老人は元々、漁師だった。荒れ狂う海を制して己の船一艘、自由奔放に波を巡る荒くれ者であると、そう信じて生きてきたは十五年前までのこと。ホウエン地方は気候暖かゆえに波は荒ぶる時が激しい。その海と共に生きる己のなんと粋なことよ。だが所詮ヒトは自然を制することも共にあることもできぬと思い知らされた十五年前の嵐の日。息子と妻を荒波にて失った老人は船を捨てて小屋にて老後ひっそりと送る決意をした。
妻の可愛がったキャモメを子のように溺愛し、かつての海の男の姿とはこれ哀れなりと思われるほど、穏やかに暮らしてきいた。海を憎むことなどせぬ。憎むは、自然を侮っていた己である。共に生きているつもりで、自然は己のものであると奢っていた。
海は己の庭であると、そう妄信していたのだ。
自然とは巨大なり。
愛しい命二つを犠牲にして思い知らされた教訓に、老人は只管打ちひしがれて何をするわけでもなく窓の外から海を眺めた。トウカの森近くにあるこの小屋に立ち寄るものなどおらぬ。立ち寄る暇があればそのまま森を抜けて、都心であるカナズミシティへ向かうというもの。森で遊ぶ子供というのも最近はあまりいない。
どうも、自然と一体!が売りであったホウエン地方も最近は、近代化とやらが進んでいるそうな。整備された公園で親に見守られながら遊ぶ子供はあっても、危険な森でポケモンを探す子というのはトレーナーくらいしかない現在。
それも時代の流れなのかと嘆く者も次第に老いて死んでいく。
「ん?どうした。ピーコちゃん」
窓の外からキャモメが叫び啼いておる。外敵にでも襲われたのかと一瞬肝を冷やしたが、その様子はない。キャモメは一匹、沖のほうへ浮かびくるくるとその辺りを旋回している。老人が目を細めてよく見てみれば、その下には何か白いものが漂っている。
「あぁ、人じゃないか!」
声をあげ、老人はうろたえる。どうする。老人はピーコちゃん意外にポケモンは持っておらぬ。人を呼びに行くにしてもトウカシティまで少しある。ピー、叫ぶ催促の声。あぁ、あぁ、あああ。仕方が無い!
老人は船を出した。
仕舞うに仕舞えず、もう十五年も浮かばせてあるだけの船に飛び乗った。体は覚えておるもので、戸惑う事無く船はキャモメの傍へ進んでいくわ。
あぁ、あぁ。
手に当たる海の抵抗感が懐かしい。陸におるときとは違う潮風の心地よさ。海、の素晴らしきさまよ。とはいえ感動している場合でもない。腕を伸ばし海に浸かっておる白いものを探り当てた。ぷかりと浮かぶ水死体のような体。本当に水死体なら厄介なこと。引き上げる。海に出ずとも体力は常人よりはあろう。ざばりと音を立てて、船にどさりと白い、なんとも美しい少女が横たわった。
「こりゃ……一体」
人魚でも引き上げたか。いや、足はある。が、人魚の類と間違えるほどに美しい少女。
しかし、これは一体。
困惑する老人に、ぴぃ、とキャモメも同調して鳴いた。確かに昨日は嵐の夜であった。だから波に飲み込まれ流され流されてここまでやってきました、ということもあるのかもしれぬ、が。聞き及ぶ限りどこどの船が難破したなど存ぜぬ。この世界、幼い子供らやトレーナーが「旅」に出て嵐に合いました、の類のほうが可能性は高いが。見たところこのように豪奢な服装(まるで白い花嫁衣裳のよう)を纏い「旅」するトレーナーなどいようものか?
「ん…」
その、水死体未遂の少女が小さくうめいた。老人が肩を揺さぶってやると、やがてぼんやりと白い瞼を持ち上げる。表われた、虹色の、硝子玉のような瞳にたじろいだ。
「あ…」
「ここはカントーですか。ジョウトですか」
意識不明であったわりにははっきりとした声音。むしろ、戸惑う老人よりしっかりとしている。
「カントー?ジョウト?何を、言っておる。ここはトウカの森付近じゃよ」
聞きなれぬ地名に首を傾げ、少女を見詰める。見れば見るほど、美しい童女であった。一度、絵で見た幻の水ポケモンよりも美しかろうな、その容姿。この地名を告げれば、不思議そうな顔を一瞬だけして、あぁ、と頷く。
「ここはホウエン地方ですか」
「お嬢さん…」
「と申します」
「あぁ、わしはハギと言う。では、。お前さん、どこから…」
言いかけて、老人はつぐんだ。なにやら事情があろうな、このと言う少女。こうして目覚めても大して動じることもなく、むしろ冷静な姿を見ても只者ではあるまい。何か大人の手助けが必要であれば、すぐに手配をする器量もあろう。
しかしそれをせぬのは、なにやら事情があるのやもしれぬ。悟ってハギは押し黙った。余計な詮索など、海の男はせぬものだ。
「まぁとりあえず、お前さんを一度病院にでも連れて行ったほうがいいか」
舵を取り直そうと立ち上がろうとすると、その腕をが掴んだ。
「な…」
その細腕に意外なほど力強くひかれ、ハギは膝を突く。
「地震が」
呟くその言葉とほぼ同時に、船が大きく揺れ動く。海の上であってもこの激しい振動、陸ではよほどのものか。もし立ち上がっておれば体勢を崩して投げ出されていたかもしれぬ。慌てて船にしがみ付き、揺れが去るのを待った。
「おめぇ…なんで解った」
地震を予知するなど、ナマズンなどのポケモンの特殊能力でもってでしかできぬこと。問うとは虹色の瞳を揺らし、「そういうふうにできているんです」と答える。へたにはぐらかすこともしない。
「それにしても、この地震…地に伝わる振動。最近、地震が多いのではありませんか?」
そんなこともわかるのか。ハギは目を見開いて、頷く。確かにここ最近ホウエン地方は地震が多く起こっておる。研究者の間ではどのような論議がされておるのか、田舎暮らしのハギは知らぬが何か、いろいろ交わされているはずだ。しかしそれを知らぬとは、やはりこの少女はホウエンの者ではないらしい。揺れがやっと収まってきた。はじぃっと海面を眺めて、ぽつりと口を開く。
「どうやら、いろいろと事情がありそうな様子」
その言葉の意味はハギには当然わからなかったけれど、それでも、この少女が危険な生き物だとは思えずに、彼はひとまず自分の小屋にを連れて行こうと決めるのだった。
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