黄金の螺旋
空気がしん、と冷えてくる。もう直ぐに冬が来るのだろう。シンオウの、あの、全てが凍りつく冬が、来る。まどろんでしまおうと壁際に座り込んで瞼を閉じようとすると、部屋の一番暖かな場所で、机の上の鉱物を熱心に調べていたはずの男が傍らにあった本をゲンに投げつけてきた。
狙って放たれたものは角を見事にゲンに当てて、がたりと、音を立てて落下した。その音はゲンのこめかみに当たった時よりは大人しい。
痛みに顔をしかめて、だらり、と、こめかみを伝う生暖かいものを押さえる。はっとして顔を上げると、素早くゲンに近付いたダイゴが口元にいつもの「好青年」の笑みを浮かべて、ゲンの肩を押さえつけてきた。そして、その貌のまま、ゲンの腹部に膝を入れる。衝撃に、ゲンは胃から逆流する息を吐いた。「か、はっ」と、嗚咽にもならない声が漏れる。
「消えてしまえるなんて、思うなよ」
とさり、と、ゲンの体が床に崩れた。荒く息をついて見上げるダイゴの顔は、逆光でよく見えない。けれど、ダイゴの言葉遣いが、酷く乱雑なものになっている。常の彼であれば、きっともっと柔らかな物言いが出来たろうに。なぜか、高圧的に過ぎる。その差異がゲンに、ツワブキダイゴに威圧されているという自覚を薄れさせて、だからこそ、ダイゴの前から消えるだけの要素を見出せずにいた。そういうことを、意識してダイゴがしているのか、それともこちらの方がダイゴの本質なのかどうかは、分からない。
蹴られた腹を押さえてゆっくり起き上がろうとすると、ダイゴの左手がいっそ吐き気がするほどに優しくゲンの頬に触れる。整った顔に、整っていない傲慢な笑みを浮かべて、うっとりと目を細めて囁く。
「君はもう、僕の、だからね」
彼が自分に向けるこの感情は“愛”の類なのだろうか。触れた肌はどこまでも冷たく、あのシンオウの冬の凍てつく氷を思い出させる。愛、はもっと暖かなものだ。少なくとも、ゲンのおぼろげな存在の中に確かに残っている“誰か”へ向けられてきた思いは、愛と呼べるに相応しい、暖かで、それでいて、切ない慕情の含みもの。
ダイゴが己を放さぬ理由の根底はきっと、愛ではない。
そんな予感がゲンにはあって、だからまだおぼろげなゲンの存在では知れぬ感情だと、そう検討付けてしまって、それ以上は皆目見当も付かない。いや、一つ、ダイゴのことでゲンがはっきりとわかることも、ある。
「ダイゴは、」
吐息は触れ合うほどに近い、ゲンは瞼を伏せてダイゴの瞳の中の己を見ぬように閉ざして、唇を動かす。他人の中に己の存在を確認した時、そこに「自身」が芽生えることをゲンはよく知っている。ダイゴの中で己を認識すれば、これまで己が抗ってきたこと、逃げてきた全てが台無しになる。
「うん?」
「私に似ている」
左手は柔らかな手つきでゲンの顔を優しく撫で、空いた右手はゲンの細い白い首に回されて、絞めぬ程度に喉を潰してくる。
「……ッ」
「酷いことを言うんですね“ゲンさん”は、酷いな。僕はあなたほど、酷いことを他人にできやしないのに。似ているなんて、酷すぎるよ」
息はかろうじて吸える。脳に至る酸素も最低限の量はあり、それが、なお更呼吸を苦しめた。ダイゴは目を細めてゲンを見つめる。愉快そうな色が浮かんでいれば、ゲンは己を悲観したり、掌に力を込めてダイゴを振り払うことが出来たのに、その瞳の色は、鋭利さを顰めてただ、冷たいだけだ。色の意味は明白で、ただ、彼が戸惑っていることがありありと分かる。ゲンはじっと、ダイゴを見つめた。
洞窟の中で、ゲンとダイゴは出会った。お互い、何やら互いに引っかかるものがあったのか、それともただダイゴが一方的にゲンを「気に入った」のか、もはや覚えていない。とにかく、気付けばゲンはダイゴの傍らに置かれていて、ダイゴが手を伸ばせば触れられるようになっていた。
ダイゴのことを、ゲンはよく知らない。何がすきなのかも、よくわからない。石が好きなように見えるけれど、よくよく監察してみれば、本当はちっとも好きじゃないように、思えた。優しいといわれるけれど、酷く傲慢で慈悲を知らぬことをゲンにする。
そういうダイゴのあやふやさは、きっと自分とは違うものだと、いつだったかゲンはダイゴに殴られた時に悟った。
「僕と君はちっとも似てやしないよ。似て、るもんか」
ぎゅっと、両手でゲンの胸倉を掴んだダイゴがゲンの喉元に頭を押し付けながら呟く。幼い子供に、見えた。どうしようもないことを、けれど必死に、どうにかしようとしている、胎児だ。きっとそれがダイゴの本質なのだろうと、そう、思う。
ゲンはおずおずと両腕をダイゴの背に回した。びくり、と、ダイゴの体が震える。歯を食いしばる音がして、次の瞬間には、ゲンは殴られた。
(口の中に広がる鉄の味、それでも放されぬ左手が自分のシャツを掴む、わなわなと震えるダイゴの貌は前髪に隠れて、見えない)
「私は何も思い出すことはない。だから、同じだ」
脣から赤いものが垂れるのも構わず、目を細めてゲンは手足を伸ばせず蹲る胎児のようなダイゴの、髪を撫でた。
「同じなもんか、君にはちゃんとした自分がある。今は忘れてしまっているだけで!」
「ダイゴ、」
「黙れ」
殴られることも蹴られることもなく、今度はただ、視線の一瞥のみで黙らされた。苦しんでいる、のだろう。ゲンは黙って、ダイゴの眦を見る。吊りあがって、子供のように癇癪を起こしているように思えなくもないが、ダイゴはそれも、できやしないのだ。
彼には、芯となる自身がどうしたって、持てないらしい。人であれば必ず持ち合わせているはずの「己」が、ダイゴには、絶対に存在しない。
苦しんで、いる。
(ダイゴはかつて、己の育った土地で一人の少女に出会ったそうだ。その彼女から、彼は逃げてきた。そして彼は、まだ逃げ続けている)
ゲンは、どうすればいいのか、知っていた。ダイゴがこれ以上苦しまないために、ダイゴが、自分を確認できるのはどうすればいいのか、知っていた。
けれどその手段をゲンがしてやることはできない。してしまえば、ゲンは、ゲンでなくなってしまう。全てを忘れたあとに知った全てを、なくしてしまうから。だから、できない。
「“ゲンさん”」
静かに、ゆっくりと、ダイゴがゲンを呼ぶ。懐かしい響きに身震いをして、反射的にゲンが顔を上げれば、喉の奥から引っかくような音を立てて、ダイゴが笑ったのが、ゲンの耳には嫌に高音に響いた。本当は随分と低い音、おおよそ、「好青年」だなんて周囲に評価される彼には相応しくない、嫌にしたたかそうな笑い方だというのに。ぶるっと、反射的に身震いをするのと同時に、ゲンの肩は再び壁に押し付けられた。
「“ゲンさん”は、僕のものだよ」
剃刀色の鋭利さを湛える彼の瞳が細まり、暗い色の瞳孔の中の自分の顔が青白く染まっていくのを、ゲンはありありと、見てしまった。
(あぁ)
けれど、瞬時に目を伏せて、瞳の中の己を目を合わせぬことに、なんとか今は抵抗できた。がたん、と、ダイゴがつまらなさそうに舌うちをしてゲンから離れる。先ほどまでの不安定さは最早見当たらない。
「結局、僕が一番酷いんだよね」
立ち上がって、ゲンを見下ろしながら楽しそうに笑うダイゴの顔は、やはり逆光でよく見えない。
Fin
ダイゲン書こうとして、あれ?これダイゲンダイ?まぁ、いっか。
ゲンヒカにおいてはヒカリに勝てないだろうヒョウタさんですが、ダイゲンにおいてはきっとゲンさんをダイゴから取り戻せるのはきっと、ヒョウタさんしかいないんだろうとなんだか唐突に思い至りますね。
ゲンさんは無意識にダイゴのことを追い詰めて、傷つけていればいいです。だからこそ、ダイゴさんはゲンさんを殴るんでしょう。