空気が震える、などと言う生易しい表現が一瞬ゲンの頭に浮かんだが、肌に覚えた嘶きは空気が罅割れる、と感じるほうが正しいはずだ。真空に亀裂を入れるほどの、一撃。情け容赦のない、圧倒的に上位にいるものが、下に位置する挑戦者を完膚なきまでに叩きのめすための、まさに王者の一撃である。対戦者のボスコドラが放った破壊光線がヒカリのアブソルに向かい、何とか威力を殺ごうとヒカリの指示でマジックコートを張ったが、ものともせずに砕かれて直撃する。威力は僅かばかり抑えられていたのだろう。でなければ、鉄をも滅する破壊光線を受けてアブソルは怪我を負うことはなく、ただ誰の目にも明らかな「戦闘不能」となった。 強いばかりではなくて、王者の貫禄を見せ付けるに十分な采配は、幼いヒカリの心を深く、深く、痛めつけた。
「……っ」
ヒカリは倒れたアブソルに駆け寄り、それ以上無理をさせる無謀さは持ち合わせておらぬよう、すぐさまモンスターボールにポケモンを戻して、ぎゅっと、眉をしかめる。ゲンは、ヒカリの目の中では次の手、新たな策を講じるものが光るのを一瞬確かに見たが、すぐにその光も消えうせる。悔しそうに、憎憎しげに、強く己の脣を噛み締めたヒカリが、やがて小さな声を漏らすのはそれほどに、長い時間は掛からなかった。
「……わたしの、負けだ」
少女地獄
「ヒカリ、」 「煩い、話しかけるな」
ぱちぱちと、焚き火が燃える。ヒカリは毛布に包まって、背中をゲンに向けたまま、今夜は帽子も取らずに、横になっていた。少し火から遠い。だから、それを気遣ってゲンが声をかけたのだけれど、容赦のない、返答が冷たく帰ってくる。
ひょっとしたら、今夜くらいは、ヒカリが嫌がろうと宿に泊まるべきだったのではないかと、今更ながらにゲンは思い至った。
何故だか毎夜、ゲンとヒカリが眠るのは野外と相場が決まってしまっている。宿、は、今のところ取ったことがない。自分はいざ知らず、少女の身のヒカリに地面は、いくら柔らかな敷布団を敷いたところで辛かろうと、明け方の急激な温度の低下、突然の豪雨の可能性など、不便があろうに、ヒカリは必ず、野外で眠る。
ぱちぱちと、ゲンとヒカリの間にある焚き火が燃える。昨今随分と寒くなってきた。まだ秋口ではあるけれど、暖かなホウエン・カントーなどとは違い、北に位置するシンオウは秋でも既に、底冷えする寒さがあった。 で、あるからゲンは、「まだ眠らないから」と毎晩最後の火の守りをかってでて、ヒカリが背を向けて小さな、可愛らしい寝息を立ててからもじっと、火を絶やさずにしている。ヒカリが深い森を好むものだから、ポケモンであればいざ知らず、獣の類を避けるためにも、火を消すことは得策ではない。 ぱちぱちと、木が燃える。ゲンは毎夜、ヒカリの薄い肩や、小さな手足を布の上から眺めながら、ヒカリのことを考えてすごしてきた。
ゲンがヒカリと洞窟で知り合ってから、一緒に旅を(少なくとも、ヒカリが「ジムリーダーを全員倒す」という目標を終えるまでは、ゲンはヒカリと一緒にいるだろうと、自分でそういう予感がしていた)するようになり、暫く経った。時間にすればどのくらいなのか、随分長い間虚空の一部のようにぼんやりと存在しているだけだったゲンには計測できない。それほど長い時間ではないように思うのだけれど、出会った当初は三つしか持っていなかったヒカリのバッヂが、今はもうあとは、ナギサを残す一つだけとなっていることを考えると、随分と時間が経っているのかもしれない。真相は定かではないが、その定かではない時間の中でゲンが知る限り、ヒカリはバトルで負けたことがない。
(そうだ、ヒカリはこれまで負けたことが、なかった)
どうしてそのことを、今の今まで忘れてしまっていたのか、ゲンはヒカリの背中に手を伸ばしそうになる自分を抑えながら、気付く。
ヒカリは強かった。
少なくとも、ゲンが知る限りにおいては負けたことがない。どんなトレーナーに挑まれても、ヒカリは必ず勝利を収めてきた。聞けばポケモンを持ったことはこれまでなかったというに、といってポケモンと常に傍らにあったような生活だったわけでもないのに、ヒカリが「おや」となるポケモンたちは即座にヒカリに心を開き、何の問題もなく、当然のように最大の成長をしてきた。 最初にパートナーになったというハヤシガメも、ホウエンから来た少女に貰った卵からかえったというクロバットも、ギンガ団との戦いの最中に出会ったアブソルも、他二体のポケモンも、きっとゲンでは勝てない、いつのまにかそういうレベルのものになっていた。
そういうヒカリの強さは、考えればきっと「異常」なのではないだろうか。少なくともまだポケモンと出会って僅かしか(その時間がどれほどか、知らないが、少なくともヒカリの髪が肩から胸にいく前の僅かな時間のはずだ)経たぬトレーナーが、今やピャンピョン戦まで一歩というところまで来ていることは、異常と呼べるはず。 そのことに、ゲンはこれまで、気付かなかった。今日、今夜になる前の、正午。草むらで偶然に出会った、ダイゴと戦うまでは。
今日、ヒカリがダイゴと、会った。
あの、ホウエンのチャンピョンで、結局一度も負けることなくピャンピョンを降りた、ツワブキ・ダイゴと、ヒカリは出会った。本当に偶然で、少なくともゲンはヒカリとダイゴを遭遇させようなんて思ったこともない。 ヒカリは普段の負けん気と、ダイゴの常の穏やかだけれど好戦的な雰囲気が合わさって、二人はバトルをすることになった。ヒカリの目は、自分が勝つつもりで、それ以外の結果は想定してすらいなかったように思える。
「ヒカリ」
怒鳴られることは、きっと今夜はないだろう。疎ましがられても、今のヒカリに普段どおりの強さは、ない。ゲンが声を掛ければ、今度は寝入ったふりを続ける、無言の圧力。
「彼は、とても強い。誰も、彼もがダイゴには勝てない。彼は、そういう風に出来ている」
負けたって、しようのないことだ。きっぱり。ゲンが言い切ると同時にヒカリの毛布がとんだ。火を恐れずに飛び越えて、ヒカリの腕がゲンの胸倉に伸びて、掴みあげられる。けれど少女の非力な力、ちっとも、苦しくはない。じっと、ゲンはヒカリを見た。揺れる青い瞳、今にも、泣き出しそうだ。
「わたし、はッ!!」
必死に声を大きくして何事か放とうとする、その、ヒカリの喉が震えている。ゲンはただ目を細め、眉をしかめて、掴まれるままにヒカリを見上げた。こんなに、理不尽なことをされても、苛立ちか、何かをぶつけられてもそれでも、ゲンはヒカリのことをただ、「かわいそうなおんなのこ」としか思えない。
「わたしは!負けるわけにはいかないんだ!!わたしは、シンオウを制覇しなくちゃいけない!そう、決めたんだ!!!誰も、彼も、関係ない!わたしが、勝ち続けるんだ!!」 「でも、ダイゴには勝てない」 「そんなこと、知ったことか!!!」
少女の叫び声は通常は絹を裂くような甲高いものであるはずだ。けれどヒカリの、常から低い声を意識して出しているヒカリの叫び声は、どこまでも地を這うようだ。ぼんやりと耳の奥にまでこだまして染み込むそれに、ゲンはひっそりと瞼を落とした。
□
ピジョットをモンスターボールの中に戻して、ゲンは地面に降り立った。ナナカマド博士の研究所のある、町のはずれ。シンオウでは最も権威のあるポケモン研究者として名を馳せるナナカマド博士だが、その研究所はまるで民家のように、平凡な佇まいをしていた。
ここが、ヒカリの育った場所なのかと、訪れるのが始めてなゲンは奇妙な違和感を覚えた。何度か、僅かに断片的に聴いたヒカリの昔話によれば、どう頑張っても周囲と仲良くできる生き物ではなかったらしいヒカリ。子供の近寄れない冷たいコンクリートばかりの研究所ならそれも当然だと妙な偏見を珍しくゲンは持って、そう考えてきたのだけれど。 目の前にあるのは、子供も出入りする楽しそうな、ポケモンの研究所だ。
「あの、すいません。ナナカマド博士の研究所はこちらで宜しかったでしょうか」
表札は確かに「ナナカマド」とあり、マップにもここが研究所であるということを示すマークが表示されている。けれどいくら常識があるようでないゲンであっても、多少の抵抗を感じずにはいられなかったのか、植え込みにいる老人に声をかけた。
「あぁ。何か用かね」
顔を上げた老人の顔、を見てゲンは僅かに目を開く。シロナの家に飾られていた記念写真の中で何度か見た、顔だ。
「ナナカマド博士?」 「いかにも、私がこの研究所の責任者、ナナカマドだ」 「失礼しました。そうとは存ぜず」
丁寧にゲンが帽子を脱いで頭を下げると、いかめしい顔をしかめてナナカマドが不機嫌そうな声を出した。
「無礼なことをされた覚えはないが」
確かに、ゲンは場所の確認をしただけだ。言葉遣いも丁寧で、相手を侮った態度も取っていない。相手がただの老人でなく、ポケモン研究の権威であるから態度を改めるのかと、暗にそう問い不機嫌そうにするナナカマドに、ゲンは頭を下げたまま答えた。
「ヒカリの恩人であるナナカマド博士に会うときは、繕わないであろうと決めていたのです」
ふと、ナナカマドの表情が和らいだ。血のつながりはないはずだが、ナナカマドはヒカリのことをとても可愛がっているとその目の優しさで知れる。誰もがヒカリを疎み、恐れ、嫌う中で、ゲンはヒカリを愛してくれている人に会えて嬉しかった。
ナナカマドの深い色の瞳があれこれと、ゲンのことを探るように見つめる。それは不躾な眼差しではない。思慮深いものが、知恵を持って相手を理解しようとする、一種の敬意さえ感じることの出来る視線だ。 あえてゲンは受けて、やがてナナカマドが深い溜息を吐くまでじっと大人しくしていた。
「コウキなら裏にいるだろう」
ゲンを己の瞳に写して暫く、ナナカマドは一度目を伏せてからそう呟いた。何も言っていないが、何かを悟ったのだろう。なぜ分かるのか、はゲンには分からない。けれど、わかってしまうものなのだろうということは、分かった。
「会っても宜しいでしょうか」
二人の身長は、ゲンの方が少し高い。去っていこうとしたナナカマドはふりかえって、少しだけおかしそうに笑う。
「好きにすればいい。わしの許可を得ずともヒカリと会った君に、なぜコウキと会うのに許可を出す理由がある?」
言われてそれは道理だとゲンも笑った。久しぶりに、おかしくて笑ったような気がする。
□
外見はどこまでも民家そのものの屋内に一歩足を踏み入れると、そこは研究所そのものだった。真っ白い壁に、行きかう白衣のひと。けれど誰もがゲンを見咎めたりはしない。見えていないのかもしれないと、ぼんやりゲンは気付いた。ナナカマドは、気付いた。けれど、もう他の人には自分は見えなくなってしまっているのかもしれない。そう、思った。自分は幻影、おぼろげ、いつ消えてしまっても仕方のない生き物だ。ゲンは、自分が一体誰なのか、その性格な「答え」を見つけ出した瞬間、自分が消えてしまうことを知っている。
ナナカマドの言った「裏」がどこなのか、正確な場所をゲンは知らされなかったが、それでも検討は付いた。ヒカリに良く似た波動が、ある一点からひしりと感じることが出来るから、それを辿ればいい。ただそれだけだ。すたすたと歩みを進めて、扉を開く。眩しい光に一瞬目をやられ細める視界の中に、ゆっくり振り返る黒髪の少年の顔が映った。
「博士なら、表にいませんでしたか?」
低い、少年の声だ。ヒカリが意識して出す低い声と、少しだけ似ている。
「はじめまして、コウキくん。私はゲン。ヒカリの知人だ」
ゲンは穏やかな笑みを浮かべて一歩、コウキに近付いた。握手を求めるべきか迷ったが、コウキが両手に書類やらを抱えていたので差し出すことはしない。無遠慮なほど視線をむけることはしないが、ゲンはコウキを眺めた。
黒い髪に、白い帽子、赤いマフラー。ゲンが慈しむ少女と、類似点が多い。それもそのはず、コウキは、ヒカリの双子の兄だ。研究所に務める両親に連れられ、二人はここで育ったのだという。コウキとヒカリは常に一緒にいて、何をするのも一緒。ヒカリはコウキさえいればいいと、いつも言っていた。ヒカリにとって、コウキは太陽なのだと、そう、聞いてきた。
けれど、それだけ、でもある。ゲンはヒカリからコウキの人となりを聴いたことは、思えば一度もありはしない。どんなことで怒るのか、どんなことで笑うのか、どんなものがすきなのか、ヒカリは、ゲンに語ったことはない。
「ゲンさん、ですか」
ゲンが名を知っていると示した以上、コウキが名乗る必要はない。その上、己は幼子、多少の無礼は許されるものと、承知しきっている眼差しでコウキはゲンを見上げた。へぇ、とコウキの目が危うい光りを携えた気がした。
「俺は、関わらないですよ」
まだ何も言っていないのに、コウキはくるり、と身を翻してゲンに背を向ける。その足の動かし方がヒカリの乱暴な物言いに似ていた。つまりは、自然であろうとする、胡散臭さを感じる。
ふと、ゲンは思い出す。 たった一度だけ、ヒカリがもらした、己が「トレーナー」となったいきさつ。とてもとても、単純なことだった。それを聞いていたからこそ、今、ゲンはコウキの前にいるのだと、気付いた。
「なぜ話してもいないのにわかるかって?そりゃ、決まってますよ。研究所に引き篭もる俺を世界と繋ぐのは、ヒカリだけですから」 「解っているならヒカリを助けてくれ」 「いやです」
笑って、即答する。けれど無理、とは、言わなかった。そのことにゲンはほっとする。少なくとも、助けられるという自覚があるということは、どうにか説得すれさえすればいいという、ことだ。
「なぜ?君達は兄妹だろう」 「他人は他人を助けることが出来ないんですか」 「ヒカリを救えるのは、コウキだけだ」
それが、全ての原因なのだと、ゲンは真摯に告げたかった。けれどコウキは、さもおかしそうに笑って、腹を抱えてから、ゲンを見上げる。
「それは、妄信というものですよ」
妄信。無責任な信頼だと、疎ましがるように言われるが、ゲンはそうは思わなかった。ヒカリはコウキを太陽だと、信じている。いや、元々は二人は同じ存在であったはずだ。けれどコウキが一人ヒカリを置いて進んでしまった。だから、ヒカリはこれ以上距離を離されぬように、必死にコウキを追いかけるのだ。 ゲンは、いつかのホワイトデーの日にヒカリに薔薇を贈った。輝き、と言う名の赤い薔薇はヒカリによく似合ったが、本当にヒカリに似合うのは向日葵だと知っていた。似合いすぎるから、ゲンはそれを割けた。
「ヒカリがジムを回っているのは、君のためだろう?」 「そう、ヒカリが言いましたか」 「いや」 「正確に、一語一句を思い出してみてくださいよ。ヒカリは、自分のため、にしか行動してません」
そうだろうか。ゲンは己のおぼろげに常に変化する情報量を掘り起こす。ヒカリとの会話は、脳の中のひときわキラキラ光って輝く匣の中に、大切にしまっていた。
思い出す。ヒカリが、ぼんやりと独り言のように語った、はなし。
『コウキは、わたしが変わると言った』
あれは、たしか寒い雪の日だ。体から、心の底までもが冷え切って凍りつくような寒い冬の日に、ゲンはヒカリの体を抱きしめて、なぜポケモントレーナーになったのかと、問うた。最初はいつものように暴言を吐き答えなかったヒカリだが、あまりの寒さに、己の心に灯りを灯そうとしたのだろう。ぽつり、ぽつり、と、口を開いた。
『変わらないものなんかないと、言った。いつか、わたしが女の子から、女になるって。いつまでも、一緒になんていられないって、そう、言った』
ゲンはその時のヒカリの瞼の震えまでも鮮明に覚えている。脣をぎゅっと咬み、悔しそうに、泣きそうな顔をしていた。
『なんで、コウキはわからない?わたしは変わらない。ずっと、わたしは、わたしだ。コウキと何ひとつ変わらない。それを、証明してやるんだ』
そう言って、ヒカリは、だからポケモントレーナーになったのだと、そう告げた。少年少女はポケモントレーナーとなって、ジムを回って、大人になっていく。それがこの世界の、最近では廃れてきてしまいつつはあるけれど、王道、であった。
だから、ヒカリは負けてはならなかったのだ。
完膚なきまでに相手を叩きのめし、完全勝利に、無配を誇る。それは、己を貫き通すということだ。負けることでしか成長できぬものもいる。勝つことで成長する者もいる。ヒカリは、勝つことが己を成長させることはないと、知っていた。だから、証明の道具にした。(誰もが必死になって目指すポケモンリーグも、ヒカリにとってみれば、意地を張るための材料でしかないというのは、些か傲慢と受けられるかもしれないが、それは人の価値観の違いだ)
勝ち続け、ポケモンジムを制覇し、最終的に、ヒカリはチャンピョンをも倒すつもりだったのだろう。そして、チャンピョンのバッヂを高々とコウキに翳して「ほら見ろ、わたしは何も変わらなかった」と、言いたいのだ。
そのためだけに、ヒカリは旅をしている。 変わろうとする己を必死に押さえつけながら、ヒカリはコウキを縛ろうとして、縛られている。
(ヒカリが、かわいそうだ)
十分に、ヒカリの実力があれば可能な証明だった。けれど、ヒカリはダイゴと戦ってしまった。あの、ツワブキ・ダイゴと戦ってしまった、のだ。
「ヒカリが壊れてしまう」
一目を伏してゲンが暫く経って言えたのは、ただその一言だ。ダイゴと、出会ってしまった生き物は、どうしたって変わってしまう。ヒカリほどの意思の強さがあれば、変えられていく己に気付き、それに抗える。けれど、それでもまだ、ヒカリは幼いのだ。どうしようもない、こともある。 抵抗は、結局は、己を壊す結果をもたらすだけだ。それが、ゲンにはよく解る。
「ヒカリが、壊れてしまう」
繰り返して、必死に伝えようと目を開いたゲンを、コウキの蒼い目が冷たく見上げた。
「他人に頼らないで、あなたが助けたらどうです。噂は、窺ってますよ。“ゲン、さん”」
慇懃な態度だが、はっきりと目に見えてわかる。コウキは、苛立っている。ゲンに対して、隠しようのない嫉妬を、している。ゲンはそれがなぜなのかは解らず、言葉を失った。 容赦なく、コウキの言葉が茨の棘のようにゲンに突き刺さる。
「出来ない、なんて意地の悪いことをおっしゃらないでくださいね。僕も多忙な身なんですよ。することもしないあなたの保身に付き合う余裕はありません」
□
「あっれー。ゲンさんじゃん」
すっかり打ちのめされて研究所から出たゲンに、明るい少年の声が掛かった。声のした方向に視線を向ければ、金色の綿毛のような髪をふわふわさせ歩く、ヒカリの幼馴染、エトワールの姿。
「エトワール、久しぶりだね」
にこり、と笑って会釈する。エトワールはつられて頭を下げてから首をひねった。
「今日はヒカリ、一緒じゃねぇの?そうそうヒカリっていやぁさ、俺もバッチ結構集めたんだよな。エイチコに行くことあったら教えてくれって伝えてくださいよ、絶対赤いギャラドスいるって」
この少年は、ふわふわと金色の髪を揺らして、せわしなく笑う。こんなにかまびすしい幼馴染と育ったのに、ヒカリもコウキも、大人しいことがゲンには不思議だったが、自分の知る幼い少年と、同じように金色の髪の少年も、タイプは全く正反対だったと思い出す。
「エトワールは、」
ヒカリと仲がいい。当然のように、親しい、と、思う。幼馴染だから、ヒカリはエトワールのことえは、嫌いではないはずだ。本人にそうと聞いたことはないけれど、少なくともゲンは、ヒカリがエトワールを殴っても、とどめをさしたことがないことを知っている。
「助けられる?」 「は?」
唐突な問いに、珍しくエトワールがあっけにとられた顔をした。ゲンは言葉が足りなかったと気付いて、付け足す。
「ヒカリが、壊れてしまいそうなんだ」
あぁ、と、エトワールが合点いったのかゲンを見て、そしてナナカマド研究所に視線を向け、肩を竦めた。
「コウキに頼みに来たんだろ?」 「断られた」 「ま、そーだろうな……」
なぜ?とは聞かなかった。聞いても答えないだろう。幼馴染というのは、そういう妙なこだわりがある。ゲンには幼馴染となる存在はいなかったが(少なくとも、ゲンにはいない。ゲンの本質たる“彼”がどうなのかどうかをゲンは考えることを放棄している)それでも、解ることだ。
「一つ、聞いてもいいか」 「なんスか」 「ヒカリは、どうしてあんなに強い?」
何に対しての強さかは、あえてゲンは言葉にしなかった。ヒカリは強い、という言葉がよく当てはめられる少女だ。誰も、彼もが彼女を「強いから」と、そう、笑う。この少年は、ヒカリの幼馴染というこの子供は、他の人間と同じ目ではヒカリを見ていない。それがゲンにはよくわかっているから、だからこそ、そう聞いた。
ぴくり、と、エトワールの小指が震えた。見える位置ではなかったのだけれど、ゲンは悟った。それで、エトワールが笑いながら「ヒカリの強さは反則っすよ」と、いってきた言葉を真面目に受け取らずに済む。
「私に虚言は無意味だ」 「ヒカリの強さってなんだよ」
問うたのはこちらであったのに、少年は当たり前のように己の問いを優先にする。さらにたちの悪いことに、その言葉はどのようにも取れた。 ゲンはじっとエトワールの顔を見つめて、首を振った。
「ヒカリは、かわいそうだ」 「じゃあなんでアンタは、助けようとしないんだ?」
そっけなく答えた少年の声は、普段の喧しさの一割も、含まれていない。コウキと同じことを言う。エトワールも、コウキも、ヒカリを助けることが出来る。ゲンなどよりもよほど明白な姿を持って、ヒカリの前に存在することができる。だというのに、どうしてヒカリを助けてくれないのか。
ゲンは理解できなかった。それで、なぜ二人とも、ゲンがヒカリを助けられるだなんて、そんなばかげたことを考えるのか不思議だった。
ゲンには、自分というはっきりとしたものがない。あやふやで、おぼろげで、不確かな存在。何一つ確定したものがない己が、一体どうして他人を救うことが出来るのだろう。救う、助ける、ということは、不安に揺れ正体の定まらぬ相手を固定してやることだ。己の立ち位置さえ危ういゲンに、務まるはずがない。
「私は誰かを助けることができない」
見つめるエトワールに真理を伝えようとゆっくり言葉を吐くが、少年は納得してくれることはなかった。
「つまり、あんたは臆病者なんだよ」
□
眠っていたゲンの頭を、ヒカリが容赦なく蹴り飛ばした。ゲンでなければ頭に軽い怪我をしたのではないかというほどの力で蹴られ、ゲンは軽く頭を抑える。
「ヒカリ?」
気づけばヒカリがゲンの上に跨って、当然のようにゲンの胸倉を掴んで引き寄せている。 相手の皮膚がはっきりと見えるほどに接近して、ゲンはヒカリの赤く腫れた目を見た。
「ヒカリ、どうしたの?」 「わたしは負けない」
小さな声だった、最初は、掠れたうめき声のようにか細いもの。ゲンが眉を寄せると、それに反発するように、声が荒くなる。
「これから先、わたしは何者にも負けない。ダイゴも、シンオウのチャンピョンも関係ない。わたしが負けることは、ない」
言い切って、その青い目の澄み渡って戸惑いのないことを見、ゲンは目を伏せた。
ヒカリは一人で立ち上がった。一人で傷つき、一人で、解決した。そう、だ。だからコウキは太陽なのだ。太陽が大地の花を愛することはない。ヒカリは、初めからそれそ知っている。いや、あるいは、そう仕向けてたのではないだろうか。
ゲンは気付いた。コウキは、恐らく今のヒカリとの立ち位置を望んでなどいなかった。けれど、ヒカリのために、そうしたのではないのだろうか?
「ヒカリは、人を必要としていないな」 「当たり前だ。お前なんか、いなくても別にいい」
別に、ゲン一人として言ったわけではないが、そう取られても構わない。ゲンはヒカリを見上げて、眉を寄せた。
「でも私は、ヒカリが必要だ」 「消えるためにか」 「違う」
はっきりと、それは通る声を出して否定した。僅かに驚いたような顔をしたヒカリがゲンを凝視する。その瞳の中に己が映るのを確かに見届けてから、ゲンはゆっくりと言葉を吐いた。
「ヒカリを守りたい。ヒカリがいなかったら、守れない」 「何から守るんだ」 「茨の棘から」
痛いから、とゲンが言えば、ヒカリは低く笑った。嫌がられてはいない。そのことがゲンには嬉しくて、自分も笑う。別に冗談めかして言ったわけではなくて、本当に、ゲンは茨の棘からヒカリを守りたいのだ。
「お前、馬鹿だろう」
こばかにしたようにヒカリが目を細めて笑って、ゲンの胸倉から手を離した。引きつられる感覚が消え、体の重さを自覚する。けれどまだ上に跨るヒカリの目が、愉快そうにゲンを見ているのに気付き、ゲンは笑って、ヒカリの頭を撫でた。
ヒカリという少女は本来とてもか弱い生き物であるべきだと周知されるべきだったのだ。それを周囲は傲慢にも錯覚し彼女という人間の性質を勝手に決め付けてしまい、まだ自分自身を自覚するまえの、無垢な魂でしかなかった彼女はそれを鵜呑みにしてしまった。言葉にすれば、それだけのことだ。けれど抑制された彼女本来の気質は確実に、出口を求めて内部を駆けずり回り紛争し、どうにか吐き出される場所を作り出そうとしてしまった。崩壊と、人体構成になんら影響はないのだけれど、それは確実に、彼女の精神を病んでいった。
誰かが、彼女の“声”に気付いてやればいい。
(誰か、が)
それが己であるという選択肢を、どうしてもゲンは持つことができなくて、それでもヒカリの頭を撫でながら、彼女が悲しむことがないようにと、ただ、想う。
ヒカリの後ろに見える天井には、ヒカリの影しか見えない。
Fin
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