本当に、申し訳無いことをしているという、自覚はあった。けれど、だからといって、どうしようもない自分、どうする、気もないから、堂々巡りだ。


 

ゆび


 

 ずるりずるりと、ベッドから這い出て、いろいろこびりついて仕方のない自分の体を洗おうと、浴室に行ったら、やっぱりというか、しっかりと、うん、当たり前のようにちゃんと、お風呂が用意されていた。

ハルカは軽く頭を揺らしながら片手を湯船に入れてみる。ちゃんと、お湯だ。覗き込んでみる。

(真っ赤な目をした、真っ白い顔の、女の子が普通に、映っているよ)

水面に映った自分の顔があんまりにも、健康そうだったからハルカ、はなんだか、酷くがっかりして、それに、「自分の体のどこも、ここへ来る前と変わりがないことを、きっと自分が一番よくわかっているのだろう?」とその、水に映った自分の目が言っていたものだから、気に入らなくて、ばしゃり、と水を殴りつけた。水の中の自分がゲラゲラ笑うように歪んで、ゆらゆら、ハルカは湯船に飛び込んだ。

(何か少しでも、変化があればこの空間は簡単に壊れるのだということを、ハルカはちゃんと理解していた。たとえば、普通に、ハルカが「ダイゴさん愛しています」とでも、本当に、言ってしまえば簡単に。全てはいろいろ、終わってくれるのだろう。その、終わりが一体どういう形で、ということはさすがにハルカもまだ、予想はできないけれど、でも、その「終わり」を迎えるよりは自分は、こうしてこのまま、生ぬるい風呂に永遠と浸かっているような、そんな感覚のままでいいとさえ、思っている)


「あぁ、おはよう。ハルカちゃん」
「おはようございます、ダイゴさん」

にっこりと、微笑んだダイゴが迎えた。リビング、朝の光がさんさんと、ふりそそいで今日も今日とて、とてもいい天気だ、いい感じ、はどこのチームの口癖だったか。ハルカはトーストにバターを塗っているダイゴの傍に近づいて、自分も、向かいの椅子に座った。

「ハルカちゃん、ミルクでいい?」
「いいですけど、冷たいのはいやです」
「あはは、ちゃんと砂糖入れてあっためてあるよ」

ダイゴは立ち上がって、キッチンへ消えると、軽く湯気のたったマグカップを持ってくる。ハルカは受け取って、ソロソロと口をつけた。甘い。

「今日は僕、少し遅くなるかもしれないけど」
「別に、平気ですよ」
「戸締りはしっかりね。最近、この辺りも物騒だから」
「大丈夫ですよ」
「うん、そうだね」

手を伸ばして、ダイゴはハルカの頭を撫でた。心配だなぁ、と苦笑しているのがよくわかる。ハルカはホークを伸ばして、ダイゴが焼いたオムレツを切って口に運ぶ。ダイゴがふわふわ笑って「今日はチーズを入れてみたんだ」と自慢げに言った。

ハルカはダイゴの言った、物騒なこの辺り、について考えてみたけれど、考えてしまっても結局、何も変化など起こるわけがないとわかっているので、考えるのを止めてしまった。物騒、な外も、このテレビもラジオも、大体新聞さえ来ないこの場所では、何もわからないし、その物騒、がハルカの周りに潜んでくる、実力があるとは思えなかった。

(そういえば、一週間くらい前ハルカが一人で眠っていると、外が真昼のように明るくなって、人の悲鳴に似たものが聞こえたけれど、あれはつまり、そういうことだ)

「ダイゴさん、」

何かを言いかけたハルカは、ガシャン、といろんなものを倒したり、落としたり、崩したりして机の上に乗っかったダイゴに、襟首を引っ張られて、そのまま息をふさがれる。

(いろんなものが、壊れて落ちた)

「……朝ですよ」
「わかってるけど、なんとなくね」

ぐいっと、ハルカは唇を拭って、いろんなものを壊しても、ダイゴさんが何とかしてくれるからいいかと、気安く、それに諦めもあって、ガシャンガシャと、テーブルの上に乗っかって、身を引いたダイゴに近づく。
椅子に座りなおしたダイゴのスカーフを引っ張って引き寄せると、今度はハルカから、唇に噛み付くように吸い付いた。

(生暖かい自分の舌と、別の意識で動く舌が触れ合った。吐き気がする。さっき食べたオムレツの生暖かさとは違うし、半熟のあの、ドロっとした感じ、とも違う)

そういえば、ハルカはポケモントレーナーではなかったから、ダイゴさんに教えてもらったことって、思えば、あまりないことに気付いた。ダイゴさんはポケモンと、石に詳しい。きっと、他の事もいろいろと、詳しいのだろうけれど、ハルカはユウキよりも、ダイゴに教えを受けることが無かったと思った。

(コレとか、アレは、でも、教えてもらいたいって、言った覚えはない)

いつのまにかテーブルを乗り越えて、ダイゴの目の前に腰掛けるように、つまり、両足をテーブルからぶら下げて、椅子に座っているダイゴの前に、座っている、ハルカ。

全身の体重をダイゴに預けてしまえば、支えるのは自分の両腕だけで、その、不安定さは今更恐れるようなことはないような気がして、ハルカはダイゴの膝に体を乗り上げた。

「朝から何やってるんでしょうね」
「お箸の先にあったんだから、仕方がないよ」
「ホークでしょ、持ってたの」

折角整えた赤いバンダナも、ダイゴの赤いスカーフも床に落ちて、折角上げたファスナーも、閉じたボタンも、だらしなく、あいた。

「気持ち悪い」
「ハルカちゃん、それ今言うかなぁ」

ぎゅっと眉を寄せて、ダイゴの肩に額をつけたハルカが小さく呟く。ダイゴはへらりと笑って、子供をあやすように、左の手でハルカの頭を撫でた。右の手が容赦なく、いろんなところを触ってくるものだから、ハルカはいっそ、ここで吐いてやろうかと思いながらも、今食べたものは、しっかりと自分の体の栄養になって、消化されるんだろうと、思った。(だって、ダイゴさんが作ったものだから)

「ダイゴさん、ダイゴさん」

ハルカは蟲が自分の体を這っているんだと、思いこもうとしたけれど、その、はっきりとした意思を持っている細い指がちゃんと、いろんなところを、いろんな線を描くものだから、次第に、耐えられなくなった。

「……っ」

極めつけに、真っ赤な赤い後が自分の臍の下にしっかりと、付けられてしまって、ハルカはもうダメだと、息を吐いた。

そして、その堪えきれない衝動は、真っ直ぐにハルカの白い腕がそろりとダイゴの首に掛かっていたのが解かれて、真っ白い指が、ダイゴの首に絡んだ。

 真っ直ぐな、綺麗な鋼色の目にハルカの姿が映る。何も変わっていない、ここに来る前と、変わっていない、細い、ちっぽけな体の、自分だ。(戸惑っている表情すらも、変わらない)ハルカは目を伏せたかったけれど、その、ダイゴの目の中の自分が目を閉じてくれないから、伏せられなかった。ギリギリと、ハルカの指先に力が篭る。それでも、ダイゴはハルカの体に這う指を引っ込めてはくれなかった。

「……か、はっ」

堪えていることが難しくなったらしい、ダイゴの綺麗な顔が歪む。そして、暫くするといつものように、男の強い力でもって、ハルカは壁にたたきつけられる。ダイゴは何度も何度も、確認するように息をして、整えてから、ぼんやりと、壁の傍にいるハルカを見つめるだけだ。

(いっそ、憐憫でも向ければいいのに)

ハルカはギリギリと奥歯を噛んで、立ち上がって、また、ダイゴの傍に戻る自分を嫌悪した。そして、その嫌悪感も、ダイゴの白い首筋に、自分の小さな手のあと、指のあとが、赤くくっきりと残っているのを見ると、嘘のように掻き消える、そして変わりに浮かび上がる、高揚感。

「ハルカちゃん」
「気持ち悪いです」

二人同時に言って、ダイゴはハルカの腕を引っ張って、そのまま、首に噛み付いてきた。テーブルの下だ。今度は、背中に生ぬるい感触がした。きっと、食べられないで生ゴミになった、ダイゴの作ったサラダか何かだろう。体をひっくり返されて、床に顔が着いたらきっと、ハルカはそれを舐めるだろうと思った。それは、気持ちが悪い、にはきっと、入らない。

(いたい)

ダイゴが傍に居る。どちらの吐いた二酸化炭素かわからないくらいに、近くにいる。ハルカはカチカチと眩暈を覚えながら、今、自分がいったいどういう風に、なってしまっているのかをぼんやりと考えた。
失踪・家出にはなっていないだろうとは、わかる。ダイゴのことだ。しっかりと、ハルカという存在を、しっかりと、存在させたまま、それでいて、世界から消えてしまっても何の違和感もないようにいろいろ、しっかり、してくれているのだろう。だから、きっと今、ハルカが少しまえまで当たり前に過ごしてきた世界は、今も何も変わっていないだろう。両親は相変わらずハルカを愛してくれていて、ちょっとだけ、心配してくれていて、ユウキは時々、センリさんとバトルなんかしたりして、ポケモンリーグを目指す少年少女とか、コーディネーター志望の少年・少女とか。そういう風に、世界は何も、変わらないだろう。
思えば、自分なんていう、ただの女の子に、世界を変えるなんてすごいことができるわけもない。たとえば、カイオーガのような生き物なら、存在が消えたり、浮かび上がったりするだけで世界は異変・変異・騒動・動揺に包まれるのが道理だとしても、ただのハルカ。小さなハルカが、消えたところで、何も変わらないで、世界が存在し続けるのが、道理だ。

「ダイゴさん、痛い」
「ごめんね、ごめん、ごめんね」

時々、というか、ハルカがダイゴを見上げるたびに、ダイゴはそう言って、笑う。笑いながら、ハルカの頭を抱きしめて、小さく震えている。ハルカは最初、ダイゴがこの、いろんな行為に罪悪感でも覚えてくれているのだろうかと笑いたい気分だった。

「ごめんね、ハルカちゃん」

けれど、最近になって、気付いた。

小さく震えているダイゴが謝っているのは、自分に対して、で、それは間違いないのだけれど、その、謝る前提、が、ハルカの想像とは違っていた、らしい。

(ダイゴさんには、はっきりとした自分がない)

だから、相手が望む姿を演じる。仮面を被る。今更だ。そんなこと、出会った最初っから、知っている。だから、きっと。

(考えるな!)

ここにいれば、いろんなことを考えないですむとハルカは思った。ここは世界とつながっていないから、普通は、考えなければならないことを、普通と思わないでいいところだった。「逃避じゃないよ」とダイゴが笑っていた。その、笑った顔は子供の頃おもちゃを取られて泣いていたミツルの顔に似ていた。

ハルカはダイゴが好きだった。ダイゴは、だから、ハルカをここに連れてきたらしい。ダイゴがハルカのことをどう思っているのかを、ハルカは考えないですむ。ここにいれば、存在している自分以外の生き物はダイゴしかいないから、その、ただ一つしかない生き物に好かれていようと嫌われていようと、何か理由があろうとなかろうと、そんなものは、ここでは、関係のないことだと思えた。

「ダイゴさん」

ごめんなさいと、ハルカはその最後だけを言えずにただ、熱の篭った目でダイゴをじぃっと見上げてそのまま、目を伏せた。

(本当に、申し訳無いことをしているという、自覚はあった。けれど、だからといって、どうしようもない自分、どうする、気もないから、堂々巡りだ)

 

 


Fin


・ダイゴさんが謝っているのは、こんなことをしたいわけじゃないのに、しないと、ならない自分の仮面性に対して謝っているんです。ハルカがそれを望んでいるとわかっているから、本当は、もっと違う愛し方があるのに、自分には「個」がないばっかりに、こういう、箱庭の中にハルカを連れてくるしかない自分に、謝っているんです。って、言わなきゃわからないですね…未熟者がぁああ!!(2007/5/2 21:37)