目に追いきれたのは、その左手に握られていたはずのベネチィアンガラスの見事な細工杯が手品のように消えてしまったことくらいだ。左側の額からこめかみにかけてダラリダラリと何か生暖かいものが伝ってきて、少し離れたソファに身を沈めながらことの成り行きを見守っていた傍観者、に徹しようとしていたはずのヘタレた鮫が、ついに耐え切れなくなって席を立ち、先ほどまではグラスを持っていたはずの男の手が次に掴んだ硬質なもの、一般的にはウィスキーのボトルが、今度はの目にも追える速度でスクアーロの頭を目掛けて投げつけられた。
当然のことながら、一流の殺し屋であり、剣士、ずば抜けた動体視力のある彼は見事に避けて、それで「うぉおおい」なんて、掠れたダミ声を発しながら、今だ己の状況把握はできていないを庇うように、前に出た。
「俺はともかくとして、コイツに八つ当たってんじゃねぇ!」
あるから言っているのだろうが、そういう訴えはこの男の耳を綺麗に通り抜けて、ただ、スクアーロが己にたてついた、という事実しか残っていないのだろう。豪勢な椅子に腰掛けてふんぞり返り、幼いにクリスタルガラスの塊を投げつけた傲慢そうな男、XANXUEはじろりとスクアーロを睨みつけて、黙らせた。
「ぐっ……」
言いたいことは山ほどあるというのに、悲しい性か、スクアーロ、どうしてもザンザスにこうにらまれては普段の喚きもすっかりなりを潜めてしまった。恐れ、ではない。彼はとても頭の良い男だ。己がを庇ったところで、ザンザスがどうこうするとはまず思えず、さらに、悪化するだろうという予想があった。それでも先ほど席を立ってしまったのは、こうして己が僅かでも時間を稼ぐことにより、が状況を把握して、少しでもいいから、詭弁を使うという選択肢を思い出してくれればいいと、そういう、ことだ。
「じっとしてろぉ」
言わずともは、暴れることなどしないとは解っていたが、スクアーロは一応の礼儀として声をかけておいて、先ほどが扱っていた救急セットを引き寄せ、丁寧にの怪我の手当てをしていく。
とりあえずは、先ほど新たにおった、額の怪我が先決だとスクアーロはのストロベリィブロンドの髪をかきあげて傷の詳細を探った。
「……痛かったら言え」
そうか、とは頷いたがスクアーロはすぐに顔を顰めた。傷口に、ガラスの破片がいくつか食い込んでしまっている。血は固まったが、だからこそ、剥がす時に痛みが伴うだろう。それで考えて、スクアーロはぺろり、と、傷口を舐めた。
「……っ」
予想はしていなかったらしい感触にの体が一瞬強張った。片腕だけでそれを抑えてぺろぺろと、スクアーロは血塊を唾液で溶かして行く。ガラスの破片で己の舌を傷つけてはは悲しむ、本末転倒にだけはできないので慎重に舐めて行くと、がぎゅっと、スクアーロの服を握り締めてきた。
「んぁ?どーしたぁ」
か細い声で言うに、スクアーロは顔を離して問いかけた。
「痛いか?」
それは多少、傷つく。細心の注意を払ってきたはずだが、顔を覗き込めば、ぽろぽろと涙を流してしまっている。なんだかスクアーロ、先ほどザンザスにされた暴力よりも、これは堪えた。少し動揺して、表面麻酔でもすりゃいいのかと思考が飛びかけているところに、のくぐもった声。
「こころ、が、痛いです」
言って、ぎゅっと、スクアーロにすがりつく小さな小さな女の子。それを振り払えるほどスクアーロは非道ではなくて、いや、たぶん、振り払えるだけの非道さは持ち合わせているのだけれど、だけど、どうしても、この、だけはダメなようだった。
「そうかぁ。そう、だよなぁ」
あやしながら、唾液で柔らかくなった血の塊をぽろり、と剥がして手当ては無事終了。手袋をしたままの、冷たい義手の手では意味がないからとまだ手の付いている方の手での頭を撫でた。他に傷がないかという確認としての意味合いが強いはずなのだが、柔らかな髪を梳くと心地が良い。
「そうだよなぁ、辛ぇよなぁ」
うんうん頷いて、ぎゅっと、小さな体を抱きしめた。・コッツェは記憶者として、次代のドン・ボンゴレの記録をすることを十代目の勅命を受けて行っているという。ザンザスを含め四人いる候補者の記録をすることを、ザンザスは快く思っていないのだ。自分以外の人間が、まず、候補にあがっていることが気に食わぬのだと、そういうことだろう。
そして、智天使であるが、他の候補者と同じように自分を扱うことが、ザンザスには心底、気に入らないらしかった。
はザンザスが好きだ。は、狼のところから直接ザンザスの元へ北。マフィアになったのは、ザンザスがマフィアだったからだ。そういう、絆がとザンザスにはあって、だからこそ、ザンザスはが記憶者として正式な任について、自分こそがドン・ボンゴレなのだと、声高くが宣言するものと、そう思っていたのだろう。
とて、そうしたかったはずだ。けれど、できぬ理由がある。それを、ザンザスも、スクアーロも知っていた。だから、ザンザスはを見るたびに、苛立ちを抑えられぬのだろう。
「、なぁ、おい、聞け」
スクアーロは己の性分を理解している。どうしたって、いつだって、自分は噛ませ犬だし、損な役割だろう。こうして小さな震える体を抱きしめて感じているのは確かな幸福感のはずなのに、ぴりりと痛みを伴う、これは。つまりは、そういうことだ。
「アイツを十代目にする。俺は、俺の全てをかけて、誓う」
ぎゅっと、の指先に力が篭った。すがりつく、そういう、はかなさを持つ力だ。スクアーロは只管愛しく思えて、空いた手でゆっくりと、その髪を撫でる。
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