陸を目指す小船のうえから、は感心したようにあたりを見渡す。海上からでもよくわかる、この地方の自然はなんと豊かな事か。海水ひとつにしてみても、汚染された記憶が一切ない清浄なもの。見える陸地の緑も青々としてすがすがしい。こんなに柔らかな自然の地がまだマサラタウン以外にあったのか。
感動しながらも、やはりの心には沈む石が数個。
考えなければならないことは多くある。
第一に、なぜ自分が浚われて来たのか。何とか逃げ出したものの、逃げ出したからこそ相手の目的がよくわからないこの現在はどうしようもない。
昨夜の記憶を思い出して、は憂鬱になった。
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眼を開いて、天井を見上げる。眼が覚めて見知らぬ場所にいることはこれまでの経験上少なくはない。ヒトではないので意識の混濁というのもにはあまりなく、すぐに自分が食事に毒を盛られ、気を失っていたことを思い出した。
少しのため息、取り敢えずは身体の具合を確認しようと手を動かすが、カチャリ、と鉄の音がするだけで視界に入れることはできなかった。ぼんやりと目を開いて、体を起す。あたりを見渡して確認できる事がいくつか。
水中であること、それに自分は捕らえられてここに運び込まれたこと。時間がどれほどたっているのか計る。体内時計は正確だ。気絶させられてから半日といったところ。
ジャラリ、と両腕を上げると鎖が鳴った。は首をかしげる。手錠。いや、それは別に構わない。
冷たい感触は手だけではなくて足にも付けられていた。用意周到だとは思うが、まぁ確かに自分を知ってここに閉じ込めているのならこのくらいしなければ意味はないけれど。でもそれでも少し甘い。
自分は鎖などすぐに破壊できる。は呼吸を整えて手先に力を込めた。この部屋が監視されている可能性は大きいけれど、構わないだろう。
「っ…」
肉の焦げる嫌な臭いがして腕の鉄が砕けた。すぐさまナノマシンが壊れた組織の修復に掛かる。軽く腕を擦って身体を起こした。足も同じように外して周囲を見渡す。見覚えはない。狭い、六畳ほどの部屋。潜水艇の一室だろうか。外の気配を伺うが、見張りは扉の外に二人しかいないようだ。一等船室ほどではないが、それなりに感触のいい寝台に寝かされていたらしい。こういう待遇を受けていると、どうやらこちらの協力性が求められる何かをさせられるのかもしれない。ならば今まで己を狙ってきた賞金稼ぎや研究者たちとはまた種類の違う誘拐犯か。監視カメラや盗聴器はなさそうだ。それにしても、一体何者が何の目的で己をここに閉じ込めているのだろう。
「……まぁ、これでまたひとつ、協会を脅すネタが増えたと思えばいいんでしょうか」
船のチケットを貰ったときから何か仕掛けてくるだろうとは思っていたから協会の裏切り事態驚くことはない。ポケモン協会が自分を疎ましがっているのは知っている。それでも自分はヒトのために尽くそうとしてきたのはカントーやジョウトのジムリーダーたちは好きだったし、ヒトも悪い者ばかりではないことをよく知っていたから、ヒトが自然を破壊してしまっても、憎むことはしなかった。けれど、けれど。それでも、どんなに自分がヒトを愛してもヒトにとって自分は化け物でしかないのだろうか。
(いや、今はそんなわたしの感情はどうでもいい)
今の状況に協会が絡んでいるとしても、ひとつ疑問が残った。
この、意外に丁重な扱い。
協会が自分に協力を求めることなどありえるはずはない。ということは、自分をここに連れてきたのは協会とはまた違う意思で動いている集団、または人物ということになる。
海の外は見えない。真っ暗で、地底だろうか。は頬に手を当てる。眠っていて体の方は完全に回復したのだが、いくら己でも海の底であっては脱走できない。気圧への耐久性は試したことがないので不明だが、あまり試みる気にはなれなかった。
なら、このままおとなしく目的地に連れて行かれるのを待つか?そのほうが相手が何者であるのかを探れるので得策かもしれない。
とにかく今は、自分がなぜここに連れてこられたのかをまず知らなければ対策も、行動も何も出来ない。
「ポケギアがない」
腕に付けていた連絡手段は船においたままだった。没収されたのならともかく、忘れるなんて自分はずいぶんと無用心になっていたと気付かされてため息を吐く。
昔はこんな、気を抜く事などなかったのに。思えば、ポケギアの充電さえ最近はおざなりになっていたのだ。
全く、これは協会が上手だったというだけではなく、自分が油断しすぎていた結果なのだろう。
「カツラさんや、ワタルさんがご心配なさってますね、きっと」
いや、むしろ大変なことになるかもしれない。それはそれで面白そうだが、確実に自分が観ることはできないのなら、厄介以外のなんでもないという結論に替わる。しかし、呟いた言葉はなぜだか嬉しくなった。
私を心配してくれるヒトがいる。待ってくれている人がいる。
たとえ協会が自分を葬りたくとも、立ち向かってくれるヒトがいる。それは、なんだかとても嬉しかった。は口元に浮かんだ笑みを消そうとほほを押さえた。
あぁ、だめだ。こんなにも自分は、バケモノらしくなくなってしまっている。
(……―――)
「………?」
不意に、空耳か。意識を失っている時に聞いた気がする声が聞こえた。は耳を済ませる。声は一度聞こえただけだ。気のせい、だろうか。いや、自分に気のせいなどあるはずがない。錯覚を覚えるのは人間だけだ。
正体はわからないが何かが自分を求めて啼いている。
それは確かだった。
まだ何かはわからないけれど。何かが自分を呼んでいる。
「? 浮上しているようですね」
ゆっくりとだか潜水艇があがっていく感覚がした。は目を伏せて耳を済ませる。何かに求められていた気配がだんだん消えていく。注意深く精神を集中させていたが、突然船室が開いた。
「眼が覚めたようですね」
考え込んで沈んだ耳に、扉の開く音と静かな男の声が聞こえた。顔を上げて眼を細める。
「アクア団首領、アオギリさま」
「ほぅ、私をご存知なのですか。これは光栄…」
蒼いバンダナに黒いシャツの男は礼儀正しく一礼をして目を伏せた。年齢は中年にさしかかっているはずだが、その礼儀正しい態度は相手が己のような小娘でも変わらないようで好ましいといえば好ましい。
この男のことは知っている。ロケット団にまだいた頃、何度か資料を見たことがあった。ホウエン地方にいくつか存在する組織の頭だ。
もっとも、ホウエン地方というのはの管轄ではなかったし、あまり細かな情報までは知らない。サカキと交流のあった別の組織の首領がこの男のことを嫌っていた事を覚えているくらいだ。
「おや? 拘束器具は外してしまいましたか」
顔を上げたアオギリが意外そうな顔をして首を傾げる。しかし元々あの程度を拘束できるとは思っていなかったのだろう。それでもさして驚いた顔はしない。は寝台から降りて扉の前に立ったアオギリに近づいた。歩きながら、アクア団という組織のことを思い出す。確か、そう確か、海を増やそうとしている。ポケモンのために、海を。
(なんて、くだらないことを)
組織の存在定義を思い出して、は呆れた。
この組織は慈善団体のつもりなのかもしれない。まだ確定するには要素が少ないのでなんともいえないのだが、はアクア団という組織が己の知っているロケット団とある意味同じ種類、つまりはテロ組織であると判断している。ポケモンのためだなんだと掲げているがやってることはテロ行為。ただの偽善でしかないように思えるのだ。所詮は己のためなのに、どうして人間は他の所為にするのだろうか。
しかし、その組織が一体自分の何の用だろうか。
考えられる可能性としては、の自然研究者としての知識。海水を増やすための仕組みも、資料さえあれば容易く計算できる。しかし、そんなことは別に自分でなくても、倍以上の時間はかかるがヒトにも出来る事だ。
「わたしに何のご用が?」
考えられる他の用件は、のデータ。生命構築図。ヒューマノイドの量産に成功すれば、完璧な組織の犬が出来上がる。慈善だろうが悪だろうが、組織という大量に数のいるものには信頼のできる駒は必要だ。
他にヒトの気配はしない。まさかこの男、自分を前にたった一人で安全だと思っているのだろうか。は指先に意識を集中させた。
たとえ協会が自分をこの男に売ったとしても、それを従わなければならない理由はない。自分にはしたいことがあるのだ。自然を守って、元に戻して、そして、マサラタウンにいる彼らや、グレンで自分を待ってくれているヒトたちと残された時間を生きたい。
厚かましい願いだとしても。叶えてはならない理由などない。この男が、自分を悪用しようというのなら、命を奪ってそのデータを調べようというのなら、逃げ延びるまでだ。
「何もわかっていないというのは憐れですね」
アオギリの、心底哀れむ越えにの動きが止まる。指先から発していた電気が消えうせ、虹色の瞳を見開いてアオギリを見つめた。
「貴方こそ、何もわかっていらっしゃらないようですね。わたしが何か貴方たちのためになにかをするとでも思っていらっしゃるのですか」
なぜアクア団が自分を必要とするのか判らないが、こんな偽善団体に協力するつもりなどない、というのは絶対である。
「そんなことは百も承知だ。だが、あなたは我々に協力する理由があるのですよ」
「理由…?なぜアクア団のあなたがわたしという存在を知ったんです? それに…クチバへ帰る途中のわたしをなぜ誘拐できたんです。あの船に乗ることは、当日まで決めなかったのに」
どうやら争いたくはないらしいし、何かカードを持っているこの男に、初めては感情をぶつけた。つまり、疑問を一気に口にしたのである。
「ふ…本当に何も知らされていないのか」
初めてアオギリの表情に優越感が浮かんだ。の知らぬことを知っていると勝ち誇った笑みだ。
「アクア団は長い間貴方を探していました。そして「あなた」がロケット団にいることまでは突きとめたのです。しかし、問題はロケット団が解散してから。カントーにいる貴方には手出しはでませんからね。常にドラゴン使いやカントーのジムリーダーがお前のそばにいたのですし」
気付かなかったわけではないが、こうして他人の目にも明らかに、ワタルが自分を守ってくれていたのだと知り、は僅かに動揺した。
確かにいつもワタルは自分のそばにいてくれた。しかし、それは協会からだけというわけではなかったのか。アオギリは、自分が別の目的でを狙っていたのだと言っているように聞こえる。その、今回がさらわれた理由を、ワタルは知っている、ということだろうか。困惑するを構わずに、アオギリはなおも続ける。
「そこで、我々はカントーのポケモン協会と取引をしたのですよ。幸い、貴方の存在は協会には都合悪いようでしたからね。協会はあっさりと手を貸してくださいました」
別にそんなことはわかりきっている。協会が関与しているなどというのは前提で、には疑問が残っていたのだ。
「いくら協会が手を貸していたとしても、わたしを捉えるには正確なナノマシンのアクセスコードを知らなければ、完全に意識を奪うことはできないようになっています」
己は気絶をしたとしても、他人が触れれば直ぐに目を覚ますようプログラムされている。協会がヒューマノイドの研究をしていて、の身体に効く毒を開発できていたとしても、ここまで誘拐し手足を縛る、というのは不可能なのだ。
アオギリはどうやら、自分が協会に売られたということを突きつけて心理的ダメージを狙っていたらしいが、それは無意味だった。
「……サカキ殿のおっしゃった通りですね。あなたは、賢い」
「なぜ、その名前を」
二年前の、スオウ島で姿を見せて以来行方不明になってしまった、己の主の名前には動揺する。
「メッセージを預かっていますよ。御覧になりますか?」
「お会い、したんですか?」
アオギリが頷いて、扉を開く。出るように促されて、少しは警戒心を取り戻した。困惑した表情でアオギリを見詰める。アオギリが苦笑した。
「貴女に危害を加えるつもりはありません。それに、実際戦闘になれば、私がポケモンを出す前に貴女は私を殺せるでしょう?」
事実だ。今もその気にさえなればは彼を簡単に殺せる。
「一つお答えください。あなたは、サカキさまとどこでお会いしたのですか?」
酷く幼い表情ではアオギリを見上げた。あの方はカントーを出てどこへ行ってしまったのだろう。この男の拠点はホウエンで、ならあの方も…?
「それには答えてはならないとサカキ殿から釘を刺されていましてね。申し訳ありませんが」
嘘は言っていないだろう。は頷いて扉を潜った。紳士的な態度でアオギリがの後から出て扉を閉める。元々部屋に鍵は掛けられていなかったようだ。では、アオギリに敵意はないというのも、一応は信用できる可能性がある。
潜水艇から下ろされて、地面に足をつけると土だった。洞窟らしい。設備は完璧に整えられた基地のような洞窟が海とつながっている、はあたりを見渡した。自分を連衡する横縞模様のTシャツをきた男二人はまっすぐに進んでいく。洞窟内だというのに昼間のように明るい。
土の匂いに違和感を覚えた。カントーの慣れ親しんだ成分ではない。だからといってジョウトというわけでもなさそうだ。まだただの感でしかないが、ひょっとするとカントーやジョウトからさらに離れた場所だろうか。
では、ホウエン地方…?
連れていかれたのはコンクリートで固められた重厚な扉の前だった。重々しい音を立てて扉が開き、だけ中に入れられる。
「ここはホウエンの私たちのアジトでして、ここへ団員以外をご招待したのは貴女が始めてですよ」
洞窟を改造したらしい基地の中はカントーの洞窟のように湿気はなかった。そういえばホウエン地方は常夏だと聞いていたことを思い出す。は時折すれ違う団員が統一して蒼いバンダナと水兵服を纏っていることになんだかディジャヴを感じた。組織という場所は総じてそうなのだろうけれど。
「では司令室へ向いがてら、私たちのお話をさせて頂きましょう」
コツコツと案内のため前を歩きながらアオギリが口を開いた。は黒い背中を見詰め、言葉の続きを待つ。
「私たちアクア団の目的は海を増やすこと。生命の源である海を増やし、ポケモンたちに住みよい世界を作り上げることを目指しているのです」
「炎タイプや岩タイプのポケモンはどうなるのですか? 海を増やして、確かに海や水のポケモンたちは救われるでしょう。けれど大地というものは海のように生命には大切なものです」
アオギリの思想には疑問を上げた。確かに表面だけ見れば素晴らしい考えかもしれない。自分が研究してきた中でも、確かにヒトの勝手な事業開発により海が穢れ、埋め立てられてきたデータがあった。だから、海を増やすことは間違いではないと思うけれど。しかし、先ほどアクア団を思い出したときに感じたように、にはこの組織がただの偽善集団に思えてならない。
そして違和感。中途半端を嫌うサカキが、なぜこんな男と接触したのだろう。
「解っています。貴女の疑問は最もでしょう。ですが、その問題は簡単に解決しますよ。我々だって、何も全てを海にしてしまおうとは思いません。大陸だって残しますよ」
あっさりと言うアオギリには首を傾げる。ヒトがあまりにも増えすぎてしまった現在で、これ以上海を広げてしまえばヒトではなく減るのはポケモンになってしまうということくらいわかっているだろうに。アオギリは続ける。
「人間が減ればいいのでしょう?」
当然のようだといわんばかりの答えには立ち止まる。前を行く黒服の男も立ち止まって、振り返った。口の端を吊り上げて、笑う。
「どうしました?何を驚くのです。もともとこの星はポケモンのものではありませんか。人間より、ポケモンを優先させて何が悪いというのです」
違う、とは思った。
違和感は募る。この男は、サカキとは違う理由でヒトを考えている。は警戒心を完全に取り戻した。サカキは、ヒトもポケモンも同じだった。自分の使うものだと考えているヒトだった。
だけどアオギリにとって、ポケモンは何よりも大切なもので、ヒトは寄生虫のような存在でしかない。
そして、自分自身のことは寄生虫ではなくて、救世主だと信じている。
はアオギリの瞳を注意深く観察した。微かな、狂気を確認してしまう。なぜ、サカキさまはこんな男と接触した?それに、なぜ、自分を引き合わせるのだろう。
「サカキさまのビデオテープを観せて下さい」
答えはそこに詰まっている。
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