洞窟のように湿った穴倉から這い出るような感覚だ。
まるでずるずると、山椒魚のように地面を這いずり真っ直ぐ進む。土だと思っていた湿った周囲は赤くなり、ヒトの肉のように脈打っていた。
(これは母体だ)
ぼんやりと理解する。しかしそこで妙な違和感。なぜ母体だと思うのか。ヒトは確かに誰しもが母という種類の体から生まれてきて、その経験を持っているからそう錯覚することもあるだろう。けれど自分はヒトではない。
(自分が生まれたのは脈打つ肉の塊ではなくて、冷たい硝子の棺だったのに)
考えて可笑しくなってきた。ここ一年ほどヒトのように生きてきた反動からこんな浅ましい夢を見るんだ。
(どんなに願っても、化け物であることに変わりなどないではないか)
母体帰依願望はヒトの男性のみに起こる衝動。幻でも「母体を通った」という経験を無意識のうちに作り出して安堵感を覚えたいからに違いない。バカなことを。実際自分がヒトの体内に入れば、次の瞬間には長く硬い爪でその腹を割いているだろうに。
さて、母体の幻影から抜け出したところ、真っ暗な闇の中にいるようだ。腹の力を抜けば、足の下から落ちてしまいそう。(地面があるわけではなく、現在ただ浮遊しているというこの状況)だというのに不思議と恐怖心などは浮かび上がらぬ。宙吊りなど恐怖を覚えるには良いだろうに、と思う判明、ではこれは夢なのかという証明にもなった。あぁこれは夢の中。であれば何か映像でも見えぬだろうか。期待していると目の前の光景が変った。と言って、世界に飛び込んだわけではない。目の前にテレビ画面のような長方形のモニターが現れたのだ。
これで夢か。なんとも、ヒトらしくない。笑うて、そのモニターに視線を向ける。
最初に移っていたのは、綺麗な生き物だった。ヒトの形をしている。性別は女と間違うほどに滑らかな顔立ちや肢体をしていたが、しかし、その生き物は「彼」「少年」である。金髪の少年が何か叫んでいた。
無声映画。
少年が暴れて割れる試験管の音も、掴み上げられて叫ぶ研究者の声も、聞こえぬ。少年は掴んだ眼鏡の研究者を棒のように振った。手で机の書類を払うように、細い白衣の体が薬品棚をなぎ倒す。ああ、ああああああ。研究者の口の形は母音を連呼していた。
「ライト」
突然モノクロ映画が色を成す。音声が入る。けれどどこかちぐはぐな音である。画面にはいまだ現れぬ、小さな幼子の声。
呼ばれて少年が研究者を投げ捨て、その美しい顔に笑みを浮かばせた。真っ白い肌に赤い唇の、匂い立つような美少年である。その手は血に汚れておるが。
「」
少年は画面を真っ直ぐに見て、呼んだ。手を伸ばして、幼子を抱きしめる。
「どこいってたんだよ。ばかなやつらだよなぁ。おれとおまえをひきはなそうとしやがった。餌のぶんざいで!」
あははははははは。ライトの笑い声が響く。燃える研究室。あたりは火の海。ライトは手じかに落ちていた研究者の腕を掴んで、肉体操作によって異常に発達させた爪を持って、切り落とす。血で、炎の勢いがやや削がれたがそれも一瞬。人の肉の燃える匂いと髪の燃える嫌な匂いが充満しおる。手にした人の腕にライトは食らいついた。生でひと齧りしてみ、「ははは。やっぱり男は不味い」と吐き出した。
「まぁただ殺しただけじゃもったいねぇし、にさんにん食っとく?」
がさがさと炎を避けて伏せる人を漁っていく。その姿は玩具箱から玩具を探す子供のような無邪気さがあるとは言わぬ。だが、菓子箱から口慰めの饅頭でも漁る気安さはあった。事実、ライトにとってヒトとはまさに餌である。大して腹が減っているわけではない今も、ヒトが娯楽で菓子を食う衝動そのままでヒトを口にしてみただけだ。
「ライト」
しかし対峙した唯一の同種族である幼子、つまり昔の己、は反発するように口調を強めてはらからを呼ぶ。己にとってヒトは餌ではなかった。いや、もヒトを食う。しかし、ヒトが家畜を全て糧とするわけではなく、時には愛玩動物、時には仲間、家族、パートナーとするように(呼び方は何でもよい)全てが餌であるとは言わぬのだ。この研究所のヒトらにしても、餌とは違う価値観を持って日々接してきた。そこに情というものはないにせよ、ライトに気安く食い散らかされるのを良しとはせぬ。
「かれらはサカキさまの組織にはひつような研究者だったのです」
出された名はの全てである。が人全てを餌とせぬ、理由。己は確かにヒトを食うが、己はサカキというヒトの所有物。主の命令がなければ無駄にヒトを殺し食うこともせぬわ。それこそが、我らの姿ではないのかとライトに迫る。しかしライトは眦を上げ、乱暴にの胸倉を掴んで壁に叩きつける。
「ばかじゃねぇの」
(どうして唯一同じ生き物なのに。わかりあえぬのだろう)
吐き捨てられ、見下される。己は悲しみも苦しみも憎しみもなく、ただ虹色の目で相手を見つめ返しただけだった。
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