(……!)


大きく身体を揺り動かされて、世界を構築していた硝子が割れた。
軽く瞬きをして、脳内の混濁を整理する。夢らしくない夢であるが、元々これが普通らしい。

掻いた汗を腕で拭って、キーボードを脇にずらした。研究成果を纏め上げている途中眠ってしまったのか。なんと無様な。乾いた笑いを浮かべようとして、己を見下ろす視線に気付いた。夢を叩き割って目覚めさせた張本人、自分を不安そうに除きこんでいるスキンヘッドの老人。

室内であってもサングラスを外さぬ、火傷で爛れた手を隠す皮手袋が彼のスタンスであろうか。かつてを試験管の中で作り上げた研究者の一人、そして現在はかつての罪とやらを全て免除され、ポケモンと自然、そして協会のためにこのグレンジムにて生きる研究者である。

「どうした?随分、魘されていたようだが……」

心配そうにの隣に椅子を引いて、娘にしてやるように頭を撫でる。火薬の匂いが鼻腔をくすぐった。おそらく彼も隣の研究室にて己の研究をしていたのだろう。様子を見に来て、今に至る、か。

「大丈夫ですよ」

信用できぬことを信用できぬ顔色の悪い笑顔で言って、キーボードを前に引き寄せた。カツラが何かいいたそうな顔をしたのが気配でわかるが、一体先の夢を話してどうなる。あの同種族のこと、最も忘れたいと願っているカツラに話してどうなる。

傷口に塩を塗りこむような趣味はにはない。にっこりとは笑ってカツラを見詰める。サングラスの奥は見えないが、明らかに信じていないのはよく解った。少し過保護すぎるとは苦笑する。魘されていた内容はわからなくとも、悪夢を見たのだということは一目瞭然だろう。それに、大丈夫も何もあるものか。夢は所詮夢。恐れることなどない。悪夢以上に恐ろしいと思われる体験を、は現実世界で何度も経験してきた。(つまり、もはや何を恐れよというのか)

「何か、私に言いたいことはないかね」

静かに、問いかけられる。言いたいこと。と、は口の中で反芻して、途端心中に蓋をしていた臭いどろどろとしたものが溢れ出してくるのを感じた。

沸騰しても、蓋をして締め切っているために蒸発はしない、アレに咄嗟には掌を握り締め、爪で皮膚を破る。カツラに気付かれることはない。

「いいえ、いいえ、カツラおじさま。何もありません」

は虹色の瞳を伏せて首を振った。

(あの方を愛していると口に出すたび、自分がまるで意思のない人形のような錯覚に陥ります。この心に嘘偽りなどないのに、わたしの中のただ一つの真実なのに。どうしても、この感情が真実だという実感がわたしには持てないのです。愛している、とはならば一体何なのでしょう。少なくとも、わたしに組み込まれている情報にその答えはありません。あのガラスケースですごした日々にも、あの方の傍ですごした日々にも、わたしは愛というものを誰かに教え込まれた記憶はないのです。だというのに、なぜわたしはあの方に対する感情を、愛と知っていたのでしょうか。誰かに愛された覚えはありません。事実、あの場所でわたしという命そのものを愛した人間はいないでしょう。なのにわたしは始めから、あの方を愛していた。組織を抜けて、たくさんの人と出会いました。あの方以外にも、わたしを憎まないで居てくれる人間がいるのだと始めて知りました。でもわたしは、わたしを憎んでいないはずの人たちをあの方と同じように愛しているとは思いませんでした。わたしの心に、貴方は一体何をしたのですか)

溢れ出ぬ言葉は再び蓋をされた。不信感など抱くだけ無駄であろうに。笑えてくる。夢の中で狂喜したように、こちらでも笑い飛ばしてしまえればどれほど良いか。

これ以上は口を開けぬ。去っていくカツラを見送ることもせず、押し黙って、カタカタとただ只管にキーボードを叩く。モニターにはこの一年間集めた自然生態分布が集計されていく。先月の研究発表にて公開した自然減少はどれほど理論や証拠をつけても「」が発表すれば協会は全て退ける。


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「以上の調査結果をさらに一つ一つ厳密に検査した結果…確実に自然の現象、資源の減少は進んでいます。これはポケモン協会としても早急に手を打つべき事態かと思われますが」「しかしね、キミ。我々とて何もしていないわけではないのだよ。シルフカンパニーを始め大企業の技術研究部門に働きかけ、自然を回復させる研究を進めている」「ですがこの一年、何か新しい開発ができたとは思えませんが」「……確かに。この一年間だけの成果を見てみれば、功績を上げたのはキミだけだ。素晴らしい発明だと我々も関心してはいるよ。自然に還る釣り糸と針、水を通すアスファルト、濃度の汚染を浄化する薬品…どれも素晴らしい」「なら、実用化を真剣に検討してください。すでにシルフ社では直ぐにでも販売できる準備が出来ています。だというのに、なぜ許可を出さないのですか」「これだけのことをするには時間がかかるんだよ」「時間は十分にあったはずです。わたしが最初の開発をしたのは二年も前。尻込みするあなた方を置いて全てのルート手配も済ませました。あとは協会が「許可」をする、それだけなんですよ」「そう。全ての問題はそこにあるんだよ。・B博士。キミの発明は全て、後世に残る偉業だ。確実に、これを作り出したものは歴史に名前が残るだろうし、天才・偉人と称えられてもおかしくはない。だが、・Bの名前を許すわけにはいかない」「では全ての権利を貴方がたの都合のいいヒトに渡します。それで、よろしいのでしょう」「もう遅い。キミがルート手配をしたせいで、大企業はキミの能力を知ってしまっている。最近では学会でもキミは認められているそうじゃないか」「貴方がたが、わたしの存在を「なかったこと」にしたいのはわかります。けれど、だからといってこれらの発明を、そんな些細なことを気にしていつまでも腐らせておけば…ヒトはポケモンを敵に回してしまうかもしれないのですよ」「大げさな。―――我々は愚かではない。キミのように、化け物にもならない。ポケモン協会は、人間とポケモンの共存を目指しているのだ」


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賢しらな顔で言い放った、あの協会最高責任者。一連のやりとりを思い出せば顔を顰めずにいられない。あぁ、あぁ、白々しい。「なら自然を省みてください」叫びたくなるのをすんでのところで押さえ込み、己は「そうですか」と踵を返してきたのだ。

最初からわかりきっていることだ。彼らはポケモンを守ることがどういうことなのかを理解していない。ポケモンと言う生命は、自然そのものではないか!最後には「子供の妄想だ」とさえ言われた。だからといって、それを気にするようなではないのだけれど、焦っていた。ヒトが認識しなくとも、確実に自然は減っている。このままで行ってしまえば真っ先に被害を受けるのはポケモンたち。だというのに、学会も、ポケモン協会もその認識が全くないのはどういう愚かさか。

先の出来事を思い出し、苛立った。とはいえ、どうできるものではない。いや、と己の考えを否定した。どうにか、できぬことはないのだ。つまりのこと、が出なければ協会としてもそれで良い。だからオーキド博士や他の研究者にこの研究成果を見せて発表してもらえばよいのだ。

だが、それは実際のところは不可能である。協会を信じて疑わぬオーキドはの研究成果を「素晴らしい!」と手放して賞賛し、そして真っ直ぐな目での後援をしてくれる始末。博士の名で、と申しても「謙遜するな!」とニコニコ顔。協会に睨まれておるのだと説明しても信じぬだろうな。他の研究者とて同じ事。

協会への確執を作るのはの本意でない。であるから八方塞。ここでどれほど研究を続けてもそれが日の目を見ることはないのだ。あぁ寂しいという以前に、この世のなんと生きにくいことかと嘆いててどうする。

「いっそ学会で発表でもしてしまえ」

気安く言い放ったのは、最近よく訪ねてくるドラゴン使い。いつのまにか窓枠に腰掛けている。不法侵入だ、とは冷静に突っ込もうとしたが今更、ではある。

真っ赤なマントを靡かせる姿はどう見ても、一般人ではなく、なるほど思考回路も一般人とは違うらしい。あっさり言う男にあっけにとられ、は注いでいたポットから危うくカップ洪水を起こしそうになり、ワタルが腕を取って持ち上げたので防げた。

「ぐちぐちと悩むのはお前の十八番のようだがな。ポケモンたちのためにもやってみたらどうだ」

三年前にポケモンのためと人類滅亡を計画した男の言葉、やけに重みがあるものだ。確かにこのままが悩み悩んでいたところで何も変らぬ。研究成果はどんどん出てこようがそれは活用されてこそのもの。いくつのポケモンが救われるのかと考えてみれば、なりふりを構っている場合でもない。まぁつまり、ここでが強硬手段として研究発表したとても、ただでさえ悪い協会との関係がさらに悪化するだけであり、だからどうしたといえばそれまでじゃあないか。

「そうですよね」

茶請けにと出したクッキーを摘んで、頷く。火山の熱量を利用して焼いた菓子は柔らかく、美味いものだ。目を細めると釣られてワタルも菓子に手を伸ばした。そして同じように目を細める。「ほぅ」と言う関心したような声。

「お前が焼いたのか」

「いいえ」と首を振ると少々残念そうな顔をする。は笑って「ツゥさんが最近ハマってるんです」と告げると一瞬ワタルの動きが止まった。脳裏にあの「きょうあくポケモン」とされた遺伝子ポケモンがフリルのエプロン(愛用)でもつけてこまごまと生地を練り合わせている光景でも浮かんだか。

「中々お上手で、この前もチェリーパイを作りましてね。良ければ今度ご一緒されてはどうです」

 にっこりと花のほころぶ笑顔で告げてやれば、ドラゴン使い、四天王の将が見事に硬直した。きっと次は自分のエプロン姿でも浮かんだのだろう。自分は想像するのはメンタル面の保護のため控え、は紅茶を一口飲んだ。

「まぁ、とにかく。ワタルさんのお陰で少し気持ちが晴れました」

 今度は他意のない笑み。復活したワタルも「そうか」とだけ返した。どうもこの青年との相性は良いらしい。他人に対してはどこまでも礼儀正しいを基本とするがワタルには気安く(時折サディスティックに)接することができる。

 三年前は「同志になれ」という手を拒んだいざこざがあったと言うのに、今では異性で最も気心の知れた茶飲み友達となっているこの現状。不思議と思う反面、当然なのだと感じていた。

「?どうした」

じぃっと見詰める視線にワタルが首を傾げる。

「わたし、ワタルさんがいてくれて良かったと思うんですよ。時々、不安になるんです。わたしは研究なんてしてないで今までの罪を償うためにしなくちゃいけないことがあるんだって。でも、こうしてワタルさんがヒトの枠からじゃなくてポケモンの目から観た言葉をわたしにくれるから、わたしは自分が良いと思うことをできる」

今更言葉にすることではなかったかもしれぬ。けれど昨夜の夢の所為か。己の所業が克明に圧し掛かってきおったよう。(所詮わたしは化け物だ)思うときがある。協会はを「処分」してがっている。カントーのジムリーダーの中にはに友人を殺された者もおる。人にとって脅威の己は、人の世界のために死んだ方が良いのではないかと。

けれど今の段階でにはしたいことがある。人の所為で減っていく自然を、被害を受けるポケモンを救いたい。それはロケット団の科学知識とヒトには持てぬ知識を持った己にしかできぬこと。それを浅ましい願いと言うのがヒトで、ワタルはけれど「がんばれ」と押してくれる。

感謝を言葉にしたかった。(ヒトのようだ)

「……そうか」

先ほどと同じように、ワタルはただ微笑して返しただけだったが、その顔が少し赤い。照れてる?意地悪く顔を野覗き込もうとしたが、テーブルに置いたポケギアが鳴った。ただのコール音で着信メロディーなどはない。「どうぞ?」とが告げるとすまなそうにワタルがポケギアを採り、眉を寄せた。椅子から立ち上がって、ベランダへ向かう。「あぁ。こちらは大丈夫だ」「監視など…」と聞こえたが盗み聞きをする趣味はない。聞こえぬよう意識を仕上げる論文に向けてクッキーに手をつけた。





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