「夜明けと共にここを出ます。急ぎ支度をして下さい」

部屋に来るなり唐突に切り出した男の言葉に汐華×××(名前は不明。この館ではシオバナ、と彼女は呼ばれていた)は一寸眉を寄せた。エジプトにあるこの館はその主の行動時間が通常の人間とは反転しているため夜半は人の気配があり、太陽が昇る頃には静まり返っているのが常である。

夜明けと共に、というのは「誰にも気付かれないうちに」という意味だと彼女は直ぐに悟った。

「どういうこと?テレンス」

この館の執事をしている男とはあまり会話をしたことはないが、シオバナがよく話す女性の口からはよく出る人物であるので名前を知っていた。名前で呼べば執事は自分の名を彼女が承知していることに「おや」と意外そうに首を僅かに動かしたが、それ以上の反応は見せず、パンパン、と追い立てるように手を叩く。

「さぁお早く。あまり時間がないのです。私の手を煩わせないでください」
「あたしは理由を聞いているのよ。いきなり……出て行けってこと?DIOは知ってるの?知らないんでしょう?いいの?あたしは、」
「身体の回復はもう十分でしょう。二か月程ですが……もう動くのに問題があるとは思えません。違いますか?」
「全然だめよ、動きたくないわ」
「嘘はいけません」
「嘘じゃないわ、だって」

子供を産んだばかりなのだ、と言おうとしたシオバナを制しテレンスがスッと目を細める。あぁ、あたしにはわからないことをしているのだ、とシオバナは理解した。この館には自分のようにDIOを崇拝し「全てを捧げても良い」として血を提供するために住む人間がいる。だがそれ以外にも、たとえばこのテレンスのような人間、表向きは執事という役職があるが、どこかDIOと同じ、何か得体の知れぬ妙な力を持っていると肌で感じ取れる人間が何人かいた。

シオバナはそれが何なのかはわからない。けれどテレンスが目を細めこちらを見つめた瞬間、この男はあたしの言葉よりも正確な情報を入手してあたしがもう平然と外を出歩ける健康状態になっているという自覚があることを判断したことはわかった。

「DIOは……」
「なぜDIO様が貴方の存在を気にかけることがございましょう」
「だってあたしはあの男の子供を!!」
「その意味を、貴方御自身がよくわかっていらっしゃるはずでは?」

この館を出て行く。いや、正確には「追い出され」ようとしている。だがシオバナはその理由がわからなかった。二か月前、自分はこの館の主、己の崇拝する最高の男、この世のすべての美しさと気高さをかき集めたって足りないほどの至高の存在の男の子供を産んだ。

その事実がシオバナには誇りであった。元々己はその他大勢の女たちと同じようにDIOの「餌」になるつもりだった。それでもよかった。あの美しい男の意識にはちっとも残らなくても、その辺の石のように扱われても、それでもあの男に身を捧げることで自分が満足しそれが幸福だと心から思っていた。

だがどういうわけか、DIOは初めて自分を寝台に組み敷いた時に首筋に噛みつきはしなかった。

本来、吸血鬼には生殖本能がないらしい。人間であった時の生殖機能は備わっているが、人間のように子孫を残したいと働く本能、からくる異性を見て欲情する、というものが人間の頃とは異なると、そういう話を後にシオバナはDIOから直接聞いた。

成程不老不死の吸血鬼は子孫を残す必要はないし、態々子供を作らずとも気に入った人間を吸血鬼にしてしまえば手っ取り早いのだろうとその寝物語に妙に納得した覚えがある。
吸血鬼の男が好みの女を見て感じるのはその血を吸いたいという強烈な乾きらしい。人間の性欲、といったものは、人間であった頃の記憶から「そう感じるものだろう」と思うことはあれど、自身の雄を埋め込み突き上げて欲を吐きだしたいと飢えることはないそうだ。

ではなぜ自分を抱いたのか。シオバナは聞きたかった。始終DIOの愛撫は優しかったし、男としてこれ程女を愛することが上手い者はいないだろうと心から感じ入る程であった。

吸血鬼がそういったことをする必要性がないのなら、それならなぜ己にそれを?と聞いてみたかった。気まぐれである、と一蹴にされる程度のことかもしれない。だが何か理由があるように、そのように思えた。シオバナはカンのいい女だった。だからDIOが己を抱き、この身体にその精を吐きだしたのは(吸血鬼が性欲というものを持たないのなら尚更のこと)何かしらの理由があるに違いないと、そう考えた。

それはきっと「子供を得る」という、いや、もっと単純に言いかえれば「自分の血が流れる肉の塊」を得る為なのではないか。

「あたしがもう用済みならDIOの食事に、」
「母親は必要です。たとえそれがロクでもない女であっても」
「……あの子も連れて行けってこと?」

そこで初めてシオバナはこの状況の重大さに気付いた。

自分はどういうわけか逃がされようとしている。そして重要なのは自分、ではなく、もしかすると自分が生んだ子供なのか?

「DIOが知ったら、アナタ、殺されるわよ」
「貴方には関係のないことです。さぁ、時間を無駄にしてしまいました。支度はもういいです。そのままで、出ますよ」
「ちょっと、」
「元々貴方を逃がすにあたって、貴方が準備しなければならないものなどございません」

今度は有無を言わさずテレンスが腕を掴んで引っ張ってきた。腹立たしい程礼儀正しい言動をしておいて、結局のところは直情型、まだまだ若い青年なのだ、とその余裕のなさからくる苛立ちを感じ、シオバナは笑いたくなる。

しかし、確かに支度など必要なかった。テレンスはいつのまに揃えたのか小さな旅行鞄が一つと、赤ん坊を伴うのに必要だと思われる品々の入った肩掛けカバンを用意していて、シオバナの腕を引き歩きながら二つのそれをしっかりと大事そうに運んでいた。



++++



DIOの館は歩くのに困難なほど明りというものがない。DIOが明りを嫌うからか、それともエジプトの太陽は日中は窓さえ開ければいれば光がこれでもかというほど差し込むからか。

真っ暗な廊下をテレンスは恐れず速足に歩く。まるで見えているのかと聞きたかったが、シオバナは自分がつまずかないようにすることで精いっぱいだった。

(あの子供を逃がす。DIOが望んだモノを配下でしかないテレンスの意思で?)

いや、そんなわけがないとシオバナは首を振った。テレンス・T・ダービーはDIOを崇拝する人間の一人で、その主人の意に沿わぬことなど自分の意思で行うわけがない。ではDIOが、あの男が自分で必要性を感じて子供を作ったあの男が、何か思うことがあって?いや、それも違う。素早くシオバナは否定した。

DIOは自分と同じ血が流れるモノを必要とした。

だから子供を作ったのだとシオバナは推測している。吸血鬼がどういうものなのかは知らないが「血」が重要なモノとなるのなら、自分の身体を動かす動力源になるのなら、他人のものよりも自分になじむ物はとても貴重なのではないか。そしてDIOの口から聞いたわけではないので、これは本当にシオバナの洞察力から推理されることなのだが、DIOの首から下は、おそらくDIO本人の身体ではないのではないだろうか。

(DIOの首に傷があった。ぐるりと一周するもの。そして女だからわかる。DIOの顔の肌と、そこから下の肌は、別人のものだわ)

だとすれば、吸血鬼というのは首から上が無事なら身体を取り換えることができる、ということになる。

だから子供を作ったのだ。

シオバナは腹に子供が宿った時にその説に行きつき、そして確信があったが、だが、彼女はそれを恐れるどころか寧ろ歓喜した。

「っ、なんです、突然立ち止まらないでください」
「……の仕業ね?あの女があたしの邪魔をするのね?」
「貴方如きが気安くローゼ様のお名前を呼ばないで頂きたい」

ピシリ、と空気に亀裂が走った。だがシオバナはこんな青臭い男の殺意など怯える気性ではない。暗闇に慣れて来た目でキッとテレンスを睨みつける。

そうだ、DIOが知らぬところ、DIOの望まぬことをこの館で行えるのはあの女しかいない。シオバナがこの館で最もよく言葉を交わした女。DIOと同じ吸血鬼だというその女。

、あの女、あたしがDIOの子供を産んだのがそんなに気に入らないの?それとも聖母サマのようなオヤサシイオココロってやつであの子供が殺されるのを救おうとしてくださってるわけ?」
ローゼ様への侮辱は、」
「どちらでもないわ。ねぇ、シオバナ。わたし、テレンスに八つ当たりは止めてもらいたいし、あなたには自分の意思でここを出て行ってもらいたいのよ」

ふわりと薔薇の香りがした。

闇夜の中でもよく通る鈴のような声にシオバナがはっと声のした方に顔を向ければ、片腕に赤ん坊を抱え、もう片方では燭台を持った和装の異人がぼんやりとした薄明かりの中ゆっくりとこちらに近付いてくる。

ローゼ様。いけません、お部屋にお戻りください。全てわたくしにお任せください」
「ありがとうレテンス。いつもお願いを聞いてくれて」

が微笑んで執事を労うと、これまでシオバナには見下しきった眼差ししか向けなかった男が初めて苦悶の表情を浮かべた。自分一人でシオバナを館からスムーズに出せなかったことに対する罪悪感。彼女をDIOの怒りに触れさせるかもしれないという可能性からくる恐怖。あぁ、それだけでシオバナにはテレンス・T・ダービーの中では、当人が意識しているかどうかは別として、もう現時点でDIOよりもへの優先順位が高いのだ、と知れた。

「歩きながら話しましょう。シオバナ、さぁこの子を抱いて」
「嫌よ」

どちらを拒絶したのかシオバナにはわからなかった。も歩くのを嫌がったのか、子供を抱くのを嫌がったのか瞬時には判断ができなかったらしい。一度首を小さく傾けてから、ぱちりと瞬きをした。

「明りを持っている者が遠くからも目撃されるわ。だからわたしが持っているのが一番だし、歩かないであなた一人をここに残すと、ちょっと面倒なことになるの」
「DIOの子供を逃がすより、あたしがゾンビに襲われる方が面倒なの?」
「えぇ、そうよ?」

どうして?と逆に聞き返してくるにシオバナは呆れた。しかし赤ん坊を受け取る気にはならない。仕方なく足だけ動かすと、テレンスが「明りは私が」とから燭台を受け取った。

「あなたとあたし、何が違っていうの?」
「どういう意味?」

暫く歩き、沈黙が続いたがぽつり、とシオバナが口を開く。
一歩前をテレンスが、その後ろをとシオバナが並んで歩いていた。赤ん坊を抱くは両腕で大事そうに抱えているものからは顔を話さない。

(それはあたしが生んだ子よ!あんたじゃない!)

叫び出しそうになる自分を抑え、シオバナは口を開く。

「同じ立場だとは思わない。でも、同じようにDIOの中で「餌じゃない女」でしょう?……いえ、違うわ。あたしが言いたいのは、もっと初歩的なことよ。どうしてあなた、自分だけがDIOの中で特別だって思えるの」

この館にいて、唯一DIOと同様に扱われる。いや、DIO自身が「自分よりもを優先しろ」と配下に命じているので忠誠心・信望を集めているのはDIO一人でゆるぎないとしても、大事にされているのはだろう。

その事実がシオバナには許せなかった。

一体この女が、自分とどう違うのか?

DIOと同じ吸血鬼。最初からそうだったわけではないだろう。最初はこの女も人間だった筈だ。人間だった頃のこの女は、DIOにとって自分達と同じ「ただの女」だったのではないか。

何よりシオバナが許せないのは、腹が立って仕方ないのは、他の人間のへの扱いではなく、自身が「自分はDIOにとって特別」と理解していることだった。

勘違いした女が「自分だけは特別」と思っているのとは違う。はっきりと、正確に、何の間違いもなく、は自分がDIOの中ではその他大勢の女たちとは別格の、いや、女という枠を越えてとても特別な存在であることを理解しているのだ。

「えぇ、そうね。わたしは、あなたたちとは違うわ」
「…!!それが…!!」

気に入らないのだ、とたまらず怒鳴ったシオバナをは手で「しぃ、この子が起きてしまうわ」と制した。あぁ、そういう態度も気に入らない!

シオバナの怒気を感じとっているのかあえてムシしているのか。は腕の子供の顔にかかった髪を払いながら、ゆっくりと口を開く。

「だって、わたしもあなたもあの子を「愛して」いるけど、でも、わたしはあなたと同じ意味でじゃないもの」
「………」
「わかるでしょう?」

そこで初めて、がシオバナを見つめた。DIOと同じ血のように赤い瞳だ。真っ直ぐに、しかし輝く事はせず仄暗い光を湛え歪められている。

(あぁ、この女は、あたしが羨ましいのか)

子供を産んだことに対して、ではない。だがシオバナが、いや、おそらく意外の女が当たり前のようにできることが、この女は出来なくて、それが羨ましくて仕方がないのだ、という、その羨望を浅ましいと、己が醜い、最も価値のない人間であると理解している歪な告白がその瞳にはあった。

「…………あんたの、そういうところが嫌いよ」
「知ってるわ。でも、わたしはあなたが好きよ、シオバナ」

そしては、そのぎこちない感情などなかったようにふわりと微笑む。あぁ、そうか、とシオバナは先ほどテレンスにせかされてから苛立っていた心がスっと、雪解けのように流れていくのを感じる。

思えば、そうだ。この女と己は、おそらく友情があるのだ。

奇妙な話だが、この館にてシオバナとは頻繁に互いの部屋を訪れ言葉を交わし、時にはちょっとした悪戯をして一緒に館を出て街へ繰り出したりもした。

100年ぶりに目覚めたとかなんとかいうに今の時代の常識や出来ごとを教えたのはシオバナだし、姉妹のように、とまでは行かずとも、互いに赤の他人、ただの知人以上の友情を感じていた。

「……DIOがこの子をどうするつもりだったか、あたしが気付いてるって知ってた?」

ではが今、こうして自分の前に姿を現したのは。そしてただ赤ん坊をDIOの手から逃がすためだけなら自分まで一緒に逃がさなくてもリスクが減るのをあえて同行させようというのは、その友情からくるものなのだろうか。

自分はそんな上等な人間ではない、と、先ほどのの告白に習い己のろくでなしさを告げる為に呟けば、は無言で目を細めた。

知っている、という目である。シオバナは軽く口の端を吊り上げ、一度目を伏せた。の腕の中には自分が腹を痛めて生んだ子供がいる。母親の腕ではなく、人外のものの腕の中で何の不安もなくすやすやと寝息を立てている。

「……あたしは元々、DIOの餌になってもいって思ってここへ来た。その他大勢の女たちと同じように餌になって死んでもいいって。でも、DIOの子供を産んだ。あたしは誇らしかったわ。自分がDIOの子供の母親になれたことがじゃない。DIOの子供を産んだことがじゃ、ない」

シオバナはまだ一度もこの赤ん坊を抱いていない。母乳は絞り出して容器で与えた。は良い顔をしなかったが、シオバナはでなければ与えないと譲らなかった。赤ん坊は一度も母親の乳房を口に含まずに、それでも今日まで生きている。

「DIOに、ただの女の血、じゃないものを捧げることができたからよ。他の女は自分の血だけしか捧げられない。でもあたしは違う!あたしは、DIOに近い血を、おそらくはDIOにとって貴重な血を捧げることができたんだって、誇らしかったわ」

言いながら、シオバナはたまらずに顔を手で覆った。の腕の中の赤ん坊は見れない。己はこういう、手前勝手な女なのだ。こうして子宮から子供を育て生みはした。女は子供を身ごもると脳が変化して母になるのだという。

だが、だが自分は今も何も変わらない!!

シオバナはこれまで華やかな恋愛経験のある女だった。愛がなければ生きられない。愛されていることで自分の生を実感できる女だった。そしてそれは「自分だけが愛されていればいい」という心。どれほど男に愛されても、その男の子供を産もうとは思わなかった。

女は子供を産んだら母になる。母は女ではない。子供の為に生きなければならない、それはもうそれまでの自分とは別人だ。

それがシオバナには恐怖だった。自己愛の強い女。そんなことは耐えられなかった。

その自分がDIOにだけは、愛されずとも己が愛し、求め、そして全てを捧げることを強く願った。そしてその為ならDIOの子供を産むのも構わないと思った。(確かにそれも変化、ではある。だがそれは女である自分が依然として残っている変化だ)

「シオバナ、あなた、この子を愛しているのね」

顔を両手で覆ったシオバナを、がそっと優しく気遣う。

「……違うわ!!私には、DIO以上に愛しているものなんてない!」
「わたし、あなたからこの子を取ろうなんて一度も思ったことはないのよ。わたしはこの子の母親にはなれない。この子の母親は貴方。それに見て、あなたと同じ眉をしているわ」

ほら、と赤ん坊を寄せてくるから顔を反らし、シオバナは頭を振った。

自分は何も変わっていない。相変わらず自分が愛しいし、DIOがこの赤ん坊を自分のスペアとするならそれでいい!そう思っている。それに間違いはない。

「あたしはこの子を一度も抱かなかった。母乳だって与えなかった。この子が泣いていてもかまわなかった。そういうのは全部と占い師のババアにやらせた……!!!あたしは母親じゃない!ただ生んだだけよ!!あたしはあたしのままだわ!!母親は……!あんたがやればいいじゃない!!お似合いよ……!!」

叫ぶシオバナを気遣うをドン、と突き飛ばせばよろけた拍子にが腕の赤ん坊を落とした。

「……この……人でなし……!!」
「そうね。だから、あなたはこの子の母親で、わたしはこの子の母親にはなれないのよ」

冷たい、硬い床に赤ん坊が叩きつけられる前に、シオバナはそれを受け止めた。なりふり構わず、自分の身体を打ちつけたが、その痛みよりもへの罵倒が先に立った。

(この女は今、わざとこの子を腕かた放した!!あたしが受け止めるか試すために!!!)

「わたしはこの子を愛しいと思っているわ。多分それは貴方以上にね。でもわたしはこうしてこの子供を見捨てられる。あなたは違うでしょう?シオバナ、あなたはこの子の母親なのよ」

薄明かりの下では美しく微笑む。優しさを携えた慈母のような微笑みで、あっさりと冷酷な事を言ってのけるにシオバナは唇を噛んだ。
試されているのだと、瞬時に分かった。わかっていて、だがシオバナは手を伸ばしたのだ。

ローゼ様、こちらです。外に兄のダニエルが車で待機しております」

くるり、とそれまで沈黙を守っていたテレンスが振り返り腰を折る。この館からカイロ空港まで車で一気に移動させようというらしい。館から長時間テレンスが姿を消しては不審がられる。だが他の人間はテレンスのようにを優先するのではなく、DIOにこの件を告げる可能性があるからと、選ばれた共犯者は実兄だった。

「ダニエルも巻き込んでしまって、ごめんなさいね」
ローゼ様があの兄如きにお心を痛める必要はございません。寧ろ兄は「DIO様の目を盗んで御子息を逃がす。これ程のスリルは中々ない。楽しませて貰うよ」などと言っておりました。不謹慎ですのでしこたまブチのめします」
「あら駄目よ。シオバナをちゃんと空港まで送らないと」
「では全て終わった後に致しましょう」
「いや、ぶちのめすのを止めなさいよ

物騒な会話を淡々と話す主従に突っ込みを入れて、シオバナは溜息を吐いた。腕の中の赤ん坊は、先ほどの衝撃など感じていないのかすやすやと眠っている。柔らかない子供の感触、しっとりとした命の重さ。じんわりとそれらすべてが自分の中にしみ込んでいくのをシオバナは感じ、顔をゆがめた。

、あんたって本当、酷い」
「そうね、えぇ。そうね」
「あたしの幸せはDIOの血肉になることだったのよ。この子と一緒にね」
「わかってるわ。でも、それでも幸せになってね、ってわたしは言うのよ」

嫌味ね、と呟けばが笑った。シオバナもつられて笑って、初めて互いにどこか緊張感のある、あるいは他者を威圧する笑顔の類ではない、心からの微笑みだった。

「たくさん、奇麗な着物をありがとう。大事に着るわ」
「別に、放っておいたらあんたまでハートまみれのへんな服着そうだったからよ」

シオバナはこの館に来るまではデザイナーの仕事をしていた。かつて幕末に日本の刀や浮世絵が世界で高く評価されたように。日本の着物を現代風にアレンジし世界に発信しようとしていた。このエジプトへもエジプトの神秘をインスピレーションとして新しいデザインを生みだすためだった。

自分では着ないからと、そしてDIOの餌になるならもう必要ないからと、自分が手掛けた着物は全てに譲った。100年前のイギリス人が、一体どこが気に入ったのか知らないがは始終それを愛用している。

そういう面でも、やはり己らには交流があって、友情があったのだ。

「あなたの連絡先も、行き先も、何もかもをわたしは把握しないわ。テレンス達もよ。何も知らない方がいい」
「そうね。二度と、会えないようにした方がいいのね」

コツン、とシオバナは歩き出した。外は朝日が昇っている。はここまでだ。

「シオバナ」
「?」

と別れようと背を向ければ、離れる前に呼びとめられた。振り返ると帯の中から一枚のブロマイドを差し出してきた。DIOのものだ、と直ぐにわかる。

「ヴァニラアイスが持っていたのを貰ってきたの」
「それ怒らない?あのブルマ」
「いいのよ、なんか部屋いっぱいにあったし……」

うわぁ、とシオバナは顔を引きつらせ、しかし写真は受け取った。普通の顔写真ではなくなぜかDIOらし過ぎるポーズなのはヴァニラが持っていたものだからか。

写真を片手で眺めながら、シオバナは目を細める。

「本当に、愛しているのよ。DIOを」

呟けば、が口を開いた。

「         」





+++



「ねぇ、ちょっと。アンタまたハルノを殴ったでしょう」

帰宅するなりシオバナは、部屋の隅で蹲っている息子とソファでくつろいでいる男を交互に眺め溜息を吐いた。

あれから数年。エジプトでも日本でもない土地でシオバナは暮らしていた。数年前にデザイナーの仕事で訪れたイタリアで出会った男と、彼女は結婚した。DIOがいなければシオバナは愛されていなければ生きていけない女に戻った。

あのあとエジプトは、DIOはどうなったのだろうか。

知る手段はない。こちらの痕跡は残していないし、ただの一般人である己があの世界の状況を知ることは不可能だった。

「殴ったなんて大げさだな。ちょっと躾けただけだ。男の子ってやつは頑丈なんだ、ちょっとくらい殴ってやって、それで育っていくもんだぜ」
「前も言ったわよね。ハルノはあたしの息子なのよ。殴らないで」

何度目かになるかわからない忠告をシオバナはしながら、それでもこの男はまた自分がいない時にハルノを殴るだろうとわかっていた。

ハルノと日本に帰されてから、シオバナは暫くは働かなかった。DIOの為に死ぬという目的を奪われた喪失感と、金銭感覚のないが「これくらいで足りるといいんだけど」と用意させた多額の金がその必要性を奪った。

男を失った悲しみは、男で癒すしかないと夜の街に飛び出すしかない自分をシオバナはつくづく呆れたが、それでものような「母親として子供を愛しその為に生きる」のはまっぴらだった。あるいは、やはり変化を恐れていたのか。

とにかく半分放置されて育った息子のハルノは、いつも俯いて言いたい事を何一つ自分では言い出せない意気地のない情けない子供に育った。

「あんたもあんたよ、ハルノ。そうやっていつもいじけてるから人をイライラさせるのよ」
「……あ、……あの……お、かぁ…さん」
「何?言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」

見下ろし、シオバナは溜息を吐く。この子供は本当にDIOの息子なのか?髪も黒い。瞳も赤くない。(この色についてはは吸血鬼ではない証拠と言っていたが)ちっともDIOに似ていないハルノを見るたびにシオバナは失望した。

この度胸のない子供をDIOが見たらどう思うか。

「お、おか……おか……おか…り…なさ…」

母親に「お帰りなさい」という簡単な挨拶一つ満足に言えない。言ったら怒られるとでも思っているのか?なら言わなければいいのに、それでも言おうとするその中途半端な覚悟が情けない。

シオバナはフン、と鼻を鳴らし、ハルノの言葉に挨拶を返すことなく鞄を引っ提げて自室へ向かう。

母親に見向きもされなかった子供は一度顔を上げ泣きそうに目を潤ませたが、直ぐにぐいっと腕で顔をぬぐいまたその場に蹲る。

「あぁ、本当に、あれはDIOの子なの?」
「なぁお前、その男の名前は出さないでくれって言ってるだろ」

苛立ち呟けば、いつのまにか一緒に来ていたのか、夫が腰に腕を回しながら耳元で囁いてくる。顔も悪くない、頭も良いステータスの高い男だ。だがそういう男はえてしてプライドが高いもの。夫もその例にもれなかった。

「あら、ごめんなさい。独り言だったのよ」

謝りながら、シオバナは冷めきった目で夫を見つめた。

この男がハルノを殴る理由などわかっている。ハルノの態度が苛立つ、わけではない。まぁそれも多少はあるだろうが、一番の理由は、ハルノがDIOの子供だからだ。正確には、妻となった自分が、今も最も愛している男の子供だからだ。

(アンタ程度とあのDIOを比べようなんて事自体おかしいのよ)

夫を男として愛している。だがDIOは別だ。別格だ。永遠だ。夜を共にしていても、いや、だからこそ夫はそのシオバナの心に気付いているのだろう。

ハルノの中に、シオバナが愛した男の面影を見つけては夫はハルノを殴る。その度にハルノは泣き、蹲ってどんどん卑屈になる。

シオバナはもしかすると、期待しているのかもしれなかった。

DIOの子供が、ただ黙って殴られているわけがない。いつか立ちあがって、男に挑むのを、堂々と、DIOのような風格で、ただの暴力をねじ伏せるのを期待しているのか?

チラリ、とシオバナは寒い廊下で震えながら蹲っているハルノを振り返る。

(馬鹿馬鹿しい。あんなのが、DIOのようになるわけない)

寝室の扉を閉め、服に手をかけ始めた夫の首に腕を回し、シオバナは口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。

(ほらね、。やっぱりあたしとあの子は幸せになんてなれないのよ)

あの時あのエジプトで、自分達母子はDIOの血肉になるべきだったのだ。
だとすれば今のあの子が不幸なのは、あの時が逃がしたからだ。

「人でなしが、何かを救えるわけないじゃない」

呟き声をあげて笑えば、夫が不思議そうな顔で己を見つめて来たのでその頭を引き寄せて唇を塞いだ。


FIN


(2014/1/9 15:14)