バタバタと騒がしい足音が聞こえては「イーノックでもきたのか?」と読んでいた本から顔を上げたが、扉をすり抜けて飛び込んできたのはヒトではなく天使だった。

「大変だよ!イーノックが動かないんだ!」
「アルマロス、お願いだからノックをするという習慣を身に着けてくださいよ」

叫ばれた言葉に眉を跳ねる。だがこういう躾けは即座に言わねばならないのだと心得ている、イーノックのことは気に掛かかるが片手を上げてアルマロスを制した。

長く引きずりそうなほど伸びた髪を揺らしアルマロスは「それよりイーノックが!」との言葉に従わない。その髪毟り取ってやろうかと物騒なことを思い、はため息を吐いてからパタン、と本を閉じた。イーノックご推薦の神を称える詩を集めた本なのだが、これっぽっちも面白いとは思えなかった。

「イーノックがどうしたんです」
「動かないんだ!ねぇ、どうして?!ヒトがかかるって言う病気かな…とにかく来てよ!」

言ってアルマロスがぐいっとの腕を掴む。足音を立てることといいこうして「掴む」ことを自然にすることといいすっかりヒト臭くなっているアルマロスには眉を寄せた。しかしそれについて言及する気はなく「天界に病気なんて存在しませんよ」とだけ言ってぐいぐいとアルマロスに引きずられるまま部屋を出た。

「話しをしてたんだ。そしたら急にイーノックが倒れちゃって…僕、揺すったり声をかけたりしたんだけど反応がなくて…どうしていいかわからなくって…」
「ちょ、泣かないでくださいよ。わたしはイーノックの涙以外じゃときめかないんですからね、うっとうしい」

え、泣けるのかこの天使!?とさらに驚きもあったが、もうアルマロスなので突っ込まない。はめそめそと落涙し始めた天使に嫌そうな顔を向けて容赦なく言い放った。

銀髪に小麦色の肌、さらにはなにやらひらひらとした装いの天使はがよく会話をするアークエンジェルや大天使と比べると地位の低い天使らしいのだが、天界の情勢にはそれほど興味のないにはまぁどうでもいい。

名前はアルマロスというらしく「アルマジロ?」と間違えそうになるのでわりと印象に残っている。このアルマロス、ヒトへの興味が強く召し上げられたイーノックの元へ足しげく通ってはあれこれと地上の話しを聞いているらしかった。キラキラと子供のように目を輝かせてイーノックの話しに聞き入る様子は微笑ましいものがあるが、何かイーノックのことで悩みや相談事があると(イーノックに喜んでもらうには何をしたらいいか。こういうときヒトはどういう反応をするものなのか、など!男の男への恋バナでもされているような気分になる!)こちらにやってくるのでは面倒くさくなっていた。

「…動かないってそれ、寝てるだけじゃないんですか?」

しかし今回はイーノックの「危機」らしいので、彼に好意を持っているとしても捨て置くわけにはいかない。アルマロスの証言だけでは判断材料に乏しいがとりあえず「動かない=寝落ちじゃね?」と見当付けて言ってみると、前を歩くアルマロスがあどけない顔をして首を傾げた。

「寝るってなに?」
「………アルマロス、あなた、何分間イーノックと話を?」

ふとは嫌な予想をしてしまい、恐る恐る問いかける。いや、きっと自分の思い違いだろうと顔が引きつるのをなんとか抑えた。そのの内心の動揺など知りもせぬアルマロスは不思議なことを聞かれたという顔をして、うーん、と回想を始める。

「えっと、どれくらいかな。前のエルダー評議会が終わってからだからそんなに経ってないと思うけど。僕は時間の概念がないし…よくわからないよ、それって何か問題なの?」
「今度から砂時計でもなんでもいいから持参しなさい!」

あっさりととんでもないことを言い放つアルマロスに、あぁイーノック!あなた本当に不遇だわ!!とは天を仰いでくらり、と眩暈を感じた。

あれか?つまりはそういうことか?の記憶が確かなら前の会議が終了したのは人間の時間(24時間サイクル)にして二日前だ。珍しく大天使様がサボらなかったのでよく覚えている。もちろんアルマロスに時間の概念はないので正確に計算できないのはいい。そもそもこの天界には時間なんてものは存在せず、日夜もない。しかし問題なのはそれで「つい楽しくて」アルマロスは延々とイーノックと話を続けた、という事実だ。

「ちょっと冗談めかして寝落ち?なんて言いましたけど、それブッ倒れたんですよ!揺すっても起きないほど深い眠りについてるんですよ!!」

イーノックは「天使が態々私などの話を聞こうと来て下さっているのだから」と寝不足・疲労を押し殺してアルマロスに付き合ったに違いない。

は「このおバカタレ!」とアルマロスを罵って走り出した。寝ていると気付かなかったアルマロスはその場にイーノックを放置してきたということだ。書記官として日々忙しく働いているイーノックを固い床で寝かせたままでいるなどの正義に反する。すぐさま柔らかな寝台に運ばなければ!と使命感(違う)に燃えてイーノックの部屋に駆け込むと、はあからさまに顔を顰めた。

「おい、普段口うるさくノックしろなんて言ってる君がノックを忘れてるぞ」
「……」
「あれ?ルシフェル…………何してるの?」
「なんだ、アルマロス、お前も来たのか」

が扉の前で立ち尽くしていると、追いかけてきたアルマロスが部屋の中にいる人物の名を呼んだ。そのアルマロスの声もやや不審がる響きがあったのだが、呼ばれたルシフェルは自分の行動に不審な点など一つもない!といわんばかりの堂々とした態度で立ち上がり開いていた携帯電話をさっとポケットに仕舞い込んだ。

「ねぇ大天使様、今写メってませんでした?」

は引きつる顔をぱしん、と叩いて持ち直すとこちらも何事もないという顔をつとめつつ先ほどの光景について「何しとんじゃワレェ」と咎めるように聞いてみる。

「あぁ。折角だしね」

(何が?!)

ごまかす気もなく堂々と開き直りやがったよこの大天使!とは折角持ち直した顔を先ほど以上に引きつらせてしまった。

硬直するを「ふむ」と一瞥し、ルシフェルは自分の説明が足らなかったことに気付いたようで再びしゃがみこむと床の上で熟睡しているイーノックの頬をつんつん、と突いた。

「この警戒心の欠片もない見事な寝落ち姿を見てみろ。白い床にこいつの肌がじかに触れて床の硬質さとイーノックの肉の柔らかさが美しい陰陽を見せているだろう?こんな光景は天界じゃまず見られないからな、折角だし待ち受けにでもさせてもらおうかと思ったんだ」

今は私の半身であるイゾメロンの写メを待ち受けにしているんだけど、さすがに自分の顔っていうのはどうかと思うしね、と続けてくるが前半部分だけですでにの許容範囲を超えていた。アルマロスのとんでも発言を食らったときとはまた違う種の眩暈に襲われ、はがくっと膝を着く。

何か言い方が嫌だ。肉とか言うな生々しい。男が(天使に性別なんてないだろうが)男の寝顔を待ち受けにするんじゃない、とかそういう突っ込みをしたかったが、はそんな気力がわかない。

さらにルシフェルはとどめを指すようにパチン、と指を鳴らしてピラミットのように積み上がった本をかき消すとその代わりに柔らかな天蓋付きのベッドを呼び出し、いわゆるお姫さま抱っこをしてイーノックを抱き上げるとゆっくりとそこに横たえた。

「アルマロス、お前イーノックと一緒にいたんだろ?寝ているヤツを放っていくなんてダメじゃないか」

が何も言えずにいるとルシフェルは今度はアルマロスに視線を向けて嗜めるように眉を寄せた。

「まぁここは天界だから風邪を引く、なんてことは神が気まぐれでも起こさない限りありえないんだが、生身の肉体を持っているイーノックが床の上で寝ていたら寝違えるかもしれないんだぞ?」

全く、とルシフェルは呆れたと続けてイーノックを寝かせたベッドに腰掛ける。

「ご、ごめん…僕、イーノックが「寝ている」っていうのがわからなくて…」
「ヒトへの興味があるわりにはヒトの欲求に疎いな。そんなんじゃ愛想を付かされるんじゃないか」
「!イーノックはそんなことしないよ!」
「どうだか。ヒトっていうのは気を使わないとならない厄介なところがあるんだ。お前はイーノックに甘えすぎてるんだよ」

珍しくきつい物言いをするルシフェルにやや気力が回復してきたは「うん?」と首を傾げた。ルシフェルが日ごろアルマロスに対してあまり好意的ではないのは知っているがこうもあからさまに彼を批判することはなかった。

は違和感を覚えて天蓋の下にいるルシフェルを注意深く見つめ「まぁ…!」と素直に驚いた。

(なぁに、ルシフェル、あなた怒ってるの?)

当人が気付いているのかいないのか思念を読めぬにはわからないが、長年生きてきたから見て、この大天使はアルマロスに対して「怒り」のような感情を持ち今口を開いているらしいのだ。

天使にだって、そりゃぁ感情はある。だが神命、正直神と私さえいれば何も問題ないだろう?と思っている大天使が神以外のこと、イーノックのことで他人に怒りを抱けるなどには驚きだ。

「そ…そこまで言うことないじゃないか…ルシフェルだって、イーノックにあれこれ言いつけるくせに…」

ルシフェルがこちらに向ける感情が「怒り」であるとはわからぬ天使は強い言葉遣いにやや気おされつつ、それでもイーノックが自分を疎む、という悲しいことはない!と自己暗示をかけるように言い返した。

「私の用は神から命じられた仕事だ。お前はイーノックと遊んでるだけだろ」

あいつは役目があってここに呼ばれてるんだから邪魔するな、とルシフェルは容赦なく告げた。はこの妙な光景を自分はどう捉えるべきか、と困惑する。ルシフェルは、まぁ、怒っているのだ。

がこの部屋のドアを開けたときはイーノックの傍にしゃがみこんで携帯を構える大天使というなんともコメントに困る姿を目撃してしまったが、ひょっとしてあの行動は彼なりに慌てていたのではないだろうか?

(たとえば、部屋に入るなりイーノックが倒れてたから驚いて、でもすぐに問題に思い当たらなくて、ヒトだから自分が触ったらまずいかもしれないとか、そういうことを考えておろおろとして、それで、神に相談しようと状況を知らせるために写真を撮っていたとか…)

いや、まぁ、証拠のために写真を、というのはルシフェルを好意的に解釈しすぎている気もしなくもないが、しかしとにかくルシフェルはイーノックが倒れた→過労と寝不足→アルマロスの気配が残ってる→あいつが無茶をさせた。とそういうことに気付いてこうして怒っているのではないか。

「ずるいよルシフェル…イーノックの教育係だからって…僕だって、僕だってイーノックと一緒にいたいのに…!!!」
「傍にいるだけならにだってできるだろうさ。だがヒトへの興味はあっても理解のないお前じゃイーノックを疲れさせるだけだ」

ルシフェルさん、鬼ですか。

とどめの一言を告げたルシフェルにはドン引きし、ものの見事にばっさりと言葉の鋭さを味わったアルマロスは「うわぁあああん!!」と泣きながらバタバタと去っていった。どうせ後で私の部屋で泣いているんだろうな、とは容易く想像できて折角回復した気力が落ちた。

アルマロスは普段からイーノックのことで何かあるとこちらに相談してくる。も暇ではないので「イーノックのことならルシフェルに話したら?」と押し付けようとしたことがあるのだけれど、あの真面目な天使は珍しく拗ねた表情を見せて「だってルシフェルは僕がイーノックのことを聞くと「なんだお前、ヒトに興味があるくせにそんなこともわかないのか」って言うんだよ!」と答えたことある。

つまりアルマロスはルシフェルがと顔を合わせた時点でこうなることを予想していなければならなかったわけで、しかしそれができないのがアルマロスのアルマロスたるゆえんだろう。まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、はできる限り自室に引き上げる時間を延ばしたくて部屋の中央、イーノックが眠る寝台に近づいた。

「よく寝ていますね」

ルシフェルが出した寝台はかなりの大きさがある。これなら体格のよいイーノックがどれほど寝返りを打っても転げ落ちることはないだろう。寝具の硬さも申し分ない。やわらか過ぎるベッドマットレスはかえって体への負担があるのでこのくらいが理想的だ、とは自分もルシフェルの反対側に腰掛けて、寝具の具合を評価する。

このあたりが「普通の天使にはできないヒトへの配慮」であるといえよう。は仰向けになって静かに眠るイーノックから視線を外し、ルシフェルに顔を向けた。見られていることに気付いたルシフェルは顔を上げずイーノックを見下ろしたまま眉間に皺を寄せる。

「……全くアルマロスのやつ、あれで少し反省すればいいんだが。期待するだけ無駄だろうな」

こちらに話しかけるような形になっているがこちらの回答を求めてはいない呟きであったのでは黙し耳を傾けるまでにとどめる。ルシフェルはそうしたまま暫くじっとイーノックの寝顔を見守っていたかと思うと、ふとぽつり、と、今度は回答を求める響きを持って口を開いた。

「……こういうときはラファエルに見せたほうがいいのか?」

ヒトについての知識は天使の中で誰よりも持っていても、それでもこの大天使にもわからぬことがある。ヒトの看病などしたことがない。いや、まぁ看病というほどでもないだろうが、眠るヒトを見守る、という経験のない展開にルシフェルが戸惑っているのがには伝わった。

「彼は癒しの天使だから適任とは思いますけど、こういうときは静かに寝かせてあげていればいいんですよ」
「何もしないのか?」
「何かしたいんですか」

聞けばルシフェルは鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をした。白鳥に豆を投げつけたらこういう顔になるのだろうか。そういう奇妙な表情を浮かべる大天使を前にしてはころころと笑い出したくなったが、さすがにそういう意地の悪さはよくない。それで、ベッドから腰を上げるとごそごそと内ポケットから小瓶を取り出した。

「私が使っているアロマオイルなんですけど、イーノックのためなら譲ってあげます。香りはラベンダーで安眠効果があるんですよ」

イーノックの天界での眠りはいずれ起こる堕天についての知識を詰め込む「睡眠学習」であるのがほとんどだが、今回ばかりは免除されるだろう。疲労回復を専念させたいと願っていることをこの大天使が自覚していないことをもったいないと感じつつはアロマオイルの使用方法を告げる。2011年の時代に何度も足を運んではいるルシフェルでも男性向けではないこの商品については知識がなく「小皿を用意して下から燃やすのか」と素直にこちらの説明を聞いているのがには新鮮だった。

「あなたは炎をつかさどる天使でもあるんですから火を起こすのは問題ないでしょう」
「あぁ、大丈夫だ。問題ない」
「突っ込みませんよ」
「このセリフは使い勝手がいいんだよ」

とにかく礼を言う、と締めくくったルシフェルには退室のために頭を下げ実在しない扉から出て行った。

確かにイーノックの例の名言は使い勝手がいいが、あぁしてさらりと口を出るほど彼を意識の中に入れてるということをあの大天使が気付く日は来るのか、あるいは来たとして、その先にあるものはどうしたってあの二人にとって「ハッピーエンドの物語!」ではないだろう。

「もちろんあなたにとってはその方が都合がいいんでしょうね」

はぴたり、と立ち止まり今回のこの一部始終を眺めているだろうこの世界の創造主に向かって吐き捨てた。沈黙したままの神にはそれ以上言葉を投げず、目を伏せ、先ほどの光景を思い出す。

(寝台に横たわるヒトの子を黒い天使が見守る。いくらイーノックでも弱っているときに天使の神気にあてられるのはよくないかと、触れるのを戸惑い一瞬止まった指先、規則正しく呼吸し上下する胸を確認して安堵する赤い目、あんなものがこの天界にあるなんて)

何も壊れぬようにと誰に祈ればいいのかにはわからず、青の瞳を開き、そのまままっすぐに自分の部屋へと歩き出した。


Fin


(2011年8月24日)