それにしても、とは森を眺めた。こんなに自然が豊かな場所が残っているなんて。ホウエン地方はライトの管轄だったから、はこれまでホウエンに来たことがなかった。

(アクア団さえいなければ、こちらに移り住んで自然研究に勤しみたいところですねぇ)

それに、昼間の地殻変動や、ハギ老人の言葉によれば最近この地方では異常な天変地異が起きているらしい。はメシアシンドロームなどはないけれど、自然研究者として、出来る事があるはずだ。折角この地方に来たのだから、何か、ポケモンにためになることしなければならなかった。

善意などではけしてない。大義名分を掲げなければ自分はこの世界では生きていけない。うらみを買い、憎しみを増やす事しかできなかった私が、この後どうやって、ヒトの世界に存在できるのだろうか。

(わたしには、わたしのやるべきことがある)



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そのニンゲンは真夜中の草むらを一人で歩いていた。小さな子供にしか見えないのに、暗闇の中を歩いている恐怖心は全く観られなくて、彼はそっと彼女の様子を伺った。




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声が聞こえた気がして、は一瞬立ち止まる。振り返ってみるが、そこには誰もいない。目前にも、もちろん左右にも。はて、と首を傾げかけ、目を細める。誰もいなかったはずの森に、気配が現れたのだ。

感じられたのは、敵意だ。悲しい敵意である、とそうも思った。

「あなたは?」

森の中に立ってこちらを威嚇している黒い犬がいた。のいた地方では見られない種であるが黒と灰色の毛並み。これが昼間ハギ老人の言っていたグラエナだろうか。カントーではあまり見られぬ「あく」タイプのポケモン。が言葉をかければグラエナが吼える。毛を逆立てて必死にこちらを威嚇している。

本当なら、通り過ぎてしまったほうがいいのだろう。人間というものを歓迎していない様子だった。しかし、そう思うのに、どうも放っておくという選択肢にカーソルが合わぬもの。

はこれが人のおせっかいというのかとじんわり感じながら、ゆっくりとその犬に近づいて、膝を折る。

「こんばんは、わたしはといいます」

静かな声でなるべく怖がらせないよう意識する。微笑みを浮かべれば、ッシュ、とその頬に、犬の爪が走る。

すばやい動きだったが、には対応できなかったわけではない。だが避けることが一層この小さな生き物を怯えさせるのではないかと思って、は避けずにいた。頬の痛みはずきずきと、たらたら血が頬を流れるのを感じた。

は手を伸ばして、グラエナに語りかける。

「怪我を、していいらっしゃいます。治させてはいただけませんか」

見ればグラエナの後ろ足、小さな小さな後ろ足に傷があった。何ぞ切ったか、あるいは心無い人に傷つけられたか。この子のこの怯えようを見ていれば後者もあるかもしれないと、は心苦しくなり、それならなお更放っては置けぬ。 

犬が低く唸る。黒い足から血は流れているのに、すでにその灰色の毛は赤黒く変色してしまっているのに。それでも、唸るのだ。

は眉を寄せて、一歩近づいた。恐れるように吼えるグラエナ。

「怪我をしています」

もう一度繰り返す。はポケモン専門の医者というわけではなかったが、その状態が放っておいて自然になおる類のものではないことは十分わかった。そして、よく近づいて見てみればその傷が人為的なものであることもわかる。

はまた一歩近づいた。

「…ぅっ…」

力強い前足で今度は頭を殴られる。一瞬怯みかけ、はグラエナを見つめた。

「いけません、あなた、安静にしていなければ」

素早く動いてグラエナを抱きしめる。暴れたけれど、それでもは離さない。何度も何度も、グラエナが鋭い爪を立てる。鋭い牙がの柔肌に突き立てられて、破れる。赤い血が流れても、それでもは腕を放さず、ぎゅっと力を込める。

何も語らぬ、そしてただ、じっとおとなしくなるのを待った。電撃を使えば、意識を飛ばすことくらいできるが、は待った。グラエナは突然の、得体の知れぬ状況に混乱し暴れ続けている。

(離せ、離せ、離せ!人間なんか、人間なんか。触るな、触るな、触るな!)

己にはワタルやイエローのようにトキワの森の恩恵はない。だが触れればその必死な様子、何を叫びたいのかが感じ取れた。必死、必死な、必死な抵抗。

はっとが周囲を見渡せば、緑の頭に白い体の小さなポケモンが、頭の赤い角のようなものを光らせてこちらに小さな手を向けていた。

(これは、あのポケモンの能力…?)

小さな小さなポケモンの白い手から暖かい光があふれ出てとグラエナを包み込む。互いの心がシンクロしているような、そんな感覚。

(人間なんか!人間なんか大嫌いだ!!!)

叫ぶ、泣き叫ぶその声が心に響き、ぎゅっとは目を閉じる。あの白いポケモンが何者なのか疑問はあるが、あのポケモンのおかげでこのグラエナの深い悲しみを感じる事が出来た。謎解きもあとで構わない、と、は胸の内で感謝の言葉を投げ、グラエナを抱きしめ続ける。

腕の感覚はない。どのくらいの時間がたっているのかももうわからない。だが放せばこの子はもう二度と人間に触れさせはしないだろうとわかった。だからこちらも必死だ。

「いけません、あなた、人間を憎む、のはわかります。嫌うのもいいでしょう。ですが、だからといって、人間を嫌いだからといって、それで、あなたが死ぬようなことはないんです」

あなたは怪我をしている。暴れてはだめだと押さえ込んだ。そして嫌いな人間に付けられた傷のために死ぬのもだめだ、とこちらの言葉が通じる道理もないが、あのポケモンのおかげでこちらの心も伝わるはず。必死に、必死には言い聞かせた。

グラエナが牙を?き、カッ、と懇親の力を振り絞った一撃がの首を切る。どくどくと流れていく血が、いつのまにか降っていた雨と混ざった。鋭すぎる爪の一撃。ぱっくりと斬れるが、幸い頸動脈は無事である。はナノマシンに止血だけ命じ、あふれ出た己の血で濡れるグラエナの顔を拭った。

「あなたに何があったのか、わたしは直接には知らないのです、ですが、ですが、どうか」

抱きしめて、は呟いた。

ぼろぼろになって、お互い姿もおぼつかない雨が降っていた。音は激しく周囲を遮断して、雲は月を覆い隠してしまっている。

小さな体で、小さな命を抱きしめる。

その、瞬間。見えた。一瞬。このグラエナの進化前の姿だろうか。今より小さな体の、黒と灰色の毛の犬型のポケモン。小さな少年と一緒に走り回り、甘え、ポケモンバトルをし、その少年の背を追いかけ慕う、慕う、その光景がの脳裏に映った。

(ハギ老人の言うとおり、この子、捨てられたのだ。信じていた、愛していたにんげんに、置いていかれ、打ちのめされたのだ)

 後ろ足を縄に繋がれて、置いていかれた。何度も何度も鳴いて、呼んだ。鳴き声が泣き声に変わった。縄を食いちぎって、走り出した。自分が捨てられたのだと気付いた。気付いて、憎んで、憎んで、それでも、愛しているという悲しい叫びが。確かに聞こえた。愛しいからこそ、その絶望が大きかった。

 その、心が伝わってきた。

は、目を伏せ、もう一度ぎゅっと、グラエナを抱きしめた。




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