また明日と、言える幸せ






「何度言うたらわかるんです」

ぴしゃりと、寝起きに冷水を浴びせるような容赦ない声がを竦ませた。が京の本家で「暮らす」ことになって数年経つ。8つになるは未だに祖母の顔を見ると恐怖で顔が青ざめる。声を聞けば身体が動かなくなる。しかし恐る恐るではあるが、顔を上げ祖母の灰色の目を見つめる。

「あ、あの、すみまへん、おばあ、」
「ちゃいますやろ。はん。言葉話す時は相手の目ぇ見てはきりと言うんが正しい。おどおどびくびく、情けない」
「すみまへん…」
「ちゃいます。何べん言わせるんです。すみまへん、やのうてすみまへん、や」

字面にしたら一緒やろ。は胸中で突っ込んだ。祖母は言葉の発音に厳しい。同じ訛りやないのと思うが、祖母に言わせると違うらしい。は大阪で生まれ、4つまでそこで育った。祖母に言わせれば大阪の言葉には品がない。「京の言葉は雅や」と、そういうのだがにはよくわからない。

(おばあさま、事あるごとに、ひんや、ひん、言うてはるけど。ひんって、なんやろな)

祖母には「品」があるのだろうか。それすらもにはわからない。今日も祖母に「花の生け方に品がない。好きなものを好きなように活けただけの、野暮ったい出来」と面罵されピシャリと手を打たれた己にはもちろんないのだろうけれど。

「全く、あの女狐に似たのは顔だけやのうて下品な心根までやな」
「………おかあはんは、げひんちゃいますえ」
「はん。人さまの大事な跡取り息子を誑かして東に逃げた女や。下品ななかったら、あぁ、恥知らずやな。今のあんたみたいに、誰のおかげでこない立派なお家に住まわせて奇麗なべべまで着せてもろうてるかわからんで、口ばかり達者な恥知らずや」

また祖母の癇癪が始まったとは肩を竦めた。の母、祖母にとっては息子の嫁にあたる人の話を始めると祖母はただでさえ厳しい顔を般若のようにする。

(子供のまえで、ははおやを悪くいうんは、ひんのあることなんやろか)

毎度思う事だが、以前一度ぽつりと呟いて酷い折檻を受けた。は祖母がこうなったら自分は大人しくそれを聞くのが今の所一番マシなのだと学習している。黙って聞いていても「なんや、母親んこと言われてだまっとるだけか。情のない子や」と言われるのだが、それだけで済む。

は先ほど祖母にうっちゃられた自分の活けた花器に視線をやる。先日出入りの商人が珍しいガラス彫りの花器で、これから秋にかけては良いだろうとすすめてくれたものだ。花器の目利きも大事なことと祖母はに自分で選ばせる。金の縁取りがされた真っ白い花器はとても美しかった。「えぇな、これ。おばあさま、これがよろしおす」とおずおずと言えば祖母は目を細め、商人に二三言告げた。それでその奇麗なものはの物になった。

(うちのもんになってもうたから、ロクな花ぁ活けてもらえへんで。かわいそうやな)

先ほど叩かれた手は赤く腫れてきている。いつもの事だ。いつもの慣れた痛みだった。だからはそんなことは気にしていない。ただ、折角の奇麗な花器が、毎回きちんと花を活けて貰えない。その事がとても悲しかった。

辛い、辛い。明日もきっとこんなことばかりが起きる。ぎゅっと、掌を握り締めた。このまま時間が止まってくれればいい。何もかも凍りついてくれれば、一番だ。は自分が死んだら、楽なのは自分だけで、その分誰かが苦しい思いをするとわかっていた。そして自分の周りの全てが亡くなっても、何も変わらないともわかっていた。だから、このまま何も変わらず、時間が止まれば一番なのだ。

(もう、明日なんて来なければえぇのにな)



+++



「俺はこういうものの良し悪しはわからないが。お前がそうしている姿を見るのは好きだ」

背後からかかった声にが思考を浮上させるといつのまに来ていたのか、教室の入り口に福富寿一が立っていた。部活上がりの、やや疲労感が伺える、しかし相変わらずの目には「やだ寿一かっこいい❤」と思える(眼科の予約は必要ない)長身の同級生。

は手に持っていた挟みを傍らに置き、広げられた新聞紙とその上にある花、そして使用した萬古焼の陶器を見、福富に視線を戻す。は時折学校側から、こうして花の依頼を受けた。本家を通しての正式なものであれば学校の予算で足りるものではない。校長室理事長室を飾る花は業者に任せれば高値。華道部もあるし華道部の顧問も免許を持ったきちんとした人物であるけれど、折角○○流の家元がいるのだからと、随分気安く頼まれた。頼まれた時はさすがのも苦笑したほど、頼んだ事務の中年女性は「どうせだから、ねぇ、いいでしょう?」と気楽だった。その上、花もの自前である。その女性からすれば「さんの練習になるし、練習に使ったのをそのままうちに置いてくれればいいから。ほら、ゴミとかはこっちで処分するから楽でしょ?」となるらしい。

思い出し笑いをすると福富が「どうした?」と首を傾げる。なんでもないの、と軽く言って、は福富に駆け寄る。「おつかれさま」と労えば、「あぁ、ありがとう。お前はまだか?」と返される。机の上には花型の基礎に則った座敷飾りが出来上がっている。リンドウ、ムラサキシブ、ホトトギスの色が美しい。

(寿一が褒めてくれたから、は学校で花を生けるのよ)

事情を知らぬとはいえとんでもない要求をしてきた事務の女性を突っぱねなかったのは、ただ単に、その時と一緒にいた福富が「は華道をやるのか?」と意外そうに聞いてきて、そして「よければやって見せてくれ」と言ったからである。そうとは知らぬ福富は、は華道が好きで、頼まれると楽しく作業している、とそう思ってくれているらしかった。

「あとは片付けだけ。寿一を待ってる間にできてよかった」
「そうか」

ではおつかれさま、と福富が続ける。先ほどの続きらしい。部活動をやっていないは部活動に全力の福富から「おつかれ」と言われるとなんだかこそばゆい気持ちになる。

「明日は朝空いているか」

教室を出て、寮までの帰り道は一緒に歩く。福富は普段は部員達と帰るのだが、時折、が花を生けるので遅くなる時、タイミングが合うだろうと、そういうことで一緒に帰るようになった。(そういう意味では、は確かにこの生け花の機会を喜んでいる)長くなった影を時折振り返り、手をそっと動かすという奇妙なことをする。奇妙というか、要するに、福富の手の影に自分の手の影を重ねると手を繋いで歩いているような、そんな気分を味わえる。と、そんな根暗なことをしていたは、福富の唐突な問いに一瞬きょとん、と顔を幼くさせた。

「明日は土曜日で学校がお休みだから、は寮で過ごすわ。寿一は部活でしょう?」
「あぁ。9時から5時まで練習が入っている。終わった後は自主トレーニングに当てるつもりだ」
「そう」

レースが近いと、そういえば聞いた覚えがある。普段からも過密なトレーニングをしているが、これから更に追い込みに入っていくのだろう。

福富はもうすでにトップクラスの実力者であるのに、未だ日々の努力を怠らない。もっと高みへ、と自分の力を、とそのストイックさは一年の頃から変わらない。(今はそれに、根を張る緊迫感があるが、それはには関係のないことだ)明日は暑いから、肌の白い寿一には辛い日差しになるだろう、とそう案じていると沈黙していた福富が「それで」とぽつり、ぽつり、と呟く。

「朝食を一緒に食べないか」
「え?」
「食堂でもいいし、外でもいい」

部活が始まると、は絶対に福富に近付かない。だから明日会う機会があるとすれば、朝くらいだろうと福富が呟く。

ぱちり、とは瞬きをした。見上げた福富の横顔、なんとなく気まずそうに視線を反らし、眉間に皺を寄せている。けれどその、日に焼けた髪から覗く耳が、うっすら赤い。きゅうっとは胸が苦しくなった。なんなら今この場で「寿一がかわいい照れてる寿一が本気で可愛い!!」と叫んでもいいが、しかしその衝動はなんとか堪えた。

「……俺は朝起きるのが早い。辛いようなら、」
「いいえ、いいえ、大丈夫よ。も朝は強いから、へいき」

こちらが答えぬのを否と取ったか、福富が相変わらずの鉄面皮で続けるのをは無理やり遮った。こちらも表情はそっけないものだが、頭の中はお花畑だ。なるほど、そうか。その手があったか、と目から鱗とはこの事だ。時間の合わぬ己ら。部活が生活の中心の福富と、福富の部活動には関わらぬ。それであるから関われる時間はほんのわずか。別に付き合っているわけではないのだからはそれは仕方がないとある種の諦めもあるのだけれど、なるほどこの手があったか。(ちなみには朝は苦手だ!とても苦手だ!!だがそんなこと今は関係ない!!)

「朝ごはん、うれしい。一緒に食べれるのね。すごく、嬉しい」
「…そうか」
は食堂は苦手だから、寿一が嫌じゃなかったら外がいいわ」
「あぁ、わかった。このあたりで朝食を出せる店だと、」
が作るから、公園のベンチで一緒に食べたいわ」

箱庭学園周辺でモーニングをやっている店はいくつかあるが、その後部活がある福富が十分にエネルギーを摂取できる所となると大衆食堂、とりあえずメニューと量が豊富な賑やかな場所、になってしまう。寿一にはもちろんいっぱい食べて部活に行って欲しい、しかしそんな野暮ったいところは嫌だ。となればの希望は二人で静かに食べれてなおかつたくさん食べれること、である。それを満たすのは自分で作って公園で、だろう。

「……作る、作ってくれるのか?俺に?」
料理は好き。まずくはないと思うわ」
「いや、それは気にしないが」

その提案は意外だったらしい。ふむ、と考えるように口元に手を当ててから、福富が「俺はかなり食べるんだが…」と控えめに言ってくる。

「大丈夫。梓にも手伝って貰うから」
「梓…あぁ、同じクラスの滝川か」
「梓はあれで人の世話を焼くのが好きだから手伝ってくれるわ」

既に頭の中では福富と別れた後こっそり寮を抜け出して遅くまでやっているスーパーで材料の買いこみ計画…ではなくてこっちに来ている弟子という名の舎弟たちに買ってきてもらうリストの作成が始まっている。なんだか楽しくなってきた。

スポーツマンが朝食にするべきメニューのあれこれ、明るくはないから梓に相談に乗って貰おう。元々騎士を目指していた彼女なら何かと知識があるはずだ。

「ふふ、明日が楽しみだわ」
「手間をかけてすまないな」
「手間なんかじゃないわ。すごく、楽しみ」

歌でも歌いたい気分だったので、「ヒーメヒメヒメ」と口ずさむと福富が「その歌よく歌うが、流行っているのか」と突っ込んで来る。それはスルーし、数歩先に行って、振り返った福富の影と自分の影が重なって見えてまた含み笑いを浮かべる。

(明日はきっと一日幸せな気分だと思うの。だって朝から寿一に会えて一緒に朝ごはんを食べられるんだもの。それってすごく素敵な一日の始まりね)

ふわりと花の匂いがする。自分の髪からだ。先ほど活けた花の匂いか。それが一瞬、浮ついた自分の頭にぴしゃり、と冷水をかけるような心持。はっとして、しかしこちらを見つめ目を細める福富のを見、にこりとまた微笑む。

に言わせてね、寿一。「また明日」って、言わせてね」



Fin

(2014/05/18)

タイトル→お題サイト「悪魔とワルツを

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