
+++
自分たちは女同士の素敵なののしり合いだったが、殿方の喧嘩というのは単純だ。殴り合い、それなりの怪我をしたキッドを見下ろし、ため息一つと共に治療を開始しながらは目を細めた。
「殺し合いにならなくてよかったですよ。手加減されたんですか」
「あいつもな」
「それはそれは…友人にでもなれそうですね」
「気色悪ィこと言うんじゃねぇよ」
実際、現在のルーキーの中で話が合う二人なのではないかとは思っている。赤い燃えるうなチューリップ、いえいえ、ユースタス・キャプテン・キッドと、目の下の隈の酷い医療ミス、でなかった、トラファルガー・ロー。歳も近そうだし、双方「やんちゃします」という気配が似ている。
そうそう、トラファルガー、とは先ほどの光景を思い出す。
「トラファルガー・ローさん、その内泣いてしまいそうでしたよ」
とが呪いの言葉を吐きあい散々互いをコキ下した風景をキッドとローに見られる、そんな醜態をさらす二人ではなかったから、何事もなかったようにすっきりとした顔で別れた。はを背負い去っていくローのその姿を見送り、そして何とも微妙な感情を抱くしかなかった。
「あそこまで頑なだといっそ哀れですよ。理解することのむずかしさはさておき、知ることくらいならできるでしょうに、それでは嫌なのでしょうね」
「お前のように育ちがいいわけじゃねぇだろうがな、それでもトラファルガーはおれやキラーとは違う。一生かけても、理解はできねぇだろうよ」
キッドの頬にガーゼを当て、は眉を跳ねさせる。
「お頭さんはわかっていらっしゃるんですね」
の「奇行」と部類される振る舞い。傷を負うのに、死にかけるのに変わらず男を漁って足を開く。は一応貞淑であることを美徳と教えこまれてきたし、師匠ベロニカ・C・ベレンガリアも魔女であることの本当の意味を聞いている。それであるから、もし己が誰かに肌を許すのなら、それは添い遂げるただ一人だけだと決めていた。
を前にして散々罵倒しておいてなんだが、そういう己からすれば、の今の身の上、状況というのは同情する以上のものがない。
「理由は知らねェ。そういう生き物だっつーだけのことだろ」
「お頭さんらしい判断ですね。わたしはお頭さんのそういうすっきりとしたところ、嫌いじゃありませんよ」
キッドは娼婦や、そういう女が生き延びるために女を利用することに理解がありすぎる。いや、海賊は海賊。弱者は弱者。どこまでもそうはっきりとキッドは見下せるのだ。キッドは仲間以外に期待をしない。そういうはっきりとしすぎているところ、とてもらしい。
けれどその潔さは本来トラファルガー・ローにもあるはずなのだ。
「見えてないんですよね」
気の毒に、とは今頃帰路についているだろう二人を想う。
なるほどあの二人、ローは自覚しておらぬが相思相愛。互いにいびつに惹かれあっている。そのいびつさがどういう形になるのかそんなことはの知ったところではないが、確かに「愛」があるのだ。
本来のローであれば女がどうなろうと気にせぬはず。彼は治す者だが、そのあとは自己責任と放り投げる。がそういう性癖なら構いはしないと、そう諦めるだろう。だが、そうはしない。その理由は、そうと割り切れぬからだ。割り切りたくないからだ。
だから苦悩する。
なぜこんな振る舞いをするのかと、理解しようとする。何か理由があるのか、と、何か不満があるのかと、足りぬものはなんだと、そう、必死に必死に、考え苦しむ。
だが、わかろうはずもないのだ。理解はできない。生き方、見ているものが違い過ぎる二人がわかりあうのは難しい。
だから、できるのは「知る」こと「認める」ことだ。そういう生き物なのだと、が何を望んでいるのかを、知ってやることくらいしかできない。
思えばも哀れな女。女として、彼女は「初めて」をローに捧げたかった。けれど娼婦として生きてきた半生ゆえに、そのようなことはもう手遅れ。できぬ、できぬ、だから、あぁなる。
「トラファルガー・ローも姫も互いを愛している。でも愛ゆえに、見えてないんでしょうねぇ」
お気の毒に、とはちっとも感情の籠らぬ声で言って、そしてパチン、と救急箱を閉じた。
FIN
オマケ
「ところで、おい、、なんでトラファルガーに近づいたら吐血したんだ」
「決まりきってるじゃァないですか。お頭さん」
「お姫さまを害する魔女を殺せるのは王子さま。魔女にとっての天敵はいつだって王子さまなんですよ。姫は姫君なのですから、彼女を守ろうとするローさんは王子さま。やろうと思えば海軍本部の魔女すら殺せますよ」
(2011/02/25/22:41)
あとがき
以前にネタ目安箱に投稿いただきました「怪我してるのにお客を取ろうとする夢主を心配するローさん」でした……!!投稿されたときの名前は「ローさん好き」さんでしたが、くれたのはMiさんですね。
遅くなってすいませんでしたぁあああ!!!素敵なネタをありがとうございました!!!
ご期待に添えてない気ははてしなくしますが…書いてて楽しかったです。
勢いで長くなりました…。誤字脱字は後日訂正しますので…!!!
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