が怪我?それなら私でなくて、」

明け方の唐突な訪問者、無礼とは思わないながらも、それがこの街で見慣れた彼のいつもの妙な格好ではなくて、シックな黒のスーツに身を包んだロブ・ルッチ、ともなれば対応も変わるものだ。それでは寝起きの目を擦りながら、ルッチを店内へと通し、(未婚の女性の部屋に男を招くようなまねはせぬ)軽く身支度を整えるから少し待て、とそういうつもりだったが、その訪問者はそんな時間さえ惜しい、というのだ。

それでは不本意ながらも寝間着姿のままで椅子に座り、ルッチに説明を求める。この水の都では無口な変わり者で通っている男。しかしその実態はどう聞いても脅えしか含ませられぬ政府の諜報員。因果なものでそれなりに面識のあるは彼らの潜入後にこの街に流れ着いたのだけれど、そこで見知った顔に驚いたものだ。しかし魔女の悪意は、人の謀をただ黙ってみているもの。それはとてそう変わらぬし、何がどう正しくて、何がどう間違っているのか、それを判じてどうこうするだけの熱意もなかった。それで、ただ黙っていると、いつのまにか水の都の船大工、のふりをしていたロブ・ルッチもの正体に気づいたらしい。

そうして、それでの訪問か。こうしてこの男が直接、CP9のロブ・ルッチとしての装いでの前に現れることは初めてで、しかし、短く語られる言葉「パンドラが負傷した」とのこと。

パンドラ、とルッチが指す人物はエニエスに封じられている、あの美貌の屍ではない。明るい髪に青い瞳を輝かせて仄暗い悪意を引きずり世と海を渡る少女のこと。確か、、と、今はそう呼ばれているはずだ。の脳裏に、の姿が浮かんだ。

あの子が怪我をした。それなら呼ぶべきなのは医者、いや、そもそもとは不老不死。医者の助けもいらぬうちに、まるで窓ガラスについた汚れをさっとぬぐうように何もかもが元通りになるはずだ。そういう目を向けると、ロブ・ルッチが顔を顰めた。おや、と、は首をかしげる。

「何か理由があるのね?話して」
「今ここで話すべきではない」
「聞かなければいけないわ」

確かにについての情報は、このように太陽の光が降り注ぐ平和な場所で堂々と流されるべきではない。それはにもわかっているのだが、がけがをした。それで、が呼ばれる。と、なればそれは、大それたことだ。

「準備が必要かもしれないのよ」

ぽつり、とは小さな声でつぶやく。

は数年前にマジョマジョの実、モデル「サンドリヨン」を口にして、古き魔女「ベレンガリア」の力を得た。世に存在する他の魔女らとは階位から違う、例外的なその魔女の名は、の、正確には冬薔薇の刻印によるの傷をいやすことのできるたった一人の人物だ。

数年前に、当時は中将だったサカズキにより、冬薔薇の刻印を刻まれたは、文字通り首に鎖をつけられて政府の監視下に置かれている。それは政府にとって歓迎すべきことのようだったが、その使い手、サカズキがにひどい暴力をふるい、またはが癇癪を起して封じられた領域までの力を扱おうとすると、薔薇の刻印の戒めを受け、身も心も酷い深手を負うものだから、ややこしくなっている。

それで、の力がいま、政府には必要なのである。世界政府にとって「魔女」とは始末せねばならぬ存在だが、しかし、今に手を出せば、を治せる者がいなくなる。は政府が「そう」と認めるまでは日々命を狙われていたけれど、その価値が容認されて以来、政府にとってはうかつには手出しできぬ存在となっていた。

「必要なものはあちらで用意する」
「魔女の薬も?」

そうして今回のの負傷。が呼ばれたのだから、薔薇の封印による怪我なのだとはわかる。しかしの知る情報では現在あの大将殿はから離れた場所へ遠征に出ているはずだ。あの大将がいないのならが怪我をするはずがない。放っておかれればは自分で血を流すような愚かしいことはしないはずだ。

それなら今回のことは、何か事情があろうと見当つけて問えば、ルッチは舌打ちをした。別段は嫌がらせで長々と話しをしているわけではないのだえれど、その態度には一瞬苛立つ。どういう状況での傷なのかわからなければ、いくらといえども会ったところで何もできぬこととてあるのだ。

実際にを見てから用意、判断、というのもできるとは思うけれど、の部屋にある、彼女が長い年月をかけて集め、作った魔女の薬をすべて持っていくわけにはいかない。

「話して」

怒りを抑え、はゆっくりと、落ち着いた声で催促すると、ルッチが諦めたように溜息を吐いた。この青年は(は時々この男が子供に見える。まだいとけない少年のように思える)普段自尊心が高いけれど、のこととなれば必要な限り、どんなことにでも耐える。大袈裟だが、正義の目からすれば、は彼らから排除される対象だ。そのの言葉通りになることは彼にとって屈辱だろう。しかし、それでもを救えるのはしかいない、その点がルッチの口を開かせた。

「……器物による身体の腐食化だ」
「器物?」
「詩篇の刻まれているものだ。知っていると思ったが」
「えぇ、それはわかっているの。でも、それは、確かシェイク・S・ピアが回収するって、そういう取り決めのはずよ?」

この世にいくつか散らばった、魔女の調度品。リリスの日記の一文が刻まれたそれは不思議な力を宿し、世に幸い、あるいは厄災を放っている。数年前、ボルサリーノの溺愛していたピアという少女が本当に偶然にリリスの日記の鍵を開けてしまい、詩篇の回収人「詩人」となった。
海に散らばる魔女の悪意をピアが回収し、それを封じる。それが彼女の願いの対価であり、それを問題なく行うために、ピアは政府よりマジョマジョの実のモデル「ペルル」を盗み逃走した。
魔女が誕生した瞬間、はそれを感じ取り、彼女の運命に同情したものである。

その、ピアが回収するはずの器物により、が怪我をした?

が眉を寄せると、ルッチが憎々しげに目を細めた。

「パンドラのお気に入りの海賊が、器物による呪いを受けた。気分を害した彼女は自らが器物の封印を行ったようだ」

かなりオブラードに包まれていっているが、にも理解できた。の気に入りの海賊。おそらくは、昨今造反したという赤旗X・ドレークあたりだろうか。そうとは知らず器物に触れて(あれは傍目にはわからぬ)重傷を負ったのだろう。は自分の気に入りのもの、自分のものに傷をつけられることをけして許さない。無理をして、自分で無理やりに詩篇を回収したのだろう。

「………馬鹿なことを」

本来のの力なら、詩篇の回収などさほど難しいことではないとも知っている。しかし、封じられた身でそのようなことは、愚かしい、としか言いようがない。その結果がわからぬでもなかったろうに、それでも無理に力を使い、そして薔薇の報いを受けた。

「……急いだ方が、よさそうね」

ぽつり、と小さくがつぶやくとルッチが立ち上がった。


 

 


 

 

 

 

 

キミを愛する、たぶん

 

 

 

 

 


 

 

 


持ち物はカートのついたトランク一つ。世の医者が持ち歩くような革の鞄でもいいのだけれど、持ち運ぶモノが薬やら瓶やら液体やらでなかなかの重さになるからと、はカートを好んでいる。厳重に「取扱注意☆どうなっても知らないわ」と書かれた張り紙をぺたりと貼って、は店を出た。

朝早い時間のためか駅にはほとんど人がいない。人目を避けてルッチが移動したため、途中で知り合いに会うこともなかった。もしガレーラの職人にでもあったなら、このハト男…じゃなかった、優秀な船田大工はどう言い繕うつもりなのだろう。

「駆け落ち設定だけはごめんこうむるわ」
「…なんだ?」

思わずぽつり、と呟いた言葉にルッチが振り返った。ハトを使った腹話術ではないのが惜しい。この島でだけ、あの冷静沈着まるでジョークの通じぬつまらぬ男ロブ・ルッチのお笑い芸人顔負けの芸が見れるというのに。

「いえ、なんでも」

はにこりと笑って答え、海列車に乗り込んだ。さすがに自由席では知った顔もいるだろうと、指定席、客室を一つ借りているようだ。座り心地の良いイスに腰掛けて、は向いに座ったロブ・ルッチを、今度ははっきりとした頭と目でもう一度眺めた。

いつも眉間に皺を寄せているが、今日は心無し普段よりきつくなっているように思える。こうしてと向かい合っていても心ここにあらずという様子。それでもが何かしようものなら問答無用で取り押さえられるだろうが。

「心配?」

トランクから魔法瓶を取り出してこぽこぽとお茶を注ぎながらは問いかける。自分で決めた以上に優しい声音になってしまったのはしょうがない。こうして見ると、ロブ・ルッチは本当に幼い少年のように思えるのだ。姉か、母親の気持ちってこんなかしら、とは内心笑い、カップを一つルッチに向ける。

「当然だ」

てっきり受け取ってはもらえぬかと思ったが、意外にもルッチはカップを受け取った。そしてが中身を説明する前に一口飲む。おそらくは毒見のつもりだろう。これからに何かしらの薬を投与するのなら、が扱うものがどのようなものか、それを知るために。

「………」

一口飲んで、ルッチが顔を顰めた。ふわり、とは、それはもう、見ている者が腹が立つほどに愛らしい笑みを浮かべて口を開く。

「わたしが趣味と実益を兼ねて調合した薬茶なの。これまで一口目以降飲めた人間はいないわ」
「そういうものを平気で人に渡すのか」
「選ぶのはいつだって本人ね」
「いい言葉だが使いどころが違う」

にこり、とは笑みを濃くして何も答えぬ。ルッチは無言でお茶の残りを窓の外から捨てた。あら、とは目を開く。

「海を汚してはいけないわ」
「汚染物である自覚はあるのか」

そう言う突っ込みもスルーである。はこぽこぽと自分のカップにお茶を注ぎ、ぐいっと飲みほした。それを見てルッチが顔を引きつらせ何か言いたそうにするが、とりあえずこの件で何か言うのは止めることにしたらしい、深い溜息を一つ吐いてから足を組みなおした。

「本来なら、お前などの存在は許されるべきではない」
「そうね。それでもあなたたち、いいえ、あなたは、私がいなければ何もできない」

真面目トークがしたいのなら、それをあえて茶化す鬼畜さも遊び心もにはない。先ほどまでの調子はひそめて、自分もスカートの中で足を組み替えた。長いロングスカートは時折重苦しく感じるし、行動に不自由に思うこともあるのだけれど、ジョセはいかにも、若い魔女というような、この格好が気に入っていた。そう言えば魔女にはそれぞれ正装があるというけれど、自分の正装はどのようなものなのか。知るにはガラスの鏡が必要だと聞く。その鏡を所持している魔女は誰だったか。思いだそうとして、はルッチの眉が神経質そうに動いたため、思考を戻した。

「パンドラを救うのは、俺だけでいい」
「でも貴方は何もできない」

ぴきっ、とルッチが触れた窓ガラスに亀裂が走った。公共物を破壊するのはよくないとが言えば、ルッチが唇を噛む音がする。

普段このように感情をわかりやすくする男ではないのだが、面白いことに、の前ではたいていの人間がこのように、本心を明らかにする。それが魔女の力ゆえなのか、それとも自身のオプションなのかはわからないけれど。

「お前の過去を、知らないと思っているのか」

反抗、というには聊か可愛らしすぎる脅しであった。は一瞬キョトン、と幼い顔をしてロブ・ルッチの顔を見つめる。己の過去、逆に、知らないほうがおかしいだろうと言えばこの少年はどんな顔をするのか。それはそれで見てみたいという心もあるが、あまり良い趣味とも思えない。それでは、本心は欠片もそのようには思わぬのに、聊か気分を害したような口調で答えた。

「女性の過去を探るのは不作法だと窘められない?」
「それが仕事だ」
「そうだったわね。ハトを使わないとしゃべれない、極度の変人ロブ・ルッチ職長がお仕事じゃなかったわ」

厭味のつもりはなかったが、水の都での彼の様子を思い出し、はおかしくなった。13年前に政府の勅命を受けて、海賊に侵された王国へ赴き、そこの兵士500人をあっさり殺したロブ・ルッチとは思えぬ、愉快な様子。シルクハットと紳士のアイテムなのに、タンクトップにサスペンダー。それでも溢れんばかりの気品やら色気やらはあるとおもしろそうに言っていたのはトカゲ中佐だったか。

「そう言えば、今回の報酬を聞いていなかったわ」

ふとは、思い出したように口に出す。の体を治療する報酬。ルッチが意外そうに顔を向けてきた。金銭に執着するではないことは水の都での経営方針っぷりから知れるもの。自分の糊口代だけ稼げればそれでいいというのがの心。衣服にも拘るわけではなく、客の前に出て見苦しくないだろうまっ白いさっぱりとしたシャツに黒いスカート、それにいつもアイロンをしっかり掛けてある前掛けで十分であった。

「まさか、無償で私が手を貸すと?こんな私に借りを作っていいのかしら」
「望みのものはなんでもかなえる」

即答されて、は首を傾げた。

「それは政府が?」
「今回のことは、俺個人の判断だ。俺が払う」
「あなたの判断?」

おや、との目が細くなる。別段彼女、本気で報酬目当てで聞いたわけではない。今回のこのことは、一体誰の差し金かと、それを探るためだ。

を癒せるという事実は政府では貴重なカードではある。しかし、赤犬がと、ほかの魔女ととの接触を快くは思っていない。だからできる限りがその力を求められて本部に呼ばれることはないのだ。今回のこと、詩篇による腐食化なら、正直は死にはしない。腐食化は一週間で止まる。ただ、普通の人間なら三日と持たぬところをは死ねぬ身体ゆえに激痛と苦しみが続くだけだ。死にはせぬのなら、が呼ばれることもない。

が苦しもうとなんだろうと、正直なところをそれを構う大将、元帥ではないのだ。

「なぜ私を呼ぶの」

ロブ・ルッチの独断だというのなら、それはルッチの身を危ぶめているのではないか。の身はそれほど心配ない。を治すうんぬんもあるが、マジョマジョの実を口にした以上、が死ねば政府はまた、危険なマジョマジョの実の行方を追わねばならなくなる。芽吹く前に見つけられればいいが、もしまたのように、何も知らぬ少女が口にし、世界を敵に回すようなことがあればどうなるのか。政府は危険な賭けをすることになる。

薄情な言い回しではあるが、詩篇程度で死ねるではない。己の身を危険に晒してまで、今回この己を呼ぶ必要がどこにあるのか。そう判じて問いかければ、ロブ・ルッチ、なぜそんなくだらぬことを聞くのかと、小馬鹿にした目をして口を開く。

「あの方が苦しんでいるからだ」

全くと言っていいほど、理由にも答えにもなっていない。いっぺん海に沈んで頭を冷やせばいいのに、とは心の底から思った。



***



エニエスロビーから船で本部へと向かい、そのままマリンフォードの港から馬車で海軍本部へと運ばれた。エニエスから本部までは海軍の船で1時間程度である。長旅、とはいかないまでも、の寝室のある本部の奥へ繋がる回廊へ通されたのは昼の少し前くらいだった。

は久しぶりに訪れる海軍本部に何の感慨もなかった。この場所へ来るときはたいてい良いことがない。以前は何だったか、と思い出そうとして、は首を振った。昔のことなど、思い出してどうするというのか。

好奇の目がに向けられる。海軍でも有名なロブ・ルッチ氏が魔女の部屋へ連れていく女。この場所にいるのは下っ端海兵などではない。大抵が将官クラス、低くても中佐というくらいだ。当然ロブ・ルッチのことも知っていてい、そしてのことも(正確に知るのは准将からだろうが)知っている。その、常の人では入り込めぬ道理の中にいて当然という顔をし、颯爽と歩くを、海兵らはどのように見えているのか。

コツン、との前に海兵が二人立ちはだかった。手には海楼石の手錠。ここより先に進むのなら、魔女、あるいは海兵ではない能力者はその力を封じられなければならない。それに何より、この先には正義を証明するための悪の定義であるがいる。本来海軍本部内でのと魔女の接触は第一級警戒事項に位置するものだ。

の手に手錠をはめようとする海兵をルッチが制した。

「必要ない」
「し、しかし」
「必要ないと言っている」

別に、としては罪人扱いされることに劣等感やら負い目やら羞恥はない。人の決めた法に対しての価値を置いていないと言えばそれまでだが、心から己がどうある生き物なのか思っていれば、他人からの扱いなど、かえってどう思えばいいのかと困惑したくなる。

ロブ・ルッチに睨まれて恐縮する海兵ににこり、とは微笑みかけて「私は構わないわ」と言った。しかしルッチが今度はを睨む。しばらくとルッチのにらみ合い。こちらの体のことなのになぜルッチが拘るのか。規則は守られなければならない。ロブ・ルッチであるのならなおさらではないのか。避難するような眼を向ければぼそり、とルッチが呟いた。

「虚脱感から使い物にならないようでは意味がない。万全のコンディションでいてもらう」

だからどこまでパンドラ至上。本当に、一回海に沈んで頭を冷やせばいいのにとは笑顔を引き攣らせた。





***





パタン、と扉が背中で閉められた。ルッチは扉の前で待つという。本当ならがいる傍らで、を看ていたいのだろうが、の部屋に赤犬以外の男が入ればどうなるのか、それが分かっているからこそ、できるギリギリの処置をしているのだろう。

は部屋を一歩進み、すかさず発動したのトラップを回避した。別段悪意のこめられたものではなくて、大方ディエス・ドレークへの嫌がらせのために設置されていたものだ。それが今も、彼が海賊になった今でも、そのままになっている。ひょいっと、のラビリンスカードを元の形に戻して近くの机に置いた。そう言えばの部屋に、本当の私室に入るのは初めてかもしれない。

ぐるりと見渡すほど広くはない。天涯付きの大きなベッドが大半を占め、金銀、色の美しい石のついた道具があれこれ、無造作に置かれている。宝物の類ではなくて魔女の道具だ。ガラクタの山のように置かれつつ、しかし一つで島を簡単に消せるほどの威力を秘めているものだってある。世への無関心こそがの魔女の悪意。自分が所有しているものが世にどんな意味を齎そうと、ただ黙ってみている。ゴミのように扱う。いや、違う、ガラクタこそをは愛しているのだろう。何の意味もないものをは好む。それなのにの周囲には、以外の人の眼には意味のあるものばかりが集まる。そういうものだ。

アラバスタの特産品のような見事な模様の織り込まれた絨毯は素足で歩いても心地が良さそうだった。猫足の丸テーブルの上には砂金を盛った銀盆が置かれ、上に鉛の針が吊るされている。興味を惹かれて張子に手を置けば、ふらふらと揺れながら絵を描いた。それを見て、ははっとし、砂を崩した。

「……だれ」

真っ白いベールの向こうから小さな吐息に混じった声。掠れているがの声だ。は眉を寄せてゆっくりとベッドに近づいた。玩具箱をひっくり返したような魔女の部屋。その中でひっそり小さな胸を上下させて苦悶に耐えている少女。誰も今この場には訪れることが出来ない。うかつに近づけばの意識されぬ悪意が身を襲う。は同じく魔女であるし、の悪意が効かぬ階位ゆえその心配もなかった。

は静かに天涯を持ち上げてのベッドに腰かけた。小さなの体には大きすぎるベッドは柔らかく、夢の中でも安息ではないだろうにせめて体だけは休められるようにとずいぶん豪華なベッドである。敷き詰められたクッションの中にが埋もれるようにして横たわる。額に浮かんだ汗は赤く血が混じり、布団から出された腕は腐り爛れていた。

「…ベレンガリア…」

の目がを捉え、憎々しげに細められる。はまず熱を取り除こうと額に手を伸ばしたが、その手が乱暴に振り払われた。

「何度でも言いますけれど、わたしは、であってベレンガリアではないわ。それにこんな癇癪、幼い子供ではないのですからお止めなさい」

は酷く傲慢で、そして尊大だった。誰からも傅かれて当然だとありのままに振舞う。しかしぴしゃり、とはそれを窘めるのが常だった。ぴくりとの瞼が震えた。それに気付かぬふりをしては続ける。

「それに、とても心配しているのよ」
「誰が?」
「わかっているでしょう」

聊か意地の悪い言葉になったやもしれぬ。の眼が、悔いるように揺れた。青い眼にどこか遠くを映し、長い睫を伏せる。

「…あの子が大事なのはパンドラの本体だ。こっちの体が傷つこうと、関係ない」
「そうかもしれない。でも、貴女が苦しんでいるのが嫌なのね。どうしてなのか、きっとまだあの子にもわからないのでしょうけど」

は扉の向こうにいるロブ・ルッチの気配を意識した。何をおいてもパンドラ至上のあの青年。は彼が想っているのはエニエスに封じられたパンドラ・リシュファそのものであると考えている。の本体。王国の戦火を免れ生き残った魔術師。しかし、の眼からはけしてそれだけとは言い切れぬ。

「キミの顔を見ていると、昔のことをいやでも思い出させられる」

低くうなるような声を出してがぽつり、と呟いた。を責めている声ではない。しかしその青い眼がこちらに向けられているのに、まるで己を見てはおらぬことが物悲しく思え、は眼を伏せる。

「…わたしの所為ではないわ…わたしは、よ?」
「わかってる。それでも、ぼく一人くらい、そう呼んでいたっていいでしょう?それにね……ぼくは、自分でこうなるってわかってしたんだよ。だから、余計なマネはお止め」

言葉を発するだけで苦しいだろうに、それでもを拒絶するためなら惜しまぬらしい。苦痛にゆがめた顔に、いつもどおりの傲慢な笑みを引こうとして失敗していた。は小さくため息を吐き、を見つめた。

「………あなたは相変わらず我儘で、そして愚かなのね」

こうしている間にも、の体は詩篇、冬薔薇による報復で腐食が進んでいる。そばによれば人の体が、肉が血が腐り発酵している臭いが鼻をついた。体中を覆う茨がの柔らかな肌を食い破り締め付ける。呼吸をして小さな胸が頼りなく上下するたびに荊が食い込み、新たな血が流れ、黒く酸化して固まった。その光景、あまりにも無残なもの。かつて大量の死骸の山をくみ上げたでさえ眼を逸らしたくなる。しかし、それでもは唇を噛んで耐えた。

「あなたがそうやって苦しんでいても私は平気。それでもそうではない人がいて、今、私に頭を下げているのよ。言って置きますけれど、、私は貴女を助けたいわけじゃないの。貴女を案じる人の願いをかなえようと思ってここにいるだけ」

の唇がわなわなと震える。普段、に向かいこのようなものいいをするものはいない。司法の塔のスパンダムや、あるいはインペルダウンのシリュウという看守であればを責める言動をするが、しかし、のように、ではない。が罪人だから魔女だから責めるのではないのだ。をただの女の子として見た時に、その傲慢でわがままな態度を窘める。そういうことをに対してするものは、いない。

屈辱と、そして僅かな怒りを浮かべる、その首をとん、と放す。が悔しそうに目を伏せた。魔女が魔女に対してその傲慢性を振るえるのはその相手よりも秀でる絶対的なものがある場合のみだ。ほかのどんな魔女に対しても絶対的に優位な位置にあるだけれど、とは、サンドリヨンの実を食べた別名、“ベレンガリアの魔女”のだけは、の傲慢性も何もかもが、ただの子供の癇癪にしかならない。

「あなたがどんなにわたしを拒んでも、そんなことは意味ないのよ」

ぎゅっと、の眉が寄る。何か言おうとした唇、しかし次の瞬間が施した癒しの印によってストン、と瞼が落ちた。次第に聞こえてくる寝息にほっとは息を吐く。

本当のところを言えば、に対してこのような厳しい言動をしたいわけではない。にとって、はひたすら幼い、癇癪をぶつける相手もいない、かわいそうな子供だった。それでも、抱きしめて頭を撫でてやっても、彼女はますます殻にこもるだけ。傍目に見て取れる傲慢さ、尊大さがどれほど彼女自身を貶めているのかわかっていても、それでもはそうすることしかできずにいる。

できるのならばを抱きしめてやりたかった。何も怖いことなどないと、あなたは何も悪くはないのだと、そう言ってやりたかった。けれど、それをが望んでいるわけでもない。何よりも、魔女同士がそのようなことをすれば、どうなるのか、それがわからぬではなかった。

だからは、に牙を突き立てる。心が弱っているときでも、どんな時でも容赦なくに厳しい態度を取り、その心臓から赤い血が流れても構わずに、ただひたすら、を苛む。

(……こんなにも、幼いのに)

そっと、の額に汗で張り付いた髪を払った。まっ白い、病人のような肌。普段は薔薇色の頬が今は青ざめている。唇は乾燥し、腐敗化による容赦のない侵食は胸まで来ていた。時折が顔を顰める。眠りの中で彼女が見るのは過去の記憶。本人さえ覚えていないはるか昔のこと。人々に石を投げつけられ、打ちのめされた私刑(リンチ)の記憶。は首から下げたペンダントを外し、の胸に置いた。北の海の魔除けのお守りである。に効果があるかはわからない。けれどは自分が昔の夢を見た時に、これを胸の上において眠ると、もう悪夢は見なかった。夢の中でさえ、魔女には安息というものがない。

「……迎えにくる王子様は、魔女をただの女の子に戻してくれる。そう、期待することもできないのね。

呟きながら、はトランクを開けての治療を始める。魔女の治療は直接薬を飲ませることのほかに、特殊な塗料を使い体に紋様を描くことがある。が得意としているのは薬作りだが、詩篇、文字によって刻まれた悪意は同じく文字、あるいは絵柄でなければ対抗できぬもの。

鎖爛れた腕には緑の紋を、失われた臓器は赤の紋を、とそれぞれ書き記してゆく。細い筆を使うので、意識があればくすぐったそうにするのが常。だからガキライなのかと、そんなかわいらしい動機でもなかろうが。丁寧に処置を施してその上から包帯をゆっくりと巻いていく。

「……王子さま、誰にだって、本当はいるのに、どうして魔女にはいないのかしらね」

世に散らばる魔女たちの願い。永久の責苦から己を救いだし、悪夢を払う口づけをしてくれる、王子様。茨に囲まれた心にたどり着き、あなたがわたしの、と、唯一のひと。マジョマジョの実を口にした時に得た知識で、も「王子さま」の存在を知った。誰にも必ず存在するという王子さま。この世の全ての女の子は守られるお姫様。必ずお姫様には王子さまがいる。

かつてはも、待っていた。月明かりの下、人の謗る声に耳をふさぎながら、いつかきっと王子さまが来てくれると夢に見た。そんな、些細な昔の話。今はきちんと知っている。魔女になった者に王子さまは来ない。

魔女とは、王子さまのいない女の子のことだ。魔女は、お姫様を守るために王子さまに殺される。

ガタン、と部屋の外で物音がした。同時に感じる悪魔の力。はっとは立ち上がって、の体温を確認し、最後の薬を置いてから部屋の外へ飛び出した。

「……随分と、早いお越しですのね。大将閣下」
「誰の許しを得てここにいる。サンドリヨンの魔女」
「閣下でないことは確かですね」

扉や、部屋には欠片もダメージを与えていないところはさすがというか。しかし飛び出した先、建物は軽く焼け落ちていた。自分が心配することでもないが、これは軍法会議ものではないのかとそんな疑問。政府所有の建物をあっさりと破壊行為に走る、ドS亭主…ではなかった、現の飼い主、大将赤犬サカズキ。

足元にはロブ・ルッチが体を押さえつけられて苦悶の表情を浮かべている。CP9最強の名を頂く彼といえども、最高戦力には劣るもの。しかしそれでも、呻き声も上げず(おそらくはに聞かせないため)そしてが最後までの処置を終えるまで赤犬を足止めしていたのだろう。

真っ赤なスーツに薄い色のシャツ、大胆な開いた胸元はどこぞの組長を思わせるが、そんなまっとうな(?)男でもない。現れたに明らかな敵意を向けて立ちはだかった。

「わしの許可を得ず、あれの半径3キロ以内に入ることは認められんはずじゃったがのう」
「それならは残りの数日自らの体が腐りただれていくのを生々しく感じ続ければよかったとおっしゃるのですね。さすがはドS亭主…いえいえ、海軍本部大将ですこと」

目を細めて、はスカートの裏に隠したタロットカードに触れた。マジョマジョの実を食べた女は魔女になるが、といってと同じ能力を得るわけではない。少なければ1つ、多ければ4つ程度、世に「魔女」と言われた要素のある力を使えるだけだ。はマジョマジョの実と相性が良かったのか3つの力を手に入れた。一つは薬の知識、もう一つは触れた対象の内側を見る力である。

「私に手を出せば、今後を治療できる者がいなくなるわ」

しかし大将は容易く触れさせてはくれぬだろう。が危険を冒してまだで海兵に、政府に関わるのはただ一度でいいから、赤犬に触れることだった。触れてその力のすべてを使い、この男が「どこまで理解しているのか」とそれを探りたかった。

こうして今にも殺されそうな状況なら、触れる可能性もある。ぎゅっと手のひらを握りしめて足を引くと、赤犬が目を細めた。

「本気で言うちょるわけじゃあなかろう。貴様がそんなものいいをするつまらん女なら、とうにわしが殺しちょるけぇの」
「……ということは、今も殺されずに済むということね」
「気にはいらんが、あれを治した結果は変わらん。元に戻せちゅうほどわしは鬼ではない」

いや、あなたなら言いかねない、と押さえつけられていた体制から解放されたロブ・ルッチの目が真剣に言っていた。それがおかしく、がくすりと笑うと、その途端、の体が壁に叩きつけられる。

「……か、は…っ」

受け身を取る余裕もなく、強かに背を打ちは仰け反った。あえて能力を使わぬ赤犬の蹴りは、当然加減に加減を加えられていたのだろうとはいえ、生身の、所詮はか弱い女の身には応える。ずるっと、床に崩れ落ちて、は髪を引き無理やり上を向かされた。

「殺しはせんが、制裁は加える。わしのモノに手を出すっちゅうことがどういうことか、例外なんぞ認めるつもりは欠片もない」
「……それは、それは……」

頭皮が引っぺがされる、強い痛みを感じた。顔をしかめながら魔女特有の矜持、どのようなときでも己の本分を忘れぬ心が働いて、自分の髪を掴む赤犬の手に触れようとした。

しかし、その指先が触れる前に、ぱっと、赤犬がを放す。どさりと落ちて、痛みをじんわり感じながらは目を細めた。今のは偶然にしてはタイミングが良すぎる。この男、まさかの力を知っているのだろうか。いや、そんなはずはない、とは自分に言い聞かせる。しかジョセの第二の能力は知らないはずだ。知られれば政府がまた手を出してくるだろうほどの力。は魔女の力について公言はしない。たとえそれが赤犬相手でも、だ。

じっと、は赤犬の真赤に燃える瞳を見つめる。その敵意に満ちた目にの顔が映し出されている。どくん、との体が脈打った。

(……この男は知っている)

の力、だけではない。それによって何を暴かれるのかわかっていて、今を拒絶した。の目が見開かれる。

「それなら、あなたは、」
「はいはいはいはい、ちょっとストップ本当、なんでいっつもおれが止める役?」

何か、底知れぬ、何かを口に出せば核心をつけよう、その途端であったのに、対峙する二人の間に氷の壁が出来た。冷える空気がを包み込む。ふわり、とジョセのスカートが膨らんだ。

「クザン、貴様はようけ邪魔する男じゃのう」
「こっちの魔女はおれの管轄下だったと思ったけどな。手ぇ出すのは違反じゃないのか?サカズキ」
「貴様の躾がなっちょらんようじゃ、わしが怒らんと思えるんか」
「言っとくけどさ、に手とか出したら本気で怒るよ?おれも」

大将青キジ。は口の中でつぶやき、自分がその男の腕にひょいっと抱き上げられていることに気づいた。打ちつけられた背が熱を出していたがクザンの冷たい手によってやんわりと冷やされる。一種の心地よささえ感じて目を細めていると、クザンとサカズキ、大将同士の睨み合いが続く。

「よかったじゃないの。も元気になるし、大事を取ってしばらく安静にしなきゃなんねぇんだから、サカズキが付きっきりで看てるのもありじゃないの」
「なぜわしがあんなもののために時間を割かねばならんのじゃァ。あれは罪人じゃろうに」
「え、じゃあおれが傍にいてもいいの?かわいいだろうなぁ、熱っぽい目で水とか飲む

げしっ、と次の瞬間クザンの体がそれはもう見事に砕かれた。結構本気のサカズキの蹴りである。当然はその前にクザンが下しているため被害はないが。

そのまま無言での部屋に入っていくサカズキ、そのあとをクザンも同じく無言で見送って、くるりと振り返った。

「とりあえずロブ・ルッチはそのまま医務室。はおれと来ること、いいね?」

大将の指示に逆らえるわけもない。はできれば遠慮こうむりたかったが、今の礼もあるので素直に頷いた。



 

 


***


 

 


とん、と、クザンの後を付いて行きたどり着いたのは海軍本部“奥”に位置する中庭だった。まっ白いベンチにブランコのあるこの場所。が遊べば可愛らしく見えるだろうと思うと表情が緩む。それに気づいたかクザンも「ここはの気に入りの場所だ」と説明をしてくれた。よくここでお茶を飲むのだという。その時はあの赤犬も参加しているのだろうかと疑問に思い、想像したら似合わなかったので止めた。

「さっきはありがとう」
「悪いね、もうちょっと前に助けてあげられればよかったんだけど。こう颯爽とさ、の王子さまみたいに」
「あなたは王子さまってガラじゃないわね」

クザン、と昔の通りに呼べばクザンが顔を顰めた。

「すまねぇな、遠いところ呼び出しちまって」
「構わないわ。それにしても、今回はちょと酷すぎるわね。詩篇による腐食化、だけではなわ。あの子、何をしたの?」
「まぁ、いろいろな」

は問うたものの、本心からの怪我の理由をクザンから聞きたかったわけでもない。からすればロブ・ルッチの説明で十分だった。何か、くだらぬことを聞くことで青キジとの間にある奇妙な氷の壁を意識せぬように、その為である。

「それで、私に何か御用?」

ただクザンは助けてくれただけではあるまい。それならをここへ連れてくる必要はなかった。一歩距離を置いて見上げれば、油断ならぬ、という眼をクザンが向けてくる。それでもぽりぽりと頭を?いて、普段のけだるさをクザンは前面に押し出すのだ。

「あぁ、ちょっと、おれときてくれる?通信室まで」

通信室、大将が口に出す場合それはマリージョアの五老星への直通電話を指す。びくり、と一瞬の身体が震えた。しかしそれを面には出さぬように手のひらを握り締め、首を傾げる。

「日暮れまでに戻れるのなら」
「ありゃりゃ、その後食事に、って思ったんだけどねぇ」
「店を開けないとならないの。ごめんなさい、貴方がお店の売上に貢献するつもりがあるのなら、歓迎するけど」

日はもう高くなり、昼時。これからマリージョアのあのお偉方とやり取りをしなければならないのなら、ここを出れるのは程よい午後のお茶の時間、と言った頃合だろうか。思ったより時間は掛からなかったとはいえ、店を休む知らせを出していない。突然休めば店の信用問題になるとの美学である。

「経営、上手くいってないの?」
「困ってはいるわ。求婚者が多すぎて」

冗談めかして言えばクザンが顔を顰めた。それには本当に笑い、ころころと喉を鳴らしては首を振る。

「安心して頂戴。もう小娘じゃないのだから、一々ロマンスは求めない。駆け上がったばかりのお嬢さんでもないし、一夜の恋もしない」
「…ひょっとして、おれ責められてる?」
「いいえ。私はあなたを利用するために近づいたし、あなたも私を監視するために引き入れた。私が恨んでいるのなら、同じくらいあなたは私を恨んでいなければ釣り合わない」
「……それは、おれを買い被ってるでしょ」

ぽりぽり、とクザンが困ったように、若干照れたように頬をかく。は笑顔を浮かべてクザンの頬に手を伸ばした。昔のことを思い出す。ほんの一時のこと。些細な出来事だったといえばそれまでだ。別段には、あのときのこと、あの頃のことがトラウマになっているわけでもない。それに、クザンが自分を恨んでいないことは、こうして会わなくてもわかっていた。絶対に、この人は自分を裏切らない。そういう確信がある。たとえ裏切ったとしても、それはクザンが大将であるからで、が魔女であるからだ。クザンという一人の男はを裏切りはしないし、見捨てはしない。

「おれを信じてくれてるの?
「私はあなたを知っている。そこに信頼があるかないか、それは関係ないわ」
「……手厳しいね。ほめたと思ったら突き落とすの?流行ってるツンデレってやつ?」

困った笑い顔。は目を細めて、クザンがこの数年どれだけを政府から退けてくれてきたのかを知った。先ほどの赤犬との会話から何かしらの取り決めが政府と大将の間でされていることは推測された。その何か、を知るために今クザンに触れ、そしては、それでもやはり自分がクザンを愛することはないのだとわかっている。

「やり直さねぇか」
「無理ね」
「即答?少し考えてくれないのか?」

少しだけ怒ったような声。別段クザン、男の矜持うんぬんゆえではない。ただ、そういう声を出せば、少ない可能性も僅かでも、どうにかならぬかとそういう打算。はクザンのそういうところがキライではなかった。けれど、二人はもう「終わってしまった」関係で。それを元に戻そうという気は、結局のところクザンにだって本気であるわけではないのだろう。

「だって、とても長い時間考えたことだもの。今更考えたって、答えは同じよ」

たくさん、泣いた気がする。たくさん、悩んだ記憶がある。それでもはもうクザンの胸で泣く事はないだろうし、クザンのことで悩むこともないと自分で決めていた。

『わたしには敵がいる。わたしを愛人にしなさい、海軍本部中将』

荒地を抜けて、荒野を渡り、たどり着いたその場所で、偶然出会った長身の男に、挑むように言った。あの頃の己はただ幼く、そして無力だった。脳内に響き渡るベレンガリアの魔女の声に苛まれ眠ることすら間々ならず、それでもその瞳ばかりは敵意に光り輝いていたと、そう、後にクザンが語った。

その、己自身で魔女と名乗り、愛人にしろと要求してきた、まだほんのいとけない少女であったを、クザンは抱き上げた。

『おれは魔女を理解したい。だからお前さんを守るよ』

は、王子様など信じていない。あるのは打算、たくらみ、利害の心。女であることで身を守ったのではない。は魔女であることで身を守った。たとえばクザンという男は、目の前にブロンドに豊満な体の美女が誘いをかけたところで、ただの戯れくらいはするだろうけれど、本気から己の巣に、心に置いたりはせぬのだ。が一番最初に利用する人間としてはlクザンほど適役はいなかった。

同じようにクザンもを利用した。だから、双方に比は何もない。

「おれは本当にお前さんが好きだったよ」
「わたしもあなたを愛せたらよかったわ。それは本当よ」

言えば力強く抱きしめられた。はその大きな体を抱き返し、しかしその間も左手が容赦なくクザンから情報を抜き取っている。そんな自分に嫌になる。は、王子様など信じていない。それでも魔女が王子さまを待ち望むその心、侘しさは何なのだろうかとに問うてみたかった。自分に手を差し伸べてくれる人がいる。こうして、何もかもを捧げてしまえるだろう程の人がいる。それなのに、けして愛せぬのだ。だからは魔女のままだった。王子様がいない、というのは少し語弊がある。正確には、には自分の王子様、と思える人がいない。人が、愛することをただ黙ってみている。それが、の、魔女の悪意というものだ。

(ヘンね、別に、誰も傷つけたいわけではないのに)

クザンの後頭部に腕を回しながら、分厚い唇を指でなぜ、は息を吐いた。



 

 

***


 

 


『ジョルゼル』

一人通された部屋の中には、映像用の電伝虫と、通信用のそれが一匹ずつ待ち構えている。見える映像は五人の老人、そのうちの一人がゆっくりと口を開いた。

「……おじいさま」

静かには膝を折り、面を崩さずに身を起こす。丁寧な挨拶の仕方は魔女の血に習った。別にこちらが作法に則ろうが無作法に振舞おうが、画面の向こうの老人たちは気にもせぬだろうけれど。

久しく呼ばれぬ名を、彼らは当然のように扱う。その度には声を張り上げて否定したい衝動に駆られた。いや、己の名、本名は確かにジョルゼルであるけれど、しかし、その名を呼ばれることが嫌だった。

そんなの動揺への配慮などなく、老人の一人が問いかける。

『魔女を苛んだ器物は?回収できたのか』

の治療をしたこと、彼らはとうに知れていたらしい。いやロブ・ルッチが事前に彼らに報告していたのだろう。は、政府監視下にある魔女だ。その行動を強制するのであれば、上に報告義務がある。のためといいながら、ルッチは、赤犬には逆らいこそすれど、やはり彼は、筋金入りの政府の役人だ。感心し、は首を振る。

「わたしに詩篇の回収は出来ないわ。、悪意の魔女が回復し次第、その身が刻むでしょう」

今回確かにが無理やり器物から引き離した詩篇による、の腐食化を治療した。それなら同時に、詩篇を回収することが出来たのではないかと、そういう確認。

『魔女の素養があるのなら、お前にも詩篇の回収が出来るのではないか?』

老人の一人が解せぬ、というように眉を跳ねさせた。詩篇、詩篇。詩篇の回収、封印ができるのは詩人だけだ。世界がどれほどの猛者を擁しようとも、彼らの正義を証明するための、悪の定義の教本は、魔女だけが閲覧し、そしてその回収は詩人だけが出来る。

はふと、違和感を覚えた。なぜ、彼らは「が詩篇の回収を出来るのか」を聞くのだ?

の身を苛んだ器物なら、が己の領分と意地で回収する。それで問題はないはずだ。今回のことに、関しては。

世に散らばる詩篇の回収は、詩人の仕事。今回は特例だ。詩篇を世に撒いた魔女であるが回収できるのは道理。しかしそれ以外の手段は、詩人と呼ばれる者でなければならぬ。

その詩人は、世にどれほど魔女が存在しようと、たった一人だけのはずだ。

「……詩人は世代一人のみのはずでは?」

顔を上げぬように己に言い聞かせながら、は問いかけた。彼らは、己らのために人工的に詩人を作り上げた。それが、今は「荒地の魔女」とされているシェイク・S・ピアという少女だ。

『シュエイク・S・ピアは危険因子だ』
『何を考えているのか理解できない』
『肉親の命でさえ、あの娘は捨てて逃げ出した』
『詩人でなければとうに捕らえているものを』

(あなた方が、彼女を詩人にし、世に解き放ったのではないのですか)

口々に言う老人たちに、は喉まで出かかった言葉を押し殺し、手のひらから血が出るほどに握り締める。いや、まぁ、確かにピアが何を考えているのか理解できない、と言うのは同感だが、まず魔女を理解できると慢心するほうが間違っている。まぁ、それはどうでもいいとして。

そうして、を次の詩人に仕立て上げるとそういうことか。不可能、ではない。しかしそれにはかなりの人間の犠牲が必要だ。報復すら厭わぬ、とそれが政府の方針であることは自身身によく刻まれて知っている。しかし、あの、幼く穢れを知らなかった少女を犯罪者に仕立て上げて、己らのための手足としていながら、あっさり切り捨てようとするその性根ガには気に入らぬ。

(現実なんて、こんなものかしら)

年を重ねるごとに、夢を見る心が失せていく。それなら、魔女なんて何年もやっていれば心が歪んでもしようのないことなのかもしれない。


 

 


****

 

 



海軍本部を後にして、さぁ水の都へ帰ろうというの背に少女の声がかかった。振り返るとそこには、ロブ・ルッチに抱きかかえられた、ショールでぐるぐる巻き状態の

「待って、ベレンガリア」
「だから、何度も言いますけど、私はで、ベレンガリアではありませんよ」

もうお決まりのセリフであるが、言わねば気に入らぬ、というのもの意地。言えばの眉が神経質そうに動いた。こういう顔はルッチに似ている。が似たのか、それともルッチかとそういうことはどうでもいい。は表情を柔らかくしての額に触れた。

「一週間は安静になさいね。あなたなら三日で回復するでしょうが、それでも今回は特別だったんです」
「このぼくに説教なんてするんじゃあないよ」
「友人としての忠告です」

おや、とが面白そうに笑った。

「ぼくの友達はSiiだけだよ」

それでもころころと喉を震わせて笑う。声を上げるくらいの気力はあるようだ。それで、は己に何の用かとそう聞けばが「そうそう」と思い出して手を叩く。

「不本意ながらきみに助けられてしまったからね。ぼくからも何かお礼しないと気に入らないよ」
「そういう傲慢な物言いを少しでも控えてくださるのなら私はこれ以上のものはないわ」

キーン、とここで第3次魔女大戦でも開戦しそうな空気が一瞬流れた。しかしはまだ病の身であるし、自身本気でとガチンコすればどうなるのかわからないわけでもない。今ならまだが勝てるだろうが、何しろロブ・ルッチが一緒なのだから、どうしようもない。
双方溜息を一つはき、の頭を撫でる。

「それなら、先ほどあなたの部屋で見た砂盤を頂ける?」
「あれは物を探すときに使うやつだよ?」
「えぇ、わかってるわ。あったら便利だと思って」

嘘ではない。ここ数年、はその力の欠片を利用して、物探し屋をしていた。失せ物を見つける天才であると評判もいい。大抵が水の都の住人が客で、依頼もなくした結婚指輪や消えた猫やらが多いが、近頃は海で行方不明になった家族の消息を尋ねる人もいる。大海賊時代、そしてこのグランドライン、一度別れれば生きて再びである可能性など、どれほどのものか。そういう人が、最後の可能性とばかりにの店を訪れる。その際に、は探す人間の持ち物に触れればある程度のことがわかるのだけれど、長くその人物が使っていなかったり、残された人が触り思いが込められるほどに見ることが難しくなっている。そう言うときに、相手を落胆させてしまうことがにはつらかった。

だから、の持つ、あの道具があれば多少は助けになるのではないか。そう思いついてだった。それだけではないが、それは今は関係ない。の好意の一つにが好意で譲ると、それだけだ。

「ふぅん、ぼくは別に使わないからいいけど、ちょっと調整があるから、そうだね、一週か二週間したらルッチくん経由で届けるよ」
「急いではいないの。でも、嬉しいわ」

微笑めばがぽっと顔を赤くした。こういうのがツンデレというのではないかと時々は思う。は人の素直な礼や称賛に弱い。恥ずかしがってルッチの胸に顔を押し付けてしまうと、そのままくぐもった声を出す。

「べ、別に君のためじゃないよ。君なんかに貸しを作りたくないだけだからね」

だからそれはツンデレのセリフではないのかと、は苦笑し、がさごそとポケットから数枚のチケットを取り出した。は受け取ろうとしなかったので、代わりにルッチが受け取る。

「来月の最初の金曜にお店でピアノの演奏をするの。夜だからお酒もあるけれど、よかったら来て。これはドリンク無料券よ」
「どうせパウリーあたりがバカ騒ぎにするんじゃないのか」
「パウリーは雰囲気は大切にするのよ?」

潜入している先の同僚のことを、この場所でルッチが口にするのは珍しい。への配慮か、それとも少なからずルッチの心にあの船大工が潜り込んでいるのか、は目を細めて観察し、ほほ笑む。

「ありがとう、それならアイスバーグくんを誘うよ」
「ルッチは誘わないの?」

言えばぴくん、とロブ・ルッチが眉を動かしたのがには本当に面白い。は「どうして?」と首をかしげている。人の心にいい具合にトラウマを作るのはの趣味なのだろうか。
それでは、とヒールの踵を鳴らして返すと、そのまま港へと向かっていった。とルッチが見送り、背で揺れる黒髪が潮風に吹く。

傾いてきた太陽を見上げ眩しそうに目を細めてから、は、ゆるやかに息を吐いた。歳を重ねるにつれて、王子さまなどはいないと突きつけられる。のように長い時間を生きれば諦めも付くのか。人を愛さぬこの心は魔女ゆえなのか、それとも本人の由来なのものなのか、それもうもうわからない。

の店に、賞金稼ぎが行き倒れてくるのはその日の夜のことである。



Fin



 

 

 

 

あとがき
全体構成考えたらありえん量になったので、予定の前半部分で終了。もうちょっとクザンとの愛人時代とか書かせてもらいたかったです。悔いがあるとすればその辺も。いやぁ、楽しかったネ。一回データが飛んだので泣きそうでしたが、人間やればできるもんですネ。

いやぁ、楽しかった。塔子さんありがとうございます。ホント、遅くなってすいませんでしたー。