積み木崩し



「つまりは、寿一が他校生に殴られに行くのを笑顔で見送って、なおかつ寿一を殴った連中が何のおとがめも受けないようにすればいいって、寿一はそれをに頼んでるのね」

にっこりと弁天様もはだしで逃げ出す笑みを浮かべた貌で応じれば目の前の男子高校生は一度ぴくりとその太い眉を動かしたが、しかしそれ以上の反応は無く「あぁ」と短く頷いた。可愛げがないと言えばこれほど可愛げのない男もいない。仏頂面、鉄面皮と陰口を叩かれるのも無理はない。それほど福富寿一という、やけにありがたい名前の男は表面的な感情の変化がわかり辛かった。

は福富のその態度に微笑を洩らす。こちらの遠慮のない物言いに反論も、言い訳もしない。潔いひと。自分が理不尽なことを頼んでいると自覚していて、だからこちらが何を言っても受け入れる、という覚悟を持っている。あぁ、なんて素敵、寿一、大好き、と心の中で呟いてから、しかし表面的には未だ「嫌なことを頼まれた」という被害者面を保った。

夏も終盤、夏休みの課題に追われるような情けなさは持ち合わせていない、今日も今日とてふらふらりと気に入った男性に声をかけアバンチュールと行こうかなんぞと節操のない夜ことを考え短くしたスカートを揺らしながら校舎を歩いていたら、てっきり部活動の時間だろうこの男に声をかけられた。

福富寿一は、が恋をしている相手だ。一年生の時。同じクラスだった。一目惚れではないけれど、でも、初めて言葉を交わした時には恋に落ちる音を生れてはじめて聞いた。は自分が男性から異性として特別視されるタイプであることを自覚しているし、自分も男性にもてはやされて楽しく過ごすことが好きだった。しかし「恋」というものをしたことはなく、福富寿一にそれをしている自分というものが最初は信じられず、まぁいろいろしてしまったのだが、今はそれは関係ない。

そしてその福富寿一は、この箱根学園の自転車競技部に所属しており、先日めでたく主将に任命された。花も実もあるひと。自分の実力にプライドと自信を持っていて、自転車にとことん尽力を尽くしている。なんて素敵。だからは福富の自転車の世界には関わらなかった。この己が初めて恋をした相手。彼が大切にしている世界には自分は踏み込まぬと。男と女のことはよく知っている。だがら、男が走る世界に、女の、たとえ浮ついていなくても純粋な気持ちであっても、とにかく、女が入り込んで汚してならぬと、にはそういうルールがあった。

福富もそれを知っている。がどれほど「寿一好きよ、大好き」と言ってもけして自転車部に近付かぬこと、寿一の親しい同級生や下級生には一切かかわらぬ姿勢を知っている。そしてそれを尊重してくれた。

(だからこれは、どういうことかしら)

沈黙しこちらの次の言葉を待つ福富をじっくりと眺め、は目を細める。先ほどの言葉の通りの(まぁ、言い方は違ったが)要求をはされた。

なんでも今年の自転車部の最大のイベント、インターハイは広島で(もちろんは知っている。福富には知られないよう一人で観に行った。そして一人で帰ってきた)なんぞあったらしい。なんぞ、というのはあれだけ期待されていた福富が二日目にリタイアし、三日目にはレースに出る事もしなかった。そしてが見る限り、明らかに自責の念に駆られいてもたってもいられない、という様子であった。

そしてその理由は先ほど聞いた。

「総北の選手は俺を殴り面罵する権利がある。俺はそれだけのことをした。選手として、人として最低のことをした。自分が負けた事が認められず、手を伸ばして相手を落者させた。総北選手の全てを踏みにじる最も許されざる行為をした。これから千葉へ謝罪に行く俺に何があっても、協会や機関に彼らが咎められる事のないようにしてくれ」
「さっき聞いたわ」
「頼む、

謝りに行くのか殴られに行くのか、は唇を噛んだ。寿一が負けたこと、酷い事をした事はにはどうだっていい。それでも寿一を見損なうことなどないし、こうして苦悩し、しかし自分の問題と向き合っている寿一に胸が締め付けられる。

は、いろいろ知り合いが多かった。だから学校で自分が女王様のようにふるまっても、好きな時に保健室のベッドを使っても、勇気を出して己を叱り付けた教師を再起不能にしても何の問題もなかった。だから、福富の希望は至って簡単に叶えられる。だが迷った。「寿一の願いならなんでも叶えたい」と思っている常々であるのに、は二つ返事で承諾することができなかった。

(どうしてかしら)

自問自答する。だが答えは出ない。は自分に頭を下げる必要なんてないのに、しっかりと腰を折る福富の旋毛を眺め、その日に焼けた髪と覗く耳に触りたい衝動を抑えながら、「わかったわ」と声を出す。

「すまない。感謝す、」
「でも条件が一つ。も連れて行って。今からいくその場所に、も行きたい」
「………」

じゃなきゃ嫌、と続ければ福富の眉間に皺が寄った。これは自分の問題である。一人でいって一人でかたをつけたいのだとその目が申している。それはわかる。とて、普段の己であればこんな無礼はしない。福富が自分で考え自分で決意したこと。おそらくは大事な部活を、主将になった男が休んでまでのこのだいじに、部外者極まりないが行くのは、無礼を通り越して厚顔無恥な振る舞いだ。

、俺は」
は別に行く途中で寿一の手を握ったり、終わった後に寿一を抱きしめたりしたいわけじゃないの。なんなら十メートル以上離れて付いて行ってもいいわ。ただ行きたいの」
「……」

また福富が眉を寄せた。困らせているのはわかったが、しかし断られないともわかっていた。はにっこりと笑い、「それに寿一、あんまり電車得意じゃないでしょう。は電車好きだから案内できる」と言った。言うと「すまない」とまた言われた。なんに対しての言葉かは考えなかった。



+++



総北高校はハコガクのような自転車の名門なのか、そうじゃないのかには一寸判断が付かなかった。部室には現在とハコガクの生徒が二人。部員は他にもいるらしいのだが、今日は色々あって練習がないらしい。なら寿一の「貴重な練習時間を割かせた」という罪悪感はなくなるのかといえば、まぁなくならないだろう。自転車に青春をかけている選手にとって、部活だけが練習時間ではないのは寿一を見て来たにもわかる。

「……っつか、謝りにきた奴が女連れかよ」
「田所っち」

それはさておき、は今現在の重苦しくピリピリと張りつめた空気を自分はもう少し真摯に受け止めるべきなのか、と真剣な顔で考えてみる。

ぽつり、と巨漢の男が呟いたのは、まぁ何も悪意あってのことではないだろう。色んな感情のないまぜになった複雑そうな顔で先ほどから沈黙していた。それは窘めた妙に派手な色の頭の男子生徒も同じだ。

(このこたちのチームの夏は寿一によって台無しにされてしまった)

ひと悶着あるかと思ったが、最初の「偶然ホイールが倒れて来た」事件以外は何もなく、というか、何かある前に福富が謝罪すべき張本人の、金城という男子生徒が福富をサイクリングに誘って出て行ってしまった。

あぁ、なるほど、とは自分がなぜ福富の今回の「お願い」を即座に承諾しなかったのか、金城という男を見てすぐに理解した。

は寿一のおんなじゃないわ。寿一のつきそいでもない」
「……じゃあ何しに来たんだよ。マネージャーか?」
は自転車に乗ったこともないわ」
「その話し方やめろ、イライラすんだよ。ただでさえ気が立ってんのによ!!」
「どんまい」

言えばクマのような男子生徒のこめかみに青筋が浮かんだ。それはもうくっきりと。

「テメッ、謝りにきたんだろ!!おちょくってんのか!!?」
「謝りにきたのは寿一ではついてきただけ。寿一が迷子になったら大変」
「子守りか!!?てめぇはあの野郎の母親か!?」
「田所っち、ちょっとテンションあがりすっぎショ」

落ち着け、と玉虫色の男が抑えるので田所という男子生徒がフーフーと息を荒くしながらもストン、と再びベンチに座った。相変わらずイライラとはしているらしい。けれどこちらを睨んだものの、「……女にゃ関係ねぇか」と自分の中で折り合いをつけたよう。腕を組み、福富たちが出て行った扉をじぃっと親の敵か何かのように睨み始める。

「…まぁ、あんましからかうなショ。金城があんなんだから別にどうこうするつもりはねぇけど、でも俺だって何も思ってないわけじゃないショ」
ね、ここで皆が寿一を怒鳴って怒って殴ってボコボコにしてくれればいいのにって、そう思ってたみたい」
「は?」
「……おい、この女何か物騒なこと言ってねぇか…?」

どん引く二人をお構いなしに、は「うん、そう、そうなの」と一人でうんうん頷く。

そう、そう、そうなのだ。は福富寿一がインターハイ二日目でなんぞあって、そして只管自分を恥じていること知っていた。見ていた。しかしそれで抱きよせて抱き締めて「だいじょうぶ」と一緒に苦しんでやるつもりはなく、ただ見ていた。けれど見ていたから、思うことはあった。とてもあった。

は自分勝手だから、寿一のことだけ考えたの。寿一がここで酷い目にあえば、寿一のしたことはそれでチャラにして貰えるんじゃないかって。寿一が怪我しても、暫く自転車に乗れなくても、それが贖罪になるんじゃないかって、はね、そう考えてたの」

しかし頭の中では、どこかでぼんやりとわかってもいた。福富は自分に「何かあった時のために」と保険をかけにきたが、しかしその目は「そんな事にはならないと思うが」とも申していた。それをはうっすら気付いた。だから承諾しかねた。金城を見て、それは確信に変わった。

「でも違うのね。自転車の、男の子の世界って、そんな、やったらやりかえして終わるような、そんな程度の浅い世界じゃないのね」
「………そ、りゃ、な」
「……当然ショ」

二人を振り返って言えば、一瞬はっとこちらを、初めて一人の人間として意識したような顔をされた。今まで「俺達の邪魔をしたやつと一緒にきたやつ」でしかなかったを、二人は初めてきちんと「頭のある生き物」だと認識したような、そんな顔だった。

「いや、まぁ、でも古賀がいたら関係なくボッコボコだったぜ」
「あー、今リハビリ中ショ。いなくてよかったッショ」

はここで己がお礼を言うのも、それはやはり違うと思い、ただにこりと笑い部室の中の自転車に視線を向けた。

金城と福富、この二人が今頃どんな会話をしているのか、どんな気持ちなのか、それはには推し量れるようなものではない。けれど確実に、二人は「自転車で戦おう」と、それを誓うのだろう。は福富が殴られることが唯一の贖罪、解決にはならぬが一種のデモンストレーションにはなると思った。もう結果は変わらないのだから、もうどうしようもないのだから、とりあえず殴らせておけばある程度は「もういいだろ」という顔を出来るのではないかと、そんなことを考えた。

けれど違うのだ。男の子の世界というものは、いや、福富寿一のいる世界というのは、全く持って清廉だった。のような、腐った神経の者が考えぬ、真っ直ぐに前を向いた道を見ている。

(寿一は罪悪感と後悔で押しつぶされて、どうにか楽になりたい。許して欲しい、なんて考えなかった。その自分の心も、そして相手の気持ちも考えて、今日ここに来たのね)

部室の外を見る、空が青い。本当に青い。この空の下で今頃寿一は自分が傷付けた男と、向かい合っているのだろう。そうして自分は、そんな空の下にはおらず屋根の下で持ってきた水筒からお茶を飲んでいる。

(寿一が負けたひとだから、そんなことするわけないってわかってたの。きっと寿一を恨んでも憎んでもいなくて、寿一を許さない優しさを持ってくれてるって、わかってたの)

ぽつりぽつり、と胸中で呟けば、なにやらじわりと目頭が熱くなる。あぁいやだ、はぱしん、と自分の頬を叩いた。一瞬ぎょっと、田所がこちらを見る。

「ど、どした!」
はおなかがすいたから先に帰る。寿一にそう伝えて」
「マジで何しに来たんだおまえ!?」
「あ、福富が持ってきた菓子ならあるっショ」
「いや、巻島!?それそいつが食ったら駄目だろ!!?俺らも食うにしても駄目だろ!!?」

言いながら巻島がガサガサと包みを開け始めた。どのみち福富が「謝罪」に来たことは自分たちとそして監督にしか知られてはならないんだ、と呟くので、は金城が「単独で落車した」と、それを貫いていることを知らされた。

成程、田所は直接的に言ってくるけれど、この巻島も、やはり何も思っていないわけではないらしい。けれどこうして普通に接してくれている。難儀な性格してはるんやなぁ、と、思わず生まれの言葉で言って、はたり、とは自分の口を押さえる。幸い聞かれはしなかった。ぎゃあぎゃあと言いながらお茶の準備をしている二人を眺め、はこちらに差し出される箱根銘菓を「甘いの嫌いだからいらない」と断った。



FIN


(2014/05/16 12:45)


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