潮風と共にウミネコが奇声のような鳴き声を上げていた。汽笛の音を聞きながら、はもくもくと立ち昇る煙を見上げる。花嫁のように真っ白なロリータ服は豪華客船の搭乗者たちの間であっても異質性に視線を集めるが、そんなことを気にするではない。ぼんやりと見上げた虹色の瞳は煙から排出されるCO2や排気ガスの量を推測しており、計算機のような冷たさしか浮かんでいなかった。
(もう職業病である)
ここ数ヶ月の疲れが一気に押し寄せてきたのか、は宛がわれた一等上客室の寝台に身を投じると、うつ伏せた体制のまま目を閉じた。最近は体の調子が悪い。ヒトを食わぬ所為であろうことはわかっていた。
人工的にロケット団によって生み出されたヒューマノイドのが生き続けるには、人間の血肉に含まれるエネルギーが必要不可欠になってくる。以前、ロケット団にいた頃はサカキに与えられるがまま、または命じられるがままに気安くヒトを食べてきただったが、ロケット団を抜けてからは、ヒトの社会で生きる道を選んでからは一度もヒトを口にしていなかった。ワタルやカツラはせめてと血を提供しようとしてくれるのだが、どうも受け付けない。
ともすれば襲い掛かる「乾き」を薬で何とか押さえ込むこと数年。やはり人工的な力で抑えきれるものではないのかもしれない。体内のナノマシンは次第に死滅していくのだろう。の身体の中に存在している人工物であり身体を構成し動く源。プログラムされたナノマシンはどうしたってヒトのエネルギー以外では動く事ができない。
死滅してしまえばはただの器となって動かなくなる。それでもヒトとは違い、動けなくなって、意識を消してしまうだけで、死というものはない。
なぜヒトを食わなくなったのかと聞かれれば、それはにもよくわからない。正義の心に目覚めた、というわけではないし、ヒトではないにはヒトの道徳なども理解はできないのだ。しかし、自分がヒトを食うということを、あの、明るく綺麗なイエローやレッドたちに知られればきっと、悲しいだろうと思った。
自分が嫌われてしまうかもしれないことが怖かった。にとってヒトは違う種類の生き物だから口にすることにためらいなどはないけれど、ヒトはイエローたちと同じ生き物だ。彼らを食べられないと気付いてしまったは、結局のところ良心の叱責に耐えられずに拒食しているのだろう。
出向時刻まであと僅か。今頃甲板では乗客と見送りがテープで別れを惜しんでいるころか。自分には関係のないことだが、その光景を想像して、は自分が今は独りきりなのだということに気付いた。
「今更何を」
そう言えばここ数年は独りになったことはなかった。いや、産まれてから一度もは独りだったことなどない。思えばの周りにはいつも好意、敵意を別にして誰かがいた。いつも共にしてきたカイリューのリュウヒメやカラカラのカカラマル、ブースターのヒヒメをグレンに転送してしまえば、本当には一人きりだ。
一人ぼっち、ということには奇妙な安堵感を覚える。けして周りを煩わしいと思っているわけではない。しかし感じるべき不安ではなく、安堵感が心地よかった。は体を反転させて天井を見つめる。
「ライト。あなたはどうやって生きているの」
行方不明になった唯一の同族の名を呟いた。三年前、ジョウトで起きた事件を最後にライトは姿を消した。結局最後まではライトを憎んでいたし、ライトもに歪んだ感情を持ち続けていた。いまだにはライトを許すことはできないけれど、それでも、やはり彼の主張どおり、自分を理解できるのは彼だけなのだ。
(あ、でも)
考えを振り払って、は思い出す。脳裏に描くは、金髪の同種族ではなくて、赤い目をした理解者。
『俺はお前が何者であろうと構わない。何者であっても、お前が俺の同志として相応しい志を持った女であることに変わりなどないのだから』
三年前にワタルはそう言ってに手を伸ばしてくれた。彼とて、完全なヒトの側のものではない。だから己を理解してくれるのか。
人間達は、たとえがどれほど自然保護を訴えたとしても全ての人間がそれを理解するようにはできていない。どんなに優れた道具を作っても「道具があるから少しくらい平気だ」と限界知を超える理由にしかならない。
大きな目で見るのだ、と自分に言い聞かせても、この五年間の研究でどれほど自分のしていることが空虚なものであるかを突きつけられてきた。いっそのこと、ワタルと共に各地を回り、直接、時間をかけて一つ一つの被害を消し去っていくしかないのだろうか。
「……」
マーメイド号は滞りなくジョウト海上を進んでいる。は人の気配を感じて起き上がった。
人体操作で体内のナノマシンに指令を出し、人差し指と中指の爪を長く伸ばし刃物のように構え、息を潜める。通行人ならばすぐに去るだろう。だが扉の向こうの気配は、一向に離れない。
厄介なことに感じられる気配は「玄人」であることを知らせていた。奇襲をかけられてはこちらが不利になる。
「………」
こちらから切り出そうか?若干緊張した面持ちでは扉を見つめる。
「お逃げなさい」
聞こえてきたのは発音の良い、教養のある落ち着いた女性の声だった。女だからといって警戒心を解く理由にはならないが、は爪を元に戻す。
「何者です」
冷静な声を意識して問えば、扉の向こうの人物が僅かに沈黙した。思いもかけずこちらに動揺が見られぬので不審に思っている、あるいは拍子抜けしている、という気配が伝わってくる。
「……お逃げなさい。真珠姫」
「人違いじゃありませんか。わたしの名は・Bです」
「貴女に危険が迫っています」
貴婦人はの言葉など聞こえていないかのように繰り返した。こちらの態度に一瞬躊躇いはしたものの、すぐに元どおり、というよりも予定通りの行動に戻った、というところだろうか。は眉を寄せる。己が何者か、解っていての接触、ではなさそうだ。己が「・B」という生き物、どんな生き物か承知していればこの冷静な態度を訝ることはまずないはず。だが相手は「逃げなさい」と唐突に言われたこちらが「どうして?なぜ?」と言葉に混乱するものと想定していたらしい。
危険、とは聊か物騒な単語だ。は扉に近づく。その時僅かに気温が下がったことをの体内にあるナノマシンが知らせる。相手は氷使いであろうか。
「なぜわたしに警告してくださるのです」
「お逃げなさい。真珠姫」
埒の明かない問答にが扉を開けた。上質な木造の扉が押し下がり、真紅の絨毯をの目前に晒すが、人影はどこにもない。まるでテレポーテーションしたかのようだ。
ポケモンのケーシィやその進化系を伴えば可能な技。となれば手がかりは得られぬか。だがは諦めずつい一瞬前までは女の気配のあっ対置に膝を付くと入念に調べ始めた。
通行人がいれば驚いただろう。ロリータ服の美少女が床に這い蹲って絨毯を爪で引っかいているのだから。しかし幸いにもそんな視線はなくが再び立ち上がった頃、その虚ろな虹色の瞳には微かな確信が宿っていた。
「全ての超常現象とて、その原理は自然界の産物である―――」
硝子細工のように透明度の高い爪には、ひとつとして同じ形は存在しないといわれている氷の結晶が付着している。廊下であっても船内はかなり暖かく設定されているにもかかわらず、結晶は溶ける様子もない。の皮膚の上に乗ってもまだ、結晶は小さな塩の塊のように爪に乗っていた。
ナツメがよくそうするような、ケーシーを使っての空間移動ではない。あの貴婦人はそもそもここにおらぬ。氷の伝言板でも使ったか。だとすればこの船にいないという可能性もある。
「わたしに危険が迫っている……」
は警告してきた貴婦人の言葉を反芻して、目を伏せた。そもそも、己に危険でないときなどあった覚えはない。一度閉じた扉を再び開け、部屋の中へ戻った。船室の窓から外の景色を眺め、窓ガラスに手をつける。日が暮れかけて赤く染まった海。まだらになっていく薄い雲。全てが平常どおりだ。
「……やはり、ヒヒメたちを先に帰して正解でしたね」
はトレーナーではない。普段共にいいる彼女たちは己にとってはロケット団時代からの友であって、戦わせる、という選択肢にはならないのだ。彼女らはそれでも自分を守ると言ってくれるけれど、ヒトとの醜い争いに美しい自然の化身であるポケモンを巻き込みたくはない。三年前のようにいつ死んでもいいなどとは思わないけれど、死ぬ時がくるのなら拒むつもりはない。
いや、まぁ、協会に殺されるなど真っ平ごめんだから、抵抗はする。どうして分かり合えぬのか。ヒトだから、化け物だから、などという理由はない。事実はヒトであるワタルやイエローと分かり合えているし、が何よりも大切に思うあの方も、ヒトだ。
では、協会との間に隔たるのは何であるか。考えれば当然、それは協会の「後ろめたさ」というのに最終的にはなるのではないか。己は協会の悪行をすべてその細胞に記憶している。弱みを握られた協会と、握るこちらが分かり合えることなどないか。
「まぁ、考えたら埒があきませんね…」
多くなってきた独り言に気づいて苦笑を漏らし、は思考を止めて夕食をとることにした。大広間で食事をしては何か問題が起きたときに都合が悪いのでルームサービスを取る。運ばれてきた塩味の中々口に合う料理に感心していたのは初めだけだ。
+++
(やられた…)
後悔しても遅い。は毒が効かない。体内のナノマシンが体の機能に悪影響を及ぼす成分を尽く抹殺するようにプログラミングされているゆえであるが、ということは、毒そのものの成分は十分に体に影響を与えることができることでもある。
「……」
自分の迂闊さを噛み締めたところでどうなるものでもなかろう。体中が麻酔を打たれたように麻痺して動かなくなってきている。毒が回った効果ではなく、猛毒を抹殺するために体内全てのナノマシンが浄化にエネルギーを使っている反動だ。暫くは体が動かせない。
ポケモン協会は、どうやら思っていた以上に人工混血亜種についての研究が進んでいるらしい。そんな無駄な研究ばかりしているから自然破壊を自分たちがしている事に気付かない阿呆なんだ。内心罵っても届くわけでも、気が晴れるわけでもない。
毒が直接効かなくても、体を暫くの間停止させる手段として使うなんて。全く盲点。少し協会を見縊っていたのかもしれない。彼らがかつてどれほど、汚い手段を平然と大義名分をかざして行ってきたのか、知っていたのに。少し考えれば、こんな手段を使うことくらい読めただろう。
あの貴婦人は一体何者だったのだろう。明らかに、自分が狙われている事を知っていてくれた。なら、助けろ、とはは思いつかない。彼女は自分がヒトではないから、ヒトなら当然に考える他人の力を借りるという発想がないのだ。それは仕方のないことで、体内がゆっくりと停止していくのを何も出来ずに見守りながら、の意識は沈んでいった。
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