手には土産の植木鉢を持って(咲いている花は黄色い、可愛らしいものだ)どきどきと、心臓の音が耳の奥に引きつるように聞こえてくるほど、どうやら、自分、緊張しているらしい。デンジ、扉の前で何度も深呼吸をしながら、相手いる方の手で、とん、と、軽く扉を叩いて見た。 かすれる、音。こつん、こつん、と、鳴る。
笑おうか?
いっそ全力疾走で逃げ出してしまって、このまま再びナギサのジムに引き篭もり、住民の迷惑なんて考えずステキライフを満喫できればどれだけ楽か。けれど、逃げることは堂々巡りで、何の解決にもなりはしない。
(俺は変わるんだ)
誰に誓うわけでもなく、胸のうちでぐっと決めて、デンジ、二本足を踏ん張ってじっと、扉が開くのを待って見た。
室内だというのに植物に塗れたジムとは違い、ナタネの住居は簡素なもの。当人は草のエキスパートだと豪語し、あつかうポケモンたちも草タイプばかりだというのに、ナタネの家、幼い頃住んでいた伯母の家は花屋であるのに対し、成人してから一人で暮らすために借りている小さな家は、緑が殆ど、ない。 ナタネと言えば植物のイメージを持つ者が殆どだ。デンジも例に漏れずその一人で、自分が周囲にデンジ=停電と思われているように、ナタネの公式だって、そうなるはずだ。なのに、事実停電男のデンジと違い、そういえば、ナタネと植物がセットである光景は、ポケモン関係でしか、ない。
「いい度胸ね」
カタン、と小さな音と共に扉が開いて、中からいつもどおりの身支度を整えたナタネが顔を出した。相変わらず顔には穏やかな微笑が浮かんでいるのに、その眉間に皺が寄っているような気がするのは、きっとデンジの被害妄想だ。
「第一声がそれかよ」
足を踏ん張って、今にも逃げ出したくなる自分をなんとか奮い立たせ、デンジはつとめて、普段どおりの口調で呆れたように答える。どうしても、ダメだ。ナタネを前にすると、だめになる。どう、普段、自分が息をしているのかさえ、わからなくなる。
けれどここで諦めたら、自分の決意も何もかもが無駄になってしまうと思い、それじゃ、堂々巡りのままで、それじゃ、嫌だと、そう思えているから、デンジは、ぎゅっと、掌を握り締めた。 それで、手土産としている植木鉢をナタネに押し付ける。一瞬キョトン、と、デンジに向けるにしては柔らかい目をして、ナタネは植木鉢を見下ろした。
「何?」 「やる」
ぐいぐいと、押し付ける植木鉢。ナタネは真っ直ぐにデンジの青い目を見つめる。ナタネの淡い色の目の中に自分が移っている姿が確認でき、うろたえる。その、瞬間、手が軽くなった。地面に落ちて、砕け散る植木鉢。
ばりん、と、落下した後にゆっくりと、デンジの耳に「叩き落とされた」という、音が届いた。デンジは目を見開いて、固まる。目の前のナタネは、デンジの手を払ったそのままの体勢で、やはり、淡く笑んでいる。
「なに、すんだ」 「いらないわ」 「お前、が、こういうことすんの?」
声がかすれて、喉の奥の中で引っかかった。デンジは一度ごくり、と、唾を飲み干して、無残に叩き落された植木鉢の残骸を見下ろす。ナタネから視線が外れてほっとした、という心が沸く己に、泣きたくなる。
「酷くね?」 「あなたからは何一つ貰いたくないの」 「だからって、」 「帰ってちょうだい」
にべも、ない。どうしてナタネは自分に対して、こうなのか。改めて思い返してみれば、実際、デンジに心当たりなどない。本当に、ない。自分が誰かに恨まれるようなことをしたことがない、なんて言うつもりは毛頭ないが、それでも、ナタネの自分の間に何かあるか、と真剣に考えて見れば、本当に、検討が付かないのだ。
だから、だから、いい加減、ナタネにおびえるのは止めにしようと、いつまでも、堂々巡りじゃ嫌だからと、そういう心を持って「和解」をしようと思って、今日はここまで来たのだ。 けれど、考えてみれば、そもそも、和解など、きっと、できるはずがないのだ。デンジ、地面に落ちた黄色い花を見落としながら、気付く。
自分たちの間には、何もない。だから、和解など、できない。和解は、問題があってこそのもの、そこに、何もない以上、どうしようもないことだ。
地面は運の悪いことに、コンクリートで埋め固まられている。落下した土が、大地に還ることはなくて、デンジ、それが、どうしようもないほどに、申し訳なく思った。叩き落としたのはナタネなのに、デンジは、自分の責任のように思えて、先ほどまで植木鉢を支えていた左手が、わなわなと震えだす。植木鉢の中に潜んでいたのは植物だけではないだろう。それら、全てがデンジの手から落ちたというだけで、台無しになる。
「おれは、お前といがみ合うのは嫌だ」
今日この決意をも、台無しになってしまうのは嫌で(嫌なこと、ばっかりだ。全部から逃げられればいいのに)デンジは直も食い下がった。普段であれば、ここでデンジが全力疾走でナギサまで逃亡するのに、引き下がらぬ今日を見て、ナタネの目が細くなる。
ゆっくりと、ナタネの口が開かれる、デンジは身構えて、けれど、次の言葉を聞いたら自分はもう二度と、マトモに外を歩けなくなるんじゃないかと、そういう予感がした。
「ナタネ、薔薇が欲しいんだけど」
ひょいっと、デンジの視界が暗くなった。顔を上げれば紺色の、大きな背中がデンジの前に立ちはだかる。大きな、背中だ。
「ゲン、」 「ゲンさん。こんにちは、どうかなさったんですか」
数年ぶりに、呼ぶ名前なのに久しぶりだという実感が薄い。デンジは呼んだ己の声の違和感のなさに驚いていると、ナタネは、もっと、自然にゲンを呼ぶ。突然だ、とも、空気読め、とも、その声には含まれていない。
「うん、知り合いの子に薔薇をあげたいと思って。ナタネは花だから」 「ありがとうござます。何色、何種とありますが……」
デンジには見えぬ場所で、穏やかに二人の会話が行われている。一気に蚊帳の外、にされて、ここでこそ踏ん張るべきなのに、デンジはゲンの背中をじっと見つめたまま、身動きが出来ない。
本当に、本当、久しぶりに、彼を見た。昔のまま、何も変わっていない。彼。背の高さも、あの頃小さかった自分は、随分と大きな背中だと思っていたことを覚えていて、けれど、今、随分と自分の背も伸びたから、もう大きい、とは感じないと思っていたのに、全く、差が縮まった気がしない。
(また、守られた)
漠然と感じるのは、只管の敗北感だ。また、だ。また。いつも、そうだ。ゲンは、こうだから、デンジは彼が嫌いだった。忘れていた憎悪が湧き上がる。最近はただ、罪悪感しかなかったのに、今は、綺麗サッパリに、消えてくれて、憎悪。
「赤がいいな。種類は、よくわからないからナタネが選んでよ」
穏やかなゲンの声。デンジには見えないが、きっと、おそらく、昔と同じ、少し困ったように眉を寄せて、笑っているのだろうと検討が付く。ナタネは、どんな顔をしているのだろう。ふと、気になった。
ナタネは、ヒョウタが自分のことを嫌いだから、嫌うのだとそういう、気はする。だから、ヒョウタにとって、ゲンという存在が稀有なものだとしたら、ナタネの対応はどうなるのだろう。
「わかりました、伯母の家から何種類か持ってきますから、ここで待っていてください」
とん、とん、と、ナタネの足音が聞こえる。自分とゲンを通り過ぎて、行ってしまうその姿はゲンの背中で生憎見えない。
Fin
・ゲンさんはたぶん、デンジのことをすきだと思います。
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