ぼんやりと前を見ていたら、いつのまにか青い帽子のひとが経ってどれほどかしらぬが立っていて、ナタネは目をぱちり、と瞬かせた。
夏の終わり、残暑、あぁそうだはがきを出さなければと思い、叔母の店先のベンチに座ってあれこれと、書き物。いつのまにかぼうっと、していたらしい。
みんみんと蝉の声。今宵が最後だとばかり、子孫繁栄、逢瀬の相手を捜し鳴く。そうだ、たしか、地面に落ちた蝉を見て、コンクリートの上では土にも帰れずあわれだとか、そういうことを考えていた。
「こんにちは、ナタネ」
ナタネに気づかれたことに、気づいてか、青年、かぶった帽子を脱いで、丁寧に一礼。腰を折る姿は夜会の殿方のようだと、かつて、家に集う姉の友人たちの姿を思い出しかけ、ナタネははっとした。
「・・・こん、にちは。ゲンさん」
答えた声の掠れ、乾いたのは喉だけではない。そっと、忍び寄る確かななにかの見えぬ足音(この言葉おかしいが、しかし、形にするとそのようなものがふさわしかろう)にナタネは怯えた。
何事か、これまで重くふたをして閉じこめた、その塞いだ鍵は心の片隅に遠投して二度と戻らぬようにと、そのようにしていたものが、ずるずると、あふれてくる。
うっそうと生い茂った森の中。暗闇は怖くなかった。そこには夜の美しさがあり、楽しいポケモンたちがいた。あぶないから、と両親は外に出してくれなかったが、窓の外から眺める、夜の世界が・・あぁ、ナタネは好きだったのだ。
思い出す。洋館の、最後の、
「よくないね」
「え?」
最後のせきが破られそうだった、しかし、ゲンの声に、再びナタネははっと、我に返った。顔を上げたまま、夢を見ていたよう。ぼんやりと、ぼんぼり、ナタネの頬にゲンが手を伸ばした。
「彼岸に帰るのは、ナタネじゃないから、そういうのはよくないよ」
ぴりりと、ゲンの触れたナタネのまつげが震える。そういえば、ゲンがナタネに触れたのは初めてだったかもしれない。目を閉じようとして、なんだかまぶたにヒョウタが浮かんできそうだったから、ナタネはぱっちりと、意識して目を開いた。
「どうかしたんですか」
今度の声ははっきりとしていて、ナタネは内心ほっとした。怯えは、ない。ゲンがかすかに触れた箇所から吸い込まれたよう。ゆがみを、吸い取る。あれ、どこかにそんな猫がいなかったかと、思いかけて忘れた。
ナタネが聞くと、ゲンは帽子を被りなおして小さく笑う。
この人のことを思い出すときに、ナタネはいつも笑顔を浮かべる。しかし、こうして見るとその笑顔、記憶にあるより、ずいぶんと、か細いものだと、久しぶりに見て気づいた。
「ナタネにはお世話になったから。お礼を言いに来たんだ」
「たいしたこと、してあげられませんでしたよ」
「バラを、一緒に選んでくれただろう?私はとてもうれしかった。とても、大切だったから」
卯月の頃の、小さなイベントごとを今の時期にまで大事にしていてくれた。別にナタネがバラを貰ったわけでもなんでもないが、なんだか、嬉しかった。ナタネが表情を柔らかくすると、ゲンもまた笑う。
どうして、昔のことなんて思い出してしまったのだろう。
「ねぇ、ナタネ」
ふと、沈みかけた思考を再びゲンがすくう。
救うのか、掬うのか、巣喰うのか、一瞬ナタネは迷った。前者二つで悩むなら雅なことだ。しかし、なぜか浮かんだ三つ目。なぜ。
「ゲンさんは、幽霊なんですか」
「っはは」
まっすぐにゲンの目を見て言うた言葉を、即座にゲンは笑って、目を細めた。優しい、目。少しだけ青くて、藍色というよりは紺だ。ずっとゲンさんの目は黒だと思っていたナタネは少し驚いて、そういえば、ゲンさんの髪は、太陽の光の下では少しだけ、青い。
ナタネは自分がとっさに言った言葉を、すんなり飲み込んだ。当てはまらぬ様々なものが、これでようやく人心地ついたように、腰を下ろす。
ゲンは掠れて笑い、ナタネの頭をぽん、と、なでる。
ディジャ・ヴ。最初に、未だ叔母の家になれず花屋の前で座っていた自分の前に現れた時のよう。そういえば、あの時からゲンは何一つ変わっていない。男の子を泣かしてしまったのだと、申し訳なさそうに言って、ナタネの隣に腰掛けて、ナタネが何か口を開いてしまうまで、ずっと、そばにいてくれた。しかしそれがどれほどの時間だったのか、あの時夕日だったか、朝日だったか、それとも星が出ていたのか、ナタネは覚えていないのだ。
「また、男の子を泣かしてしまうね」
八月の暮れ、いろいろなものが帰っていく。
◆
ぐつぐつと熱湯でゆでたそうめんは、じゃーじゃー流れる冷水でひんやり冷えて少しだけ固くなる。熱いままでいれば正体の定まらぬぶよぶよとしたものが、そうなっていくのをナタネは指先で感じて、さめざめとした思いを抱きながら、ざっと、水を切る。
「ナタネは料理が上手いね」
つるっと、器用に箸を使い(ゲンの使う箸は長い。自前だそうだ。いつも、持っている。エコだなんだというよりは、神経質なのかもしれないぜと、金色のたんぽぽ頭がいつだか言って、ヒョウタに蹴りを入れられていたっけか)そうめんをお椀にひとつぽん、と入れる。
「ゆでただけですよ。誰にだって出来ます」
「そうかな。私はこういうふうには盛らない」
白い皿の上にある素麺は、綺麗に一つ一つ、二・三口に丁度良いだろうという分量の山がくるりと丸まって乗せられている。その上にサクランボやらみかんやらもあって、笹もある。小皿にはただきっただけではなく、それなりに味付けをされた薬味がちょこん、と、かわいらしくある。だから、ゲンは芸が細かいと関心した。
しかし、ナタネに至っては普通のことなのだから、彼女はきっと料理が上手いのだろうと思った。
「それに、素麺って、ひとによっては気持ち悪がるんだよ。他人の手で直接触れてるからね。それに、水が綺麗だって保証もない」
言ってつるりと素麺をすする。何の警戒心もない動作。それは、自分のことを信頼してくれているのだろうかと仄かな想いが浮かんできて、ナタネは顔を伏せる。
しかし、ふと口から出た言葉。
「ヒョウタくんが気にしたんですか?」
言って、ナタネは後悔する。これまでナタネはゲンと会っているときにヒョウタの名を出すことがなかった。そうすることでどのような矜持を保とうとしたのか知れぬが、暗黙、話題にはしても、ナタネからのものではなく、直接的な言葉をはかずにきた。
それが、どうしてか崩れてしまい、そして、ナタネは後悔する。
「あぁ、そうだよ。昔、デンジが流し素麺をしたいと言ってね。それで、三人でやったんだ。その時に、少しあってね」
昔を語るゲンの、テーブルに移った影が少し薄くなった。電球の明かりは切れてなどいない。
「私はちょっとくらい泥が入ってる水でも平気だし、デンジも、そういうのはあまり気にしない方だからね。流し素麺の竹にちょっとくらい汚れがついてたって、気にしなかったよ」
大きな手で長い箸を器用に使い、ゲンは笑う。喋るときはもちろん食べていないが、ナタネはあらためて物を食べるゲンというのが奇妙に思えた。
「やりましょうか、流し素麺」
「うん?」
「夕飯に、いいじゃないですか。残暑をしのぐ、風物詩ですよ。きっと、楽しいと思います」
話すときは、ナタネはきちんと箸を置いて、ゆっくりと話す。ゲンの昔語りをやめさせたかったというのもあるが、ゲンの思い出に、自分がひとつ加われないのも悔しかった。夏、素麺を食べて思い出すのが、綺麗に盛りつけをして「料理が上手い」と言われた己ではなく、竹の前で泣く少年だというのは、悔しい。
いや、正確にはそうではない。その、思い出が三人であることがナタネには悔しいのだ。知らぬ、時間の物語。しかし己は確かにその時に、同じ地面続きのシンオウにいたのだ。真夏の、きっと、
「そうだね。やろうか」
そしてまた、ゲンがナタネをすくう。
けれど確実に、ナタネの頭の中に蘇っていく断片。つなげぬほど盲目に今にすがりつけぬ、無情さ。
(あぁ、夏が終わる)
◆
夕暮れ、多少の明るいうちから付ければ別の愉快さのある、花火。ばちばちと弾ける、線香に、ナタネはぼうっと、ゲンを見た。相変わらず青い帽子を被り、口元に優しい笑みを浮かべて、線香花火をぶらさげるナタネを見てくれている。ゲンは花火はやらないらしい。でもネズミ花火とか、騒がしいものを見るのは好きだと言っていた。ナタネはネズミ花火はおっかなくてできない。いつ火をつけて、いつはなせばいいのか、わからないから、しない。人が遊んでいたところを思い出そうとしても、いつも、バチバチと騒々しく地面を飛び交うものしか思い出せないのだ。
「そういえば、ネズミ花火はデンジに似てるね」
じゅっと、ナタネの手元の線香花火、玉が落下して消えた。ナタネは燃えさしをバケツの中に入れて次ぎの花火を手に取る。
そういえば、わたしはどうして一人で花火なんてしてるんだろうか。思えば今更、というよりもなかなかにどうどう、巡りなことのように思えてナタネはとりあえず、返事をした。
「似てますか?」
脳裏に浮かんだ、あの金色、たんぽぽ頭。ふわふわとしていて見ているといらだってくるのは、別に彼の所為ではないなんて、言えばどんな顔をするだろう。
「うん、少しだけ。そう思った」
ゲンさんの頭の中で、デンジは少し特別な場所にいるらしい。ゲンさんは、全員を平等には扱わない。蔑視、というマイナスなものではなくて、差別化するその根底は、それぞれ、ゲンさんの中でみんながみんな、同一化されることなく認識されているからだ。
ナタネは思う。ならばゲンさんの中で、いったい自分はどういう立ち位置にいるのだろう。きっと、ナタネが思う以上に正確に、暴かれている。
「ヒカリの方が似てると思いますけど」
共通の知人などそういないが、出せる名前の心当たりはいくつかある。あえてデンジを否定うんぬんというわけでもなく、ただ純粋にそう口にすると、ゲンが少しだけ、目元を細めた。
「ゲンさんは幽霊なんですか」
昼に問うたことを、答えのもらえずにうやむやになりかけたものを、もう一度掘り起こす。
ゆっくりと、ゲンさんが立ち上がった。影が伸びる。そういえば、蝉の声がもう聞こえない。
「素麺、おいしかったよ。みかんは、おいしいね」
帽子を被りなおして、ゲンさんが言う。帽子をなおすその仕草が、ナタネは好きだった。大きな大人の手だと思う。その手が昔、ナタネを助けてくれた。
「花火も綺麗だった。シンオウの夏は、楽しいんだね」
知らなかった、と、ゲンさんが笑う。シンオウは、確かに他の土地よりも寒くて、冬がとても有名だ。けれど、ちゃんと、夏はある。蝉だって、鳴いている。なのに、まるでゲンさんは今年初めてシンオウに夏が来た、みたいなことを言う。
「流し素麺をしましょう」
唐突に、ナタネは立ち上がって、声を上げた。飛び上がったせいで、膝の上にあった花火がばらける。ばらばら、これで足下に火がついたら、軽い惨劇だ。
「花火だって、打ち上げ花火を見に行きましょう。屋台で焼きそば食べたり、射的したり、きっと、楽しいですよ」
「そうだね。きっと、ナタネがいたら楽しい」
ムキになるナタネに、ゲンがゆっくりと落ち着かせるように相づちをうつ。
「でも、もう寒くなる。夏は終わってしまうんだ」
「秋に流し素麺しちゃいけないんですか。秋にだって、お祭りくらいありますよ」
「ナタネ」
やんわりと、ゲンが遮った。それで、もう、終わってしまったのだとナタネは理解する。しか、ない。
「…」
黙って、うつむく。その頭にぽん、と、ゲンの帽子がかぶせられた。顔を上げようと思うのに、置かれた手が意外に重くて、それを払ってしまうのが恐ろしくて、できない。
「ありがとう」
怯えるナタネに、ゲンの声。そして、そっと、抱きしめられた。男のひとにこんなこと、されるのは初めてだったけれど、でも、そういう、甘やかなものは、なぜだか感じられなくて、ナタネは唇をかみしめる。
どうして、彼が自分のところに来たのか、わかった。
「私はナタネが好きだよ。とても、すきだ」
だから、ね?と、笑い声。ふわりと、花の匂いがした。夜に咲く鬼百合の変種のにおい。どこかで嗅いでいた。あの、屋敷の子供部屋から、見えた庭。毎夜のように妖精のようなポケモンたちが楽しそうに踊っていて、そこはとても、きれいだった。
「何が見える?」
耳元でささやく、ゲンの声。ぼうっとした頭の中、まぶたの裏に描き出される、風景。
「わたしの家、家族みんなで暮らしていたの。森の中にある、大きな館」
「そう、それで、誰が、来た?」
ほろほろと、思い出される、モノクロキネマ。真夜中の洋館。優しい父母。姉たちの笑い声、暖炉の傍らで、大好きなオルドラン物語を読んでもらったあの夜。静かな音、玄関を叩く招かれざる客の、声。
「誰が、来た?」
空気の弾ける音がした。
◆
まぶたの中にちかちかとひかって瞬いている、それは眼球をうごめく虫なのだと教えてくれたのは、誰だったか。優しい声、大きな手、目深に被った帽子から、夜のような瞳うかがいみえてぼんやりと、はっと、して、ナタネは目を見開いた。
「………なにするのよ、この変態」
思い描いたものはなく、目の前に広がったのは夕日を浴びてきらきらといやみったらしく輝く金色。たんぽぽ頭と常々ナタネが思う、色。何も考えずについて出た言葉に、デンジは眉をしかめた。
「いきなりそれかよ」
理不尽だと、そう言うが、ナタネとしてはどこまでも正論のつもりである。(だって、この状況。なんだってデンジに、抱き起こされてるの)
「なんでここにいるの」
不機嫌な声で、絞り出すように言えばデンジが軽く目を細める。彼、ナタネに対して罵倒されることなどなれすぎていて、今更どうこう思うこともない。それもそれでへたれだという、それだけのこと。
「……お前のロズレイドが、」
いつのまにボールから出たのか。ナタネの傍らにはバラのポケモンが心配そうにこちらをのぞき込んでいる。久しぶりに、自分のポケモンに会ったような気がした。そんなはずはない。今朝、ポケモンフードをあげた。事務的に。そうだ、そういえば、ここ最近、ジム戦をしていない。ヒカリが、最後の挑戦者ではなかったか。
「何があったんだ?」
ちろりと、デンジがテーブルのうえを眺めながら問う。そうめんの皿。箸。二人分が変わることなくそこにある。しかし、ナタネは一度目を伏せゆっくり答える。
「何もなかったわ」
「誰がいた」
「誰も、いない」
言えば、違和感も何もない。そう、だ。ここには誰もいなかったし、何もなかった。何故だか自分は倒れていて、それで、いやなことに気が付いたらこの蒲公英がいたと、それが事実。他に、なぁんにもない。
「誰かいただろ」
しかしデンジ、ぎゅっと、珍しく強い口調で問いかける。
「誰が?誰もいないわ。いなかった。何、言ってるのあなた」
◆
寂しい音だと、いつだったかヒョウタが言っていた。その時の顔、覚えていないがきっと笑っていたのではないかとデンジは思う。記憶の中にある彼の顔、幼い頃の、あの少年、いつだって笑っていた。
今更ながらにぼんやりぼんぼりと思い出してデンジ、今度は茶も入れずに相手もせずに背を向けている
少女、いや、女の緑の背中を眺めた。自分はナタネの顔をちゃんと見たことがない。
◆
「なぁ」
一声かける。ぴくりとも動かぬ、強情な。動いたら負けだとか、そんな、ことを思っているんだろうか。調子の狂う限り。殴るなり蹴るなり罵るなりしてくれればまだデンジ(別にMの気はないのだけれど)大丈夫だったと思う。何がどう、大丈夫なのか、大丈夫でないのか分からないのだけれど、それでもきっと、今の状況は「大丈夫でない」というのは、はっきり分かる。
何か、あったのだろうとは、思うナタネの様子。自分が着たときは床に倒れていて、心配そうにちょろちょろ動き回るポケモン。その草ポケモンが自分を呼んだのだが、デンジ、一体どうしてあのポケモンは自分を呼んだのだろうかと疑問に思う。ここはナギサとは随分と離れている。(別にナギサまで直接迎えにきたわけではないにしても)
「なぁ、おい。無視すんなよ」
声をかける。何も反応がない。ただじっと、壁を見ている生き物。ぞっとしない。ぞっと、しねぇ。口で呟き、眉をしかめる。
明らかに、何かあった。この家で、この場所で、この空間で何かあった。けれどナタネは「なにも、ない」とそういう。嘘のない目で。澄んだ目だった。澄みすぎていると思うほどの、目。だからデンジは「嘘」だと知った。嘘、嘘、嘘。デンジは人の嘘はよくわかる。幼い頃は嘘なんて必要ないと思っていた。だからいろんなものを暴き立てて、いろんな、真実を突きつけてやってきた。今はそんな怖いこと、できやしない。
「……いや、それはいいとして」
一瞬何か、蓋をして溶接して深海に鎮めこんだトラウマの匣が復活しかけて、デンジ慌てて首を降る。ぼそりと独り言。それにナタネが反応すればまだトラウマ開きかけた甲斐もあるってものだが、やはりそんなご都合よくはない。
この部屋に来ただろう誰か、は、誰なのだろう。ナタネは知らぬ、と言う。それは嘘ではないだろう。本当だ。覚えていないのだと、そう知れる事実。興味のない人間、意識にも残らなかったのだろうかとそれだけで済ませることも、無理矢理だができぬことはない。だが、お茶が出されている。デンジは過去二度ほどしか出されていない。誰かが来ていて、持て成されていたという痕跡。探偵の心得も志もないデンジだが、何か、常ではないことがあったのだろうと、そう推測された。
暴く気など、本来はない。だが、ナタネは床に倒れていたのだ。心配してポケモンが自分を呼びに着たほど。何か、あったのだ。
知りたいわけではない。ナタネに知らせてやりたいわけでもない。ただ、許せぬと、自分などが許せぬと思ったところで何があるわけでもないが、そう、ただ、いやだと、漠然と思った。冷たい床に、倒れていたナタネ。息をしていないんじゃないかと、実下ろして思った感情は、何だ。
ガタン、ガタ。
突然物音。倒れる音。はっとしてデンジが顔を上げれば、先ほどまで壁を向いていた緑の背がなく、見えたのは白い壁と、倒れた椅子。視線を回せば扉の前、スタスタと歩いて、出て行くナタネの横顔。
「お、おい」
何を急に思い立ったのか。きつくあげた眦、ぎゅっと引き結んだ脣の、ひと。どたん、ばたばたと、扉を開けて、外へ飛び出して行ってしまった。
なん、だったのだろう。何か思い出したのか、先ほどのこと。まさか何かいやなことをされて、いったん記憶を抹殺したもののデンジの存在で何か気付いて思い出して、それで相手に報復でも行っているのかと、そういうことを思う。まぁ、それならそれでいいとデンジは思いかけ。ゆっくり戻した視線、の、途中。木の棚の上に、無造作に放置してあるボールホルダーに目が留まる。見開かれる、蒼い目。
「あの……ッ、馬鹿……!!!」
時刻は深夜。ナタネの家は都内、ではなく街の中でもない。どこかへ行くにもハクタイの森を通る。夜半の、森。野生のポケモンたちの、住処。暗いところは苦手だと、恐ろしいと言うのはどこの女だ。
ナタネは強い。とても強い。ポケモンの腕、それは強い。(デンジのほうが強いが)けれどそれはトレーナーとしてのこと。生き物として、あれは弱い。夜の森。野生のポケモンたちは穏やかなものもいるが、だが、夜の領分。人が侵してはならぬ最後の領域の、住人たちは、おそろしい。身一つで、なんとかなるような、ものじゃあない。それが、分からぬナタネか。ポケモンジムのジムリーダーである女。そんなこともわからぬはずがない。だが、ナタネはボールホルダーを忘れていった。それが事実。
立ち上がってデンジ、自身もはっと気付いた。あれ、そういやぁ、おれ、いつからポケモン連れてないんだったっけか。切り札のオクタン、あれ?いない。なんで。
口の減らぬ悪友が、オクタンのいないデンジはデンジにあらずとか、じゃあミミロップのないてめぇはただの○ナルドだと、そう言い返したほどの、熱意。いや、違うか。
躊躇う一瞬。脳裏に過ぎる罵声。あれが聞けぬようになるのと、己が周囲にばけものと謗られるののどちらが良いかといわれれば、当然、後者。考えるまでもない。大事、なんだ。
飛び出した。玄関。いつの間にか深夜、雨が降っている。馬鹿、馬鹿が。馬鹿女。罵って、舌打ちして、走った。大した時間差はなかったはずなのに。森をよく承知しているナタネと知らぬデンジ、他の差があった。それから、恐らく、目的地のある足と、闇雲に走るだけの足の、差。声を上げればポケモンたちに気付かれる。それもいいが、それでは、ならぬ。デンジ、歯を食いしばった。
何がおきていたのか、ぼんやりと、分かりかけていた。
「あの、やろう……!!!」
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