咄嗟に、腕を掴んだ。

ぞわりとその途端に全身に嫌悪感が沸き起こる。どうというものではない、と即座に己に言い聞かせたのはその嫌悪の中にひっそりと潜む恐怖心に対しての虚栄であろう。そうでなければやるせぬもの。センゴクはごくりと喉を鳴らして己の太い腕の先、大きな無骨な手が咄嗟に握った小さな小さな、本当に小さく薄い、手首を丸めがねの内側から見つめる。

睨むつもりなどは毛頭なく、それなのに自然眦が上がった。虚栄であると、再度己に言い聞かせる。でなければやるせぬ。それでそう神妙な顔。じっと、睨む、挑むような眼。それでいて手を離そうという気はこれっぽっちも浮かんでこぬで、センゴクはそこで初めて狼狽した。いや、そうだ、おれは一体何をしているのだと、そう、気付く。叱責する声などどこにもない。いや、それも当然、ここは高い崖の上。美しい屋敷の裏口から離れ走り、走って、走った、場所。森というには貧相で、しかし林というには騒々しい場所。その木々の間を縫った先、断崖絶壁、ザンッ、と波の撃つ音荒々しく耳に届き、そしてカモメの声すらどこにもない。センゴクは片手で木の幹をつかみ身を乗り出して、崖の下、海に吸い込まれそうだった少女の腕を掴んでいた。このまま落ちれば己とて死ぬやもしれぬ。それはようわかりきること。それであるというのに、恐怖心、は、この少女の手を振りほどけぬ己の有様ゆえのものだった。

(ここで身を投げるというのなら、そうさせるべきだ)

触れた手が手袋越しにもわかるほど、熱い。腕を、掴むべきではなかった。それを今、今、やっとセンゴクは気付く。そのまま見過ごすべきだったのだ。彼女が屋敷を飛び出したことに気付いても、彼女の手足に着けられた鉛のような鎖が音を立てても、黙認し、そして、彼女が「落下した」その音だけを聴けばよかったのだ。しかし腕を、掴んでしまった。いや、今でも遅くはない。この手を離すべきだ。そうする「べき」であることは明白だ。センゴクは指先から力を抜く、そうする「べき」であると判じ、そして眉間に皺を寄せる。

「……わからないの」

掴んだ、小さな腕の持ち主が、振り返らずに呟いた。小さな声で、掠れる喉、何とか声を作る、久方ぶりに人に言葉を発したと、そう気付かされるか細い声が、センゴクの耳を打つ。途切れ途切れに話す赤子とてここまで頼りなくはない。そんな囁くような音である。わからぬのはこちらとて同じ。センゴクはいま己が一体何をしたいのか、わかるようで、わからなかった。いや、元帥としてせねばならぬことなどわかりきっている。それなのに手を放せず、そして、ただ眉間に皺を寄せるのみである。灰のような髪が揺れた。宙吊りになった体勢のまま、全身の力を抜いている。それゆえ、そのままの体重が全てセンゴクの腕一本にあからさまに伝わる。細過ぎる身体だ。

食事は、きちんと与えられているはずだ。何も問題は、ないはずだ。外的なものがこの少女に影響を与えることは、まずないはずだ。それなのに少女の身体はセンゴクがよく知る魔女ほどに細く、そして頼りない。風が吹けばそのまま折れてしまうのではないかとさえ思われた、そんなことを考えている場合でもなかろうに。そして、そんなことを考える「べき」でもなかろうに。

少女の灰の髪が揺れる。頭が、揺れる。肩が震える。このままセンゴクが腕を離せば、そのままこの少女、落ちる。岩に打ち付けられてそれは、見事に、潰れよう。センゴクは地面に、岩に打ち付けられた身体がどうなるのか、海兵であるゆえによく知っていた。波が強く身体を押し、容赦なく固い岩に打ち付ける。波の勢いと岩の硬さが柔らかい肉を潰し岩肌が皮膚を破る、波は肉をすりつぶし、溢れ出した血管、血液が周囲を赤くする。泡立つ海水は赤くにごり、肉褐色の気泡を作る。その様をよく、センゴクは知っている。投身というのは「美しい」などと生ぬるい世間の連中が戯曲に込めるけれど、その醜さ、吐き気さえ催すその、醜悪さをセンゴクは知っている。今ここで、己が指先から力を少し抜いてしまえば、容易くその「世の人の憧れる末路」、しかし実際のところはおぞましいものが、眼下に広がると、それだけだった。

腕を掴んだその途端から、わかっている。この少女は、この世にあってはならぬものだ。そうと、言葉のうえではなくて人の身であればそうと、わかるものだ。ぞくりと全身の神経が沸き立つ。嫌悪感、拒絶、そういうものが沸いてくる。いや、と言って、あの魔女のように世の人の本質に込められた悪意うんうぬん、というわけではない。この少女を拒絶する、その故のものは、結局のところはこの少女が「天竜人の血を引く」という一点を知るゆえのことである。それさえ知らねば、恐らく今このように嫌悪は沸かぬもの。いや、嫌悪とさしあたって称してよいのかどうかも知れぬものだ。敬意を持って接せねばならぬ血、でもある。それを嫌悪する、ということはそのセンゴクの本質少なからず、あの一族をどうと思う心あるとの証明となり、それゆえにおぞましいのだ。己が「彼ら」をどう思っているのかを、この少女は突きつける。それゆえの嫌悪、が最終なところなのかもしれなかった。

手を放す、そのことをセンゴクは考える。この少女は、尊き天の竜の御子である。しかし、それはその半分のみ。もう半分は「奴隷」とされた人間のものだ。センゴク自身奴隷がどうこうと思う心はない。しかし奴隷となった「人間」は世界政府に反するもの、つまりは世界の敵である。加盟しておらぬ国の民、あるいは犯罪者となるのが「人間」の奴隷である。いや、世界貴族とて奴隷とお間に子を残すことはある。正確には孕ませることもある。そういう子供は「準」という扱いにはなれど、貴族の末席にはあげられる、という建前の中殆どの子供が「不運な死産」となる。その「死産」を免れた子供とて5つの数を覚える前に「不運な事故死」を遂げる。何よりも尊き血はどのようものと交わろうと代わらぬという前提でありながら、純潔以外を認めることがない。しかし、何もそれは彼らが傲慢というだけのことではない。魔女の言葉をセンゴクは思い出す。彼らの『血』はそれに相応しいDNAの持ち主でなければ「耐えられぬ」のだという。魔女はそう言い、皮肉げに眼を細めた。『頭のおかしい連中の血を身に入れるなんて普通の人間にはムリだってことだよね』笑う、笑う、あの、魔女の目。だかこそ混血は根こそぎ抹消されてきたのだと、そう悪意に満ちた魔女の唇が囁く。そのことを思い出し、センゴクはぎりっと歯を食いしばる。

この、手の先にある小さな少女。彼女、今はまだ「正常」である。それは、医者の見立て確かなことだ。しかし、けれど、いつ発狂するか、それは誰にもわからないのだ。発狂したものは、その血ゆえに己の「価値」を自覚し世を揺らす。そういう例が過去、ないわけではなかった。可能性があるのなら、何もかも「消して」しまなわねばならぬ。

センゴクは己の心をそうと決めた。数年前に、南の海の小さな島で、センゴクは大量虐殺を行ったばかりだ。疑わしき腹は殺しつくす。そうして、最悪の事態を押える。それが、世のため人のため、ではない。そうする「べき」であるからゆえのことだった。

手を放す。そうする「べき」である。そうしなければ、何故おれはこれまで「今罪はない。けれど疑わしき」人々を、数々容赦なく「正義」のために殺してきたというのか。その根底が揺らぐ。何よりも恐ろしいのは揺らぐことだ。正義、その解釈は自由という、それゆえに海兵たちは揺らぐ。だが、己は元帥である。元帥、なのだ。己のしたにいる何万もの海兵たちを思えば、この、小さな、まるであどけない、小さな子供一人のために揺らぐわけにはいかぬ。この子、今はこうしてあどけないけれど、今はただ、そうと生まれてきたことが「よくない」生き物であるけれど、それでも、しかし、今この世界に、この子供はいてはならぬのだ。

手を、放す。そうと決めた。センゴク、肩の力を抜いた。

灰色の子供が、白いその顔をこちらに向けてきた。

「…わから、ないの」

ポツリ、と、一度、雨のような声で、呟く。この少女、人に拒絶の言葉を吐かれるその始終。なぜか、どうして、なんで、その理由を一切、知らぬ。それでも、拒絶される、罵られる、蔑まれるその日々に変化などあるはずもない。

その眼を見てはならぬと、そう危機感を覚えていたにも関わらず、はっきりと、センゴクは、その少女の目を見てしまった。よくない生き物の目を、見るものではないとそう忠告してきたのは誰だったか。思い出す前に、センゴクはその、少女の、緋色・灰色の瞳の中にありありと写る己の姿を自覚する。









全て鬼の所為にすればいい








機嫌のいいなど物騒で仕方ない。

ドレーク中佐はが鼻歌なんぞ口ずさみ始めたので思わずぎょっとして、背筋を伸ばしてしまった。

海軍本部“奥”に位置する魔女の控え室。

午後の日差し暖かくぽかぽかと白い絨毯の上に陽だまりを作り。そこに気に入りのくまのぬいぐるみを抱きかかえてごろごろと喉を鳴らして寝そべる。付近には先ほどまで読んでいた絵本や遊んでいた玩具が散乱している。それを一つずつドレークが拾い上げて片付けることも出来るのだけれど、、そもそも今使わないものはさっと指でも振って消すだけのこと。
その辺に放置しているのはまだ使うからということをこの半年で学習したドレーク。ヘタに手を出してに蹴りを入れられたくはないと防衛本能もあって、ただ黙々と、部屋の隅にある簡素な机の上で仕事をこなす。

海軍本部の元帥や大将が揃って本部を離れマリージョアへ出かけてもう一週間である。

予定では本日の夜にマリンフォードに到着、のはずだ。それではの機嫌がいいのは、やはり互いにどう表面上罵り合っていても長年傍にいる赤犬が戻ってくるからだろうかと、そんなことを考えれば微笑ましくなる反面、なんかこう、胃も痛くなる。あれだ。どうせ赤犬に、こう、この一週間、の食事から就寝時間までしっかり指示通りにドレークがこなしたかという確認をさせられるのだろう。毎日電伝虫の通信で報告させただけでは足りないのだろうかと、本当、いつものことなのだが、ドレークは胃が痛かった。

「赤犬、早く帰ってこないかねぇ」

そんなドレークの心中知ってか知らずか、が弾んだ声で言う。こういう、愛らしい様子のときは本当天使のようなのだが、次の瞬間ぞっとするようなことを平気で言うのがこの悪意の魔女。一瞬本能的に身構えたドレークの期待を裏切らず、が、それはもう花のような笑顔のままのたまった。

「そろそろトムが海列車を完成させそうなんだよ。こんなところ早く出て水の都に行きたいじゃあないか」

そうだった、とドレークは何甘い思考しているんだ自分、と叱責する。と赤犬の関係、傍目からは「だから結婚しちまえよ!!」と突っ込みを入れたくなるようなふうに見えていて、結局のところ、そうなのだった。赤犬がの様子を逐一報告させるのは、自分が傍にいないときにが脱走、あるいは妙なことをせぬかという、不信感からだ。

そしてが本日上機嫌なのは、定期的に水の都に滞在できる日に近づいているからだ。

水の都に行くのなら、はその前に赤犬に負傷させられる。腕の骨を砕き、片方の目を潰す。腕とは反対の足の骨を折り、常に松葉杖を使わねばならぬようにする。そうすれば腕を降ってデッキブラシを出すこともできず、逃亡する恐れもなくなる。半身を焼き即座には修復できぬようにして、水の都の滞在時には一切、怪我を治すことを禁じるのだ。

そういう状態にさせられても、は水の都の造船技師と、その弟子二人に会うのを楽しみにしている。赤犬が戻ればそれはもう容赦なく打ちのめされるとわかっていて、それでも上機嫌に待つ。その姿、ドレークは眉を寄せて、の頭をクシャリ、と撫でた。

「なぁに?ディエス中佐」

子ども扱いしているわけではないが、自然そういう態度に思われたらしい。、不敬だといわんばかりにドレークを睨み、そして容赦なく脛を蹴り飛ばしてきた。







+++





搬送途中で海兵が一人死亡した。

あの状態からよくここまで持ったというほどの怪我だ。半身が吹き飛び、流す血ももう残っておらぬのではないかというほど。それでもその海兵、本部に着くまではなんとか持ちこたえた。その手に、戦地から帰還したにしては不釣合いな枝付きの花が、ずっと握られていたことにクザンやサカズキは気付き、そして、センゴクはあからさまに顔を顰めた。

酷い戦争でも、あったわけではない。簡単に言ってしまえば、詩篇の回収がその目的だ。詩篇、詩篇、世に災厄を放つものである。双子の魔女が使った調度品、それに刻まれた一行詩が世に「奇妙」を沸き起こす。硝子細工の鏡に刻めば、鏡は千里先の光景を映し、斧に刻めば山を割る、とそのような伝説が残っているほど。その真相真理は准将以上の者であれば承知のこと。本来であれば「詩人」と呼ばれる能力を持った者が詩篇の回収に当たるのだけれど、しかし、最後の詩人が一世紀前に自殺して以来、後任者は現れていない現状。だが詩篇は世を巡る。人の意識を蝕み、海を荒らす。海軍は放置するわけにはいかず、どれほどの犠牲を払ってでも、詩篇を回収、あるいは、消滅させねばならなかった。

海軍本部に半死半生で戻ってきた、その海兵はその任務についた。それだけのことだ。

「……×××少将!!!」

遂に息絶えて動かなくなったその海兵を見下ろすサカズキの耳に、悲鳴のような、すがるような少女の声が届く。その海兵の名とそして最後の階級を呼び、足音を立てて駆け寄ってくるのがわかった。途中何人かが顔を見合わせ、そして何事か囁きあう。サカズキの耳には届いたが、あえて何を言っていたのか頭の中で留めず流した。

「…×××、少将……?」

灰に近い色の髪を短く切り落とした少女が、サカズキやセンゴクに構わず呆然とその、海兵の横たわる場所に近づき、そして、へたり、と膝を突いた。自然少女の顔がサカズキにもわかるようになる。灰の髪に、同じ色の瞳は片方。もう片方は夕日のように赤い瞳である。大きな眼を、さらに大きく驚愕に見開いて、その少女、海兵の成りをした(しかしサカズキは一度も海兵とは認めていない)生き物、血の気の引いた顔はそのままに唇をかみ締めて、どんっ、と、死した男の胸を叩く。

周囲がどよめいた。死者への無礼、ではない。今この場にいるのは海軍本部、准将以上の者のみである。そうしてここまで上り詰めてきた海兵ら、この少女の行動を理解しがたい、ということだ。

その少女、名をというらしい。らしい、というのはサカズキがそうとセンゴクに聞いたからで、その時紹介もされた。数年前のことだ。幼い顔の丸みのある体、センゴクの後ろに隠れてはにかんでいた。その時は、別段今のような感情を抱きはしなかった。ただ、センゴクに「そういう生き物だ」と告げられ、それを受け入れただけだ。あの頃まだ己は中将だったが、傍らにもうはいた。

「……ッ!!!死んでは、だめ…ッ、死んでは……だ、めだっ!!!!」

の悲鳴のような必死の声が周囲に響く。海兵らは顔を見合わせ、そして眉を潜めた。どれほど力強く叩こうと、死した男が反応することはない。サカズキはその光景をじっと眺めた。この場にいる全ての海兵が、この少女の行動に戸惑っているのは明らかだ。海兵の死は、殉死とされる。己の信じた道に従い、そして果てたということだ。その死は、家族や友であれば嘆いて当然とサカズキ自身思う。だがしかし、同胞としては嘆くものではない。

「いやッ……!!!だめ、だめだッ…!!!!」

頭を振り、もう何も映さぬ男の目に映る己を否定するように目を閉じて、が両手で耳を押える。何も言わぬ男を自覚するのではなくて、己が塞いでいるから何も聴こえないのだと、そのような姿勢。

この海兵は、の世話役だったという話をサカズキは聞いたことがある。世界貴族と、奴隷との間の子である。その身は「やんごとなき」と表面的には扱われねばならず、海兵となっても傍らには護衛が付くものだ。だがしかし、の世話役になったものは必ず殉死した。この男で何人目であるのかサカズキは頭の中で思い出し、そしてそこまでしてを突き落としたいという世界貴族の執念に呆れ果てる。

泣き声を上げるの肩をセンゴク元帥が叩いた。

「お、じぃ、ちゃ……」

男の血と自身の涙でぐちゃぐちゃになった顔をさらに歪めて、はセンゴクの服を掴む。息ができぬような、喉を引っかいたような声が掠れて出て、そのまま、嗚咽にかわった。

「またっ、わたし…わ、わた、わたしの…所為、でッ…!!!!」

溢れ出す戸惑いと恐怖がそのまま声に表れていた。センゴクは顔を顰め、今すぐにでもを、孫娘のように思うこの少女を抱きしめてやりたい衝動と戦い、しかし、触れはせず緩やかに首を降り、口を開いた。

「死体を収容する。、離れなさい」

ひゅっと、の喉が鳴る。顔が絶望に引き攣り、そのまま体を支える力も消えたか崩れ落ちる。唯一と思っているセンゴクが、「死体」と言う言葉を発したことによりの中で海兵の死が確実なものとして受け入れられた。そういう意識下の恐怖、緩やかに進む。崩れ落ちた体が血と土で汚れたコンクリートに打ち付けられる前に、ぐいっと、近づいたサカズキがその腕を取った。

「……」
「赤犬?」

センゴク元帥を前にし、そしての腕を掴んだサカズキは動かぬ小さな少女の青白い顔を眺め、目を細めた。介入してきた部下にセンゴクが困惑するように眉を潜める。サカズキは上官の礼儀として一度目を伏せてから、の頬を殴った。

「赤犬!!!!!」




+++





おじいちゃん、と慕う人の驚く声がぼんやりとの耳に聞こえた。頭の中がじんじんとする。何も考えたくない。このまま眼を閉じてしまいたいと、そう願いながら、はうつろな眼で、自分を睨むサカズキを見た。

頬が痛い。火傷をしたように、熱かった。けれど本当に火傷をしたわけではないことは自身よくわかっていた。

サカズキおじさん、と小さく唇で呼べば、怒気を露にした大将の目がさらに険しくなった。

「……貴様、それでも海兵か」

嫌悪感を露にし、侮蔑する低い声だった。は、人に拒絶されることにはなれている。世界中が、己を否定してきた。今更珍しいことではない。世界にとって自分は「いらない子」で生まれてきてはならなかったのだ。そういつも、いつも、蔑まれてきた。いつも、そういつも、罵られてきた。それであるから、おじさん、と親しむ人が掌を返したように自分に辛く当たってきても平気なはずだった。だがしかし、何かが違った。これまでに向けられてきた嫌悪感と、サカズキ「おじさん」が向けてくる感情は、何かが、違うように思えた。

けれど、拒絶にかわりはない。は弱々しく眼を伏せて、このまま首を絞められるのならそれでも構わないと思った。けれど、自分を殺した所為でサカズキおじさんが罰せられるようなことがあれば、それはとても悲しいことだった。

(わたしに関わった所為で)

大切なひとが死んでしまう。

そのことが、悲しい、苦しい、どうしようもないのだと、は眼を伏せる。脳裏に、あの海兵の、出発する前の笑顔が浮かんだ。行かないでと、そう必死に腕を掴んだのに、あの人は行ってしまった。海兵だから、行くのだとそう言った。はもう知っていた。自分の傍にいる、自分自身で身を守れぬ海兵は皆、「彼ら」の悪意で命を落とさせられる。と関わったからだ。それが、海兵たちの意識の中に侵食していくのにそう時間はかからなかった。「疫病神のようだ」と、そう、言われたこともある。その度に耳を塞いだ。それでも、人の声は聞こえるのだけれど。

行かないでと、そう言ったのに、あの人は行ってしまった。海兵だから、命令に従わなければならないのだと、は思った。そして自分などと関わったから、「彼ら」の思惑通り命を落とした。

俯くの首をサカズキが掴み、無理やり眼を合わせてきた。は息苦しいとは思いつつ、逆らおうとは思わない。感覚がもう、麻痺してしまった。何も考えたくない。

はこの地獄のような世界の残酷さを知っていた。世界中が己を拒絶する。それなのに、己の周りには己を愛しんでくれる人がいる。そのことをはきちんとわかっている。の問題を知っていて、それでもその事実が自身の価値を下げるようなものではないとして扱ってくれる人が、多く己の傍にいてくれる。あの海兵もそうだった。そういう人々が周りにいれば、他の、関わりの深くない人の侮蔑など、胸を痛めるだけで済んだ。けれど、こうして、己の問題が、その、優しい人たちを己の前から奪う。

それは絶望だった。何を望んでも、何を願っても、目の前に突きつけられるのは「お前の所為だ」という嘲笑。憐憫、侮蔑、期待はずれの結果ばかりが、いつもいつもいつも、いつも、付きまとう。

さかずきおじさん、と再度呼べば、首を絞める力に熱が篭った。は眼で「わたしを殺したら、サカズキおじさんが酷い眼にあってしまう」と案じた。サカズキは眉間の皺を濃くする。

「この男は己の任務を全うし、そして海兵として死んだ。いつ死んでおかしゅうない上体で本部まで持ちこたえ、そして死んだ」

それは低い声だった。に対して一切の情を含まぬ声だった。大将、の称号に相応しい声だった。ぶるり、とは本能的に体を震わせる。サカズキの言葉が頭の中に染みこみ理解しようとする前に、さらに言葉が続けられた。

「瞼に写る誰ぞの姿を現実のものとして確認してから死んだというに、貴様、真っ先にこの男の死を拒絶する。この男が命をかけた何もかもをくだらん己自身の感傷で否定する。貴様それでも、」
「赤犬!!!」

センゴクの怒声がサカズキの言葉を遮った。サカズキは眉間に皺を寄せ、一度センゴクに視線を向けたが、今にも殴りかかってくるような勢いにため息のようなものを吐く。その態度を不敬、と取ることは難しいのか、センゴクはそれについての咎めは口にせず、に視線を向けてから、サカズキを睨んだ。

を傷つけることは誰であっても許されない」
「上官が海兵を叱責しちゃあおれんっちゅうのも妙な話じゃァありゃせんか」
は、彼女とは違う。何があっても、我々は手出しできんのだ」

こうして牽制されてもまだ赤犬はセンゴク元帥には丁重な態度であった。しかし、センゴクが「彼女」と口に出した途端、若干苛立ったような気配が滲む。は困惑した。の知る限り、サカズキは私情を挟まない。しかし今のこの苛立ちは、私情ゆえのような気がした。けれどその疑問の答えはわからない。サカズキは一瞬湧き上がった感情を、眼を閉じて堪え、そして先ほどの表情を取り戻して口を開く。

「優先されるんは、生まれですか、それとも、義務ですか。センゴク元帥」
は特別だ」

はっきりと、センゴクが宣言すれば、周囲がどよめいた。言葉の意味を知るもの、あるいは知らぬ故に戸惑うものが同じように動揺している。

センゴクおじぃちゃんが、と、は怖くなった。自分を庇ってくれているのはわかる。その所為で、立場が悪くなるのではないか。それは恐怖だった。何か言わなければと口を開こうとした、そのの耳に、この場にそぐわぬ、悪意に満ちた声がかかる。

「ねぇ、ね、あのさ?覚悟を決められないコをトクベツ扱いっていうのはある意味道理だけど、いい歳した二人して女の子の奪い合いしてるのって結構間抜けだと思うんだよね、ぼく」






+++






うわ、と、クザンは顔を引き攣らせた。先ほどまで元帥と大将の一触即発のような状況に、油を注ぎに来たとしか思えない悪魔っ子のご登場である。現れたのは真っ白いワンピースに燃えるような赤い髪、青い眼の少女。幼女と言っても差し支えない幼い子。それでもその顔は悪夢のように美しい。

。わしが行くまで部屋を出るなっちゅう言いつけ一つ守れんのか、貴様」
「こんなつまらない場所、ぼくはさっさと出て行きたくてしかたないのに、赤犬もセンゴク元帥もくっだらないことでぐだぐだ言い合っているのだもの。おかしくて笑い死ねるんじゃァないかい」

の腕を掴んだままサカズキがを睨みつける。はデッキブラシに腰掛けたままころころと喉を震わせて、人を小ばかにしきった笑顔を浮かべる。

「バカかい?きみたち」

ちゃんノリノリ、とクザンは内心突っ込んだ。いつからいたのか知らないが、機嫌が相当悪くなっていることはクザンにもわかる。ちらり、と周囲をうかがえば、を必死に止めただろうディエス・ドレークがちょっといろいろ焦げた軍服そのままにこちらに走ってくるのが見えた。

何がの機嫌をここまで損ねたのか、それはクザンにはわからない。しかしがこうして堂々と現れてしまったのは、あまりよろしくはない。それで、ピピーっと笛でも吹くようにクザンは口笛を鳴らして、魔女の登場で硬直している海兵たちをその場から退散させた。彼ら准将以上だけあって、これ以上この場にいてはならぬという心得、当然持ち合わせている。クザンが声をかければ誰もがすぐに歩き出した。中には係わり合いになればどうなるかも気付いている者もいて、駆け足にすらなる。ドレークはそんな彼らの波に負けぬよう足掻いていたが、結局数には勝てず姿が見えなくなった。

ドレーク中佐お疲れ!!とクザンは一応心の中だけで労って、頭をかく。

サカズキの言葉、長年の付き合いであるから、クザンにはよくわかった。いい意味でも悪い意味でも、サカズキという男は真っ直ぐに過ぎるのだ。のことはもちろんクザンも知っている。は誰にも害されてはいけない。その理由も、意味も、サカズキだってわかっているのだろう。しかし、それでもは数年前に「海兵」になった。

海兵になったのなら、サカズキは海兵として扱う。そういう男だ。サカズキの考える「海兵」は、絶対的正義を背負っている者。は、どうしたって当てはまらない。しかし、サカズキはが海兵であるというのなら、いい加減腹を括れ、と、そう言いたいのだ。

そして同時に、逃げ出すなら今だとも、言っているのだろう。今逃げ出して、海兵でなくなれば、はその身分だけになる。そうなれば、誰のために泣こうとわめこうと、それは「心が優しいからだ」と評価されるべき、尊ばれる美徳になる。だがしかし、嘆くよりも前に進み、悪を潰す、後ろを振り返ってはならない絶対的な正義の旗を抱えるのなら、その世界の覚悟をしろと、そういうことだ。

センゴクが間に入り、そしてが現れなければ、サカズキ「慈悲を捨てられずそれでも海兵だというのなら今すぐに死ね」くらい言ったのではないか。そうなったら、さすがにサカズキの立場も危うくなるはずだが、そんなことを構う男ではない。

「なんていうかさァ、今更「かわいそうな子」を守ろうとするなんて、センゴクくん頭でもおかしくなった?」

とん、とは鈴を転がすような声で言い、センゴクの前に降り立つ。そうして自分よりも随分と背の高い海兵たちをぐるりと見渡してから、泣き崩れるの顔をひょいっと覗き込んだ。

「おや、まぁ」

を見ての反応はそれだけである。クザンは何か違和感を覚えた。けれどそれが何なのかと考える前に、サカズキがからやっと腕を放し、代わりにの背を思いっきり蹴りつけて、地面に叩きつける。

「センゴク元帥に無礼な振る舞いはよさんか、バカタレ」

ミシッとの背骨が軋む。そのままが顔を顰めると、サカズキは、先ほどに接した態度がいっそ紳士的だったと思えるほど乱暴に、の髪を掴んで吊り上げた。内臓を焼き潰したのかの背から脇腹にかけてが爛れ落ちている。嫌な臭いが鼻を突いて、クザンはそこでが立ち上がったことに気付いた。

「止めてください!!サカズキおじさん…!!!!その子、死んでしまいます!!!」

うわ、と、再びクザンは顔を引き攣らせた。





+++






慣れた手つきで、その海兵がの腕に薬を塗ってくれた。酷い火傷、というわけではなかったが、処置を施しておくに越したことはないというセンゴクの判断である。は自分に触れるのを躊躇わず、そして嫌な顔一つしない、その海兵をきょとん、と見上げた。

「ん?どうかしたのか」
「……貴方は、わたしのこと嫌じゃないんですか?」

階級は中佐を示す腕章であるけれど、当然の「事情」はそれとなく耳に挟んでいるはずだ。それなのに先ほどから不平一つ言わず、そしてまた、うわべだけの笑顔を見せるわけでもなくただ黙って、そして気遣わしげにの治療をしてくれるその海兵。顎にはXに似た傷があって、はぼんやり、その人の名前を思い出した。

「おれが心底「止めてくれ…!!!」と思うのはの悪戯に終日付き合わされることくらいだ。怪我の手当てくらいでわずらわしいとは思わないさ」

の言葉の真意を気付いているだろうに、見当違いのことを言う。例を出した瞬間物凄く、その海兵は暗い顔をしたが、に突っ込みをいうオプションはまだない。戸惑っていると、ディエス・ドレーク中佐はを気遣うように、というよりも自分のトラウマを見なかったことにするように頭を振って、やわらかい表情を浮かべた。

「他にどこか痛むところはないか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

礼儀正しくが感謝の言葉を口にすれば、ドレーク中佐はぐっと床に片手をつけて「普通子供はこうだよな…!!!」などと、感極まっている。何か自分が悪いことをしたのかと不安だったが、しかし、ドレーク中佐は振り返って、ぽん、との頭を撫でた。

「どこかの悪魔っ子のように捻くれないでそのまま真っ直ぐ育ってくれ」

物凄く真剣に言っている。とりあえずは反射的に頷いてしまい、きょとん、と眼を丸くする。この中佐殿が他の海兵たちのように自分に敵意や憎悪がないのはこれでよくわかる。しかし、自分に近づくのはよくない。の脳裏に、半身のつぶれた状態で戻ってきた、今はもう亡きあの海兵の姿が浮かぶ。思わず目じりに涙が浮かんだが、こうして泣くのはみっともないとサカズキに叱責されたことを思い出し、ぐっと唇を噛む。

「どうした?やはり、他にどこか痛い場所でもあるのか?」

俯いたを案じてドレークが顔を除きこんでくる。口を開けば今にも泣き出してしまいそうで、は首を振る。それでも肩が震えるのはどうしても押えようがなく、自分の手でぎゅっと、肩を押さえ込もうとすると、頭に、ばさり、とドレーク中佐のコートがかけられた。

暗くなる視界には眼をぱちり、とさせる。

「いや、なんだ。その……すまん」

状況がかわらぬに、ドレークの戸惑うような、しかしどこか温かみのある声がかかった。がコートから顔を出そうとするのを軽く手で止めて、こほん、とドレークが咳払いをした。

「少し、そのままでいてくれないか。今日は暑くて、少し、コートを脱いでいたいんだが」
「……わたしはコートかけですか…?」
「あ、いや、そうじゃない、そうではないんだが…いや、ふむ…そう、いうことで頼む」

本気で思ったわけではないが、そう呟けば、ドレークは慌てて否定しようとして、しかし結局、肯定した。その言い回しが面白くてはくすり、と小さく笑う。顔は見えずとも、その声が聞こえたのか、ドレーク中佐の気配が優しくなった。

(……いや…だ)

この人も、とても優しいひと、と、そう気付き、は心臓が凍りつく。

「……優しくなんて、しないでください」
「うん?」
「優しくしないで、いっそ、嫌って罵ってくれれば、いいのに」

ばさり、とはコートを払った。地面に落ち、埃が付くのが申し訳なくなるが、しかし、そんなふうには態度には出さず、俯いたまま首を振る。

「わたし、世界に嫌われているんです。だから、ドレーク中佐のためにも、わたしに関わらないでください。わたしのことを知っているなら、死んだ方がいい子だって、そう、わかっているんでしょう?」

もう誰も、自分の所為で傷つけたくない。はぎゅっと眼を閉じた。センゴク「おじいちゃん」が手を取ってくれて、そうしてここに来てから、自分の周りは暖かすぎる。けれどは知っていた。夢を見るにはもう、何もかもが手遅れだった。自分がどんなに望もうと、世界はとても残酷で、とても酷くて、冷たいものなのだ。周りの人がどれだけ温かくても、それでも、結局、この世界はを疎む。そんな中で、周りの人の温かさに慣れてしまうなど、残酷だった。

誰も、いなければ、何も失うものがなければ、何も恐ろしくはないのに。

掌をきつく握り締めて爪を食い込ませる。唇を噛み、ドレーク中佐が去ってくれるのを待った。けれど、けして行かない、というのも頭の中でわかっていた。いつも、そうだ。どんなに自分が拒絶しても、自分の周りに来てくれる、温かい人たちは、けしてを拒絶しない。必ず「そんなことはなんでもない」とそういって、頭を撫でてくれる。

そういう人ばかり、自分の周りにはいてくれる。それがなぜ、苦しいのだと、やめてくれと、そう、言っているのに、伝わらないのだろう。

「行ってください。ドレーク中佐、あなたは優しい、思いやりがある人だから、こうしてわたしを傷つけるのは嫌でしょうが、でも、お願いです。わたしに、これ以上、期待させないでください」
「いずれ、君も知ることになるとは思うが、いや、もう知っているのかもしれないが」

の必死の訴えを、何か子供の癇癪かなにかのように受け止めた、という気安い態度でドレークはコートを拾い、そしてへの嫌味にならぬようにという気遣いか、埃を払うそぶりもせず丸めて小脇に抱える。
そうして、座って膝を抱えるに眼の高さをあわせるため、ドレークは膝をついた。

「この海軍本部には絶対的な正義がある。海兵は、その正義を軸に行動しなければならない。それは正義というよりは、システムだろうと笑った魔女がいるが、俺もそのように、最近思う。、思うんだが、義務や責任を取り払って、それでも「何が正しいか」と自分に問うた時に残るものがあるんじゃないか」

ゆっくりと、長い言葉を、長い以上の時間をかけてゆっくり、ゆっくりドレーク中佐が語る。ドレーク中佐の声は、とても落ち着いた。センゴクが、時折枕元で絵本を読んでくれるときの声も落ち着くが、それにはない、何か、父親のような温かさがそこにはあった。ぎゅっと、は掌を強く握る。あまりに強く握ったので、血が出てしまった。はっと、は恐怖に慄く。今すぐに血を拭ってしまおうと思うと、ドレークが、その血を、なんでもないように、ハンカチで拭って、そしてキュッとの手に巻いた。

知らぬわけではないのに、とはただドレーク中佐を見つめる。その視線を受けて、ドレーク中佐は、何もかもそのまた先のその先のことまで、わかっていて、けれど、何も知らぬのだという眼をする。ゆるやかに眼を伏せて、そして、の小さな手をその大きな手ですっぽりと包む。

「小さな女の子が、目の前で震えていたらそれをどうにかしてやりたいと思う。小さなその手を握り返してやりたいと思う、その心は、どうしようもないんだ」

それでも、大将赤犬は、その心をみっともないと言うのだろう。そう、ドレークは続けて、そして「あの方はあぁなんだ」と、そう、一言に片付けた。その言葉には様々な感情が隠されているようにには思えて、しかし、ぎゅっと握られた手のその暖かさにただ、眼を丸くするだけしかできない。

そしてなぜだかは、あの時突然現れた、真っ赤な髪の少女のことを思い出していた。燃えるように赤い髪に、真っ白い服の、お人形のような女の子だった。





+++





「だからさァ、ぼくは今とても心が傷ついているんだよ。かわいそうだと思わないかい。お涙頂戴の不幸を自慢してあげるから同情しなよ」

のんびりとした顔で悪意のある言葉しか吐かなくなったを眺め、センゴクはため息を吐いた。本当なら今すぐにでもの元へ行き安否を確かめ、そしてあの海兵の死を嘆く彼女の肩を抱いてやりたかった。しかし、目の前にある問題を放置することは元帥としてできないことだ。どこまでも人の邪魔をするのかこの魔女は、と内心罵り、しかし表面上はニコリ、と笑顔を浮かべる。

「そうか、それは気の毒なことをした。赤犬が君に危害を加えるのを黙って見ていてすまなかったな」

心底同情している、という顔と声で言えば、もにこりと笑って「胡散臭いね」と返してきた。もとよりこの魔女に同情することなど世界が滅ぶと言われてもない。ありえない。絶対にない、とセンゴクは心の中で言い切って、ずずっと、態度はあくまでのんびりとお茶を飲む。

「赤犬は?」
「おつるさんの所だ。今のお前と一緒にするわけにはいかないだろう」

あのままの状態で悪意の魔女と赤犬が一対一になろうものなら、海軍本部が半壊する。建物などまた建てればいいことではあるが、本気で二人がやりあえば修復するのにかなり時間がかかる状況にまで追い込まれる。それは経費や時間がもったいないと判断し、はセンゴクが、そして赤犬がおつるが「頭を冷やせ」と説得することにした。

はサカズキの所在を聞いて面白そうに目を細めたあと、ハタリ、と何かに気付いて小首を傾げる。

「そうなると、ぼくの水の都滞在は?」
「当然、延期だ」
「おや、まぁ」

てっきり騒ぎ立てるかと思ったが、それにしてはあっさりとは受け入れる。肩透かし、というわけではないがセンゴクは奇妙に感じてじっとを凝視する。

「気落ちせんのか」
「馬鹿なことをお言いでないよ。このぼくが、そうなる可能性もわからずに部屋を飛び出すわけがないだろうに」

ふんと、が鼻を鳴らした。ソファに腰掛けたまま足を組みかえる。傲慢な貴族のような振る舞いだが、センゴクはそれについては何も言わず、ただ眼を伏せて「そうか」とだけ言った。

考えてみれば当然のことである。赤犬が許さぬのに勝手に部屋を出れば、懲らしめるためにがもっとも楽しみにしている水の都への旅行をどうこうされることなど、明白だ。しかし、それでもは部屋を出て、そうして先ほどの騒動に自ら関わったというのだ。そのことをセンゴクは気にかけ、そしてを睨む。

「何を企んでいる」
「天秤にかけただけだよ。珍しく赤犬が怒っている気配がしたから何かなぁって思っただけ。フラムやアイスバーグに会えないのはちょっと寂しいけど、きみたちのくだらない主義の主張なんてとても見る価値があるだろう?」
「くだらないことではない」
「ぼくさ、聞きたいんだけど、きみ何か隠してない?」

センゴクの言葉などまるで無視をして、は思いついたことだけをつらつらと口にする。小首を傾げてあどけない様子。しかし、嘘を言えばけして許さぬという強い意志も見て取れた。センゴクは心当たりさえ思い浮かべぬのうに、の言葉をただ聞いて、そして頭に入れずに流した。

「悪意の魔女への隠し事など山ほどにある」

嘘を許さぬ目をされて嘘をつけば報いを受ける。悪魔の身ゆえの副作用だと諦めているセンゴク。それならどう魔女と渡り合うべきかも当然の心得。ぎしりと背をもたれさせて言えば、が眼を細めた。普段あどけない顔をしていて、のその悪意に満ちた目。これだから、この生き物を好きにはなれぬのだとセンゴクははっきりと、嫌悪する。

「はっきり、言ってね。ぼく、赤犬と君には失望したんだよ」
「元々期待も信頼も覚えはないが」
「まぁ、黙ってお聞きよ。センゴク元帥」

茶化すセンゴクには気分を害した様子もなく、むしろころころと喉を振るわせる。笑うと猫のような音を出す。はゆっくりと、窓の外に視線を向けて、そしてセンゴクに戻した。

「容赦ない、苛烈の極み。正しくない生き物には容赦ない、生きる価値すらないと言い切る。世の定めをしっかりと守る、正義の海兵。ねぇ、冗談だろう?当人に罪があるかないか、なんてそんなの、何を今更?これまで尽く、悪くはないけれど、正しくはない人間を焼き尽くしてきたきみたちが、どうしてあのコだけは特別だと?」

その言葉はまるで思いやりも何もなかった。これならに面と向かって「見苦しい」と言ったサカズキのほうが優しさがある。センゴクはあまりにも無礼極まりない言葉に眉を寄せ不快感を露にしたが、しかし、がそんなものを省みるのなら、そもそも彼女は悪意の魔女などとは呼ばれていない。

「悪の疑いがあるっていうだけで、その子を宿す胎ごと焼き払ったり、あるいは、親が海賊、犯罪者とおいうだけで無残な躯にし尽くしてきた始終。魔女をあぶりだすその為に、過去500年にわたって魔女狩りをして罪もない女を死なせてきた方々が、何をトチ狂ったのか、ぼくは不思議でねぇ」

いや、正気に戻っただけかい、と悪意に満ちた言葉は続けられた。この場にクザンでも参加させていればよかったとセンゴクは後悔する。よくも悪くも、どこか気安い雰囲気のあるあの男がここにいれば、容赦ない罵声以上の言葉ばかり吐くをからかい、何とかの機嫌を治しただろう。それにドレークも、と思い出しセンゴクは首を振る。いや、今ドレークはの傍にいてやるべきだった。センゴクは、ドレーク中佐のその性格を「……ヘタレか?」と時々判じはするけれど、しかし、海兵にしては珍しい考え方をしているものであると評価していた。もちろん、海兵として相応しいかどうかは別として、今、の傍にいてやるべきだと思う人物である。

の言葉を、いちおうはゆっくりとかみ締めてからセンゴクはゆっくりと息を吐く。

「なるほど、我々の正気は君が保証してくれるわけか。ありがたいことだ」
「あの子を見る君と、そしてサカズキの眼には紛れもない、海兵としては相応しからぬ感情があった。ねぇ、センゴク元帥。どうしてあの子だけは、他の死体と同じようにならなかったの?」

センゴクの嫌味など鼓膜にも入れぬという。青い眼をきらきらと宝石のように輝かせて、そして、センゴクがもっとも言われたくない言葉を、あっさりと言う。ぐっと、センゴクは腹の中に何かに対しての敵意のようなものがわくが、それをあからさまにしてはを楽しませるだけである。眼を伏せて息を吐き堪え、そしてゆっくり、ゆっくりと、ゆっくり、口を開いた。

「あの子が、自分で死のうとしたからだ」

あのときのことを、センゴクは今でもよく覚えている。あのとき掴んだ小さな腕のその細さを思い、センゴクは、静かに息を吐く。

「何も知らぬのに、自分が世界に拒絶されていることだけはわかった。それならと、命を捨てようとした、そんな、小さな子供を、なぜそのままにできる」







+++







自分はバカにされているんだろうかと、は必死に理解をしようとして、けれどセンゴクが自分を見下すような命知らずなマネをするとはどうしても思い込めなかった。言われた言葉にきょとん、と顔を幼くして、は首を傾げる。

こちらの言った言葉が理解できなかったわけではあるまい。嫌味にキレイにラッピングして投げつけたとはいえ、ストレートな部分も確かにあったはずだ。しかし、目の前のセンゴク元帥、偽りを述べている様子も、また愚鈍な眼もしていない。

は気分が悪くなった。ということは、そのまま、言葉通りが事実であるというのか。

「なんていうか、バカかい?」

本日何度目かの言葉を吐いて、は本当に、あきれ果てる。

赤犬とセンゴクが言い争いのようなものをしているとドレークに聞き、それはもう面白い見世物だと思って見に行った。水の都へ行くのはこの人生で唯一の楽しみではあるが、あの、正義至上の赤犬どのが、己の上官にたてつくなど今後絶対にありえない。そう思って嬉々として行ったというのに、が眼にしたのは、なんともまぁ、みっともない光景だった。

一人の海兵の少女を、元帥と大将が、それぞれスタンスは違えど必死に守ろうとしている。センゴクは「親愛」というものに包み込み、そして、これがには気に入らないのだが、サカズキのそのスタンスだ。サカズキ、の身分も何もかもを無視して海兵として扱えるようになれば、そしてそう扱われるようになれば、彼女を縛る何かが少しは断ち切れるのではないかと、いう、あの不器用と言えば不器用な、生真面目な男らしい考えである。

何その、吐き気がするような状況と、はさめざめ思った。そして深く失望し、そのままふらっとこの本部からトンズラこいてしまおうかとも思ったが、しかし、この自分をここまでがっかりさせたのだから嫌味の一つでも言わねば気が済まぬと、そう留まった。

「死にたいなら死なせればいいじゃァないか。手間が省けていいだろうに」
「目の前で命を絶とうとしているものを見捨てられるものか」
「だから、その発言がバカかトチ狂ったのかってぼくは言いたいんだよ」

何の冗談だ、とは心底、呆れてしまう。

件の少女のことは噂だけで聞いたことがある。なんでも世界貴族と奴隷との間の子供らしい。そういう生き物が過去どれくらいいたのかは思い出すのも億劫だ。彼らがどういう「人生」だったのかも思い出すのは面倒くさい。けれどどれも似たり寄ったりである。

そもそも、はたかが身分違いの末に生まれただけで何が問題かと鼻を鳴らしたい。いや、確かに、天の竜のその血はただの人の身が受けるには強すぎる。発狂するか虚弱体質で生まれるのがほとんどだ。のこの体は天の竜と海の竜、つまりは世界貴族と彼らが虐げる魚人の混血だが、そのためノアは短命だった。そういうものなのだとは思っている。そして、それだけだ、とも思っている。

混血だから、何か特別な力を持っているとか、そういう展開はないし、別に、混血だから何か世界に問題が、ということも、突き詰めればないだろう。

それなのに、にはまるで意味がわからないのだが、貴族と奴隷の間に生まれた子を「世界が認めない」とかよくわからない決定をして拒絶する。いや、まぁ、暇なのだろう。悪意のない言い方をすれば、世界貴族がほいほいと血をただの人間らと混ぜてしまえば希少価値がなくなるというか、薄れるというか、と、やはり悪意のある言い回しにかならかったか。

あれこれとは考え、そして小首を傾げる。

まぁ、しかし、混血がどうこううんぬんは置いておいて、とにかく政府がそれを「よくない」と決めた。それをこうずっと、貫いている。それなのに、センゴクは今になって「あの子だけは他の混血の子たちと同じ扱いをさせてはならない」と言うのか。

それがどうも、いや、かなり、には納得いかぬし、そして、失望するのだ。

少なくともはセンゴクやサカズキの徹底したその姿勢を好ましいと思っていた。何百年も魔女なんてやっていれば、揺らぐことがどう世界を無残にするのか知っている。何もかもの犠牲や悲鳴を承知でそれでも誰も赦さずに暴力的なまでに正義の必要さを吼えることが出来るなど、そうはいない。だから、はサカズキの薔薇を受け、そしてこの場所に足止めされることを認めた。

だというのに、なぜ今更、あの少女だけはその、彼らの「正義」を適応させないのか。

「何、隠してるの」

もう一度、はセンゴクに問う。真実であるとじっくり突きつけられても、はセンゴクのその言葉を、そしてサカズキのあの態度を「への優しさゆえの行為」だとはどうしても、消化しきれなかった。

認めたくない、という乙女思考☆なら気色が悪いと笑うだけでいいのだが、どうも、何か引っかかる。己が失望する心は確かにあったが、しかし、何か、それ以上の何かが、妙に気にかかる。

たとえば、まぁ、センゴクは「甘いんだね!」と片付けるにしても、サカズキはどうだろうか。あの男の容赦なさと、正しくないものに対してのその苛烈きわまる姿勢はもよく知っている。が何かしたどうこう、ではないのだ。政府がその存在を認めないのなら、それが肯定されないのであれば「正しくない生き物」になるのがサカズキの思考だ。その前提がある以上、どれほど当人がすばらしい人間であろうと、そこからサカズキの考えが変わることはない。

だがしかし、サカズキは先ほど本気で、を「海兵」にする熱意があった。腹を括らせて、これ以上彼女が悲しまぬようにと、その為に彼女を殴りさえした。

センゴクは何も言わない。ただただ、これからどれほどが嫌味を言っても何の反応もせぬと決めた様子があるばかりだ。は、それならとじっくり思考に沈む。

違和感だ。そうだ、自分は先ほど、なんだか「妙だ」とそう思ったのだ。クザンも不思議そうな顔でこちらを見ていた。なぜだ。何が不思議だったのか。ゆっくりとは思い返して、そして、口元に手を当てる。

「……くん、あの子、ちゃんと立って、息吸えてたよね?」

おや、と、は青い眼を猫のように細めてセンゴクの顔を見る。センゴクは何の反応もしない。だからこそに怪しい、と思わせるような態度を一つも取らぬ。何を言っても、恐らくはこのままの態度であろう。だがしかし、はセンゴクの反応などどうでもよく、一つの確信を得ていた。

あの子、そう。世界貴族のバカどもの血を半分持っているっていうはずの、あの子。そうだ、この自分をその面前にしても、あの子、立って息が出来ていた。それは、どういうことだ、とは思案する。

世界貴族、たどればあのバカ集団、いやいや12人のご立派な王様たちの子孫の連中。彼らはに対してけして拭えぬ恐怖を遺伝子に刻んでいる。悪意の魔女を眼にすれば、息が苦しくなってその目すらあわせられぬと言うほどのもの。強い強い、強い、強制力だ。跪いて頭を垂れねばどうしようもない、死に至る病のようなもの。が散々彼らの「末期」に絶望を叩きつけることによって長い長い歳月をかけて刷り込んだ毒である。血が薄かろうがなんだろうが、そんなことで容赦されるようなものではない。悪意の魔女のその本気の悪意である。

それなのに、あのという子供は、きちんと自分の足で立てていた。思い出し、そして、は内心ほっと、息を吐く。一つ浮かんだ答え、これが正しいとすれば、まだ自分はサカズキに三行半を突きつけずにすみそうだ。

は確信に満ちた目で短く、センゴクに問いかけた。

「あの子、誰の身代わり?」








And that’s all?




アトガキ
牙暁さんの所の嬢をお借りしました。本当にありがとうございます。
いやぁ、ここまで好き勝手書かせていただけると、すっきりしますね!グロ、外道、なんでもOKとおっしゃって頂いたので、容赦せずに済みました。本当ありがとうございます。(二度目)
でもさすがにこれより先書くと「共演書かせてください☆」レベルではなくなるので自重します。
あと、牙暁様、本当すいませんでした。