首を絞め壁に押し付ければ青い目の魔女がにんまりと、それは意地の悪い笑みを浮かべる。人が過ちを繰り返すのをただ黙って見ている、それが魔女の悪意というのなら今のこの、センゴク大将の、逆上しかけてギリギリとした奥歯の音、崖っぷちに立ったような危うい神経を「過ち」ではなく「愚行だ」と哂う哂う魔女の笑み。世界の敵たる彼女を害してはならぬという決まりを私情と感情によって踏み込んだ「大将」への嘲笑い、ではない。無駄なことをするという、そのどうしようもないセンゴクの無力さを笑うのである。

「報復をしたいんだろうね。それゆえの「暴力」なんだろう?」
「黙れ」

笑う少女の声をセンゴクは乱暴に遮った。この人を小馬鹿にする悪意に長けた魔女に言われずともわかっている。暴力はそれを「恐怖や屈辱」と捉えられる相手にしなければそれは何の意味もない。そしてそういう恐怖や屈辱とは無縁であるのがこの魔女だ。センゴクが考えられるどれほどの無礼をはたらこうと、この白い頬にさっと朱をさすことすらできぬ。センゴクは荒くなった呼吸を、噛み締めた歯の奥で何とか整えながらどさり、と魔女を解放する。

円卓会議での折はまだ耐えられた。先ほどサカズキ中将がこの執務室にいた時も、まだセンゴクは理性を保つことができた。しかしダメだ。けれど、もう駄目だった。

(瞼の裏に浮かんでくる彼女の笑顔)
(義姉の、義姉の、彼女の悲しいほどに美しい笑顔)
(彼女の胎は膨らまなかった。そういう体質だと、そう思っていた)
(待っていた。待って、待っていた。兄が戻るまで、己は義姉と、その子供を守る「使命」を得るのだと)
(誰もが待って、いたんだ)

床にへたり込み赤い髪を弄る魔女をセンゴクはこれ以上込められぬほど強い感情を込めて睨みつける。今この場で己がもはや「海兵」「大将」でいようとしないことを狼狽するよりこの魔女への憎悪が勝った。姿そのままの幼い少女なら泣きだし命乞いを即座に選ぶほどのその殺気と敵意、憎悪を目の当たりにし、しかしそれでも魔女は艶然とその貌を綻ばせるのみである。

ぐっと手のひらを握りしめ、センゴクは瞼に浮かぶ彼女の笑顔でなんとか理性を呼び戻そうと努めた。今ここで、この場所で、このままこの魔女を葬り去ることは不可能ではない。咎めがあったとしても、そのことについての悔いは一生持たぬだろう確信もある。しかしそうはできぬ。そうは、できない、その理由を思い出すことが重要だった。

センゴクはゆっくりと息を吐き、魔女に手を差し伸べる。

「手荒な真似をしてすまなかった。立てるか?怪我などしなかっただろうか」
「ふふ、ありがとう」
「詩編について直接きみに話を聞きたいと思っていた。どこから話せばいいのかわからんな」
「あの中将殿ならきみの話が終わるまでどれほどでも待っていると思うよ。ぼくにも時間は多くある。好きなところから話せばいいんじゃないかな」

まるで先ほどの暴力などなかったように互いに振る舞う。いつまでもじくじくと引きずる無意味さを承知ゆえのこと。魔女はけろっとした顔、あどけない様子でセンゴクの手を取り立ち上がると、そのままひょいっと腕を振って座り心地のよさそうなクッション張りの椅子を二つとティーセットの整えられたテーブルを現した。

長話になると言うゆえの気遣い、などと思う素直さはもちろんないし淹れられた茶に口を付ける気もなかった。礼儀正しい顔をしていても態度からそうは取れぬというのに目の前の魔女は素知らぬ顔で自身はソーサーを引き寄せる。Guestが口を付けるまでは主催は手を付けられぬというある種の茶会のルールを無視した動作は、やはり彼女自身和やかで礼儀正しい振る舞いをする気はないという暗黙の提示であろうか。

「ある女性のことだ。この表現はふさわしくないかもしれないが、彼女は流産し心を病んだ」
「ふぅん。お気の毒にね」

茶会に相応しい話題ではない。むしろタブーとされている類のもの。それでも口に差せば魔女はほんの少し眉を跳ねさせて社交辞令を返してくる。

(義姉の胎はなかなか膨れなかった。体質だろうと思ったが、具合が良くなかった。それで、兄の死を告げる手紙が来た途端、彼女は倒れて血を流した)

センゴクはなぜあの時、倒れる彼女を支えてやれなかったのだろう。いや、隣にいたのだ。そして、姉の体が倒れることに気づき、咄嗟に庇おうと身を差し出した。しかしいくら華奢であっても大人の女性の、力の抜け切った体というのは重い。当時センゴクは体も弱く、倒れ込む彼女を支えることはできなかった。一緒に倒れて、義姉の体の下敷きになり、彼女の白い足の間から流れた血を、真っ白いワンピースが染まる様を、母の叫び声を聞きながら間近で見てしまった。

「その後、彼女は詩編の宿った器物に接触し呪われた。彼女を救う方法はあるか」

簡潔に、それ以上の情報を開示する気を見せずにいれば魔女が瑠璃の目を細めた。しかしセンゴクの無礼を咎める口はなく薔薇の角砂糖が入った小瓶を引き寄せて小さな薔薇を指で撮む。

「もちろん。どういう詩編かってことくらいはわかっているんだろうね?」
「糸車だ。商家に嫁いだ彼女は器物と知らず流れてきた骨董品を手に取ったのだ」

思い出す。あの日のこと。

子供が流れ日に日に憔悴していく彼女を見ていられず、センゴクたちは気晴らしに骨董品を眺めてはどうかと提案した。裕福な商家であったから珍しい様々な品々が何代にもわたり仕入れられ、蔵にはセンゴクが見たこともない骨董品が眠っていた。

だから、彼女の気晴らしになるだろうと、そう思ったのだ。

『ありがとう、センゴク。お義母さまにも気を使っていただいて、わたし、早く元気にならないとね』

子供が流れて以来ずっとふさぎ込んでいた彼女が、ほんの少し笑顔を思い出した矢先だった。屋根裏部屋に籠って、カラカラと糸車を回す。センゴクはその音を聞きながらそろばんをはじく。そういう日々が、ほんの少しだけ続いた。

そうであったのに。

「糸車。とういうことは糸錘か。ふぅん、へぇ、おや、まぁ」

センゴクの話を聞きながら魔女がしきりに頷く。そのやや芝居ががった様子に腹が立ちながらも、このときをどれほど待っていたかと己の血が湧き上がるのを感じた。

ある日突然、姉の糸車の音がしなくなった。様子を見に屋根裏に上がれば、そこにはバラ色の頬をして眠る姉の姿。

疲れたのだろうと、最初はそう思っていた。

けれど三日、四日、半年経っても彼女は目覚めなかった。

そしてセンゴクは兄の死因と、そして彼女が「何故」こうなったのかを知るために海へ出て、そして海兵になった。

海兵になりある程度出世した頃、センゴクはこの世に散らばる魔女の悪意。「詩編」とその力を宿した器物の存在を知る。己の兄が死ななければならなかった理由。そして義姉が憑りつかれた眠り。それらをセンゴクは一度に理解した。

センゴクは即座に故郷に頼りをだし義姉を海軍本部で引き取った。稀有な詩編の被験者と、観察対象、名目はあれど眠り続ける彼女を何とかできるかもしれないと、そういう期待があった。

「貴様なら何かしらの手段を投じて彼女を目覚めさせることができるはずだ」

何十年も、詩編を追い続けた。詩編、器物によって呪われた人物を救う手立てを探した。同じように詩編に呪われたケースを何件も目にし、その都度絶望してきたがセンゴクはあきらめなかった。

そしてやっと、やっと、詩編を世にばらまいた張本人。
パンドラ・リシュファ、悪意の魔女を海軍本部は捕えたのだ。

優雅に優美に茶を楽しむ魔女を睨みつけ、センゴクは言葉を待つ。こちらの真剣さは伝わっているだろう。それでもまだ茶化すようなごまかすような言動をすれば容赦するつもりはない。そう気配で滲ませれば、ティカップを持ち上げた軽い仕草の後、が小首を傾げて口を開く。

「気づいてないみたいだから教えてあげるけど、その女性はぼくや詩編によって呪われてなんかいないよ。彼女は自分で自分を呪い、夢の中へ逃げたのさ」








髪の短いラプンチェル







「ねぇ、センゴク元帥。いい加減諦めたらどうだい?」

この己が「忠告」や「助言」などどういう酔狂だとしか思えぬが、しかし、人の過ちを黙って見ているはずの魔女の己が、この男のこの行動だけはそろそろ「気の毒」にはなってきたと、、最近思うのだ。

白い塔の扉の前までたどり着き、塔を見上げるセンゴク元帥どの。白亜の建物を覆うアイヴィー(蔦)を憎々しげに睨んだところでどうなるわけでもないだろう。そんな徒労は十六年前に仕舞いにして、それ以降、ただ見上げるのみ、それだけであった男。

こちらの声と申し出にどこまでも感情の読めぬ顔を向けて、そして再び扉に向かう。そのあと彼がする行動は知っている。扉の奥へ進み螺旋階段を上がっていって、その最上部にたどり着く。その白い寝台に眠る彼の兄のお嫁さん。もう何十年も前に詩編によって眠りにつかされゆるやかな死を迎えていると、そういう女性。センゴクはただ彼女の眠る横顔を眺め自分の無力さを噛み締めるのだ。

この男にそういうMっ気があったとはと、当初は新鮮な思いがした。けれどそれをもう二十年近く眺めていると、いい加減己でさえ気の毒に思えるのだ。

「彼女は自分でこうなるってわかっていたんだ。察してあげなよいい加減にさァ」
「黙れ」
「ぼくに命令していいのはサカズキだけだよ」

ぴしゃり、と言われたので同じようにぴしゃりと切り返す。双方沈黙。そういうたびにはこの男は海兵になんぞならなかった方がよかったんだと言ってやりたくなる。そういう、魔女の老婆心をセンゴクという元帥どのは起こさせる。妙な魅力といえるのかもしれない。眉間に皺を寄せて海兵海軍正義を掲げる元帥どの。世にある海賊すべてが「悪」と割り切れるものではないと承知の目で、正義が純白ではないと存じている正気の目で、それでも彼は絶対的正義を守り続けなければならないのだ。

は塔の上、眠る女性を想う。

真実を、センゴクに告げたのはもう二十年近く前だ。はできる限り誠実に事実を告げたと自負しているが、それであるのに当初からセンゴクはこちらの言葉を信じるという努力を怠り、そういうわけで、ただでさえに、魔女に対してあったセンゴクの嫌悪感は激しい憎悪と敵意に彩られたことと思う。

センゴクの兄の「妻」だというその女性。兄の子を孕み流産し、そのショックで心を閉ざしたと、そういう話。それゆえその後「不幸な事故」によって詩編に触れ呪われ今の悲劇!とそのような言いがかりをは受けたが、そんなわけがなかろうと一蹴にした。

彼女の陥った状況は「眠り姫」の糸紡ぎによる眠り。うとうとと微睡み夢の中。それでも体は成長し時を刻む。昔は若い女性だっただろうが今寝台に横たわるのはすっかり髪の白くなった老婆だ。

詩編により呪われて得体の知れぬ者になる、というケースは確かにある。呪い呪われ化け物に。奇妙な力を授かり「奇跡」を起こせるようにもなると、そのような便利アイテムという見解もあるが、しかし、センゴクの兄嫁が陥る状況は「詩編による呪い」などではない。

「彼女は魔女だ。自分から魔女になったんだろうね。選んで、そして自分で自分を呪った。司る物語は眠り姫。緩やかに毒を食むように眠り続けて死を迎える」
「なぜ彼女が自殺などせねばならない。そんな理由はなかった。そんな必要もなかった」
「そう、だからこれは自殺ではなかった。そういうことだよね」

は扉を開け進むセンゴクの後を追い歩き出す。咎めるように振り返ったが、言われたところで遠慮するではないし、魔女のお節介。そろそろこの純朴な少年(の一面を未だに持ち続けるセンゴク元帥)を現実に引き戻してやらねばならぬと、そういう心。全く持って余計な世話をセンゴクは言うだろうが、この男はサカズキの上司だ。はあの苛烈な男の上司がいつまで経っても昔の女にずるずると引きずられている、それをみっともない、と思うのだ。

かの女性が魔女になったことは疑う要素などない。そして魔女となる条件は「処女」であること。ねぇ、とは二十年前にセンゴクの袖を掴んで申し上げた。

『彼女の胎にはなにもいなかった。彼女は一人残される寂しさと恐怖からありもしない命を腹の中に想像して慈しんでいたのさ』

思えばその瞬間、センゴクのに対する嫌悪感は決定的なものになったと思う。

いったいどういう心境で、どういう考えでその女性が想像妊娠をしたのか。一人きりの寂しさ?そばにセンゴクがいたのに、彼女は満たされなかった。それをわからぬセンゴクではない。それを考えられぬ男ではなかった。だからこそ、彼はへの敵意をこらえきれなかったのだろうか。

長い長い階段を上がれば、そこは寝台のほかに何もない簡素な部屋。その窓辺に天蓋付きの寝台があり、静かに眠る老女がいる。

は入口にしゃがみこみそれ以上は進まぬという意思表示をした。

他人の宝物に無遠慮に足を踏み入れて荒らす性格の悪さだけはいつまで経っても持てない。センゴクがゆっくりと彼女に近づき、膝を付いてその手を取る。

その姿を、は嫌いではなかった。

諦めればいい、とは思う。
彼女のことなど忘れて彼は元帥として雄々しくある人生のみを迎えるべきだ、と思う。しかし、その、一種の、いつまで経っても冒しきれぬ光景が、どうも嫌いではない。

(彼女は自殺をしたかったわけじゃない。でも、生きたいわけでもなかった、なんて言ったらセンゴクくんはどうするんだろうね)

そのことを、思う。

眠り姫のその毒は、自殺するためのものではない。長き眠りについて誰かを「待つ」もの。誰をか、などとそんなことは簡単だ。

お姫さまが待つのはいつだって「王子さま」に他ならない。

彼女は眠り、眠りについてただ一人の王子さまを待つことに決めた。いや、死してしまっていることを知ってはいたのだろう。けれど理解はしたくなかった。けれど、彼のいない世界で生きることをしたくなかった。自殺はできなかった。だから、だから、だから彼女は、眠りの毒についたのだ。

(彼女は待っている。王子さまが目覚めを覚ます口づけを落としてくれるのを)

そしてそんな日はきやしないと、彼女はきっと知っていた。
だから、だから、だから彼女は、きっと死にたかったのではないか、とも、そう、反転反転しては思う。その気持ちは、わかってしまう。

眠る彼女の時間を「動かす」には口付けが必要だった。彼女の王子さまは死んだという夫、センゴクの兄なのだ。王子さま以外が口づけをすれば、神聖な眠りは怪我されて「凌辱された!」と姫君はそのまま息を引き取る。

彼女は、センゴクの思いに気付いていたのではないか。
そして彼女が眠れば、センゴクが彼女の「王子さま」に立候補して眠りを覚ます口づけを落とすと、その瞬間、彼女は息を止め、そして亡き夫のもとへ迎えると、そのような計算。していなかった、とはにはどうしても思えない。

「きみが口づけをしてあげれば何もかも終わるのに」

こうして見えるその光景。にはたまらない。

諦めればいいのだ。諦めて、彼女を「魔女」と認めればいい。

この世でサカズキの次に己を魔女だ、害悪だ、と叫ぶ男が、身内の女性の悪意にだけは必死に耳をふさいでそしていつまでも彼女を「お姫さま」でいさせようとする。そしてその愛された女は魔女であろうとするのにそうはなれぬ。

にとってこの光景は、そういう互いの意識のせめぎ合いという意味を含んだものだった。

「彼女が待つのは兄ただ一人だ」

こちらの言葉の意味に気付かぬわけではいくせに、必死に必死に蓋をして気づかぬふり。彼女を「貞淑に夫を待つ健気な女性」と祭り上げるセンゴク。そして彼が神聖視すればするほど彼女はその望みから遠く遠く放されていく、というのに。

(基本的に、これ、ぼくはなんにも悪くないんだよねぇ)

そしてその美しい眠りに蔓延る全ての「悪意」と「責任」をなすりつけられる己は、たぶん文句の一つでも言う権利がありそうだ。しかしはただ黙り、眠る女性の横顔を、穏やかな顔で眺める中年のオッサンの背を眺め、ふわりふわりと欠伸をするのみにとどめるのだった。




Fin

(2011/02/04 18:46)