泥だらけに鳴った顔を満足そうに輝かせている、その少年の泥だらけの顔をハンカチで拭ってやると、その少年、心底申し訳なさそうに、その顔を、曇らせてしまった。

「どうしたんだ?ヒョウタ」

 

 

 

 


もうなにも、いりません

 



 

 

彼はある種、盲目的な妄信、妄想、或いは狂信によって、ゲンという生き物は己にとって永遠、孤立的であってそしてまた、衰退的な麗しさを持っていなければならないという緊迫感があった。いつだったかはもう定かではないが、彼・ヒョウタがある日に突然正体不明のぼんやりとした生き物である、のちに自らでゲンと名乗るようになる生き物を拾い上げ、或いは発見してからというもの、ヒョウタは、ゲンにとって己が一番親しい者、でなければならなかった。それは、別段独占欲とかそういう、愉快な感情ではなくて、先もあげたようにその、盲目的な狂信ゆえの切迫だ。

己がゲンという生き物にとって一番親しい、重要な位置を占めている存在であれるのであれば、己さえ、一番近い己さえ気をつけていれば、ゲンに対して、何かこう、彼の孤立的な感慨に踏み込んで跡を残すようなことなどまず怒らず、ゲンは永遠にまっさらな、あやふやでどころかしこと形も匂いも色もない、無機質で孤高の存在でいられるとヒョウタは安心してきたのに。


大げさな表現ではあるが、ヒョウタは、炭鉱から戻ったばかりの己の顔を、ゲンが、おそらくは善意か、反射的にか、己の真っ白いハンカチでヒョウタの顔を拭い、綺麗にしようとしてくれた行為から、いずれ来るであろう、ゲンのゲンという存在ゆえの危うさを、感じ取ってしまったらしい。


つまり、たとえどれほどにヒョウタがゲンを白いまま己の傍らに置いて(ゲンにとって自分が一番近い存在であり続ける、ということは、つまり、そういうことだ)いたとしても、ゲンはいずれ、己の意思、あるいは連鎖的な衝動によって、どれほどに、ヒョウタが心をつくしてきてもいずれ、この白いハンカチが持ち主の意思によってヒョウタの及びつかない力によって泥をすってしまったようにいつか。


「どこにもいかないでね、ゲン」

「ヒョウタ?」


ぎゅっと、ヒョウタはゲンの足に抱きついて、ぐずっと鼻を埋めた。一緒に炭鉱から帰ってきた、最近化石からよみがえったばかりのズガイドスが、ヒョウタの動揺を察したのか、同様動揺してなにやら、真っ直ぐな眼をゲンに向けている。


「ずっと、ぼくの傍にいてよ、ねぇ、ゲン」


 

 







 

 

 

洞窟の中でなにやら突然、ヒョウタが笑い声なんてあげたものだから、デンジはぎょっとしてインスタントコーヒーの袋を思いっきり破ってしまった。


「何してんの、デンジ」

「いや、お前…それ俺のセリフ」

「あー、もったいないなぁ」


ヒョウタはデンジの足元にひろがったコーヒーマメをすりつぶした粉を見て眉を顰めるが、だからといって、それをどうこうするつもりはないらしい、というよりも、デンジがそのままにしておいたらきっと「洞窟を汚すさないでね」とか、にっこり笑って何か、酷いこと(たとえばデンジのトラウマがまた再発するような言葉を吐くとか)をしてくれるのだろうと、デンジはちゃんとわかっているので、それで、即座に足で粉を集めて、きちんと拾ってゴミ袋に入れた。

ゴミ袋を持ち歩いている成人男性というのはどうなのかと、時々ジムにやってくる金髪のツンツン頭に言われたことがあるが、黄色いツンツンよりもこれを持ち歩くように言った赤いアフロのお説教が面倒なので、デンジはそのあたりを深く考えないことにしている。


「ほら、ズガイドスも食べるだろ?」


と、ヒョウタはデンジの行動を全く気にせずに今日も今日とてテトテトとヒョウタのあとをついてきている灰色と青のイメージカラー、化石から数年前にヒョウタが呼び出して以来ずっと一緒の、ズガイドスにポケモン専用の、あの、甘ったるいお菓子をあげている。


デンジは最初あけようと思っていたインスタントコーヒーの袋をゴミ袋に入れ終えて、新しいインスタントコーヒーの袋(長い名前だが、正式にはなんというのだろう、とデンジがパッケージを眺めると、祝☆花珠記念と書いてある。なんのこっちゃ)を取り出して、二人分のコーヒーを作る。


発明とか、よくわからないものを探したり、作ったりするのは好きだけれど、基本的にデンジは炭鉱とか洞窟の面白さなどちっともわからない。けれど、ヒョウタがとても楽しそうにする場所はここだから、ということで、なぜだか、よくデンジはヒョウタとこういう場所に来ることが最近は多くなった。

そのたびに、デンジは洞窟の曲がり角とか、穴からあの、紺色の帽子だか袖だかが見えやしないかと心底不安になるのだけれど、そんなこと、ズガイトスくらいしか気付いていないし、そういうものだろう。それも、杞憂。

「ヒョウタ」

「うん?あぁ、ありがとう」

「ん」


デンジは白いマグカップをヒョウタに渡して、自分もコーヒーカップに口をつける。と、ヒョウタがマグカップを両手に抱えてなにやら、その白い顔の、睫毛によって影、なんて落として黙っているのに気付いた。


「ヒョウタ」

「……」


しまった、とデンジは声をかけてから自分がヤバイことに気付く。一体何をしたのか、全く見当がつかないが、押し黙った、ヒョウタの目が、あの頃の、ジムリーダーに就任仕掛けた頃のあの、デンジに向かって「こんにちは、さようなら」と平気で笑いかけてくれやがったあの頃の、目に戻っている。


え、オレなんかしたっけ?と思うけれど、別に何も変わったことはしていない、と思う。


冷や汗を流してしょうがないデンジのすぐ傍では、ズガイドスが無心にポフィンなんぞ齧って助け舟を出してくれる様子もない。


このままのあの目が続けばまた、デンジはあの頃に戻されてしまうんじゃないかと、そういう、嫌な予感ばかりがしてそれで、どうするべきなのかちっともわからないのに、それでも、何かしないと後悔しそうな気がして、デンジは、一番言う必要のなさそうなことを言ってみることにした。


「お前、甘いのダメだっけ?」

「……デンジは時々、酷いことをするよね」


と、デンジとヒョウタの言葉が重なった。けれど、重なったというのに、デンジはヒョウタの言葉をはっきりと聞き取れている自分に感動して、それで、「え」と反射的に返したのは素早かった。


ヒョウタはズズ、とコーヒーをすすって、それで「甘いや」と、笑う。


(洞窟の中で昔ゲンに縋っていた自分を思い出しておかしくなった。それで、その次にデンジが昔、ゲンがしてくれたようにコーヒーの中に砂糖を入れた状態で渡してくれたら、なんだか、いつか、また同じことが起こるんだって、思い至って仕方なかった)


「え、俺…マジでなんかしたか?」


デンジは首をかしげながらも、ヒョウタがまた笑ったから、まぁいいかと自分を納得させて、それ以上突っ込んだらまた、何か酷いことが起こりそうだったから蓋をしてしまって、それで、コーヒーを飲んだらもう、奥にまでいかないで、そろそろ引き返そうか、というヒョウタの言葉に頷いた。


 

 

 

 


・花珠さんお誕生日おめでとうございます!!うわぁぉ、いいなぁ、四月生まれ!自分、九月という夏なのか秋なのか判断しにくい時期なので、春!春!Spring!とはっきりイメージできる四月がすきです。

お祝いと日ごろの感謝を込めて、ゲン+ヒョウ+デンジ…って、お祝いにしてはなにこの後ろ向きな小説!!!とか思いますが…受け取ってください。生ものです。

いちおう、ネタ的に花珠さんのサイトでデットヒートしたコーヒーネタを入れこんでみました。あと、ズガ、一心にポフィン食。(2007/04/18 23:32)