『久しぶりだな。。こちらからはお前の姿を観ることができないというのは残念だが。噂に聞く限り元気でやっているようだ』
巨大なモニターに写された映像を、食い入るように見詰めた。気を張っていないと涙が出てきそうだ。喜びで口元が緩むのを押さえられない。
『私の居場所は探すな。これは命令だ。まぁ―――思い出話に花を咲かせるのは控えよう。……今、お前はアクア団のアオギリの元にいると思う。当然困惑しているだろう。実は、私が人を使って協会がお前をアオギリに売るように差し向けた』
は眼を細める。しかしサカキがそうさせた以上何か考えがあってのことなのだろう。言葉の続きを待った。
『これで、協会はお前には逆らえぬ弱みができた。これから先、お前が研究を続ける以上で立ちはだかるであろう障害を、これを利用して踏み倒して行け』
あの方らしい。ただでさえ、協会は自分たちのしてきたことをロケット団の幹部残党である自分にばらされる不安を抱えてきて、それを原因に処分したかったのだろう。処分が失敗して、自分がノコノコとカントーへ戻ればもう二度と歯向かおうなどという気は起きないに違いない。
サカキの自分に対する愛情が昔と変わらぬ深いものであることを確認して、は安堵した。
『さて、アクア団のことだが…知ってのとおり。アクア団の目的を達成させるには、ホウエンに眠る伝説の超古代ポケモン、カイオーガを復活させなければならないのだ。そしてその鍵はお前が握っている』
それを自分にしろとのことだろうか?
不審に思った。しかし、アクア団の狙い通り海が増えて台地が削られてしまえばサカキとて困るはずだ。サカキは大地のエキスパートではないか。
疑問が、浮かぶ。それでも映像のサカキは似合わぬ事を昔のままの微笑で続ける。
『お前のことだ。最近まともに食事も採っていないのだろう。アクア団でしっかりと食事をして、お前の目的である自然とポケモンを守るように。私からのメッセージは以上だ』
言葉どおり、画面は暗くなった。
は目を見開いたまま、固まった。まるでついでのように付け足された最後の言葉。違和感が、解けて形になっていく。
まさか、あの方は。
サカキは中途半端な存在が嫌いだ。憎悪すると言ってもいい。確か、この組織の対照的な位置にいる、マグマ団というところとは懇意にしていた。彼らが対立しあっていることはもちろん知っているだろう。
が、ナノマシンが死に掛けている事を。どうすればいいのか。メッセージを残した理由。声を態々聞かせたのは。にとって、自分の「声」がどんな意味を持っているのか、効果があるのかを、サカキは誰よりもよく理解していた。
「どうです?これで、我々に協力することがサカキの意思であることを理解して頂けたでしょう」
背後で見ていたアオギリが声をかけた。は震えるように肩を抱く。
「っ…!」
薬で抑え込んでいた渇きが突然襲ってくる。絶えなければ、と条件反射のようにポケットから薬を取り出そうとするが身体検査でもされたときに抜かれてしまっていたらしく薬は見当たらない。
の不審なそぶりにアオギリが距離を置いて眉を寄せる。
「どうしたのですか?」
「……からだ、が……」
はその場にしゃがみこんだ。体中から黒いものが湧き上がってくる。アオギリが団員に目配せをすると、周囲にいた団員の一人が持ち場から立ち上がってのそばに駆け寄ってきた。この部屋唯一の女性だから、その配慮だろう。柔らかいふわふわとした髪に蒼いジャケットを羽織った幹部だ。
「大丈夫? 気分が優れないようであれば…」
「…っ…」
優しく肩を掴むその手を振り払った。驚く女性から距離をとって、は何とか声を出す。
「逃げてください…。あなた、たちは…、…罠に、…」
頭が、思考がうまく働かない。自分の理性が持つのはあとどのくらいなのだろう。サカキの声を聞いたのがいけなかったようだ。
(あの方はわたしに!!)
「一体、何のことです?貴女が真珠姫なことは間違いないのでしょう?」
困惑した表情で女性が問いかける。アオギリも女性の隣に駆け寄って、を見詰めた。
(逃げて、くれない。当然だ。理由を言えないのだから!)
彼らは自分がヒトではないことを知っているのに、「何」なのか知らないのだ。だから、こうして自分に対してヒトのように対応することができるのだろう。
(サカキさまが、昔のとおり自分を愛してくれているのなら。目的など明らかだ。どうして、一瞬で気付かなかったのだろう。いや、もし気付けたとしても、きっと自分は拒めなかっただろうけれど。それでも、これではあまりにも!)
「わたしは…ヒトを食べなければ生きられません。だから、サカキさまは…ホウエンの『悪』であるあなた方をわたしのエサに選んだんです」
このアジトにどのくらいのヒトがいるのかわからないけれど、この場のヒトを殺して、食べて、逃げ延びられないことは絶対にない。そして、回復した体力で削られていた命を延ばせというのだろう。最低でも一ヶ月に一度は食べなければならないのに、自分はもう薬で何とか抑えながら二年も食事をしていない。
「まさか…そんなわけが」
アオギリが信じない、というように首を振って笑った。
「食人鬼ってことかぁ?まさか、冗談にもほどがあるぜ。お嬢ちゃん。なら、血も飲めるのか?」
一人の団員が立ち上がってに近づいた。シズクと同じ幹部のウシオという団員。面白そうに笑いながら護身用のサバイバルナイフを腰から引いて自分の手を少しだけ切る。が目を見開いた。
「協力したくないって理由にしちゃ、ちょっとファンタジーすぎやしねぇか?」
血が滴ってきた腕をの目の前に差し出す。嘘をとがめるような口調に、の唇が動く。
「あ? 何だって……」
その言葉が上手く聞き取れずに聞き返すウシオの腕を引いて、は噛み付いた。
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撃たれた肩を庇いながら、は見知らぬアジトの中を必死に逃げ走った。口に含んだ肉はとっくに吐き出している。誰が食うものか。あれはあの男が挑発してきた罰でしかない。しかしおかげで少しは気分も落ち着いてきた。皮肉だが、無理に押さえ込むよりは一時的にでも衝動を開放してしまったほうが、何も食べないのだとしても収まりが早い。
時々遭遇する団員を長く針のように伸ばした爪で切り裂いて、逃亡を続ける。出口は解らないけれど洞窟にある以上いつかは出られるだろう。
あてもなく走り続けて、やがて展望台に出る。外は大嵐が吹き荒れていた。はバルコニーから海を眺める。波が激しく揺れている。幸いにも岩場は少なそうだ。ためらわずに飛び降りる。
「……っ」
塩水の感覚が羊水にいた頃を思い出させる。
ロケット団遺伝子操作研究所の職員たちにより、塵あくたから命を貰ってから最初の数年はガラスの中で育った。
毎日失敗作とされた周りの同族達が液体になっていくのを感じながら、ただ自分の番を待っていた。生まれたくなどなかったのだ。こんな、自分を作り出したヒトと同じように生きるくらいなら、このまま解けてしまいたかった。
(それでも目覚めてから、サカキ様と出会い、その望みはなくなった。サカキ様はわたしの全てになったのだ。サカキ様が喜んでくれるならどんなことでもできた。愛していると囁かれるたびに、生きたいと願った。サカキ様はご自分の血を与えてくださった)
あぁ、息が苦しい。
弱ったこの身体は激流の中は泳げなかった。こんななりふりかまわない手段をとるなんて。死ぬ気だろうか。意識が遠のいていった。
何か大きなものが、自分を抱えてくれるような感覚に、知らず涙を流した。海水に混じって、塩分を含んだ水が己の目から流れ出ていく。
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そして、気付いたときには漁師風の初老の男性と、見慣れぬポケモンが自分を見下ろしていて、は自分がアクア団の基地から逃れられたことを知った、ということである。
地震も収まったようだ。余震の気配もない。
舟から海を覗き込み、は己の行く末を考える。
自分をここに連れてきたのはサカキの意思。けれど、サカキがただ食事のためだけに自分をホウエンまで行かせたわけはない。
まだ何か、自分には気付けぬ何かが、あるのだろう。
あの方は、残忍で残酷だ。己がヒトを口にすることを嫌っていたのに、あの方はその様を楽しんでいた覚えがある。
ヒトを食べることができず、あの方の与えてくれる血に縋るしかない自分を、あの方は愛しそうに見ていたのだ。その度に、己が酷く浅ましく矮小な生物であると自覚させられる苦痛を、果たしてあの方はわかっていたのだろうか。
『俺にとってはお前の正体など興味はない。ただ、お前がこの俺と共に歩むべき同志であるということだけが重要なだけだ』
ワタルは、そう言ってくれた。
しかし、己はその差し出された手を取ることはできず、ただ、彼が世界を壊そうとするのを阻止することしかできなかった。
思えば、彼もヒトであってヒトではない存在だったから、そう言えたのかもしれない。彼は、あの方と同じ匂いがしたから、好きだった。彼もまた、ヒトや世界を愛しているのに、あの方と同じように絶望してしまったのだろう。
いっそ、この世界を憎めればいいのに。沈みながら、はありえないことを願う。嫌えれば、憎む事さえできれば、絶望もできるのに。どうしても、には出来ない。目を閉じれば浮かぶ、イエローやレッドたちの笑顔。彼らがいるから、嫌えない。汚いだけではない世界だと、知っている。自分が楽になるためだけに、あんなに素晴らしい彼らのいる世界を憎むなど、そんなことはできない。
だからこそに、辛いばかりだ。
(なんて、酷い)
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