ふっくらとした薔薇色の頬をさらに赤くして、ふんわり、効果音が聞こえてきそうなほどににっこり、にこやかに、その、自分よりいくつか年下の少年が微笑んだ。きらきら、光る黒い目はまっすぐにナタネを見ている。それが煩わしかったのと、少年が「こんにちは!」と、満面の笑みと共に差し出した手が、傷一つなく、きれいに当たり前の、子供の手をしていることに、腹が立った。ナタネはバシャリ、と、持っていた重たい、ずしり、と、体を地面に縫い付けるほどに重い水差しをヒョウタに投げつけた。


「……」


びっくりして、目を見開いた子供が、次の瞬間火がついたように泣き出して、その隣にいた金の眩しい色をした少年が「なにすんだよこのクソアマ!」と、殴りかかってきて、後ろに控えていた、背の高い、青い帽子を被った青年がやんわり、その少年の手を止めながら、器用に、ヒョウタをあやしていた。

それがいっそう気に食わなくなって、ナタネは金色の髪の少年の横っ面を張り飛ばして、青い帽子の青年に蹴りを食らわせて、最後に、わんわん泣いているヒョウタを押し倒してやった。


「あんたなんてだいきらいよ」


言って、行ってやったら、走り去って暫くして、背後からいっそう盛大な鳴き声が聞こえてきた。








せんねん





トウガンさんのところへお見舞いに行ってちょうだい、と、伯母に言われてナタネは眉を顰めた。伯母の営むフラワーショップに居候させてもらって五年ばかり経つ、自分もそろそろ大きくなったし、お店の手伝いくらいさせて欲しいと、言い出したのはナタネ本人だ。

けれど、出された名前に連想された、昔の記憶に足が重くなる。

「お見舞い?」
「えぇ、そうなの。トウガンさんのところのヒョウちゃん、具合が悪くてもう一週間も寝たきりなんですって」

伯母はトウガンの妻と月例華道会で会って、その息子の不調を聞いたのだという。体調が悪い、くらいで何を騒ぐのかと、相変わらず、甘やかされているらしい、とナタネは呆れた。自分よりも年下とはいえ、もう彼は十二、三になっているはずだ。世の中で言えばトレーナーとして旅に出るには十分な年齢。それを、彼は病気になった程度で一週間もぐずっているのか。

(気に入らない)

愛されているのだ、ということが、ヒョウタには当たり前のことで、ヒョウタが愛されているのは、当たり前だとそう、思えてしまうところが、気に入らなかった。そう思う、ナタネ自身これはかなり自分勝手な、逆恨みであるということを重々承知で、けれど自分の、境遇、生い立ち、半生を思えばそのくらいの、歪みは許されてくれるのではないかと、そう、少しだけ、少しだけ、自分にだってある種の、甘えがあったって、いい、だろうと、そう、思っての感情だった。

誰か一人にくらい、嫌われていたってあの、能天気極まりない、あの、太陽のような笑顔の子供には、関係のないことだろう。

「まぁ、ナタネちゃん。会うのは随分と久しぶりね……」
「こんにちは、おばさん」

クロガネの、ヒョウタの家で迎えてくれたその母親は、普通の女性よりも少しやつれて見えた。青白い顔に、何か疲れた様子。ナタネは伯母から渡された手土産を渡して、二、三言見舞いの言葉を、当たり障りのないように告げて、それで帰ろうと思った。社交辞令。それほど面識のない自分ならそれも失礼ではないはずだと、そう、判断される。

「ねぇ、ね、ナタネちゃん。お願いがあるの」

けれど、そろそろ頃合を見て席を立とうとしたナタネを、夫人がおそるおそる見つめてきた。嫌な予感はした。ナタネはそこで聞こえなかったふりをして踵を返すこともできた。それくらい、夫人の声は小さかったし、控えめだった。けれど、夫人は伯母の友人で、彼女の印象が悪くなったら、伯母も悲しむかもしれない。伯母に、失望されるかもしれない。そう、思ってナタネは身を震わせてしまい、逃げるのが遅れた。

「ヒョウタと少しだけお話してみてくれない?おばさんや、おとうさんの話は全然聞いてくれないけど、ナタネちゃんはおねえさんだもの、違うかもしれないわ」

ナタネとヒョウタの最初で最後の接触は悲惨だったことを、このほんわりとした女性は知らないのだろうか。

(酷いことを、言ってしまうかもしれない)

弱っている相手を前に、優しくできるほどナタネは柔らかくはない。自分だって、まだ、いろんな傷から立ち直れてなどいないのに、縫い合わせるのに必死になっているのに、他人など、構っている暇はない。
きっと、ヒョウタを見れば、甘ったれている、何か、弱音でも吐いているヒョウタを見れば、いらつくだろう。きっと、何か、酷い事を平気で言って、傷つける。

そう、予想が立つのにナタネは、それを別に遠慮しようとは思わなかった。傷つけて、やるのもいいかもしれないと、身勝手さ。

「いいですよ」

にっこりと、優しい顔をして頷けば、夫人はほっとしたように微笑んだ。


 

 


上に、いるから、と、それだけ言って夫人は部屋の前まで来ることもしなかった。ナタネはコツコツと階段を上がって、段々、暗く濁った気配のしてきた部屋を目指す。彼女は、何を恐れているのだろうか。ぼんやり思った。TVで見るような、引き篭もりを相手にする母親じゃあるまいし。あの、バカみたいに明るい、誰からも愛されている、あの、少年が、病気になったくらいで、何を、逃げているのだろう。

けれど、その事実は少なからずナタネを満足させた。母親に、何か恐れられているヒョウタ。恐れは距離を置いて、見放されることと似ている。そういうものを、あの子も味わえばいいと、思った。

どんな病気か知らないが、ざまぁみろと、そう、舌を出して、笑いたくなった。部屋に近付く。扉の前で、ズガイドスが蹲っていた。

「ごめんね。入ってもいい?」

ナタネはズガイドスの頭を撫でて、問いかける。弱々しく返事をして、ズガイドスは目を伏せた。ナタネは苛立ってくる。仮にも、仮にも、ポケモントレーナーだと、ヒョウタが名乗るのなら、自分が体調が悪いとはいえ、自分のポケモンを顧みないなど、どういうことだ。

どがっ、と、扉を開けて部屋にズガズガ入り込む。子供が癇癪を起こした後の惨劇でも広がっているのかと思えば、普通の、整理された子供部屋。窓の近くのベッドに、青いシーツに包まって、横たわっている、茶色い髪の子供が一人。

「こんにちは、ヒョウタくん」

声をかける。布団はぴくり、とも動かない。

「ナタネよ。覚えている?一度、前に会っているのだけれど」

イライラしてきた。何の反応も返さない。自分が、世界から見放された、とでも思っているのだろうか。いろんな人に、心配されているのに。あの夫人だって、ヒョウタの母親だって、扱いに困っているのは、下手なことをして傷つけたくないから、という、彼女なりの愛情の元でだ。ナタネの伯母でさえ、心配している。そんなに、そんなに、たくさんの人の生活に入り込んでいるのに、自分は世界を拒絶しているのか。

ナタネはヒョウタの布団に手をかけて、引き剥がした。そのまま、それでも無視を決め込むのなら窓から突き飛ばしてやろうかと、そういうことを考えての暴行。けれど、キレイに剥がれた布団の下の、パジャマ姿の、ヒョウタを見て目を見開いた。

「……」

ひゅっ、と、ナタネの喉が鳴った。

青白くなった肌、ガザガサに乾いて、水も、食べ物も、一切承知しない、ひどい、生き物だ。ベッドの上で、小さくなっているのは、やせ細った体に、生気の乏しい顔、病に伏したのは一週間だというのに、人はこれほどまで衰えられるのかと、唖然とする。

ぼんやりと、かつてはあれほどキラリ、キラキラしていた星屑のような黒い目が今は、虚空を彷徨う幽霊のように焦点を失っていた。

気に食わなかった、腹が立った、一度、打ちのめされてしまえばいいとそう、思っていたけれど、けれど、でも。ナタネはこれほどの“酷いこと”がヒョウタの身に起きればいい、とはさすがに、願っていなかった。

「ヒョウタくん」

声をかけた。反応はない。意気地なく、いじいじとしているのなら、ナタネは足を引っ張って窓から突き落としたし、首を絞めて引導を渡してやるくらいの、根性がある。けれど、ぼんやりと自分が伺い見たその、ヒョウタの目。

(この目、は、知ってる)

昔、鏡を見るたびによく見た、目だ。自分の、あの、目覚めた朝に誰もいなかった、あの日からの自分と、同じ目をしている。

「置いていかれて、しまったの?」

こつん、と、ナタネはベッドに腰掛けてヒョウタの額に触れた。置いて、いかれた生き物の目をしている。百人に愛されていても満たされない、たった一人の、求めた人に見放された、子供の目。

「…いて、か……い、で…」

か細い声が、乾いた唇から漏れた。ぼんやり開いた目は真っ赤で、腫れていて、ぐちゃぐちゃに、濡れた後が痕になって汚れている。

「おい!!お前!」

がつん、と、何かを背中にぶつけられた。振り返れば、息を切らして、ここまで走ってきたらしい、金色の髪の少年、見覚えがある少年、が、石でも投げたあとのような姿勢でナタネを睨んでいた。

「お前!ヒョウタに何してんだよ!!なに、やってんだよ!!」
「アナタ…ナギサの子の」

言いかけたナタネを遮って、ナタネの腕を乱暴に引っ張る。

「出てけよ!!触るな!ヒョウタに触るな!!」

ぐい、ぐい、と、強い力がナタネをヒョウタから引き剥がす。確か、ヒョウタの友達だ。ナタネはぼんやり思って、デンジが必死に抱きしめて、耳をふさいだヒョウタの目を見た。

「ひょうた、だいじょうぶだ。だいじょうぶ、なんにもないから。だいじょうぶだ。ちゃんとあいつ、かえってくるから。おれ、さがすよ。だから、だいじょうぶだ。おれが、ちゃんとまもってやるから、なぁ、だいじょうぶだから」

繰り返して、繰り返して、あやす姿は必死だ。

(昔もこうやって、いた姿を思い出す。けれど、昔はその役割は彼ではなくて、彼はただ、怒りをぶつけて、守るだけだったはずだ)

ナタネはぼんやりと、記憶を手繰る。腹が立った昔の出来事。一因の、デンジ、は、ヒョウタを守る役割で、あやすのは、確か。

「あ」

そうか、と、ナタネは思い当たった。住民達のひっそりとした話し声。母親の挙動不審さ。誰も彼もが、触れてしまえない、何か、が、この街に起きた。そういう、ことだ。

(消えて、しまったのね)

青い帽子が、消えてしまった。失踪、行方不明。この街では、この世界では、そういうものは、触れられない傷として残る。誰もが忘れてしまいたくなって、最初から、消えてしまった人など、いなかったかのように、振舞う。

だとしたら、ヒョウタが引き篭もった理由は。

気付いて、ナタネは胸の底が熱くなった。

想い、は重いだろうに、ヒョウタは、握り締め続けたのだろう。誰も、彼もが、最初から、あの青年の存在など、なかったように、消してしまおうとしたのに、ヒョウタだけは、忘れたくはなくて、忘れてしまえる日常に戻りたくなくて、それで、必死に、時間を閉ざしていたのだ。

(なんて、)

ぎゅっと、ナタネは掌を握り締めた。忘れて、しまえば楽だろうに。忘れて、しまえばいいのに。どうして、苦しいことを選ぶのだろう。会うまで、ヒョウタに対して感じていた苛立ちはもはやナタネの中にはなくて、今はただ、哀れさだけが、残った。

ナタネは瞼を擦って、デンジに向かって、言葉を吐く。

「そうやって、何も見させないの」

びくん、と、デンジの背が震えた。

「何を、」
「ヒョウタは彼に置いていかれてしまった。その事実を受け入れさせないで、ここにいつまでもとどめておいて、自分だけが、ヒョウタの「もの」になればいいとでも、思っているの」
「お前に、何が……!!」
「アナタからは、罪悪感しか伝わってこない。アナタ、何をしてしまったの?」

バジッ、と、空気がはじけた。見れば、ナタネの左袖が、焼け焦げている。目前には、噛み付きそうなほどに目を怒らせて歯を向いている、金色の髪の少年。手元にも足元にもポケモンなどいないのに、今の、電撃は一体どうしたものか。

「出てけ。出てけ、出てけ、出てけ!出ていけ!!!!」

癇癪を起こした子供のように、酷く乱雑な言葉を投げつけて、デンジが全身でナタネを拒絶する。その間も、バジバヂと、空気が弾ける。昔会った時の癇癪を受けたけれど、こういう、拒絶の仕方ではなかったはずだ。この少年も、デンジも、あの、青い帽子に出遭って、感化されてしまったのだろうか。

これ以上はさすがに危険だと判断して、ナタネは踵を返した。一応、母親に頼まれたとおりの声賭けはしたし、言葉も多少貰った。何より、ナタネ、クロガネに来るまでヒョウタに抱いていたあの、ぐるぐるとした身勝手な憎悪はもう消えうせている。自己満足、で悪いが、まぁ、それでも良いだろうと、そう思って、歩き出す。

「まって、おねえ、ちゃん……」

か細い声が、追ってきた。振り返れば、ふらふらとした足取りで、こちらに歩み寄ろうとする、ヒョウタの姿。デンジが必死に行かせまいと、腕を掴んでいるのに、ヒョウタのほうが力が強いのか、あまり意味をなしていなかった。デンジは、本当に力を入れているのだろうかと、ナタネは疑問に思う。

「こわく、なかったの?」

扉一枚の敷居を隔ててヒョウタがナタネの瞳を見つめる。今も、ぼんやりと濁った瞳、だ。けれど、その底からキラキラと、何かが沸いてきそうな気がする。

「こわかったわ。今も、ずっと、こわい」
「かえって、くる?」
「待っているのよ。ずっと」
「つらいことだよ?」
「探しにいくほど、辛くはないわ」

ぎゅっと、ヒョウタの目が痛ましそうにナタネを見た。自分を、哀れんで、気遣っている目だ。ナタネはイラついて、眦を上げた。どうして、どうして、彼は、この期に及んで、相手を思いやるのだろう。今、普通の人間がするべき反応は、同類を見つけた喜びか、同類への哀れみだ。けれど、ヒョウタの目の中にある、その全ての感情は、純粋にナタネを想ってくれている。

そんな、そこまで、やさしい生き物を平気で捨てて、こんなに傷つけた生き物がいることが、心底、イラついて、腹立たしかった。

ナタネはヒョウタに、反射的に手を伸ばしていた。ヒョウタも手を握り、そしてナタネは手を引っ張って、ヒョウタを部屋から出す。

「この子はずっと、あなたを待っていてくれたのよ。あなただって、待てる」

部屋の前にいる、小さな小さなズガイドス。ヒョウタはじぃっと、自分のポケモンを見下ろして、膝を付いた。

「うん……うん」

ごめんね、と、ぽつぽつと、ヒョウタの膝が濡れる。ズガイドスを抱きしめて、カタカタ、小さく震える背中を眺めながらナタネは、まだ部屋の中で呆然としているデンジを眺めて、溜息を吐いた。

 


 

Fin

 

ナタねえさん男前。