目の前にあるのはオブジェのような完璧さ、一分の乱れもなく分子・粒子の配列の整った密度の塊である。これがただの硝子細工であれば叩き割って壊しても中のかの人への影響はなくて、それで気安くできるというのに、、ぎゅっと押し付けた両掌の指先に力を込めた。じわじわと、鬱血して赤くなっていく指の腹十本は次第に熱を帯びていき、少しだけ、その、透明な液体の結晶体、言葉にすればただの氷塊の表面を溶かす。通常の炎でも熱でも溶かすことはできぬ特殊な氷であるから、いくら記憶者の特殊な指先でもっても、できるのはこの程度だとわかっていた。

 

(あれからもう、六年が経ってしまっている)

 

は氷の中で今も眠り続ける己の主を見て、辛そうに唇を噛む。幼かった、あどけなさ過ぎて無垢で、無邪気で、だからこその愚かしかった己も六年という、人が変わるには十分な年月で多少は見られるようになってきたと思う。揺り篭での責任を取らされて、己にも七年の監視と言う処置が取られた。けれど、死刑囚が勤勉な態度によってはその刑を無期懲役に変更されることがあるように、そして、己の立場がの処遇を取り直させた。

 

は瞼を伏せて、そっと氷に唇を寄せた。冷たい感触しかない、この氷は己が絶対に溶かして見せる。

 

「暫し、お傍を離れます。我が君、どうか良い夢を」


 




Can you see me now?

 

 

 

 




いつもの黒い藻服ではなくて、目の覚めるような緋色のケープに身を包んだを、行き交う黒服たちが驚愕の目で見つめてくる。はあえて知らぬ顔をしてスタスタと、ボンゴレ本部から出る門を目指した。

 

!!」

 

車も何も頼らずに必死に歩いて少しだけ疲れてきた頃に、呼び止められて苛立つ。一切を残さずにここを出たいと思っていたのに、相変わらず空気を読まない男だ。

 

それでも聴こえぬふりをする根性はにはなくて、ゆっくりゆっくりと、あえて怠惰的ともいえる仕草で振り返った。それで、長い付き合いのあるスクアーロは察したらしい、一瞬びくっと体を引いて、それでも、彼はめげずにの腕を掴んだ。

 

「うぉおおい、お前、その格好はなんだぁ」

 

喉に引っかかったような、掠れた声でスクアーロは、少しだけ声を低くして問いかけてくる。声を潜めてしまったのは仕事柄、この事態が「良くないこと」だと承知しているゆえの気遣い。普通であれば、先の黒服たちのように一切合切、勘寄せずにいればいいものを、それでも踏み込んだスクアーロは、最低限のマナーを忘れていなかったらしい。

 

はスクアーロに左腕をつかまれたまま、地面に視線を落とす。整備されたコンクリートの地面の下には土があって、蟲とか、細菌類が今もせわしなく繁殖しているのだろうか。そんな、全く関係のないことを真剣に考えながらも、ちゃんとスクアーロの言葉はに届いている。だから、内心の重要性を地中のカーニバルと、親友のどちらにおいているのかはさておき、一見は真剣そうな眼差しでは答えた。

 

「ジャポーネに向かいます」

「そりゃあどういうことだぁ、おい」

 

スクアーロはバカではない。だから、この言葉は詳細の説明を求めてのものではなくて、だから、は直ぐには言葉を吐くのを躊躇った。まだ掴まれたままの腕に少しだけ力を込めて、唇を噛みながらスクアーロを見上げれば、銀髪の剣士はあからさまなほどに動揺を見せてくれた。

 

「う、ぉ、おい、お前、おい、まさか……」

 

ぐっと、スクアーロはそれから先を言うことを留まった。そしてやっと、の左腕を離して俯く。この真っ直ぐな男が目を逸らしたことで、はなんだか、己がとても酷いことをしてしまったような、そんな罪悪感に襲われた。それだから、半分は憐憫も含めて、スクアーロの頬に手を伸ばす。

 

あれから六年、スクアーロの髪は随分と伸びた。ヴァリアーのボスは不在のまま、時間が流れて、今もスクアーロとが接触している間は、ボンゴレの厳しい目があって、お互い満足に言葉も交わせない。
だからこうして、スクアーロと向き合うのは半年振りだった。半年前は確か、ヴァリアーの七幹部に新しく名乗りを上げた人間がいるとかで、それをと九代目ボンゴレに報告に来た折、目を合わせただけなのだが。

 

(触れるのは、六年ぶりだ)

 

ぼんやりとは思った。先ほど触れた氷とは違う冷たさがスクアーロにはある。一瞬身を強張らせて、スクアーロは銃でも突きつけられたかのように微動だにしなくなった。

 

「行って参ります。スクアーロさん」


 

 





 

 

去り際にがそっとスクアーロの懐に滑り込ませたのは一枚のカードキーだった。一見なんの変哲もないカードに見えてその実は、ボンゴレの最新テクノロジーを使った代物である。智天使である・コッツェと、あとはもう一人、九代目ドン・ボンゴレしか所有することのできぬものを、あっさりとはスクアーロに渡した。それがどういう意味なのか、わからぬスクアーロではない。

 

(あいつはもう、帰ってこない気だ)

 

が何をしようとしているのか、正直なところ彼には全くと言っていいほどに見当が付かない。最近、後継者として有力だった三人のマフィアが相次いで不幸な事故死を遂げてしまい、は「彼」の目覚めを訴えてきた。スクアーロの耳にも届いている、ボンゴレの中で内々に処理され、今では当事者しか知る者のいない「揺り篭」でのことは、秘密裏にしていたおかげで、は声高く「彼」の存在を宣言したのだ。
この半年間、が行ったのは「彼」がいつ戻ってきても良いようにと、「彼」の足場を作り上げること、当然、スクアーロも協力した。そして「彼」の味方となる有力な協力者を探し当て、そしてあとは、「彼」が目覚めさえすればよい、それだけのはずだった。

 

けれど、けれど、ここで、が日本に行くという。日本には、忘れ去られた血の末裔がいると、そういう噂が少し前からあった。そして、その真意を確かめるためにと、アルコバレーノの一人が派遣されたらしいことを耳にしていた。

 

そこでが、記憶者が日本に赴くことの意味を、悟れぬマフィアではない。

 

九代目が勧めた、次期ボンゴレ候補の少年の下に、記憶者が派遣された。それは、事実上の「決定」ではないのか。

 

スクアーロは走り出した。去ったの足はそれほど速くはないし、空港までは距離がある。追いついて、どういうつもりなのかと、そう、怒鳴って問いただしてやりたかった。

 

 

は、諦めたということか。

 

 

あれほどに、慕っていた「彼」を諦めて、記憶者として生きるということか。



 

 

Fin