SantaMaria
ゆっくりと確認するように手のひらを伸ばし、生命線やらなにやら、ツイツイと指先で辿っていく。人差し指の腹が肉付きの薄いイナズマの皮膚をよく押した。奇妙なものでも見るように女性が首をひねるので、この行為はただの戯れではないということがわかる。といってイナズマに、この少女がどのような意図で持って己に触れてきているかという見当が付くわけでもない。そういう理解できぬところがこの少女、・にはあった。彼女は革命軍の一人、ではない。だがただの一般人と大手を振って大通りを闊歩できるようなご身分でもないらしい。らしい、とあやふやなのはその正直なところをイナズマは知らぬからだ。彼が意識の中で我が主人(My Load)と慕うあの荒々しくもこの世で最も美しい革命家、エンポリオ・イワンコフであれば、あるいは知っているかもしれない。ドラゴンも知っているかもしれない。だがイナズマは知らなかった。知ろうとはあまり思わなかった。知識は武器であるとよくよくそう噛み締めてきているイナズマであったけれど(一瞬脳裏に南の海の葡萄畑が浮かび、即座に頭を振ってかき消した)彼女に関しては『知らぬほうがいい』という防衛本能が勝った。そういう生き物がこの世界には時々いる。本人自体に何か問題がなくとも、その生き物と関わるだけでなにか、どうしようもない、とてつもない事態に巻き込まれる。イワンコフやドラゴンはその業にを頂いたところで影響を受けぬだけのものがあるのだろう。だがイナズマはそこまで己を過信することはなかった。
それで、何も問わぬ、ただにされたままになって、片手では相変わらず昨今のクーデターのための市内地図に目を落とす。がふわりと、花のように微笑んだのが気配でわかった。テーブルの上の見事な細工の燭台に刺さった蝋燭の火が揺らめいた。この燭台は元々イナズマの部屋にあったものではない。どこか貴族の屋敷から頂いてきたのだとが語っていた。自慢話ではない。ただ、気に入ったので頂いたのだという。彼女は泥棒ではなかったが、心正しい者でもない。しかし、この燭台に関して言えば彼女は誠実だった。気に入ったので持ち主の貴族(老紳士だったという)が長年所望していた一冊の古い本と引き換えに頂いたという。真鍮に宝石がちりばめられた贅沢な一品は己の部屋になどあるよりも、あの美しい女王陛下の下にあるべきだとイナズマは主張したが、持ち主であるは頑として受け入れなかった。そして当の女王陛下、イワンコフ・エンポリオにしても、豪快に笑って見事な枝付きの燭台を褒め称えるものだから、イナズマとしては意にそぐわぬことだとしてもありがたく頂戴するしかない。そして気に入りのものがあるからと言う些細な理由ではイナズマの部屋に入り浸っていた。イナズマが別の蝋燭に火をともしていようとなんだろうとお構い無しに、あっさりと部屋に入り込み、ずかずかとソファに沈み込む。何がそんなに彼女の気に言ったのだろうかとイナズマはしげしげと(に手を弄られながら)テーブルの上の燭台を眺める。
蝋燭を立てる針(ピン)状の狭義は黄金製、燃えて流れる蝋を受ける皿と細い脚(竿)や台部は真鍮で出来たもの。確かに細工そのものは見事だ。葡萄のよしあしはわかっても、こういった貴金属に対する目利き、イナズマはそれほどあるわけではない。(イワンコフに言わせれば謙遜している、と言うのだが、しかし本業と比べれば否というのがイナズマの矜持でもある)つぶさに眺めて何も理解できぬゆえ、溜息を吐けばがニコリと微笑んだ。
「時々、考えてしまうのです。同志イナズマのこのやわらかい手が、どうしてとても酷くなるのかって」
同志、と彼女は言う。革命家ではない彼女だが、しかし、イナズマたちを呼ぶときは必ず名前の前にそうつけるのが彼女の常である。
うっとりと目を細めて・の言い分。やわらかい手と言う。一瞬今己は女体だったのだろうかと考えるがそういうわけもない。相変わらず骨ばった手、硬いからだをは可愛らしい子猫か何かを愛するような手つきで触れてくる。おおよそ、性的なものを感じさせぬ、砂糖菓子のような少女。あどけなさを前面に押し出しながら悪意を潜める生き物をイナズマは知っているが、に関してはそうは言えぬ。己が異性にしでかしているこのゲームが他人にどのような影響を与えるのかを知らぬのだ。
「酷いとは?」
心あたりがないわけではない。単純に考えれば数年前(妹を失う少し前)に口にした悪魔の実の結果、この体は何もかもを斬り裂き、すべてを薄っぺらに扱うことができるようになった。は時々ハサミとなったイナズマの手を面白そうに眺めて、(イナズマが人を殺している時でも)手を叩く。タンバリンでも叩くような軽快な音を、荒れる戦場で聞いた時彼はつくずくこの女が嫌いになった。
「平気で人の首を絞めるでしょう」
「そんなことをした覚えはない」
「ありますよ。わたし、知っています。あなたはそのとてもやわらかい手で、人の首を絞めるのです。いっそ鋏で何もかもを切り刻まれてしまえば、尤……えぇそうでしょう、楽なのです」
「言っている意味がわからないな」
眉を寄せて息を吐く。人にわかるように言葉を話さぬのがの特徴でもあった。ドラゴンとの会話などは暗号のやりとりのように聞こえる。ドラゴンの場合はあからさまな言動を好まぬ思慮深さが感じられたが、の場合は、人にわかるように話すことが無意味だと、人に言葉を話すのは、理解してもらうことが前提ではないと、言語の定義をあっさり覆すような根底があるのだろう。最近イナズマはそのように思う。思うからと言って、それでがわかるわけでもない。
「わからなければそれで構いませんよ」
「一度くらい、人にわかるような言葉を話さないか?」
「バベルの塔にでも連れて行ってくださる素敵な殿方がいれば」
にこりと微笑。優雅である。相変わらずイナズマの片手に触れたまま、その手を己の頬にあてがい、手を重ねて目を伏せる。伏せられた瞼は白く、睫は白い頬に影を落とす。ありありと何もかもが完璧、というわけではないが、しかし、は美しい娘だった。絶世の美女、というものはこの世界に幾人いるのだろう。ふとそんなことを考える。イナズマはイワンコフこそがこの世界でもっとも美しい生き物なのだと信じて疑わず、そしてその思いを口に出すことはせずに彼の(イナズマにとっては彼女、とも言える)望みをかなえることが己の世界への欲求のように思えた。至極の栄誉。いつか彼(彼女)が世界を革命する時が来ても、しかしそれは己の真の革命にあらず。己の革命は、また別のもの。だがしかし、イナズマは、いずれイワンコフとともにインペルダウンへの潜入を果たすことが先日決まった、あの方に追随する忠実なるしもべでありたかった。(だが彼の望む姿、しもべ、をイワンコフは必用とはしていない。その事実からイナズマは彼の同志である仮面を被る)その心で持ってすれば、今、己を誘惑するように微笑むを乗り上げた膝を払い、床に叩きつけてやりたい感情が浮かんだ。だがそれはおそらく恐怖心なのだろう。己の中の輝くもの。イワンコフとの間にだけ存在することを望む、イナズマの感情が、他者の。それも正体不明の生き物、・によってかき乱されることが恐ろしいのだ。疎ましい、のではない。ただ迷惑、一方的な鬱陶しさであればイナズマはどうということもない。そのような小娘の誘惑に靡く心は妹の葡萄畑とともに燃えた。イナズマは、南の海の革命家。10年ほど前に何もかもを失った、scissors handsはを理解し、そしてイワンコフだけがあればいい己の心に彼女の存在が入り込むことを恐れていた。そして恐れを抱く己に対してもまた、恐れていた。
「君はこんなことをするべきではない」
イナズマの手のひらに唇を当てるを制しながら、イナズマは喉の奥から声を出した。それでは顔をあげ、やはりあどけない顔を見せてくる。己は何もいやらしい心など持っていない、戯れているだけだと真に主張するような、悪意など知らぬというまなざし。だが、その唇の紅さを放って、ただ目を信じるにはイナズマは年を重ねて来ている。
「私は君が好きではない」
ゆっくりと息を吐くようにして言いながら自分でも随分と控えめな言い方をしたものだとイナズマは眉を寄せた。その弱々しさにも当然と気付くもの。体はイナズマから離れはしたが、相変わらず彼の手を握ったまま、首をかしげて目を細める。
「嫌いってはっきり言わないのは優しみではなくて、ただ易しいからね。ご自分ばかりを守られているのならそれも良いのですけれど、あまり自虐的なことから逃げていると圧迫死しますよ」
頼むからわかる言葉で話をして欲しい。のどまで出かかった罵倒は押し殺し、代わりに口をついて出たのは、おおよそイナズマらしからぬ言葉だ。
「君は平気で靴のままベッドに乗るし、男が口をつけたワイングラスを煽る。髪を纏めるということをしないし、人前で平気で足を見せる。気に入ったものはすぐに自分のものしなければ気に入らないし、気に入ったと思えばあっさりと捨てる。何もかも、君の行いの一切、淑女のすることではない」
「あのクィーンを敬愛する貴方がそんなつまらない、生き物の枠に縛られるだなんて言葉を吐いても、私、信じませんよ」
「君が私を信じられないように、私も君という生き物が信じられない。君はあまりにも、」
「あまりにも?」
「……自由だ」
この言葉が正しくはないということをイナズマは良くわかっていた。だが、いくらが相手とはいえ自分に女性を貶す言葉が十分に使えるわけでもない。確かにイワンコフの元にいれば男女の性別、男尊女卑のくだらなさ、垣根、境界線のあやふやさをよくよくかみ締めて、それを「当然」と吐き出すことが出来るのだけれど、しかし、しかし、どういうわけかに対しては、イナズマは「つつしみを持った女性」を求めるのだ。
革命家である己がそのような思考、嗜好ではならぬと思う。他の女性であったなら「先を行く女」とその猛々しい姿を目を細めて眺めただろう。イナズマもよく知る、悪意の魔女など、に劣らぬ傍若無人さ。しかもあちらには傲慢さと尊大さが付属されて手に負えぬシロモノに仕上がっているけれど、別段彼女に対しては「もうどうしようもない」と溜息を一つ吐くだけで、最初に感じた殺意はもうなかった。だが、は別だ。かれこれもう数年来の付き合いになるが(考えられないことに!)未だにイナズマはの無教養者のような振る舞いを見るたびに叱責をしたくなる。
自由、という言葉を使いながらイナズマは後悔した。革命家にとって、自由というのは至高のものだ。それを、他人を非難するための形容詞として表現している。自由、革命に対しての冒?のように思え気分が低迷し、ぐるぐるとサングラスの奥で目まぐるしく眼球が動くような気がした。そのとたん、タン、とイナズマの目の前でが(いつのまにか)手に持ったワインボトルのコルクを開けた。もう手は離されている。ずっと握られていた感触が急に消えさり、代わりに押しつけられたのは僅かにのぬくもりの感じられるワイングラスである。イナズマが常に愛用するものではない。彼は、移動時にもワイングラスを手放さぬゆえに、本来最も良いとされている手ふき製のソーダガラスは使わず、型を使ったクリスタルを常用していた。しかし今手に押しつけられたステル(脚)をたどるボウル(本体)は薄く、3mmあるかないかという程度だった。条件反射のようにイナズマはプレート(台)を親指と四本の指で持ち、がゆっくりと注いでいくワインの色を見た。色は赤、赤、赤いものではあるが、しかし、赤ワインではない。赤ではあるが深紅ではない。“玉ねぎの皮のようなピンク色”とされる、ロゼである。
イナズマの眉が跳ねた。
「お好みではないと伺っていますよ」
「嫌がらせか」
控えめな言い方をすれば、イナズマはあまりロゼを好まない。香りと気泡から判断するに黒ブドウと白ブドウを混ぜ合わせて白ワインと同じ製造方法で作りだしたものだろう。短期間で作られ、白ワインとほぼ同じ程度の温度で飲まれるそのワイン。ゆっくりと注がれて、イナズマはボウル(台)を掴んだ。ワインの扱いは、グラスを握れば温度で味が損なわれる、というテーブルマナーがあるけれど、実際のところはそんなことはない。それは、多少は変動はするだろうが、しかし、その程度で、人間のもたらす温度で、ワインに影響を与えることなどできない。
とてその知識は持ち合わせていたようで、イナズマが気に入らぬロゼを出されたことへの意趣返し、とは取らなかった。己もそれに倣いグラスを持ち、口をつける。彼らの間では、たとえ仲間とはいえ毒を盛らぬという信頼にはならぬ。とイナズマの間がらであればなおさらだった。まずは己から飲むのが礼儀と心得たの当然の行動である。
「貴方にはよくお似合いかと存じます」
「嫌味は止めたまえ」
眉をよせ、イナズマはグラスに口をつけた。グラスは丁度舌先にあたる形状。よくよく選んだものだと感心しながら、味わう。は消して下の愚かな女ではない。イナズマのワインうんちくにまともに付き合えるだけの知識を持ち、しかし、興味を持ってはいなかった。だが知識があれば、イナズマが好むだろう味のロゼをどこぞから調達することは可能だろう。口あたりの良い、果実のさっぱりとした風味の感じられるロゼワインは確かに、イナズマの口によく合った。
イナズマはが己に「ロゼが似合う」と言った意味を考えた。そしてとても嫌な気分になった。これならいっそシャンパンでも出されてデカンタのままテーブルに置かれた方がマシだったと毒づくと、そのままの手がイナズマのサングラスに伸びてきた。慌てて身を引く。テーブルの上に置いていたワイン瓶が振動で落下した。
下は絨毯のため、そして丈夫なワインボトルは無事だった。赤ワインのように振動で組織が台無しになるような惨事はないだろうが、しかし、よくはない状態になってしまっただろうと残念に思う。イナズマはサングラスをはずそうとしてきたを睨み、グラスをテーブルの上に置く。
「無礼な振る舞いは君の格を下げるだけだ。・」
「女体になったなら何もためらわずに眼球を晒すのに、なぜそのままではならぬのか常々不思議だったのですけれど」
イナズマの言葉など聞きもせず、きょとん、と(己の振る舞いを恥じもせず!)顔を幼くして、、ワイングラスと、燭台と、そしてイナズマのサングラスに映る炎の揺らめきとを眺めてくすり、と、口もとに手を運ぶ。そのまま、左手の人差し指を折り曲げて唇に触れるか触れないかというほど近づけたままくるくると奇妙な笑い声を上げた。幼い子供が、他人をからかって楽しむような声。ずきりと、イナズマの脳が痛みを感じた。の声が響く。そのままに、脳裏に巡るのは昔の記憶だ。
(はしゃいで走りまわった、祖父の大きな葡萄畑)(太陽の眩しい地の高大な先祖の土地)(己と同じ顔をした少女の澄んだ青い瞳)(鳴り響く、電伝虫の音。呼び戻そうとする必死な声)(何かが空を覆いつくすように広がって、そして辺り一面の火の海)(辿り着いた時には燃え落ちた白い小さな家と、瓦礫の中から突き出ていた、細い、炭になった腕)
まっすぐに、目を見開いて、イナズマは立ちつくす。いつのまにか立ちあがっていた。瞼の裏に浮かんだ何かに向かって己は叫んだのだということに気づいたのは喉が焼けるように熱くなってからだ。
「案外、つまらないオチが付きそうでがっかりですよ」
そんなイナズマの動揺など気にもせず、己は座り込み、イナズマの手を放した。こくり、とロゼの甘味を味わうその、頭。一瞬、いっそ両手を鋏に変えてこの女の首をあっさりとくびり落としてやれば楽になれるのではないかとそんな妄想が胸をかすめる。が、その時、イナズマはやけに視界が鮮明なことに気づいた。そしての片手に握られた己のサングラスに気づく。はっとして息を止めたイナズマに、の優しい(そうどこまでも彼女の声は、やさしいのだ)声が耳に響く。
「それで、後ろの鏡に映っているのはどなたですか」
イナズマは振り返ることができなかった。
Fin
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