空寒い笑顔で(一般的にはにこやかに、とかそういうらしい)近付いてきた変質者(一般的には実業家というらしいが)に向かい、ヒカリは一言吐き捨てる。

「寄るな、このロリコン」


げしっと、踵を脱いだ足を蹴り上げ、靴を飛ばす。真っ赤な靴、物の見事に吹っ飛んで、その変質者、というか、スーツ姿の男の顎にぶつかった。ヒカリの眦がきつく釣りあがる。避けることなど容易いだろうと、それほどには男の実力、というか、底知れぬもの認めている。


「わざとか、おまえ」


低い声で唸るように言えば、「いたいなぁ」と困ったように笑っていた男が眼を細める。冬の空のような色の髪に、骸骨のように痩せこけた顔の男。最近ヒカリの前にしょっちゅう現れては妙なことを言ってくる男。名前など、ヒカリは覚える気がないが、それでも何度も何度も何度も何度も言われていれば、耳に残る。アカギという、名前と印象の一致せぬ生き物。いっそハイギと名乗ればまだ相応しかろうと思われながらヒカリ、別段進言するつもりも興味もない。きつく睨み付けたままじりっと、一歩、後ろに下がって腰のモンスターボールに手をかけた。

暴力のため、ではなくて隙を作って逃げるため、のもの。選別の速度が全てを決める。そのような緊張僅かに覚えカチャリと開閉ボタンに爪を伸ばしたが、その前に、アカギが笑う。そら寒い、笑顔。

「まぁ待ちたまえ。そんなしかめっ面をするものじゃあないよ、可愛らしいお嬢さん」

もう片方の靴も捨てて投げてやろうかとヒカリ、足を振り上げたところで視界に入る、白いもの。

(ゆき、だ)

思わず空を仰いでしまった、それが、まずかった。





 


シンオウの逝き雪

 

 





 


やけに手馴れた仕草で男がテキパキと焚き火を起こし、湯を沸かす。スーツ姿、どこぞの企業、オフィスにいそうな井出達をしているのに、アウトドアな行動、手馴れている。その様をじっと、縛り付けられた木に座ったまま眺めてヒカリ、そういえば自分はこの男のことが本心から嫌えていないのだと唐突に思い至った。

アカギ、というらしいその男。トレーナー、ではないらしい。けれどドレーナーでない、わけでもないと、どういうことか。いろんな人がこの男のことを知っている。ちらりと出会った金髪の、妙に黒いファーやら格好の女性も、この男を知っていた。熱心な実業家、というか、企業家というか、その違いはあるのか、まぁ、それはどうでもいいのだけれど。

とにかくこの男に会ったら「逃げろ」と言われていた。たいてい自分の傍にいるゲンに、ではない。あの幽霊もどきに何を言われたところで従うヒカリでもない。言ったのはコウキだ。最初にアカギと会った後、ヒカリはコウキにそのことを話した。別に言う必要のあるような「出会い」でもなかったが、その時は何故だか口をついて出た。アカギ程度のことなど、コウキとの時間にはさませる価値もないと、そう判じていたにもかかわらず、ヒカリはコウキにアカギのことを話した。妙な男に会った、と。変な、とはその時表現しなかった。テレビ電話の向こうのコウキはアカギの名を聞いても知らなかったが、様子、というか、語られた短い言葉をそのまま告げた時に、気配、顔色が変わった。それで少しだけ黙った後、「次にその人と会ったら、何があっても逃げろ」と、そう言った。ヒカリが旅に出てから、コウキがヒカリの行動に何か口を出すことはなくなった。コウキが言えばヒカリはなんでも従うと、そういう心持だというのに、コウキはヒカリに何も言わなくなった。それが怖ろしいとヒカリは気付いていたが、その恐怖が足元から肩までゆっくりと上がってくる前に、その、ヒカリの久方ぶりの「頼みごと」いや、命令、と言ったほうが正しいような、強い口調での言葉。ヒカリは不快に思うより先に、なぜでしょう、全身に駆け上がる、妙な、予感。余寒ゆえのこととは違う。夜間にひっそり息を潜めて寝台の下で眠っていたとき、薄いシーツを剥されるような、ぼんやりとした、いやな何かを覚えた。だが条件反射で「わかった」と頷いてしまったものだから、喉から出した言葉が二酸化炭素となって、鼻から吸われぐるぐる身体に行渡ったころには、ヒカリ、その妙なものを忘れてしまった。

だから何のことかはわからずに、それでもヒカリは「アカギはわるいもの」とそうい認識を持って、出会えば早々逃げ出すか、靴でも投げ付けるか、それでしまいにしていた。それでも何度も何度も、アカギはヒカリの前に現れるのだ。決まってひとりのところ。ゲンがいない時、エトワールがいない時、デンジがいないとき、など、どう考えても「誘拐」したいのかと、疑われてしようない様子のとき、時刻に、アカギはひっそりとヒカリの前に現れるの。

それが、毎度毎度何度何度のこととなって、いつのまにかヒカリはやけに冷静に、アカギという男を観察できるようになっていた。そしての結論、自分はおそらく、このアカギという男のことをそれほど嫌っているわけではないのだ。その理由、それはコウキが自分を気遣ってくれた切欠になったからとか、そういう、単純な事かといえば、そうでもない。

パチリパチリと炎が燃える。すっかり暗くなった空の下、鬱蒼とした森の中の奥から奥から、遠い獣たちの声も聞こえる。燃える炎の先はゆらゆらと揺れて、アカギの姿を陽炎の中に映した。ヒカリはうろんな眼をアカギに向けて、口を開く。

「幼女誘拐か。ホンモノだな」
「縛らなければ君は逃げるだろう。手荒なまねは本意ではないよ」

だが仕方がない、と、あっさりいう。何が仕方ないのか、寝惚けたことを言うんじゃないと蹴り飛ばしたくなるが、そうもいかぬ今の身。逃げ出すことは容易いが、ヒカリ、このままこうしていればどうなるのか、それを知ってもいた。

「紅茶かココアか、ホットミルクというのもできなくはないが。何が良いかね」
「コーラ」
「まだ歯も生え揃わん子供がそんなものを飲むものじゃない」

お前はどこぞの歯科医か何かか。コーラ、確かに歯には悪い。とっても悪い。嘘と思うのなら抜けた乳歯を一日コーラに漬けてみろと、コウキとヒカリとエトワールにやけに力説してくれた、金髪ふわふわタンポポのような頭の電撃王子が言っていた。実行したら本当に解けた。そらみろ、と満足そうに言う野郎が気に入らなかったので歯の解けたコーラを引っ掛けたのは、当然の始末だ。だがまぁ、それはどうでもいい。

アカギはヒカリの答えなど初めから必要としていなかったか、コホコポと手際よく用意したカップに湯を注いでいく。あたりに立ち込める、コーンスープの良い匂い。そういえば夕飯はまだだった。食料の調達に行っていたゲン、どこまで行ったのか。まさか消えてしまったということもないだろうが、別に、あれがいつどこで消えてなくなって雲になろうと、それはヒカリの知ったことではないのだけれど。

「やはり冬はこの味が一番恋しいものだ。君はどうだね、お嬢さん」
「嫌味かおまえ。この状況で飲めるわけないだろ」

木にふん縛られたヒカリの少し前に置かれた白いカップ。暖かく心の地、よさそうな湯気を立てている、優しいにおい。自分は黒いカップを手に持ってゆっくりとそれを飲んでいるアカギ、ヒカリが青筋を立てて申せば「あぁ、そうだね」と、今更気付いたような顔。そんな愚鈍なわけでもないくせに。

「いや、実はね。私は君と話がしたいんだよ、お嬢さん」
「そうか、わたしはしたくない。さっさと解け」
「解いたら逃げるだろう」
「その前にお前を殴るがな」

アカギが笑った。笑うとえくぼのできる男だ。骸骨のような顔。笑われたのは己だとわかり、ヒカリは顔をしかめる。

「笑うな」
「は、はは、いや、ふ、ふふ。君は、嘘をつかないのだね」
「必要ない」

きっぱり、はっきり申してヒカリ、不意にきょとん、と、顔を幼くした。何のことはない、唐突に、気付いたのだ。この男、そうか、似ているのだ。誰に、ではない。自分に、あぁ、そうか、そっくりなのだ。なぜ今のやり取りでそんなことを思い至ったのかはわからないが、気付けばそれはすんなりとヒカリの中に沈殿し、ふつふつと湧き上がるものがある。その感情にどんな名前が付けられるか、それは泥の中から蓮の種が芽吹くようなもの。埒もない、こと。

「おまえは嘘しか言わないな」

ヒカリは嘘を言わない。意味がないからだ、必要もないからだ。事実は事実で一つしかない。ヒカリははっきりと言葉を言う。それが直接的に過ぎるとよく眉を顰められるが、オブラードに包もうとなんだろうと、意味は同じだ。なら余計な気を使いあって疲れるより、いや、違う、分かりづらくして堂々と同道巡りになるよりは、そちらの方が良いという、それだけのこと。

そしてアカギは、嘘しか言わない。そうだ、それの原点は同じこと。どう表現すればその同一性が証明できるのか、生憎ヒカリは言葉を持たぬが、ああ、そうか、ヒカリと、この男、その、事実に対する認識が、同じなのだ。

「本心からそう思っていればそれが事実になることだってあるだろう」

ゆっくりとアカギがカップを地において、まっすぐにヒカリを見下ろした。長身の男が、木に縛り付けられている、小さな小さな少女を見詰める。問答をしたいのか、それが「会話」になるのか。次には「真理とはどこからくるか」と、そういうことを聞いてきたっておかしくない、そういえば、博識、聡明、思慮の深い男だと、シロナが言っていた。

そう言えばシロナがアカギのことを語るとき、その眼、少々「まずい」気がする。別にシロナがどうなっても、ヒカリの人生、全くこれっぽっちも問題ないが、些か「危うい」と多少の危機感は持ったほど。女の憎悪、というのだろうか。ヒカリには理解できぬもの。何かあったのかと容易くは聞けなかった。けれどその眼、そういえば冷静に判断すれば、デンジを見るナタネの目に、どことな似ている。夕暮れ時に窓辺に腰掛けてぼうっと魔女の庭でも眺める箱入り娘の目。

「私と来たまえ、お嬢さん」
「お前なんか死ねばいい」
「一生そこで縛られていたいか」

差し伸べられた手。縛られてさえいなければ叩き落としてやったものの、惜しいこと。ヒカリはアカギをにらみつけ、吐き捨てる。そうすると、先ほどまでは穏やかな(まぁ、わざとだろうが)表情をしていた男が、すぅっと、氷のような眼をする。こちらの方がよく似合っているとヒカリは指を刺して笑いたくなった。

「馬鹿か、おまえ。わたしがどうしておまえなんかと一緒に行くんだ」
「願う事は何もないか」

お嬢さん、と、笑う男。優しい笑み、ではないことは分かる。けれどそこに悪意があるのか、その判断がヒカリにはどうもつかない。善意はないだろう、それだけはわかるが。

「わたしの願いはわたしがかなえる。お前なんぞ必要じゃない」
「叶えられると本心から思っているのか」
「煩い、黙れ。叶えられないと思って何かするバカがいるか」
「そうか、だが、私がいれば叶うぞ」

知ったような口を聞く。しかし、事実だ。ヒカリの望むもの、ヒカリの願うもの、その全て、きっと、この男といればかなえられるのだ。それは、わかる。わかって、いた。最初に出会ったときは何のことかはわからずにいたが、何度も何度も何度か何度とこの男と出会い、言葉を交わし、交わされ、殴り、蹴り、罵り、知った。アカギの、この男のいずれの目的。バカとしか言いようのない所業、だが、いずれもし、この男が今のままの願いを成就させることが出来たのなら、ヒカリの願いは叶えられるのだろうと、それは、解っていた。

「君の望み、お嬢さん、いつまでも続く、という、その願い。叶えられないと知っているだろう」
「おまえと一緒にするな」

にらみつける、睨んで、睨んで、けれど憎悪は向けられない。ヒカリ、いろんなものを憎んできた。うらんで、うらやんで、憎んで、きた。それでもアカギは憎めない。同じだからだ、自分と、願うことが同じだったから、だ。ヒカリの心に沈むのは、激しい憎悪、ではない。ただ、心底の、憐憫。かわいそうないきもの。知っている。気付いている。どうしようもない、こと。

「無理だろう。あぁ、そうだ。無謀なことだ。この世界では、不可能なのだよ。流れぬ時などない。変わらぬものなどない。知っているだろう、見てきただろう。ホウエンから来たというあの少女でさえ、」
「黙れ!」

本気の怒気、怒声、ヒカリの甲高い、何かを引き裂くような咆哮。普段故意に声を低くし、喉を痛める少女の、本来の声。幼い声。アカギがぴたり、と、言葉と動きを止めて、ヒカリを見詰める。鉛色の眼。

「黙れ、黙れ、黙れ黙れ黙れ!!!知らない、そんなこと、知るもんか!!!!」
「事実だ。変えようのない、既に起こった、事実だろう。何をそんなに叫ぶのか、何をそんなに嘆くのか、時が怖ろしいかね、お嬢さん」
「黙れ!!!!それは、お前だろう!!!!お前が恐れているんだ!!!お前は恐いんだろう!!!」
「あぁそうだ。私は怖い。私は怖ろしいのだよ、時が、時空が、世界が、この今の全てのものが、私は怖ろしくてしょうがない。なぜ存在出来ているのか。不思議でしょうがなく、怖ろしい」

ヒカリの叫びと、アカギの淡々とした声が重なる。森の中、重なる喉の震えから空気の振動から、音階を変えれば同じかも知れぬ、波長。ヒカリは脣を噛み締めた。あまりに噛んでしまって、ぐぢっと、唇の端からヒカリの叫びが滴る。脳裏に浮かぶ、赤いバンダナの少女の顔、いや、あれはもう少女ではなくなっていた、娘に、なっていた。その違い、わからぬヒカリではない。だいすきだった、とても、憧れていたのに、変わって、あっさりと、階段を一つ上がってしまった、ホウエンの暖かい陽だまりのような、ひと。思い出したく、ないのに。

きつく眼を閉じていっそこのまま眼も、耳も、口も何もかもつぶれてしまえと強く願いかけた時、ヒカリの視界が暗くなった。

ふぅっと、蝋燭の火を息で吹きかけたような、気安さ。焚き火が一切、消えている。消えたのなら多少の煙が立つはずで、しかし、何もない。ただ真っ暗なだけ。星の煌きもこの深い森ではかすかにしか感じられぬ。まぁるい月の光のみ、そこに、ぼんやり、ゆらゆら、立つ。ばちり、と、何か、空気の弾ける音。アカギの足元が何か、衝撃を受けたよに窪んだ。波動、ポケモンの力、ではない。暴力にするには稀有なもの。ヒカリははっとして顔を上げる。

「ヒカリから三歩離れて、そのまま振り返らず行ってください」

夜に浸透する不明瞭な声。流れる水とてもう少し形をはっきり持っているもの、あやふやで、おぼろげな気配。ヒカリは目を見開いた。夜。真夜中。仄暗い影の奥。

「私は生きていないものに興味はないのだけれどね」

対するアカギはヒカリの方を向いたまま、背後をちらりと気にするそぶりも見せずぽつりと、つまらなさそうに呟く。呆れているような溜息。

「私は生きていますよ」
「ほう、本当に?」

からかうようなアカギの口調。眼が、明らかな優位、優越を持っている。ゆっくりと傲慢な動きで腕を組み、足元に視線をやった。月明かりに照らされてヒカリの方まで伸びてくる、黒い影を見下ろす。まるで珍しい化石か標本でも見るような、生き物ではない、すでに時の止まって久しいものを鑑賞する眼。

「そうか、だとすれば羨ましい限りだ。君は変わらぬものを手に入れたと、そういうことだね」
「生憎変わるだけの自分を持っていませんので、それはなんとも」

砂を踏む足音。カチャリと何か金属が擦れる音が響いた。暗闇で見えぬ、樹の影に隠れている、青年。

「ゲン」

ヒカリは名前を呼んだ。月が動いたか、それで正体が定まったか、それはヒカリの知るところではないのだけれど、それで、はっきりと、ゲンが姿を現した。

「ごめん。ヒカリ。ひとりにした」
「助けろなんて言ってない」
「そうだね。でも私は嫌だ。ヒカリが苦しい思いをしているのは、嫌だ」

いつもよりも強い口調。ゲンの手が握っているのは、ヒカリの見たことのない尺杖。それを真っ直ぐにアカギに向けている。

「行ってください」
「逃げろと?」
「えぇ、そうです。浅ましく逃げ去ってください。そして再度せっせと悪事でも企んでください。芽吹く其の直前に、私が上から踏み潰します」

低い声。びりりと、いびつな気配。アカギが奇妙な声を上げて笑った。おかしそうに、息を弾ませて笑う。本心からの「愉快」極まりないという、そういう笑い。

「そうか。それは、無理というものだ。お嬢さんならいざ知らず、君が出来ることなどないのだよ」

きっぱりと、決め付けではない、事実を告げる普段嘘ばかりの生き物の言葉。しかし、それで少し夜が震え、そのままアカギはヒカリから少しだけ離れた。三歩、ではなかったが、未満ではなかった。振り返らぬ、ままにかちゃりとモンスターボールを取り出し、そのまま飛び去る。あっという間のこと。短い、時間。颯爽とした、とはいえぬが、それでも無様な逃亡ではない。ゲンがヒカリに駆け寄って縄を解く。がっくりとヒカリ、膝を着いた。

「ヒカリ、」
「あれはわたしだ」

ゲンに受け止められ、普段であれば「触るな」と一蹴するがその気力も、気も起きぬヒカリ、ぼんやりと、ゲンの肩に顔を押し付けて目を伏せた。

「バカみたいなことを願っている。どうしようもない、バカなんだ」

もしゲンが来なければ、きっと自分はアカギをもっともっと強く「かわいそう」と思っただろう。その思いはいずれ悪魔になる。それでも、捨てることなどできないものと、それだって、どうしようもないこと。


(こわい、んだ)


 

 


Fin



 

久しぶりのポケでしたー。敬愛してどうしようもない柚木さんに一切捧げます。←迷惑。
アカギのことをピーターパンだと真剣に信じてます。ヒカリはアリスですね☆え、じゃあゲンさんは?
(08/12/25 22時37分54秒)