君は美しい
そこにコツン、と足音ひとつ。
「ストーカーで訴えて勝つぞ」
親しげに名を呼ぶ男に、ヒカリ、素直に眉を寄せた。それで、ここで叫べばどっちが不利なのかとそういうことを考える。トバリ、トバリ、トバリデバートのあるトバリシティは、この男の街である。ポケモンジムのジムリーダーよりも強い権勢をふるっているのだと以前、忌々しそうに語られた。ぎりっと悔しそうに爪を噛んだその美麗な金髪の女性の姿、ヒカリはよく覚えている。それで、女性が爪を長く伸ばすのはそういった感情の起こった時に悔しさをやり過ごすために使うのだと思ったものだ。
ヒカリは当然のように自分の隣に座ってきたアカギを睨み飛ばし、ベンチを少しずれる。アカギの所為で自分が退くのは忌々しい。(ぎりっと爪を噛んで見ようにもヒカリは毎日爪の長さを整えているから短く噛めない)それで「口上って何だ」と興味もないのに間のために聞いてみた。
「おじさんと楽しいところに行かないかね、お嬢さん」
もし思っていないのなら正真正銘、本物の変質者であると恐れすら込めて(ややドン引きしながら)呟けば、アカギが声を上げて笑った。この男は笑うとえくぼができる。骸骨のようにいつもやせ細って、顔 色の悪い男、笑っても明るさというよりは不気味さの方が際立った。
ヒカリは、最近自分のまわりの「大人」たちが、こぞってヒカリからアカギを除外しようとしている動きに気づいている。なるべくヒカリが気づかぬようにと影でこそこそやられていることがヒカリには気に入らない。堂々と面と向かって「アカギはヤッヴァイ」と忠告してくれたのは、コウキだけだ。
どう考えてもアカギはまともな生き物ではないのだから、それとなくおのれに忠告してくれれば、自分とて気をつけて周囲が無駄な気を使わずに済むくらいの配慮はするものの、周囲の連中何を恐れているのか、ヒカリがアカギを「厄介な男」と認識することさえ、避けようとしている様子。
ただの子供であっても、自分を中心に何事かされているようならいつか気付くもの。それがヒカリ、自分自身であれば気づくのにものの数日もかからぬ。
それでヒカリ、コウキが望むならと一時はアカギから逃亡を図って始終、しかし最近は、別段、こうして隣り合っての雑談、程度ならばどうということもないとそういうスタンスになっていた。
「ヒカリは私が恐ろしくはないのかね」
そんなヒカリの心境変化、悟ったわけではないのだろうけれど、ふとぽつり、と、問うてくる。ヒカリはきぐるみをきて風船を配っていた店員が、次はシャボン玉を始めたのでそれを目で追った。
問われた言葉を考える。すぐに答えは出るものだ。
「別に」
怖いもの、が最近ヒカリにはなかった。少し前は、これでもいろんなことが怖かった。怖いものがある自分が恐ろしくもあった。けれどヒカリは、去年の暮にシンオウのチャンピョンとなった日、その夜にポケモンに風船を括り付けずに行った「そらをとぶ」で戻った自宅の鏡の前に立った時、もう自分は何も恐ろしいものがないのだと、そう気づいた。
ヒカリの部屋とコウキの部屋の間には大きな鏡があった。一般的な姿見、より横幅が随分と大きく、扉が二枚分くらいの大きさはある。ヒカリとコウキが生まれた日に二人の祖母が譲ってくれたというらしいが、ヒカリが小さいころにその祖母は亡くなっていて、だから形見らしいのだが、ヒカリは顔も覚えていないその女性にどう感慨を覚えていればいいのかわからず、鏡はただの鏡であった。
「アカギは私が恐ろしいのか」
ふん、と、ヒカリは鼻を鳴らした。それで自分よりももっともっと年上の男を横目で眺める。
「お前だって、結局は何も怖がっていないじゃないか」
以前冬の寒い日に拉致られた時に、この男はこの世のありとあらゆるものが恐ろしいと、真剣に声音を低くさせて呟いていた。その時の、己の瞼の震え、アカギの影の揺らぎ具合まではっきりとヒカリは覚えている。けれど、しかし、今こうして春のデパートの下で思い返せば、結局のところ本当の意味でアカギが、そしてあのころの己が恐れていたものなど、ないのではないかと、そう気づける。
くつくつっと喉の奥で引っ掻いたような声でアカギが笑った。こういう笑い方をするときはえくぼはできない。それで、アカギは立ちあがって、ベンチの隣にある自販機にちゃりん、ちゃりん、とコインを投下。それで出てきた缶、二つのうちの一つをヒカリに差しだす。
「ではあの時に、私たちの恐れていたものは何だったのだろう。ヒカリ、知っているかい」
ミックスオレを差し出され、ヒカリは素直にプルタブを持ち上げた。目の前で購入されたからと言って何も混入されていないという保証はない。が、実際何か毒物が仕込まれていたところでヒカリは別にどうだというのか。
ごくごくと喉を鳴らして飲む。最近人とあまり話をしていなかったから、喉が乾いた。少し前はなんだかんだと一緒に、「誰か」がいたのだけれど、最近は一人きりだった。
「私が知るか。自分で考えろよ。お前、頭良いんだろ」
この前テレビ出てた、と付け足す。何やら小難しい番組のコメンテーターだか解説役だか知らないが、確かに出ていたのをヒカリは見て、指差して笑った。
アカギは肩を竦めて、自分も缶に口をつける。大人ならてっきりコーヒーか何かかと思いきや、この男は当たり前のように、サイコソーダの類を飲む。上下するのどぼとけをヒカリは眺めて、自分の喉を押さえた。
「ヒカリ、私と世界を作ってくれ」
初めて命令ではなくて、懇願されている口調だった。ヒカリはその変化に少しだけ驚いて、ベンチにできた自分たちの影を見る。別に二人の濃さは同じくらいだ。それでも、大人の成人男性の大きさのアカギと、冬を越え春を迎えて年をひとつ上がった、とはいえそれでもまだ少女の、ヒカリの小さな影。
「……やっぱりお前、そのセリフは堂々と警察に突き出せると思うぞ」
ぽつりと呟いて言えば、アカギが「そうだな」と少しだけ笑った。
「気持ちが悪いと思わないか」
良い年したおっさんが年甲斐もなく少女をおっかけていること、に対しての言葉ではないだろう。ヒカリは一瞬「そうなら自覚のあるロリコンなのに」と残念に思いつつ、アカギの言う「気持ちの悪いもの」を考えてみる。
「……」
何に対しての問いかはすぐにわかった。が、答えはすぐには言えなかった。答える言葉は決まっているのに、ヒカリは答えられなかった。それを見て、アカギがぽん、と、ヒカリの頭に手を置く。気安く触るなこのロリコン、と罵ろうとした喉が張り付いて、声が出なかった。
「私は、心の底からこの世界を憎んでなどいなかったさ」
アカギの小さな声。どうして過去形で語るのか、それはまだヒカリの知るところではないのだけれど、それでも、その言葉はアカギが言ったのか、それとも自分の胸中、呟かれた音なのか、すぐには判じかねた。
ヒカリは、チャンピョンになった。シンオウのポケモントレーナーの頂点になった。その日にいろんなことがあったけれど、いろいろと、ヒカリをヒカリ、ではなくて、もう一人の、また別の、これまでの少女ではいられなくなるようなことがあったけれど、それでも、その日の晩に鏡の前に身を映したときに、映っていたのは、髪の長さも爪の長さも肌の白さも、家を出る前と何一つ変わらぬヒカリであった。だからヒカリは、信じていた己を確信し、そしてそのまま鏡に触れればそののまま、すり抜けてしまえる己のままでいることを、自覚したのだ。
どこまでもどこまでも、御誂えむきに伸びていく「進路」とか「時間」とか「将来」とか、そういったものを、ヒカリは目の前に提示された。選べ、選んでくれ、さぁ選択を、と迫られた。それでも、鏡の前に移ったのは、昔となに一つ変わらぬ己。そのことが、ヒカリを留めた。
ヒカリはそっと、自分とアカギの間に空いたスペースに置かれた、アカギの手に自分の手を重ねる。アカギはハッと驚いたように眼を開いてヒカリを見下ろした。
「ヒカリ?」
デパートの屋上から人がきえた。飛んでいたシャボン玉は、ぽつり、と落ちてきた雨で割れた。ぽつりぽつり、と、雨が降ってくる。ヒカリの膝の上にも何粒か落ちてきて、アカギのスーツも、雨粒で濃い色になった部分がいくつかできた。
「どうせ死ぬのに、どうせおとなになって老人になって死ぬのに。それが決まっているのに生きているのは、気持ちが悪いと思う」
幼いころに抱えた思いも、悩んだことも、きちんと消化して(あるいは蓋をして)前に、前に、前にだけしか進むことのできぬ生き物、でしかない。どうしたって、変化するしかなくて、いつまでもいつまでも同じ姿ではとどまれぬ。しかし、その変化とて決まり切っているもの、だとしたら、それは、結局のところは同じ姿でいる、とそういうことではないのだろうか。それでも人はそれを「変化」だとそう言って、それを「成長」だとまた、別使する。そのことが、ヒカリには気持ちが悪かった。
だから、世界が嫌いだった。
何もかもが「変わって」いくのに、それでも結局は、何も変わらずにいられているのに、しかし誰もが「変わってしまったんだよ」と眉ねを寄せて言う。そういう世界が、ヒカリには気色が悪くて、そんなものは、なくなってしまえばいいとそぅ思って来た。
「……」 ヒカリはもう何も恐れるものがない。何も、怖がるものがなくなった。シンオウのチャンピョンになったからだ。いや、チャンピョン、強者になったことがそれの由来、ではない。去年、ヒカリは自分が「変わらぬ」その証明としてのためだけに、シンオウを旅した。コウキが「ヒカリだっていつか変わってしまう。女の子だから」とそういった時に、決意した。では、世の人が、世の少年少女らが自らの「成長」「変化」を促すために行う、ポケモンリーグへの挑戦を行い、そしてその頂点に立ち、結局自分は何一つ変わっていないのだと、そうコウキに突き付ける、ただそのためだけに、モンスターボール5個を腰につけてヒカリ、ただ、そんなことの、そんな些細な、周囲にはただの「維持(意地)だろう」とせせら笑われるだけのことをした。
「私のそばにはゲンがいた。だから、私は何者にもならなかった」
ぽつり、思い出して、呟く。あの幽霊もどき。冬の寒い日まではいたのに、春の花が散るころにはヒカリのそばにいなかった。消えたのかどうか、それは、そんなことはヒカリにはどうでもいい。
「君は彼に恋をしなかったのかね」
ヒカリも、ゲンも、と二重の意味を込めて言う。ザァザァと雨が降ってきた。
ゲン、ゲン、ゲン、幻。
あの男を思い出す。いつも、いつもヒカリのそばにいた。光のそばにいるのが好きなのだ、と言っていた。それなのに暗闇、よく似合うことろがあった。ヒカリは、ゲンが傍にいたから、結局自分は「女の子」にはならなかったのだと、そう思う。
「ゲンは王子さまじゃない。ゲンは、王子さまになれなかったカエルだ。だから、王子さまになれないカエルしか傍にいなかった、私はお姫さまにはならない」
コウキが言った。自分とヒカリは違うから。自分は男で、ヒカリは女だから、だから、違う生き物になるのだと、そう言った。女の子はいずれみな、王子さまに守られるお姫さまになる。お姫さまは、魔女や竜に狙われるから、王子さまに守ってもらう。そういう決まりになっている。
だけれど、ヒカリがお姫さまになれたかもしれないその時に、ヒカリの一番近くにいたのはゲンだった。ゲンはヒカリに恋をさせてくれるようなまともな生き物ではなかった。いや、彼は化け物ですらあった。だから、化け物ができることは自分と同じような化け物を作り出すことしかない。だってしょうがない、化け物だから。
「ハクタイのジムリーダーにさえ、白馬の王子はいたな。ヒカリは、それでいいのか?」
問われてドンドン、ヒカリたちの遠くで雷が鳴った。水浸しの屋上。排水設備は完璧だ。ザァザァと壁に設置されたパイプから濁流のように水が流れて落ちていく。その音、さめざめとして聞きながら、ヒカリはうろんな目をアカギに向けた。
「アカギが私の王子さまにでもなってくれるのか」
王子さまにはなれないよ、と少しも残念そうには見えぬ顔で、声ばかりは残念そうに言う。ヒカリはふんと鼻を鳴らした。
「私は、コウキさえいればいい」
短く行って、ヒカリは立ちあがる。もうびっしょりと互いに雨に打たれたもの。帽子はぼたぼたと重くなり、ヒカリの首のスカーフはとっくりずり落ちている。アカギの前に立って見下ろすと、同じようにびっしょり雨に打たれた、スーツ姿の男。ゆっくりとヒカリに手を伸ばしてきた。
「私と来てくれ。ヒカリ」
ぴしゃり、と鳴る雷鳴。子供頃はこの音が心底恐ろしくて泣き、窓が光ほどに叫んで、必死にコウキにしがみついていた。だというに、デパートの避雷針に落ちた雷、本当に間近だったのに、ヒカリの顔にはいささかの変化もなかった。
ヒカリはじっとアカギの手の平を眺めて、それから自分の右手を持ち上げ、じっと、見つめる。何かを言おうと一度口を開いたが、結局は閉じて、そのままヒカリ、無言で首を振った。
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