ゴヂッと、真夜中に嫌な音がした。びっくりして目を覚ますと、それはどうやら自分の口の中から聞こえたらしかった。イエローは抱えていたピカチュードールに顔を押し付けたまま、ざわりざわりと背筋を這う嫌な悪寒に現実逃避を試みようとした。たとえば、明日はトキワジムのグリーンさんのところに行って立体映像相手でもいいからバトルしようかなぁとか、でもやっぱりバトルよりはトキワの森に行ってチュチュたちと森林浴でもしとくべきかとか、いっそこのまま眠れってしまおうかとか。
そういうことを考えて、たった今自分の身体に起きた異変から目を(思考を)逸らそうとしていた。だというのに、ガヅガヅと自分の舌は興味津々で、少しだけ根っこの外れた奥歯を押して遊んでいる。
天に向かって歯を吐く
「なんだ、歯抜けか」
「嫌な言い方しないでくださいよ、ワタルさん」
「歯が抜けるのか」
「言いなおされると余計腹が立ちます」
イエローは麦藁帽子をワタルに投げつけて、ぷぅっと頬を膨らませた。結局現実逃避は出来なかったのに、イエローは機能の思考に従順にトキワの森で楽しい森林浴を実行した。
最初は気分が良かった。けれど森に入って五分もしないうちに、イエローの気に入りの場所である小さな小川の木陰でこの、四天王の称だとか自分で言って高笑いをするいけ好かない男が昼寝をしていたのだから、気分が悪い。
トキワの森の能力を持っているから、ワタルもトキワの人間なのだろうとイエローはなんとなしに認めている。だから別に、この森でくつろいでいたって文句はいわないし、この森は誰がいても受け入れてくれる。ワタルがトキワの人間でなくたって、いてもいい、それはいい。
けれどイエローは、あの事件から三年経った最近から、やたらと自分の目の前に現れているようなこの男が、はっきり言って嫌いだった。
いや別に、イエローはワタルのことを憎んでいるとか、心底嫌っているとかそういうことはけしてないし、三年前の事件を引きずるようなつもりは、もちろんない。
ただたんに、イエローにとってワタルは(彼女は礼儀正しく誰に対しても素直な対応をする生き物なはずなのに)ただ一人だけ、嫌悪を向けても良いと判断した人物なのだ。大丈夫、だから嫌う、というのは、好きな相手に心を許して愚痴を言うようなものだと、以前ブルーにワタルとの関係を聞かれて言われたことがある。けれど、イエローはワタルを「好き」だとはやっぱり認識しない。
以前一度、ワタルに自分たちの関係をそれとなく問いかけたことがあった。「ワタルさんは、ボクにとって何なんですか」と、本人は物凄く困ったような顔をして、けれど少し考えるように「俺にとって、お前はきょうだいみたいなもんだ」と答えた。結局イエローの問いの答えではなかったけれど、イエローは納得して、そういえば、確かにワタルのことを、自分はきょうだいのように思っているのだと考えれば納得のいく思いもいくつかあったことに思い当たったりする。
まぁ、つまり、イエローは気安くワタルを扱えるのも、ワタルが冷たくあしらわれても腹を立てるようすがないのも、結局はそういうことなのだろう。
「お前の年齢の頃には、俺はもう生え変わっていたと思うが」
ふむ、とワタルは考え込むように腕を組んでイエローを見た。トキワの森の大きな木から静かに光が漏れ入れて、ワタルの明るい色の髪をきらきらと光らせる。眩しいな、とイエローは目を細めた。麦藁帽子を投げるのではなかった、少しは遮れたかもしれないのに。自分の髪も明るい金髪だが、きっとワタルのようにキラキラとは輝いていないのかもしれないと、なぜだか思って憂鬱になる。
「ボクだってもう、全部永久歯になったと思ってましたよ」
不安を隠すためにイエローはワタルに背を向けて、一気にまくし立てる。
「抜けたと思ってたんですよ、それで、夜中に急に抜けそうになってるって気付いたときに怖くなりました。だってそうでしょう?自分はもうないと思ってた。だけど抜ける、ってことは、ずっと抜けないはずの歯が抜けてしまうんだ。どうしようって、ボク、これから入れ歯になるのかなって、怖くなったんだ。なのに、なんでワタルはすぐに乳歯だってわかるんですか」
イエローの勢いに驚いたらしい、水場で遊んでいたチュチュとワタルのハクリューたちが心配そうにこちらを窺っている。察したワタルは手を振って、大丈夫だと合図をした。ただのかんしゃくだ、とは言わないが思っているのだろうと分かって、イエローはさらに不愉快になる。
けれど、やはりイエローは根本的には素直な生き物だったから、自分がワタルに八つ当たりをしているという自覚ももちろんあって、これ以上口を開けばもっともっと、それこそワタルは気にしないだろうが、言って自分が後悔してしまうような言葉を吐くと、それを恐れた。
「ワタルさんは―――」
「最初に歯が抜けたときは、イブキと一緒でな」
口を開いたイエローを遮って、ワタルは突然昔の話を語りだす。丁度、イエローが呼吸をして、息を吸い込もうとする自然の一瞬。それを、きっとワタルは故意にねらって言葉を出した。呼吸をずらされて、イエローがいやおうなしにたじろぐと、ワタルはたたみかけるわけではなく、ゆっくりと続ける。
「俺は上の前歯で、イブキは下の前歯だった。ぐらついてきたのは俺の方が先で、抜けたのも俺の方が早かったんだがな。あいつは俺と一緒が良いと泣いて、それで長老に頼んで抜いてもらったんだ」
いや、本当にあれは大変だったぞ、とワタルがいやに真剣に言うものだから、イエローはおかしくなって、噴出しはしなかったが、それで、少しだけささくれていた気持ちが和らいだ。
ワタルは話しをするのが上手い。だから、きっとひとの上に立てる人間なんだろうな、と、ワタルが自分を扱うのが大人だという理由意外に凄い理由にそれを思った。もしもワタルがイエローのことを、きょうだいのように思っていなくたって、イエローはワタルをきょうだいのように思える。つまりは、そういうことなんだ。
「どうやって抜いたんですか」
「聞きたいか」
「そこまで話したんなら最後までどうぞ」
「痛いぞ」
「大丈夫ですよ、もう抜けましたし」
なんだかわからない返事をして、イエローは早く、早く、とワタルを目でせかす。歯を抜く方法なんてたかが知れている。別に、痛い話だが実際に痛いわけでもないし、今はゆっくりと話すワタルをもう少し見ていたかった。
ワタルは一度ゆっくりと息を吐いてから、口を開く。
「長老はイブキの歯に糸を括り付けて、先を自分の腕につないだんだ」
「なんだ、普通じゃないですか」
「糸の長さは丁度十五センチ。腕を後ろに大きく引くと引っ張られて歯が抜けるようになっていた」
そこで、ワタルは一度言葉を区切って、なにやら思い出し笑いをする。
「どうしたんですか?それで」
「無意識のうちに腕を引けて、なおかつ痛みから気を逸らせるようにと、竜の穴にイブキを放り込んで数分放置だ。ドラゴンたちに追いかけられて、走って逃げてるうちに歯が抜けて、万々歳。長老は、孫のイブキに痛い思いはさせたくなかったらしいな」
怖い思いはしたんじゃないのか、それ。イエローは突っ込みたくなったが、止めておいて、自分のぐらぐらと揺れてる奥歯はどうしようかと、その事を考える事にした。最後に自分の歯が抜けたのは一年前。それで大人になったような気がしていたのに、まだ残っていた。まだ、子供だったんだと自分に教えてもらったような気がして、イエローはこそばゆくなる。
まだ、ぼくは子供。子供だから、怖かった。そういう、ことだ。
「抜けた歯は、下のものなら屋根に向かって投げるといいらしいぞ」
「上の歯は土に埋める、そんなことくらい知ってますよ」
調子を取り戻してイエローはそんな憎まれ口を叩くと、抜けそうな歯を下でぐぃっと押してみた。
(この歯がまだあるうちに、もう一度、レッドさんに会いに行こう)
Fin
・これは、ワタイエか、ワタル←イエロ→レッドなのか。でも、ワタルさんとイエローはこういう感じだといい。イエローは良い子だし、本当に大好きだ。だからこそ、ワタルさんみたいに、イエローに八つ当たりされる人がいてほしい。
(07/2/9
/00:10)
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