夢を、見た。もう何年も昔のことというのにどうしたって未だに色褪せてくれやしない憎らしくもある昔の記憶。あれは、あの、時は、どうして永遠ではないのかと夢の中でいつもユーリは思う。いっそ理不尽であるとさえ思って腹立たしくなって、それで自分が見ている夢に向かって「でもアンタは死んだじゃないか」と指を指して叫ぶのだ。すると夢の中の、昔のペトロフ家。夕食も終わって団欒と、まんじりもせずソファに座って片手にはポップコーン、もう片方の逞しい腕には線の細い息子を抱いていたミスターレジェンドは(そう夢の中で彼は「父」ではなくミスターレジェンドの装いであり続ける)アイパッチを軽く歪め不思議そうな顔をして、無礼・不遜にも父親を詰る息子に向かい首を傾げて言うのだ。「当然だ。お前が殺したんじゃないか」低く響くその声にユーリは溜まらず声を上げた。






 

 

 

 

あの骨


 

 

 





「僕は悪くない…!!!……っ!?」

ユーリ・ペトロフが目を覚ますと隣でキース・グッドマン(全裸)が寝ていた。

はっと飛び上がったのは悪夢の所為だが、ユーリは飛び上がって布団を跳ね除けた途端、ちらりと見えた肌色、悪夢ゆえに神経が敏感になっていたことが災いし、すぐに「隣で誰か寝ている」と認識、そしてその「誰か」というものがすぐにわかってしまった自分を呪いたくなった。こういうときは悪夢で目が覚め、暫く息を整えていると隣にいる誰かに気付いて、と少々の猶予があるのがセオリーじゃないのかどうして同時に気付いたんだ助けてタナトス、などとユーリは顔ばかりは無表情、しかし脳内でしっかり焦りながら、とりあえず視界に入った男の裸体から目を逸らし額を押さえた。

無意識のうちに自分の尻が痛まないか確認してしまったことについては笑うところだろう。幸い体に事後特有のけだるさはなく痔の心配もなさそうだったが「どうして自分が女役での想定をしてしまったんだ」とユーリはいらん自己嫌悪に陥った。

しかしいつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。できれば悪夢についてあれこれ深刻に悩んだり葛藤したりしたいのだが、この状況で一番頭の中でめぐらせるべきなのはミスターレジェンドについてではなくて現役KOHスカイハイことキース・グッドマンがなぜユーリ・ペトロフの寝室、ユーリのベッドで爆睡しているのか、とそういうことではないか。

と、ユーリは冷静に以上の「〜するべきこと」と考えてやっぱり落ち込みたくなった。

(思い出せ私…!一体なぜ、なんだってこんなことになっている)

昨晩の自分について思い出せることを全て思い出してみた。昨晩はいつものようにワイルドタイガーが盛大に破壊したビルについて賠償責任はどこにあるかと、そういう残業をし、そのあと同じように医務局で残業していたを迎えに行って、そしていつも通り帰宅しシャワーを浴びて就寝したはずだ。

(キース・グッドマンになど会っていないしこの男が尋ねてきた記憶もない)

ペトロフ家の現在の家主はユーリであり、その玄関を開くのもユーリのみだ。精神を病んだ母は基本的に訪問者が来ても扉を開けることはないし、も面倒くさがって居留守を使う。夜半の訪問であればなおさらユーリが玄関を開けない限り家に招かれることはありえない、のだが。

しかし現実に真横にはキース・グッドマンがいる。その事実をユーリはどう扱っていいのかわからない。

見たくないが、ちらり、と隣に顔を向ければすやすやと気持ち良さそうに眠っている金髪の青年の顔。何ぞ良い夢でも観ているのかにこにこと笑っているのがなんとも腹立たしい。ユーリはパシン、とその頬を引っ叩いて起こしてやろうかと思い浮かんだが、この状況を誤解されるのは避けるべきだ。そう考え自分は衣服を整えてから起こそうとベッドを降りようとすると、その時ガチャリ、と寝室のドアが開いた。

「おはようございます、ユーリ、そろそろ起きないと遅刻す…………うわぁお……………」
!!待ちなさい!無言でドアを閉めるんじゃない!!」

普段はノックをするであるが今回は勝手に扉を開けた。その無作法を咎める余裕はユーリにはない。

長い黒髪を揺らして現れたのはいろいろあってユーリがペトロフ家に引き取ることとなった夏目だまだ幼く十三歳の少女だがその頭脳の明晰さと彼女のNEXT能力の効果もあってシュテルンビルド一の外科医となった天才少女。

一度ユーリと目を合わせ、そしてちらりと部屋の中を一瞥し、そのまま無言でドアを引いた養いっ子の態度にユーリは珍しく慌てた。慌てた拍子にごろりとベッドから転落し肩を打つ。

「…っ、痛い、ということはこれは夢じゃない…」
「みたいですね。大事無いようでなによりです。しかしユーリ、夫婦の寝室に勝手に入ったわたしも悪いが、一応わたしは多感な年頃だから一寸は遠慮して欲しいぞ」

軽く肩をさっていると医者であるが一応診察するために近づき顔を顰める。その口調が少々素と建前のものが入り混じっているので、この状況に彼女なりに困惑していることがうかがえる。普段目の前で犯罪者が銃を突きつけても顔色一つ変えないだろう養いっ子の人間らしい反応は珍しいが、それを養父としてじっくり感動するより先にユーリは誤解を解きたかった。

いや、その前に、今はなんと言った?

、」
「おはよう!ユーリさんにくん!今日も良い朝だね!!」

今何か恐ろしい単語がなかったかとユーリが聞き返そうとしていると、ベッドの下に座り込んでいる二人の頭上からバカでかい声がかかった。

「……」

振り向きたくない。

しかしユーリはの養父として彼女の目の前に成人男性のまっぱを晒すわけにはいかない。そういう正義感(笑うところ)で覚悟を決めて振り返れば一応パジャマのズボンは履いていたキース・グッドマン、その鍛え上げられた筋肉質な胸板が視界に入りユーリは顔を引きつらせた。

「グッドマンさん!あなた、うちの子に見苦しいものを見せないでください。トラウマになったらどうするんです」
「落ち着けユーリ、先日見た顔の潰れた患者でもわたしはトラウマなんぞ作らなかったからキース・グッドマンくらい大丈夫だ」

そういう問題ではないのでユーリは素早くシーツをキース・グッドマンの頭からかぶせると、の肩を掴んでくるり、と後ろに向けた。

「とにかく…!あなたへの説明は後です!グッドマンさんを着替えさせますから、あなたは先に食堂へ行ってください!」
「はは、ユーリ、お前も動揺してるだろ。わたしに対して普段は敬語なんて使わないくせに」

とりあえずへの誤解を解きたかったが、それより先に優先すべきことをユーリは思い出し、軽口を叩く養いっ子をパタパタと追いやってドアを閉めた。

「…それで、どういうわけなんです?家宅侵入罪…というほど大事にするのは本意ではありません。あなたは仮にもキングオブヒーローなのですからいくら顔を隠しているとはいえそういった醜聞は拙いでしょう」
「……?ユーリさん、ひょっとして具合でも悪いのかい?」

ユーリはキースに背を向けて自分のクローゼットからキースでも着れそうな服を見繕い、つとめて冷静に対応しようとしたのだけれど、常時から人の話を聞かないところがあるらしい(談)キース・グッドマンはこちらの言葉に対しての回答はまるでなく、見当違いなことを問うてくる。

「私の顔色が悪いのは生まれつきです」
「いや、そうじゃないよ。ユーリさんやくんの肌の白さはとても美しいと私はいつも思う!美しいよとても!」

燃やしていいだろうか。

こう臆面もなく輝かんばかりの笑顔で言われユーリはクローゼットの扉をべぎっと握りつぶしそうになった。(割と握力がある)

「私は男ですから肌の白さを褒められても嬉しくもなんともありません。それには未成年なのですからそういった発言は控えてください」

きっぱりはっきり言ってユーリはそのまま聊か乱暴にYシャーツをキースに向かって投げつけた。

状況がさっぱりわからない。だがこの男に理論的な解説を求めるのは無駄だということがわかって頭が痛くなる。自分が覚えていない以上この男に聞くしか手段はないというのに、一体どうすればいいのか。

「ユーリ、ユーリ、ちょっと。話があるんだが」

あぁ、もうやだ助けてルナティック。と現実逃避しまくるユーリの思考をドアの向こうから聞こえるの声が引き戻した。

、食堂に行っていなさいと、」
「わかってるんだが、まぁ、なんだ。多分ユーリのこの状況をわたしはある程度解説できると思うんだが」

当事者のユーリにわからぬことをはわかるという。ユーリは形の良い眉を跳ねさせ彼女の言葉をどう受け止めるべきかと一瞬巡回した。

しかし先ほどからのの言葉を思い出してみれば、確かに「何か知っている」というのは解る。は自分とキースを「夫婦」だなどと物騒なことを言いはしたが、それに加えて「夢じゃない」という自分の言葉を肯定した。ということは、自身がこの妙な状況を「妙だ」「夢じゃないか」と認識していることになる。

ユーリはシャツと悪戦苦闘しているキースをちらりと見、少しくらい放置しても大丈夫だろうと見当付け部屋を出る。いつも通りの黒いワンピース姿に整えられたは「信じてくれてありがとう」と言って、とりあえず二人で話しをするためにとバスルームへ向かった。

オリガ・ペトロフの深刻な精神病のためにとユーリは何か大事なことがあると、邪魔されないようバスルームに鍵をかけて二人だけで話す。そういう習慣ができていた。この妙な状況でもその習慣は続行のようで、その、自分の知る日常の断片にユーリは安堵しながらバスタブに腰掛けるを見下ろし自身はタイル張りの壁に背をつけた。

「それで、一体何がどうなっている。どうしてキース・グッドマンが私の部屋で寝ているんだ」
「正確にはユーリの部屋じゃなくて、ユーリとキースの寝室ってことになってるんですよ」

お互い普段どおりの口調で話すことで平静を保とうとしたのだがユーリはの告げた気色の悪い「事実」に顔を引きつらせ、または自分で言った言葉にダメージを受けたらしく額を押さえていた。

「……わかるように話してくれ、
「えぇ、私もできるかぎりそうしたいんですよ。まぁ、なんといいますか、NEXT能力の影響なのかこれが夢の世界なのかそれともパラレルワールドなのかよくわからないんですけど、とにかくわたしやユーリの認識している「ペトロフ家の設定」と、今のこの現状は一寸違うみたいですよ」

は答え合わせをするように「私の認識ではユーリ・ペトロフは独身で堅物で司法局の御役人さんで夜な夜なタナトスの声を聞けとかよくわからないことを言いながら徘徊する変人で」とあれこれユーリ自身の記憶と一致する(変人の自覚はないが)事実を語る。の場合は何も覚えのないユーリと違い、ある程度記憶のバックアップがあって今の「事実」を知ったのだという。記憶系のNEXTであるならではの状況だ。それらを一つ一つ丁寧に拾ってそれを聞いていたユーリは、どういうわけか自分とだけがこの状況下で「認識違い」を起こしていることを認めた。

基本的な「状況」はユーリの認識のものと大差ない。ユーリは司法局の役人で、キース・グッドマンはポセイドンラインのヒーロー・スカイハイ。決定的な違いはどういうわけかキースとユーリは「同棲」している、ということだった。

「……一体何がどうなってそうなっている…」
「そんなことわたしだって知りたい。生憎キースとユーリの馴れ初めはわたしの記憶のバックアップには入ってないんだ」
「…残念か?」
「いや、さすがにトラウマになるでしょうからなくてよかったですよ。いくらユーリが綺麗な顔してるっていってもしっかり筋肉のついた男性の体だってわたしは知ってるんですからね」

この妙な状況、考えられる原因は「夢の中」というのが濃厚なのだが、曰く「それにしたってわたしとユーリ、両方に自覚があるのはおかしい」らしい。ユーリだけがこの妙な状況に放り込まれているのならそれはユーリの夢になる。だがここでも「そう」であるということが「これはユーリが見ている夢ではない」ということにしている。

「まぁたとえばほら、人の記憶を操るNEXTとかいるかもしれませんし、そういう能力でわたしたち以外の人間の記憶を操ったとかも、まぁ考えられるんですけどね」
「だが君の記憶のバックアップがある」

たとえシュテルンビルド市内全員の記憶と記録された情報を書き換えても夏目の脳内にある記憶のバックアップまで改ざんすることは不可能だ。と、これは現在のユーリもも知ることではないが、その「不可侵」な能力ゆえにこの話の後起こるマーベリックによる鏑木・T・虎鉄冤罪事件に自身が巻き込まれることになるが、まぁそれは今は関係ない。

は自分の能力を再確認し記憶にある情報を確認すると困惑したように眉を寄せた。

「えぇ、まぁ、だからそれが問題なんですよ。シカトしていいですか、ユーリ」
「自分の能力を否定するんじゃない」
「自分を否定ってなんか哲学的ですね」

これさえなければ外部のNEXT能力者の仕業ってことで納得できるのに、とは面倒くさそうに息を吐いた。

「わたしの認識の上でですが、ユーリがまともでよかったですよ。まぁ、そのおかげで夢オチ路線はなくなりましたが」
「私も君が話せる相手で助かった。正直、キース・グッドマンと同棲しているなどという事実は受け入れがたい」
「あ、ユーリ。それについてなんですけど、」

と、何かが言いかけたところでユーリははたり、と自分の母の存在を思い出した。この妙な状況で母が自分たちと同じく「そう」であったとしてもあまり状況は変わらない気がするが、しかし、キース・グッドマンと母を対面させてはまずい。

ユーリはそのままバスルームを出て、今頃母がいるだろう食堂へ大またで向かった。そのあとをがついてくるのがわかったが、歩調を合わせている間はない。

(なにを、焦っている)

急ぎ足で向かいながらユーリは母オリガとキースの「遭遇」をなぜ自分が「いけない」と思っているのか、それを考えた。母の病を知られるのが嫌なのか。精神病を身内が患っていることを他人に知られたくないと思う、それは人がある種抱いて当然でもあるもので、ユーリは自分がその理由を持っても自己嫌悪には陥らない。だが「キースに知られたくない」とそう思う、その「キースに」と特定しているものがある。

ユーリはキース・グッドマンとそれほど親しい間柄ではない。ただ毎日のようにからキースの話を聞いてはいた。スカイハイことキース・グッドマンはその正義感からか人柄からか知らないが、小さな子供の身の上で大人に混じって世に出ているを「かわいそうな子供だ!彼女は救われるべきだ!私は彼女のヒーローであるべきだ!」とそう思って足しげく医務室に通ってはあれこれと話をしていくらしい。ユーリの知るは、キースが思うようなかわいそうな子供ではないし、歳相応の幼さなどなくそれを当然であるとしている生き物で、ユーリはが「キースはバカなんだ」という度に「利用しやすいヒーローではあるが、正直近づきたくない」と苦手意識を持ってしまっていた。

(そのキース・グッドマンに私は母のことを、いや、この家の事実を知られたくないとそう思っている。その心はなんだ)

答えにはたどり着かない。一応念のために断っておくがユーリは同性愛のケはないし、キース・グッドマンに知られたくない、と言うその心も自身の保身や何か、ではない。そういう感情よりももっとドロドロっとした粘着質の何かがその根底にあるような、そんな予感がキースにはあった。だが答えにたどり着く、その前に足は食堂に到着し、その奥から聞こえてくる明るく弾む笑い声に、ユーリはぱちり、と目を瞬かせた。

「あらいやだ、キースさんったら、セロリの農家の方に悪いだなんて結局言ってしまってるじゃないの。うふふ、本当におもしろ人。あの人の若い頃を思い出すわ!」
「ありがとう!そしてありがとう!ミスターレジェンドのようなヒーローに近づけることは私にとっても嬉しい!嬉しいよとても!」

ペトロフ家の食堂。窓から遠いためやや薄暗いイメージの強い、壁紙は母の趣味の花柄の、家族の団欒場。しかしユーリにとってはあまり良い思い出がなく、また良い思い出であったことも何もかも今では彼のトラウマになってしまった、とそういうその場所。母やのために毎晩の食事はその場所で採るよう心がけていても母の発作によって台無しになることが多くて、成人した今でもやはり良い思い出が作られたためしのなかったその場所。

「やぁ、ユーリさん!おはよう!」
「あらユーリ、そんなところで何しているの?が起こしに行ったと思うんだけど…入れ違ったのかしら?」

照明は、変わっていないはずだ。部屋のインテリアも何もかもユーリの良く知るその通り。しかしそのいつもは憂鬱になる場所が、今は、今現在は、とても明るく感じてユーリは目を細めた。

「ママ、」
「いつもはキースさんより早く起きてくるのにお寝坊さんね。今日はの好きな焼き魚にしたのよ?いい匂いでしょう?」

眩しい、と顔を顰め一歩後ずさるユーリを母オリガが柔らかく微笑んで食堂内に手招きする。その自然な仕草、いつもユーリが見てきた狂人の目ではない母の眼差しにユーリは眩暈を覚え、廊下の壁に背をつけて顔を手のひらで覆った。

「ユーリさん?やっぱり具合が悪いのかい?!」
「あら、どうしましょう…風邪かしら?昔からあなたは体が弱かったものね…ユーリ、大丈夫?」

勘弁してくれ、なんだこの悪夢は、と耳を塞ぎたいユーリに追い討ちをかけるように目の前の「眩しい朝の風景」は迫ってくる。ユーリは普段の、彼が認識している限り(この時点でユーリはが「同じ」ではなかったら自分が正気ではないのかと疑うところだった)のいつもなら母のおかしな言動に声を上げてきた。だが今目の前に突きつけられるこの、団欒とした、もう何年も前にユーリが失ったものをいくら容認できないとしても、ここで取り乱せば異常者は自分であり彼がいつも母に対して感じた苛立ちを二人が感じるかもしれないと考えるだけの分別は残っていた。

「大丈夫だよ、ママ。少し眩暈がしただけなんだ」

なんとか冷静にならなければと自分を奮い立たせようとするが、この状況、これまでのドンナ悪夢よりもたちの悪い展開に上手く言葉が出てこない。おかしいのは自分なのだということをユーリは自分に言い聞かせ食堂に入ると、その後に入ってきたをオリガが見止めた。

「丁度よかったわ、。ユーリの具合が悪いみたいなの。診てあげてくれないかしら?」
「オリガ、大丈夫だ。ユーリなら朝ごはんを食べれば治る。さっき診察したんだ」

ユーリと違いはこの状況を冷静に受け止めているような態度ですたすたと食堂に入ると、彼女の定位置である隅の椅子(他の物より座高が高い)に腰掛けてコンコン、とゆで卵をテーブルの端にぶつける。白い殻に皹が入り、指で力を入れればツルン、と半熟卵が小鉢の中に落ちた。

くん、私は明日こそは目玉焼きが出ると嬉しいんだが、どうだろうか?!」
「お断る。隣で黄身を啜られるこちらの身にもなれ」
「しかし美味しいんだよ!くんのその食べ方だって似たようなものじゃないか」
「温泉卵と目玉焼きを一緒にするな」

は小鉢に葱としょうゆを少し入れてゆるくかき混ぜるとそのままつるん、と飲み込んだ。状況に戸惑いながらも同じくいつもの席に座ったユーリは半熟の卵を啜る、という行為自体許しがたいのでとキースの話題に関わる気はない。ちらりと母を見ればにこにことその二人の会話を眺めている。

「……ママ」
「なぁに?ユーリ」

向けられる笑みは穏やかで温かみがあった。ユーリは自分がなぜ母を呼んだのかすぐに思い浮かばなくて、不自然にテーブルに目を向けてバスケットに入った焼き立てのマフィンを見、取り繕うように口を開いた。

「………そのマフィンを取ってくれないか」
「えぇ、いいわよ。ユーリはお父さんと一緒で甘いものに目がないのね」

その一瞬、ユーリは「あぁ、ここでも同じか」と何かしらの絶望感を覚えたが、その途端ぴしりと空気が凍りつくことはなく、ユーリが何か言う前にと卵談義をしていたキースが興味深そうな声を上げる。

「ミスターレジェンドは甘党だったのかい?それは知らなかった!」
「えぇ、でもキースさん、内緒よ?正義のヒーローが甘いケーキやパイが大好物だなんてイメージを壊す、ってあの人はうち以外じゃ食べるのを我慢していたんですもの」
「なるほど!確かにヒーローのイメージを壊してはいけないね。よくわかったよ!それなら私もけして口外しないと約束しよう!」
「オリガ、オリガ、そう言ってキースはすぐバラすぞ。無自覚にバラしてしまうぞ」
「そ、そんなことはないよ!くん!」

はっきり宣言したキースをがからかう。ころころとオリガの笑い声が鈴のように響き、キースとが顔を見合わせて笑った。

その光景を、ユーリは奇妙なものをみる目で眺める。

母は車椅子だ。ということは、やはり自分が父を燃やした、あの出来事はここでも変わらず起きていて、そして母の脇に置かれている薬は精神安定剤、いつもが用意しているそれで見覚えがある。父の幻覚を見ているのかどうかはわからないが、精神をわずらっていることは確実で、しかし、それであるのになぜ母は、ユーリが良く知る母のように病み荒んだ目をしていないのだ。

そしてこの光景。
父が亡くなってからは、いや、父が「ヒーローでなくなった」時からこの家が明るくなったことはなく、また笑い声が響いたこともなかった。

同じテーブルについているのにユーリはこの光景から隔離され、自分だけが遠い場所にいるような錯覚を覚える。先ほどまではは自分の仲間であったという認識があり、彼女はこの奇妙な場所であってもいつもと変わらずユーリの共犯者でいてくれた。だが今ユーリの目の前にいるは、ここが「自分の知っているところと違う」と知っているのに、その上で、この場所で「嬉しそうに」笑っている。

「ユーリ、折角わたしが焼いたんですから、食べてくださいよ。鯵」

黙っているユーリにが気付き、不自然でないように食事を進める。ペトロフ家の朝食作りを担当するのはで、いつも彼女の趣味と独断・偏見による献立が並んでいた。今日はなぜかバナナとはちみつのマフィンと温泉卵、それに焼き魚とポテトサラダであった。食べ合わせが悪いとかそういうレベルではない。

ユーリは普段の用意した「洋食類」にしか手をつけないことで献立のバランスを取っていたけれど今日はしっかり自分の前に焼き魚が一匹でん、と構えていた。

「……」
「あ、大根おろしがないんで蕪にしましたけど消化にいいことには変わりないから構わないですよね」
「白いご飯もあるよ!ユーリさん!」

マフィンを片手に持っている人間に勧めるメニューではない。

だがの「食べますよね?」と、むしろ食べないほうがおかしいと言う決め付けた顔とキース・グッドマンがにこにこと人の良い顔で差し出してくる白米の盛られた茶碗を前にユーリは「朝は軽くコーヒーとパン派」という自分の主張を諦めた。

「ほら、ユーリ。マフィンはお昼ごはんかおやつにすればいいじゃない?あなた午後にはお茶をするんでしょう?」
「…あぁ、そうだね、ママ。そうするよ」

マフィンを持ったまま硬直している息子に助け舟のつもりなのか、オリガ・ペトロフが優しく諭す。ユーリはため息を一つ吐きマフィンをテーブルに置くと、黒塗りのチョップスティックを手にとって焼き魚を解した。

「ユーリさんはお箸を上手に使う。とても綺麗だ」
「ユーリはもう一寸カルシウムを採った方がいいんですよ」
「ユーリったら眉間に皺を寄せながら食べて。やっぱり洋食が好きなのねぇ」

ユーリが食べ始めたことに満足しながらも三者三様、口々に勝手なことを言ってくる。苛立ちはするが声を上げるほどのことでもない。ユーリは黙ってもぐもぐと口を動かすことに専念した。

東洋人であるが手がけるだけあってライスも魚も確かにとても美味しいと認める。ユーリは焼き魚と白米、時々茄子の漬物を挟んで朝食を進めていく。

「……?」

と、そこでユーリは何か、自分の喉に引っかかるものがあると感じた。

「ユーリ、どうしかしたんですか?」

すぐに気付いたらしいが向かい合った位置で首をかしげる。

「…いや」

喉に、引っかかる。だが大騒ぎするようなことでもないのでユーリは首を振り、何度か咀嚼することで喉の中に押し通そうと試みた。

が、どうも、中々どうして上手く下りてくれない。ユーリは「魚の骨が引っかかった」と認めて本格的に挑もうと眉を寄せる。

「ひょっとしてユーリさん、骨が引っかかったのかい?」
「そのようですね、大人なんですから騒ぐことじゃありませんよ、グッドマンさん」

大事だ!と今すぐ救急車を呼びかねない(あるいはユーリを抱えて病院に飛び出しかねない)キースを察知しユーリは釘を刺したが、バタバタとキッチンへ駆けて行ったキースが持ってきたのはスカイハイのヒーロースーツ、ではなくてコップと一杯分のミルクだ。

「そういうときはご飯でミルクを丸呑みするといい!」
「お気持ちだけ頂きますよグッドマンさん。牛乳と白米、さらに油の乗った魚を一緒にしたくありません」

けほっ、と咽ながらユーリは謹んで辞退する。

すると同じようにパタパタと廊下へ駆けて行ったはずのが手に黒い革の鞄を持って戻ってきた。

「ユーリっ、今すぐ手術をしましょう」
「いいわけないでしょう。魚の小骨くらいで大げさな」

ママくらいはまともに対応してくれるだろうかと、普段ならまずは抱かない期待を抱いて隣を見れば、オリガ・ペトロフははっとした顔で牛乳パックをわきに退けた。

「あ、あら、あのね?ユーリ、でも私も魚の骨をとるには牛乳って思ったのよね?でも、そうね、ユーリももう大人だから大騒ぎしちゃ恥ずかしいわよね」

気まずげに言う母にユーリはほんの一寸口の端を吊り上げて、そして目元を手で覆い俯いた。

「ユーリ?どうしたの?」
「なんでもないよ、ママ」

声を出して笑う、というほどではないが近しいものはある。こらえようとして中々収まらない、こみ上げてきた感情にユーリは戸惑いながらも、それでも悪い気がせず身を任せることにして、そして母が「魚の骨が引っかかって苦しんでいる自分の為に」用意してくれた牛乳パックに手を伸ばした。





++++




ガラスの割れる音で、ユーリ・ペトロフは目を覚ました。

「……」

同時に聞こえてきたヒステリックな女の悲鳴に一瞬ユーリは自分がどこにいるのか、そしてその声が誰のものであるのか判断ができなかった。

「……ママ」

しかしすぐに、目の前に広がる見慣れた天井。伸ばした手の自分の肌の白さ。暗く冷え切った寝室に我に返り、ユーリはゆっくりと体を起こした。スラックスとシャツを羽織っただけの気軽い姿でそのまま部屋を出て、ユーリはガッシャン、ガシャン、と物の割れる音のする方、憂鬱になって仕方ないペトロフ家の食堂へ向かった。まだ夜明け間もない頃で外は薄暗い。廊下の明かりも灯されておらず長い廊下をぼんやりと進んで、ユーリはため息を吐いた。

「ママ、朝から何を、」

鎮静剤が切れたのか、あるいは不規則な発作かオリガ・ペトロフの発狂じみた振る舞い。朝目覚めから聞きたいものではないが仕方ないと諦めて食堂を覗き、ユーリは顔を顰めた。

「ママ…!」
「ユーリ!待て!大丈夫だ!!」

冷め切っていたユーリの顔にあからさまな怒りが浮かびあがり、食堂に飛び込もうとする、それを体当たりで押さえ込んだのは床に蹲っていたである。目の前に広がる赤。その真っ白な足からだらだらと鮮やかな血を流しながら、はユーリの半身にしがみ付いて首を振る。

「オリガは注射を打った。じきに眠る。わたしは大丈夫だから、入ってくるな」

パキパキ、と足元で小さな音がした。はっと我に返ったユーリが足元に視線を落とせば、割れた食器、ガラスの破片が散乱しその上をが踏みその薄い皮膚をさらに破らせている。に咎められなければ同じように素足であったユーリも足を切っただろう。

「何をされた」
「オリガが悪いんじゃない。彼女は病気なんだ。避けられなかったわたしが悪い」

血が出ているのはの足だけではなかった。足だけであればユーリはがオリガの割ったガラスの欠片で不注意に足を切ったと思い込めただろう。だがの露出された肩、腕がぱっくりと切れている。


「大丈夫だ。ちょっと血は出ているが、そんな酷いものじゃない」

だからオリガを怒らないでくれ、とがじっと見上げてくる。そのの目にうつる自分の顔を自覚してユーリはつめていた息を吐いた。が傷つけられた。母に対しての怒り、というだけではない。

ユーリは先ほどまで自分が見ていた夢をありありと思い出す。

アレは夢だった。間違いなく、ユーリが見た夢であった。奇妙な点は、そもそも奇妙でもなんでもないと、そう、今この現実、はっきりとした現実を自覚して理解する。

「止血を。道具は、あなたの部屋にありますね、

浮かんでくる感情を押し殺し、ユーリはを抱き上げて食堂から離れた。の部屋には彼女の趣味の一環でもある治療道具が揃っている。こちらの怒りが爆発しないことを悟ってがほっと息を吐いた。普段大人びた顔をする彼女だが、こういう安堵の顔は歳相応、だがその「気を使わせた」ということがユーリにはたまらない。

「今日は、」
「うん?」
「今日は、医務局を休んだらどうです。その足では診察は難しいでしょう」

体への負担にならないようにゆっくりと歩きながら、ユーリは休業を提案するがは首を振った。

「だめだ。だって、今日はキースのやつがジョンを連れてくるってそう言っていたんだ。もちろんトレーニングルームには入れられないから、キースの仕事が終わるまでわたしが医務局で預かっててやるって、そう約束したんだ」
「医務室に動物を連れ込んでいいんですか?」
「局長はわたしだ」

フン、とが胸を張る。その仕草にユーリは「ほどほどになさい」とだけ言っておくにとどめ、を部屋の寝台に置いた。あれこれと自分が手当てをするより当人にやらせたほうが的確であることはわかっているのと、食堂に残した母がやはり気がかりでユーリはそのまま食堂に戻ることにする。

「ユーリ」

に背を向け退室しようとすると、その背に声がかけられた。

「なんです?」
「ここまで運んでくれてありがとう」

丁寧に礼を言う。言われ、ユーリは「礼を言われる資格などない」と眉を寄せた。だがは何か意識してのことではない。ユーリは平静を装って「あとでまた着ます」とだけ言って部屋を出た。

扉を閉め、廊下を少し行ってからユーリは壁に持たれかかる。あの夢、あの、「ここはおかしい」と「自分」と「」に自覚があった奇妙な夢。夢ではないと「自覚し」しかし「自分の知っているところとは違う」とはっきり解っている世界。

(あの夢は、私の願望か)

あれは、あの夢は、あの出来事は、きっと自分の願望なのだとユーリは認めた。認めるとあれこれと、答えが見えてくる。

笑い出したいような、そんな気分にすらなって、ユーリは早足で食堂に向かった。相変わらず薄暗く、じめじめとした印象を受ける食堂。割れて散乱した食器類。母はが安全な場所に避難させたのだろう、ソファに横たわり、半目を開けてぶつぶつと何かを言っていた。薬が効いていて意識が白濁としている、というところ。聞き取れるか聞き取れないかという微かな音で「おとうさん、おとうさん、おとうさん、おとうさん」とただ繰り返している。げっそりやせ細り、隈のできた顔は骸骨のようであったが、ユーリには見慣れた母親の顔である。

ユーリはぐるりと食堂内を見渡した。物が壊れ、あちこに血がついている。正気を失った老人が横たわる、その場所が自分の現実であった。

それはいい。それは、構わないと、そうユーリは自分が「思っている」ことを認めた。

自分はいい。己は、母とこうして生きることを決めた。そうであり続けると決めた。母が父の幻を見て昔のように振舞おうとするその浅ましさを嫌悪し、母の幻覚を拒絶して自分自身が母から拒絶される生活。罪の意識に苛まれ、孤独と乾きに苦しみながら自分自身の正義を、ある種の正当化をしようと(ルナティックの行動が一種の正当防衛であることをユーリは自覚している。自覚して、それでもそれを正義と信じる直向さがあった)夜の空を飛ぶことをユーリは選択し、受け入れてきた。

だが、彼女は、はそうではない。

ユーリは箒を持って床を掃除し、母のぶつぶつと呟く声を聞きながら自分の心が冷えて行く、その揺れ動きを感じていた。ユーリはこれを、この生活を一つの罰であるとそう捉えている。だからあの夢の、柔らかく微笑む母に違和感と、そして僅かな拒絶反応、嫌悪感を、抱いてしまっていた。この生活は奇妙だ。あんたはそんなふうに笑えるわけがないだろう。あんたの大事な「夫」を殺した息子を案じられるわけがないだろうと、失笑したのだ。

(あぁ、そうだ)

そう自分が思うことに意味があった。だから自分はあの「理想的な時間」で今のままの自分でいた。それが理由だ。そしてが自分同じであったのは、きっと、おそらく、自分は「は救われるべきだ」とそう、そう、考えているからではないのか。今の、この現状を知るが、そうではない「暖かい場所」に行くことを、望んでいるのではないのか。

は、ただ巻き込まれただけだ。自分などに引き取られたばかりに、この家の事情に、状況に、不幸に巻き込まれた。は彼女だけならいくらでも幸福になれるというのに、そうはせず、ユーリの共犯者になった。一緒に不幸でいることを選んだ。

(しかし私はそれを望んだわけではなく、彼女を、を救ってやりたかった)

そう願う心はあった。だがユーリは、そしてルナティックは、正義のヒーローではない。裁くことはできても、誰かを救うことはできないと、そうユーリは知っていた。

「だから、そのために、キース・グッドマンが必要だった」

きっと、自分は無意識のうちに解っていたのではないか。の話すキース・グッドマンのこと。毎日のように、あの、人におおよそ関心を持たないが語った。あのキング・オブ・ヒーローこそがを救えると、そう無意識のうちに認めていたのだ。

あの骨のように、喉の奥に刺さって、大事無いとはいいながらもそれでも動かそうとするたびにちくりちくりと痛みを与える。小さな些細なもののくせにはっきりとその存在感を示す、そんな、喉に刺さった魚の骨。

(あの骨は、私だ)

認め、ユーリは低く笑い、喉を震わせる度に自分の喉で小骨が自己主張しないものかと期待したが、所詮夢の中で刺さっただけの骨が存在するわけもなく、ただただぶつぶつと母の不気味な声が部屋の中に響くのみであった。



Fin

 

 

(2011/11/30)

素敵T&B企画「後味の悪い話」に参加させていただきました!後味の悪い話「あの骨」でお送りいたしました・・・。

タイバニ企画は初参加なのですが、快く参加させてくださいました主催の六人様、本当にありがとうございました。