がしゃん、と、目の前に並んでいた本の山を倒したら、嫌そうな顔をされた。昔はこんなことはなかったのに、とヒカリは奥歯を噛み締める。

「なにしてんの、ヒカリ」
「わからないのか、コウキ」

ぎゅっと眦を上げて、睨んでも、双子の兄は、昔からずっと、一緒にいてくれたはずの兄は、さめざめとした眼で自分を見下ろす。何もかもが一緒だったのは体内の中だけで、外に出てしまった、出されてしまって十数年。もう、いろんなことが違って、それが「当たり前」になってしまっていた。

 



 


 

すいみつとう、に、みれん



 


目の前にいた女の子が、こちらに来るかと思ったら躓いて転んだ。わんわん泣くか歯を食いしばって耐えるかの、どちらだろうかと思っていたら女の子、しゃがみ込んだ姿勢のまま、躓いた石をポケットから出したシャベルで穿り出して鞄に詰めた。ゲンはその行動を奇妙には思わなかったのだけれど、嬉しいディジャ・ヴ。懐かしいなぁ、なんて思いながら頭の中で連想した少年とはちっとも似ていないその女の子に手を伸ばした。

「大丈夫かい」

真っ黒い洞窟の中、それでも所々に灯りが雪洞(ぼんぼり)のように儚げぼんやり点在していて、それなりに人の顔は判別できるくらいにはなっている。幼い顔に、強い眼差しは不釣合いかと思いきや、女の子の幼さと脆さを隠す牙にはなるんだろうとゲンは悟って、ふわり、と優しく微笑んで手を差し伸べた己に対して向けられる敵意も、理不尽な憎悪も気にならなかった。手を伸ばした瞬間、ゲンは自分に指先が、手が、腕が、それを繋ぐ胴体があったことに気付いた。この洞窟に自分が篭ってどのくらいかわからないが、最後に自分が確かに在るのだと自覚していた時と変わらない、青いスーツを着た、それなりの身長の持ち主の、腕だ。女の子はゲンの手を取らずに立ち上がったから、ゲンはじっくりと自分の手を監察する。骨のある、肉付きの薄い掌。骨ばった手は節がくっきり浮いて見え、手の甲の中指から手首まで緩やかに浮いた骨は船の竜骨のよう。

「オマエ、どこから来た」

はっと我に返れば、ぱんぱん、と衣服の汚れを叩き起こしている女の子が、じろり、とゲンを睨み上げながら短い単語で問うてきた。女性(にょせい)の用いるには少々似合わぬ発音、口調にゲンは一瞬違和感を覚えたが、別段、それをどうこう指示する意欲が己にあるわけでなし、責任を持とうという根気もなし、放っておいてゲン、ちらり、と女の子の左肩を見た。先ほどは見かけなかった濃い色、洞窟の中では黒く見えるポケモン。ばさり、と羽を広げて傍らの灯りに逆さに止まった。

「その子は君の?」
「わたしの質問に答えろ」

リン、と鈴の音。女の子の赤いマフラーだか、スカーフの裾に付属された金属、装飾品の音。ゲンは「警戒されている」とその、軽快な音を聞きながら気付いて、壁のポケモン、ズバットを見た。超音波、で目前に誰かいないか、この暗闇の中探りながら進んでいたのだろう。だから、ゲンがいなかったことをわかっていた。それで、どこから、と聞いたのだ。ポケモンの間違いかと疑わない辺り、信頼関係というのが見て取れる、好ましいことだと、薄く笑ってゲン、小首を傾げた。

「自分でもわからないんだ。答えようがない」

肩を竦めて、あっさり言うと、機嫌を悪くするかと思いきや、女の子「そう」と、あっさり、頷いた。






鋼鉄島の、洞窟は鉱山なのか洞窟なのかよくわからない。あやふやな場所で、だからこそゲンはいるのだろうと思った。ごつごつとした地面をゆっくりゆっくり、確認するように歩きながら、ゲンは少し後ろを歩いて付いてきてくれる女の子の気配に注意していた。

女の子はヒカリと言って、シンオウ地方のジムを回っているらしい。親よりはナナカマドを信頼していて、双子の兄は今もナナカマド研究所で助手をしている。一緒に町を飛び出したライバル、幼馴染は今は行方知れずで、時々あったりするらしい。

そういうことを、ゲンは長い時間を掛けてじっくりヒカリから聞いた。別段、自分のことを自分から話すヒカリではなくて、けれどゲンのことを聞いてくることもなく、ゲンは話題がないからと、そういい理由でぽつりぽつりの質問。長い時間をかけたわりに、わかったことが少ないくらいだ。

「ヒカリちゃんは、」
「ちゃん、なんてつけるな。気持ち悪い」
「ヒカリは、」
「馴れ馴れしい」

どうしろっていうのか、ゲンは困ったように笑って「ヒカリくんは」と言い直した。今度は文句は言われなかった。ゲンは立ち止まって、振り返る。ヒカリは立ち止まらないで、ゲンを追い越した。すれ違いざまにスカーフ、揺れてリンリン鳴る。

「ヒカリは、チャンピョンになりたいのか」
「なんでそう思う」

立ち止まらず、スタスタ歩いて行きながらヒカリは振り返ることもせずに、それでも声は返ってきた。ゲンは立ち止まったまま、続ける。

「ジムリーダーを倒して、ホウエンをめぐるっていうことは、そういうことだと思う」

普通は、そうだよ、と言ってゲン、ヒカリの後姿を眺めた。意思の強そうな背だ。小さいのに、いろんなものを一身に背負ってもつぶれることがなさそうな、そういう、芯を持っている子だろう。自分の背中に籠があって、このホウエンを巡る中、雪が積もって背中の籠が一杯になっても、振り返って雪を捨てずに、しっかり歩いていけるだけの強い背だ。

「決め付けるな」
「そう見えてしまう、ということは、そういうことなんだよ」
「決め付けるな」

ばぶっと、鞄を投げつけられた。ゲンは見事に食らって「ぶっ」と間抜けな声を上げた。痛くはないが、それなりに衝撃を受けて、ずるずる壁に背中をつけた。

「旅に出るのは、コウキが望んだからだ」

目を開けばヒカリがもう目と鼻の先かと思うほど近くに来ていて、じっと、ゲンの目を覗き込みながら、手を伸ばしテーラーを掴んでぐいぐい、引っ張る。その力が強くて、ゲンはズルズルと壁をつたいながら、座り込んだ。

「コウキはわたしが誰かを大切に思えるようになればいいって、そう、望んでる」

コウキ、はヒカリの双子の兄で、生まれてからずっと一緒に生きてきて、ヒカリにとっては世界で一番大切で、他はどうだっていい、だからこそに際立つ相手らしい。ゲンはぎゅっと、胸倉をつかまれたまま、小さく震えているヒカリの額を見た。

「勝手に、決めるな」

声音は相変わらずに強くて、意思がはっきりとしていそうで、けれどゲンは、ヒカリがどういう意味で言葉を使っているのか、誰に向けて言っているのかもわからなかった。ぼんやり、灯りはズバットが羽ばたく羽で揺らめいて陽炎、走馬灯。

ヒカリはゲンの胸に耳を当てて、じっと目を伏せた。

「わたしは、コウキだけがいればいい。コウキだって、おんなじだったんだ。昔は、ぞれが「あたりまえ」だったんだ」
「寂しいのか?」

問えばヒカリはぎゅっと、唇を噛んで、ゲンを見上げる。眦にぼんやり浮かんでいるのは涙ではなくて、堪えきれない憎悪だ。彼女、この、女の子、そのうちに酷い事をするとゲンは思った。行き場のなくなった想いは重量をまして濃くなっていくばかり、次第に形を変えてしまっても、しようのないことと、そう割り切れる。

「わたしは変わらない。ずっと、ずっと、このままでいい」

握り締めたヒカリの掌が、ゲンのシャツをきつく掴んで皺になりそうだ。見つめられた目をぞいっと見ていれば、そのうちに自分が彼女に喰われてしまうんじゃないかと、ふとそういう、疑問がゲンの中に浮かんできた。この眼(まなこ)この必死な声は、ゲンを見て憧れているように思えた。

「羨ましがられるものではないよ、俺は」
「どうして」

じっと、ヒカリの目が始めて幼くなった。あどけない、子供のようだと笑ってゲンは、反射的にヒカリの白い帽子を撫でた。

「置いていって、しまったんだ」

目を伏せて、思い出す。泣きじゃくっていたメガネの子供。酷い事をしたのだと、今更ながらに気付いて、ゲンは息を吐いた。自分が吐き出した二酸化炭素、元々は酸素としてこの場所にあったのが、取り込まれて、変わった。それが、全てのように思えてくる。ゲンはゆっくりと、立ち上がった。
「ヒカリと一緒に、いてもいい?」

腕に抱き上げたヒカリの顔を見つめる。ズバットが、定位置のようにヒカリの肩に止まって、目を閉じた。

「嫌だ」
「どうして」
「オマエ、消えるだろ」
「気合でなんとかするよ」

できそうだし、と、言って笑った。へらり、と効果音が付き添うな笑顔だと自分でもわかって、ゲンはぎゅっと、ヒカリを抱きしめる。

「ヒカリの傍にいたら、しなければならないことが、わかるんだ」

(こどもみたいだ)

ヒカリは自分を優しい手つきで抱き上げる男を、ぼんやり想い、思いながらそれでも、今自分はこのゲン、とかいう生き物を蹴り飛ばしてその腕から逃げ出そうとは思っていないことに純粋に驚いて、それで、もしも、この男が幽霊だったら、どのみち洞窟から出れば消えるんだと気付いて「べつに、いい」と、そう、短く返した。

ヒカリには、いつゲンが消えてしまっても構わない心構えが最初からできていて、ゲンは、消えないでいる意思が最初からある。そういう、その、時点がいろいろと、今後いろんなことを変えていくのだと、そういうこと、を、まだ二人は知らなくて、それでもユラユラ、揺らめく灯りの下の図は迷子の子供と母親のようだったと、肩に乗ったズバット、思ったり、していた。




Fin

 


・柚木さんに捧げます。以前貰ったゲン+ヒョのイラストのお礼……ゲンヒカ、を目指したのですが、うちのヒカリはこういう子で申し訳ない。ハルカとの違いを意識したらこういう性格、口調になりました。(07/10/17 22時39分)