月光蝶




江戸城旧大奥・お鈴廊下の突き当たり左行って右行って最奥の一間一室、畳何畳あるのかなど数えたこともないから知らぬ。その、場所に向かって進む、真っ白い着物の、女の足音。そろり、そろりしと、そろそろ歩く。床を軋ませるほどの未熟者ではなかったが、それでも内心のどうしようもない焦燥、動揺の所為の成果、時折消したはずの気配がぶらり、と湧き出てしまうそれすらも、気付けない、動揺。



己の指先から出る長い長い日々の記憶を記録し紙に認めながら、色素の薄い髪をさっと揺らし、上げて久坂が顔を上げた。ふわり、と動いた振動、蝋燭のぼんやりと虚ろな炎が揺らめく。じぃっと、久坂は障子の向こう、広がっているのは夜の闇と江戸城の寝静まった姿、のはずであると己に問うた。(何者か、の気配がしたり、しなかったり、しているような気が、する)あやふやだったがとにかく、何か己に大事が会っては中々に面倒くさいことになると、そういう気構えで久坂、袖の中から、お庭番を呼ぶ笛を取り出そう、としたのだけれど。

「動かないで頂戴」

その、ふわっと、間接を伸ばし、まげて己の袖口に入れた左手を、突如、どこからか、沸いてきたとしか思えないほど、気配のお供もなく、音もなく背後に現れ久坂の左腕を掴んだ女に止められた。

「物騒な」
「物騒も、不精も、無礼も承知よ。御祐筆の貴方に会うには、こうするしかなかったのよ」

久坂の左腕を押さえた左手には、軽い刃が添えられ、右手には小太刀が握られ、それはそのまま、久坂の顎の下、首にそろりと押し付けられている。生臭い匂いこそしないのだけれど、その、刃がいやに艶かしい色を放っているように久坂は思えた。肉眼で見た、わけでもないのにその、刃の存在感。ふるり、と身を震わせて久坂、は、相手の言葉を待った。

「騒がないで。貴方を殺すつもりはないわ」

こくん、と久坂が頷くと、するり、と拘束の腕、戒めの刃がどけられた。それで、久坂は体を捻り、その、夜分の無粋な訪問者、命知らず、そしてきっと、中々に稀有な生き物を振り返って観た。

「まぁ」

その、人を見て、ふわり、と久坂の眼が綻ぶ。何か懐かしいものを見たような、その視線。訪問者が僅かにたじろいで、その隙でも付けばいいのに、久坂、心底嬉しそうな眼差しを送った。

「まぁ、まぁ」

思い出すことが懐かしい、あの頃、あの、輝かしい時代の頃に、よく、愛しい人の傍らにいたという蝶の気配に良く似ていた、ので微笑んでしまう。確か、鬼兵隊の、総長の補佐をしていた、黒い死を運ぶ蝶殿。己はけして、あの人に近づくことも隣に立つことも、そして、同じ世界に挑むことも出来なかった、その、嫉妬すらできぬ、無様な己が、恋焦がれた立場の、あの少女によく似た気配。

「なつかしい、いえ、もはや恋しくもありましょう。あの頃の、麗しき蝶殿の燐粉が残る、あなたは何者か」

うっすらと、久坂の脳裏に遠目で見ただけの黒い死の蝶々が浮かぶ。その名の通りに黒い髪に黒い眼の、とても麗しい女傑であった。言葉を交わしたことすらない、その、彼女は今は何をしているのか、行方知れず、それは久坂の脈を使っても探れず、蝶一匹、に時間を割くなとの、命もあっての、己にない執着心ゆえに行方知れずの、あの少女はどこにいるのか。この、同じ匂いのする麗しいひとが、何か知っているのかと、久坂、懐かしさに微笑みさえ浮かべ、問いかけてみた。

「ルカよ」

まるで深海から海上に浮き上がるあの刹那にぼやっと、瞼の裏に焼きつく青のような、透き通る、けれどもどこか濃い青、の瞳が真っ直ぐに久坂を見て、言い切った。あの、黒死蝶殿のご本名、である。
まぁ、ご本人?と、久坂の控えめな悲鳴が耳を打った。薄っすら、蝋燭の明かりが照らす、それでも眩い、金色の髪は外でぼんやり浮かんでいるおぼろげな存在感、存在理由の月よりは重要な位置にありそうだと、思えてきた。

そして興味深そうにルカをさわりさわりと眺めてから、しゃらん、しゃらん、と簪鳴らし、小首を傾げる。

「伝説の、黒死蝶殿。随分な面変わり、」
「貴方に聞きたいことがあるの」

ルカは、久坂の始終からかうような言葉を遮って、じぃっと、その美しい青い目を久坂に向ける。久坂はにこにこと艶美に笑い、袖口で口元を隠してルカを待った。その、目は何を考えているのか解らない。

己の問答が果たして、よい運び方をするのか、しなくても意味があるのかどうかと瞬時にルカは思案しそして、一番、無難そうな言葉選び、口を開いた。

「この体を元に戻す方法を教えて」

ころり、ころりと坂から童子が転がるような、奇妙な声を久坂が立てた。





鏡を見て、毎朝毎晩絶叫したくなる。叩き割ってそれで、そのままに、ずぅっと、いろんなことを忘れたり、気付かないフリをしてしまいたくなる、のに。どうしたって、逃げられないのは己のこと、ならこれも、ある意味、道理だ。

ルカはじぃっと、久坂、この国の全ての記憶、記録を保管し所持しているという化け物じみた能力を持つ女を眺めた。

攘夷戦争時代、久坂の所属していた社僧隊は鬼兵隊の傘下で、それで、総督補佐であったルカは人材管理も引き受けていたから、その名は聞いたことがあるし、彼女が入ることを、彼女が社僧隊の主となるのを許可したのも、ルカである。が、そう、思い出してみれば、こうして顔を合わせたことは今の今まで、なかった。久坂、当時はと呼ばれていた生き物は、心底病弱で、采配、薬学に長けてはいたが、部隊で移動する任に付くことは無く、つねに病床についてあれこれと、暗躍していた。だから、行動し敵を斬る鬼兵隊、について周り戦場、駆け巡るルカは社僧隊の二番頭・蒼穹とはの連絡をやり取りする時に何かと顔を合わせたりはしてきたが、本当に、と会うのは、この、鬼兵隊も、社僧隊も、なくなってこれが、初めてである。

「この現象がなんなのか、貴方なら知っているでしょう」
「“鬼喰い”」

ルカが問いかけると、即座には答えて、すぅっと立ち上がり、西方面の壁をコツコツ叩いて、ルカに手招きをした。

「わたくしも、この目で見るのは初めてのこと。どうも、どうやら、始終落ち着いてなどいられない理由がある様子。どうぞ、こちらへ、さぁ、どうぞ」

コツン、と壁を叩けば反転、返し扉か何か。すぅっと、が消えていく。その後を追ってルカ、も、トン、と壁を叩いて行った。蝋燭も持たず、ルカの髪も光が無ければ輝かぬ、暗闇の中にひっそりと、二人がそろそろ、歩いていく。

「鬼喰いと、言うの?この状況は」
「そう、呼ばれているだけのようです。“鬼喰い”強い生き物の血が段々と体を蝕んで、細胞組織までもを組み替える、病。蝕まれれば、とても酷いことになると、聞きます。まだ、久坂の千年の記録にも事実として残されているのはたった五件。あなたは六件目。正確な病名、名称が付けられるにはまだまだ少ないでしょう」

世に露見する兆候か、とが冗談めかして笑った。「ろけんめに、ろけんする」なんて、ルカは繰り返してから沈黙した。落ち着いていられない、とか言いつつこの女茶目っ気たっぷり、である。

「重くないの、その、着物」

会話に困った、わけではないのだけれど、ルカは、ふと気になって背中に声をかけた。のまとう、十二単はずるずると音を立てそうなほどに、重そうだ。何本も頭に刺された簪も、まかれた首の布も全部が全部、身を沈めるほどに重く、圧し掛かりはしないのかと、かつての己をぼんやり重ねて、思う。

「重いですよ」
「脱げばいいのに」
「逃げられないでしょう。これだけ着ていると、素早く動けないですから」

なんて、会話に意味があるのかないのか。
暗がりの中、なんとか、そろそろに目が慣れてきた。薄っすら、浮かび上がるのは久坂の色素の薄い、髪だ。けれど色素が薄くても、己のように、あからさまな金ではない。その、色ならばせめて、まだ、何とか思えただろうにとルカはぼんやり、思う。

コツン、との足が止まった。

「ここです。ここなら、お庭番も早耳も天導衆も届かない」

ひっそりと声を半殺しにしながらは、ルカを振り返った。その手には、いつの間につけたのか蛍の光のように、淡く弱々しい、点のような炎。蝋燭、ではない。

「その体、黒死蝶殿が天人との混血児とは……驚きます」
「……」
「けれど、綺麗でよろしいじゃありませんか。かつての月のような麗しさは消えてしまったけれどそれでも、朝靄の雪のような幻想的な美しさがあるじゃありませんか」

けろり、とは何でもないことのように言う。しかし、その目が本気で言っていない事はルカには一目で悟れた。ぎゅっと唇を噛んで、俯く。

「そうね、そうかもしれないわ。でも」

段々と、変わって行ってしまう。あからさまに、己が己ではなくなる。血の、所為なのだ、己の所業ではないのだと、わかっていてもそれでも、まるで。これは、呪いなのかと、おぞましく思えるほどに、後ろからそっと、何かに背を叩かれる、気がするのだ。始終。

「どうにかできるのなら、どうにか、したいの」

だから、と強く言うルカの目をじぃっと眺めていたはふいに、袖に片手を入れて、一冊の、雑記帳を取り出した。ぺらぺとまくり、暗闇の中なのに、頁に指を這わせれば内容が読めるのか、まさか、そんなことはないだろうが、数枚目の、一文を触れたの手が止まった。

「それでは、その、どうにかするためにある、酷いことをする覚悟はおありでしょうか」

ぼんやり、蛍火に揺らぐのビー玉のような透明な目はじぃっと、ルカを見抜いて、そのままに、伏せられた。



++++





それはぴりぴりと、柔肌を裂かれるような、しかし、チクリチクリと平凡に熱さを付属させたような、痛みである。ぼんやり部屋の四方と、うつぶせになったルカの傍らに一つ、置かれただけの五本の蝋燭ゆらゆら揺らめく火。真っ白い肌に一心に、華麗な赤い蝶の絵を描いているのは、白髪の混じった痩身の、男である。しかし、彫り師によくあるような痩せこけ方ではなくて、精進、切磋琢磨ゆえの細さと、鋭くもどこか慈悲の篭る、眼、そして何よりも職人の纏う着物ではなく、神に使える身の上の、白い、装束。

ルカの肌に蝶の刺青を彫るのは、江戸の神社の一つを任せられている、蒼穹という神主であった。かつては鬼兵隊傘下の社僧隊、参謀を務めた男で、ルカとはいくばかりかの面識がある。

丁度、あの、が扉の仕掛けから通したあの、真っ暗な道はこの神社のお社に繋がっていたらしい。それで、はゆらゆらルカの手を引いて、ここまで、やってきて、それで。「鬼の目を逸らしましょうか」と、言いわけのわからぬルカの身を床に押し付けて、今に至っている。

その蒼穹が額に軽い汗など掻きながら、熱心に、一針一針を間違えぬように、彫っていく。そしてその、彫り方がまた奇妙であった。通常の彫り方であれば、皮膚を薄く抉り、窪みに墨を流し込む、というのが気安い説明の仕方であるが、この、神主がやくざ者の所業のまねことのように、彫り進んでいく、その方法。
部屋の四隅に置かれた燭台の足元から一列に、奇妙な文字が現れており、それが部屋を十字に切るように伸びている。丁度ルカの身が中央になる。ルカが寝る床もなにやら怪しげな模様を描かれた紙の上、そして、開け放たれた障子の向こう、廊下に静かに正座をしている、あでやかな十二単の女が己の白い指先で墨もつけずに、文字を綴っている。奇妙な彫り方である。

「その蝶はあなたの身代りです」

ゆっくりと、蝋燭の明かりにルカの肌を晒しながら静かな声では告げた。その、蝶の刺青。段々と喰われて行くルカの精神の変わりに、ルカの血の変わりに侵食されていくものだ。
痛みに暫く身動きはとれないだろうが、それでも耳は聞こえているはずだと、は今知らせておくべきことを、告げることにした。

「その蝶が段々と薄れていけば、あなたは鬼になる。それが、消えるまでに、あなたには選んでいただかなければならないことがあります」
「これは、外法の類ですぞ、殿」

片付けをしながら、蒼穹がやや咎めるようにを一瞥した。この、従順な男にしては珍しい目つきには一度ニコリ、と笑ってそれ以上の追求を黙らせる。それでも己の頼みに応えて処置を施してくれたのは蒼穹であり、そして、この方法が一切の乱れなく行えたのは、体にさまざまな歴史を残しているあってこそのもの。たとえルカの身に「そういうものがある」証拠になったとしても、それで、それが明るみにでたとて、影響があるものでもない。

「か、ぐや」

体中の感覚が痛みで麻痺しているはずなのに、ひっそりと、呻くようにルカが声を絞った。はそっと床に近付いて、耳をひそめる。

「もう声を出せるのですか。さすがは、蝶殿。けれどご無理なさらないでください。普通なら一ヶ月は身動きの取れぬもの」

はそっとルカの顔に近付いて、その微かな言葉を聞き取る。空気が揺れるだけの、音でもそれは唇の僅かな動きとそれと、眼の、強い言葉でいくらか想像はつく。

「この絵の墨が、気になるのですか」

ぱちり、と瞬き。けれどは「知らないほうがいいことってありますよねぇ」と誤魔化すように笑い、余計ルカは気になってしまったが、どうしようもない。眉を顰めるルカに気付いて、は小さく笑う。

「その調子であれば、三日あれば出られそう、ですね」

ぱたん、と扉をは障子を閉めて、出て行ってしまった。残されたのは焼け付くような痛みに苦しむルカ一人。うなされるように、唸って何かかわる、わけでもないけれど、ぎゅっと、噛み締めた唇から漏れるどうしようもない、痛みによる嗚咽はひっそり、辺りに響いていた。





桶に汲んだ水でさらさらと、手を洗う。指先から付け根までをゆっくり、ゆっくりと、洗って、落ちていくのをぼんやりと眺めた。
こうして、久坂の力を使うのはあまり好ましくはない。こうするたびに、己の時間が削られていくのが、よくわかる。まだ、何も叶えられていないのに、消えてしまうのは恐ろしい。しかし、今度ばかりは、そうも、言っていられそうにないのだと自分に言い訳をして、ばしゃんと、水を地面に捨てた。
ぼんやり見える三日月は段々と満ちていくのだと思えば、寂しくもない。

とりあえず、明日から忙しくなる。まず外に出たことをすぐには知られぬための影武者を作らなければならないし、いない間に起きたことを、きちんと、把握できるように、いろいろ、策を練って、いろんなものを、ばら撒いておかなければならない。それに、今夜ルカがここへ来るまでにしでかしたことも、「なかった」ことにしなければ、厄介なことになる。

さて、まずは江戸城に戻らなければならないと思い、が洗い場を出てぱたん、と扉を開くとそこに、普通に坂本がいた。いや、普通に、驚く。

相変わらずもしゃもじゃとした妙な髪形に、夜だというのにサングラス。センスが良いのか悪いのかさっぱりわからない、服装。なんで、ここに坂本がとが眉を寄せ掛け、直ぐに気づく。

そういえば、例の“墨”を手に入れたいと、陸奥殿に接触したのが、おそらくこの男の耳に入って、こうして、現れたのだろうが。それにしても、突拍子もない。は丁寧に頭を下げて、その脇を通り抜けようとしたら、なにやら坂本、目つきを鋭くして、こちらを睨んでいるような、気がする。のは、サングラスの所為で真相はわからないが、まぁ、睨まれているのだろう。

「こんばんは、坂本さん」
「おんし、酷いことをしちょるの」

挨拶の言葉を無視して、坂本は叱るような声で、いきなり切り出す。は目を伏せて、「まだ、気安いほどです」と呟いた。そうしたら、容赦なく、坂本がの頬を叩いた。ぱしぃん、と、乾く音。

「おんしは、酷いことを、しちょるのぉ。

ぎりっと、が下から睨みつけるように、坂本に鋭い視線を飛ばした。その視線を受けて坂本は困ったように、眉を下げる。どうして、わからないのだ、と、幼い子供をたしなめるような、態度だ。

「ルカは、高杉の半身じゃ。いずれ、高杉はルカを見つけ出すじゃろ。そん時に、きっとたくさんの人が死ぬ。ルカがいれば、酷いことになる。じゃけん、おんしは、」

彼女を助けようとするのか、と、坂本は暗に責めた。いや、坂本は、別段ルカを死なせたいわけ、ではないのだけれど。それでも、昨今聞くあの、鬼兵隊復活。高杉の危険性。坂本はバカだが馬鹿ではない。そして、かつて仲間を置いて宇宙に上った覚悟を持てたくらいの、状況の優劣を見る眼がある。どう考えても、ルカと高杉を会わせてしまうことが、この国にとって「良い」方向になるとは、思えなかった。

実際の関係がどうなのか、正直坂本は松下塾の門下生ではなかったから、詳しいことは知らない。坂本はそういう意味で、部外者だ。だからこそ、表面上の、ルカと高杉の「評価」をわかっている。あの二人が、揃っているというだけで過激な攘夷志士たちは熱を帯びるだろうし、幕府も警戒する。

「では死んでよろしいのですか。坂本さん」

は睨む目はそのまま、坂本には容赦のない言葉を吐く。それがまた、坂本には自分と銀時たちの違いを思う瞬間であった。
正直に言えば、坂本はルカが例の“鬼喰い”の症状にあるのなら助けたい。だから手に入りにくいあの墨も、陸奥にムリを言って手に入れてもらった。の、気持ちもわからなくはない。は、高杉のそばにいるルカを助けたいのだ。あの、眩しいくらいに、焦がれていた“二人”を失いたくないから、は協力するのだ。そのために、どんなことを自分がしなければならないかを、しっかり理解しているのに。

「それで、えぇんか。おんしは」

ぐいっと、坂本はの肩を掴んで、その瞳を覗き込んだ。のしていることは、ただ、綺麗な肖像画をいつまでも追いかけている、画家のようだ。そんなことをしても、自分が高杉の隣に立つことは出来ないというのに。ルカを救うことで、自分が、慰められようとしているのか。そのために、とても酷いことをしなければ、ならなくなるのに。

の眼が、沈んだ色をして、けれどそれでも、真っ直ぐに坂本を見て、頷いた。それで、もう、どうしようもないのだと、坂本は気付いて、息を吐く。

「本当に、おんしは、自分には酷いことを、平気でしちょる」

どうして、そう、頑固なんだと困っているような、声。ふと、の脳裏に誰か、懐かしい人が浮かんだが、それが誰なのか、よく解らなかった。思い出そうとすると、掠れるように脳が痺れていく。

「外に出たらおんしは、これまでのことを全部、消されるんじゃよ」




++++




うつぶせになったままぼんやりを目を開けると、畳の目がぱっくり口を開けてこちらを見つめていた。

(夢を見た)

懐かしい、夢だった。先生と、銀時と桂と、それに晋助と皆で花火を眺めた、河川敷。銀時はやっぱりやる気なさそうにぼんやり花火を眺めていて、それでも、口元だけは楽しそうに、歪んでいて。桂と高杉はやっぱりなんだか、仲が悪そうで、先生は、自分の隣に座ってあれこれと、いろんなことを教えてくれた。

(その時、もうひとり隣にいた気がするけれど、あれは、誰だったかしら)

痛みに震えながらひっそりと、息を吐いてルカ、何かを思い出したかったのに、やっぱり、できなかった。



++++





「本当に三日で回復するとは、さすがはルカさん」

嬉しそうに手を叩いて喜ぶ、の装いはまだ簪ざくざく重そうな、十二単。こうしてみれば皇居の姫君に、見えなくもない。けれどどうしても、彼女は神秘的さよりも禍々しさ、不気味さの方が強いと思ってしまうのはどうしてだろう、と、ルカ。

そういえば、この女に名を呼ばれたのはこれが始めてだったと気付く。それで、己は彼女をどう呼べばいいのか考えあぐねていると、、にっこり微笑ながら「ルカさんはわたしを、とおよびください」と言う。優しいが、どこか有無を言わさぬ何か命令じみた強さがの言葉にはあった。

具合もだいぶよくなって、これなら昼には十分動き回れるようになるだろう。ルカはぐっと手足を動かしてみて、立ち上がる。だいじょうぶ、そうだ。はその様子を見てまたにっこり笑い、ルカに夜着から普段どおりの着物に着替えるように促した。
刺青を彫る際に脱がされた着物は黒い葛篭の中に丁寧に畳まれて入れられている。手に取るとほんのり、梅の香りがした。

「私も、ルカでいいわよ」

ゆっくり、馴染みのもののはずなのにどこか真新しいものでも着ているかのような緊張感を持って袖を通し、ルカは正座してルカの身支度を待っているに言った。は「わたしはこちらの方が呼びやすいですから」なんて答えて、やっぱり、にっこり笑う。現在、朝日の眩しい早朝。けれど正直、のこの笑顔はちょっと、胡散臭さが増す、朝日の中である。
何しろこの女、年齢はルカより上なのか下なのかもわからない、。外法の術を容易く使い、しかもあっさり江戸城から脱走中。笑む顔の下に何を考えているのか、ルカには本当に検討が付かない。
しかし、と疑いだしてもきりがない。ふと、部屋に備え付けの鏡に写っていた自分の顔を見て、息を吐く。黒い髪に、黒い目の、昔の自分がしっかり、写っている。

は、少なくともこの体をどうにかする手段を知っている。なら、信用、できなくても付いていくべきだ、それに。ルカはどうしても、を疑う、強い意志をもてなかった。どうしてか、は大丈夫だと、そう、思えてしまう。

「さて、出発しましょうか。坂本さんが近くまで乗せてくださるようですから」

ルカが簪で丁寧に髪を纏め上げるのを見計らって、が簡単にこれからの道筋の説明をしだす。必要なものを取りに行かなければならなくて、その場所は江戸より遠いとろこになるから、坂本の船で移動する、のだと。

「坂本?あの、坂本辰馬?」

船、坂本で思い浮かぶのはあの坂本辰馬しかおらず、それは懐かしい知己でもあった。ルカの顔が綻ぶと、も嬉しそうに、「はい、あのバカ本さんです」なんて、容赦のない返答をくれた。

「うちの頭は確かに馬鹿じゃが、そういう呼び方はせんでくれ」

ルカが突っ込みを入れる前に、部屋の入り口に現れた、色素の薄い顔、肌の、土佐弁の女性が低い声で呟いた。

「あぁ、陸奥さん」

は顔見知りらしいがルカは初めて見た。しかし、噂には聞いている。確か、坂本の片腕、優秀な側近と名高い陸奥宗子(だっけか?)だ。話では男のようなイメージを受けてきたが、なかなかどうして、美女である。これが、あの無鉄砲、というか、底の知れない、いや、底抜け?な坂本の補佐官。高杉と己との関係で考えれば同類に当たる人間か。ルカが一人感心していると、その、陸奥がちらり、とルカに視線をやった。

「おんしが黒死蝶か。鬼喰いに侵されちょると聞くが」
「アナタも知っているのね。この症状を」

その名称はどうやら、の認識うんぬんの前に、通称、と化しているのだろうか。それにしても症例がルカを含めて六件しかない病気の名を彼女が知っているのは驚きだ。眼を見開いたルカに、陸奥がふん、と鼻で笑う。

「何を今更。おんしの肌を縛ったあの墨はわしが手に入れたものじゃ」
「陸奥さん」

にっこりと、の静かな声が遮った。ぴたり、と陸奥は黙り込む。なんだというのだろう。ルカが不審がっても、答えは返ってきそうにない。

「……頭がした取引じゃ。文句はないぜよ」

じぃっと、暫くのぼんやりとしたビー球のような眼を眺めていた陸奥だったが、大きく溜息を吐いて、それで、くるり、と踵を返した。その背をが追う。

「お支払いは蒼穹がします、お話はそちらでお願いしますね」

なんて、言いながら陸奥とどこぞへ消えていく。ルカは、平たく言えば会話からも二人からも、取り残されたわけである。え、なにこの状況なんて、理不尽さ感じている暇もない。スパァアン、と、たちが去っていった方向とは反対側の障子が開いて、もじゃもじゃっとしたアフロのような頭の、変なグラサンかけた男が現れた。坂本だ。相変わらずバカそうである。

「ルカー、相変わらずめんこいのー!あはあはあはははー!」
「辰馬、丁度良かった、貴方この状況がどうなってるのか、すっきりさっぱり私に説明してくれないかしら」

なんで自分こんなに寂しい感じにならないといけないんだと、ふつふつ怒りのようなものがこみ上げてくる。というか、あの陸奥の態度はなんなのだろう。初対面だ。自分、何かしただろうか?初対面のに心底無礼なことをして窘められた記憶は新しいが、陸奥には何もしていない、はずだ。

「あっはっはー、そげんいわれてもなぁー」

坂本のバカ笑いは正直脳に響く。けれどひとしきり笑ってから、坂本は至極、マジメな顔をして、ルカをじぃっと、眺めた。

「まぁ、おんしは、大丈夫じゃよ」

そんな、突拍子もないことを、言う。いや、現在自分が聞きたいのはそうではなくて、といいかけるのだが、普段バカすぎる坂本の目が、本当に真っ直ぐ、真面目なものだから、どう、何を告げればいいのかルカは一瞬わからなくなって、それで、今、坂本が何事か伝えようとてくれていることを、受け止めなければと思ってしまった。

坂本とルカは実際共に戦った期間は少ない。坂本は戦争中に銀時たちの友人になって、それなりにルカも付き合いはあったが、いかせん戦争中。お互い部隊を抱えているのでそうそう会うこともなかった。坂本は戦争終期に姿を消しているし、ルカはその直ぐ後くらいに消えた。落ち着いてからゆっくり、なんて会う暇はない。しかし、ルカはこの男のことが気に入っていた。のびのびとしている気質、に見えて深層心理はきっと誰よりも深い。それに、桂や晋助、銀時とは違う道を選べるこの男の覚悟が、ルカは今の自分、とても羨ましかったのだ。
そういえば、坂本には一緒に行かないか、と誘われたことがある。もちろん、自分は晋助の隣にいるべきだと思ったから、その誘いは断ったが。

坂本は裏切り者だなんだと、言われている。けれど、その深層にあるところの、本当に彼のしたいこと、利によって双方の平和を計ることは、ルカは誰の眼にも眩しくて、そして、誰にも本当は不可能なことで、惹かれた。坂本ならば可能だと、思えるだけの魅力が彼にはあって、だから、応援したいと思う。

その坂本が、真剣に自分に何かを告げようとしてくれているのだから、ルカは、じっと、坂本のサングラスの奥の眼を見つめ返した。色はわからないのに、とても、強い。

「おんしはのようにはならん。わしはそう信じて、おんしを乗せとるんじゃ。よかば結果、見しちょくれ」

前半は力強く、後半は半分笑うように言われて、そして、ぽんぽん、と頭を叩かれる。子ども扱い、されるなんていつぐらいぶりだろうと考え、ルカは坂本に聞かなければならないことを思い出す。

「ねぇ、辰馬。……の言う、酷いことって、なんなの?」

疑問は多々ある。まずもっかの陸奥の態度だとか、まぁ、それは些細なことだろうから、今一番聞きたいこと、は私に何をさせようとしているのだろうか。坂本ならば知っていると、ルカはそう確信した。この男は何も知らない顔をして、本当はいろんなことを知っているのだ。でなければ、大局を見て酷い決断にしか思われないことをすることはできない。

坂本は一瞬、眉を顰めて何事か口を開きかけたが、結局、本当に言おうとしたことではなく、別の言葉を吐いたような、違和感のある音で答えた。

「選ぶときが来たら、解る。今はただ、ルカはルカを保つことに専念すりゃえぇんじゃ」

ちっとも、答えになっていない。







坂本の船の一室。宛がわれたのは居心地の良さそうな、普通の部屋だ。客室、のようにも見えるが基本輸送船。まぁ坂本のことだからそんな基準に拘らずに何か面白いだとかそういう理由で、作りそうだ、客室くらい。

することもない、というか目的地も知らされていないこの状況で何をしろというのかルカ。一人ぶらぶらと、小立ちの手入れをしていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。

「あら、
「こんにちは、お茶の時間ですよ」

さすがに重たい十二単は止めたのか、白の留袖に淡い緑の打ちかけ姿のがにっこり、お茶のセットなんて持って立っていた。なんとなく、急須の中に何か得体の知れない色の茶が入っているんじゃないかと本能的に身構えたが、おかしなことに、とお茶をするのは始めてのはずだ。あれ、なんだろ、これ。

はテーブルの上にかちゃかちゃと茶の道具を出していく。手馴れているその姿はとても、今の今まで江戸城の最奥でひっそり息をしてきた飼い鳥には見えない。

「どうぞ」

と、差し出されたお茶はごく普通の緑色だ。受け取るときにルカは奇妙な違和感を覚えたのだけれど、いったいなんなのか。受け取って、一口飲んで、「それで、話があるんでしょう」と、切り出す。いろいろ、多忙だろうこの女がこうして優雅にお昼のお茶を自分とするわけがない。いや、ちょっと知ったの性格ならやりそうだが。

は深い緑色の湯のみを両手で握って包むようにし「あ、茶柱」なんて、一瞬茶化してから、顔を挙げ、ルカの黒い目を見つめた。

「その蝶。あなたが天人に近くなるに連れて鬼に喰われてゆくものなのですよ」

なんて、茶請け話にしては、重要すぎることを気安く言う。それで、緊張感を紛らわそうとしている、のだろうか。

「……どういうこと?」

聞き返すルカの声。震えてはいないが、奇妙に、戸惑う声である。はぼんやり、コトリ、と湯のみをテーブルの上において首を傾ける。

「殺気。わたしに、あなたの片親が何者なのかまでは知れませんが、あなたの片親、天人の親は、どうも、どうやらとても凶悪な性質をお持ちのようですね」

父親、となる男のことをルカはこれまで聞いたことがなかった。けれど、ルカの母親に乱暴を働いて、犯した男だ。良い性格のはずがない。そして、凶暴な性質、にルカも思い当たる。己が小太刀を振るい何か生き物をこと切らせるあの瞬間刹那確かに、深く深い、深層で何か、得体の知れぬ甘美な己の本性がふつりと、沸いてくるのだ。
髪が金色になるたびに、その声が大きくなる、ような気がしてきた。

その声が己のものになるのが、怖くて、怖くて、ルカ、そうだ、藁にも縋る思いでを尋ねたのだった。

「考えられるのは玄武族か、夜兎か、それとも茶吉天か、まぁ、どれでも殺戮衝動に大差はないのですけれど」

はぼんやりと、茶を見ている。その眼が何を考えているのかはルカにはうかがい知れないが、今己にわかるのは。

「……殺気を出すたびに、意識が喰われていく、ということ。それじゃあ、殺しはするな、ということかしら」
「可能な限り、は」
「目の前で誰も彼もが殺されている場合も?」

それが、の言う“酷いこと”なのだろうか。自分のために、他人を見捨てる、ということか。しかし、はそこで顔を上げて、ニコリ、と笑う。

「そのように気安い酷いことがありますか。まさか、蝶はただの薬です。ルカさんも医学を嗜む方ならご承知でしょう。所詮薬は様子見、一時のまやかしに過ぎません。本題の解決には必ず手術や外的処置がいる。そういう、ことです」

この刺青を施したように、何かきちんとした処置が必要なのだろう。しかし、それ以上をは語ろうとはしなかった。本当に、酷いことをまだ話す気はないのだろう。ルカは額に浮かんだ冷や汗をそっと拭って、窓の外に視線を向ける。

「この船はどこに向かっているの?宇宙、じゃないわね。これだけの船だもの、ターミナルを通さないと宇宙へは行けないわ」

席を立って、窓に近付く。大地は離れているけれど、まだ、空の方が遠い。久坂の人間は宇宙にはいけないはずだ、とルカ。はにっこり笑って「北へ、向かっているのですよ」と答えた。

北、北の、極寒の地。確か、まだあそこでは小さな抵抗勢力が残って、天人たちと小さな、小さな戦いを繰り広げているはずだ。

「北、ね」
「えぇ。いろんなものから逃げた生き物が、最後にたどり着く場所です。とても、酷いところですよ、ルカさん」

そこに、酷いことをしに行くのだと。北国、そこに、己が己でい続けることの出来る、何かがある。ルカはそっと、窓に指を這わせてどうか、その、酷いことを自分が受け入れられる、覚悟の強さがもてればいいと、何に祈るのかわからないが祈って、それで窓ガラス越しに眼のあった、ににっこり笑いかけてやった。





+++







ぐぅん、ぐん、と巨大な鉄の塊が空中を移動する感覚というのは、奇妙ではあて嵌らぬ不思議なものだと、寝台に横たわり天井を見上げながらルカ、ぼんやり考えた。医療にはそこそこ詳しい自分と自負して昨今。けれどカラクリの類は専門外だ。それは、確か、そういうのを得意としていた子がいたのだが、あれは、そうだ、電脳の魔女と名高かったあの少女。脳裏に浮かべてぼんやり、浮かぶルカの微笑。それにふわりふわりと空気が震えてそれで、綺麗に余韻が消えうせる前に、コンコン、と、重い拳をドアにゆっくりゆくり、叩いて問う音が混じる。

「はい?どなた」

この船内にて己を訪ねるものはおそらく限られているのだが、それでもルカ、一応の礼儀としてたずねて、相手も、礼儀として「蒼穹にございまする」と、低い声で答えてきた。ルカは少しは意外な来客にゆっくり体を起こして、長い髪が憂鬱気にシーツから離れがたい、と黒い墨を流したように白に引き摺るが、それよりも主張の激しいのが己の脳。攘夷時代、坂本や以上に親しかった、あの神主に会うのが愉快だった。

「あら、蒼穹さん。どうぞ」

促して、それで一時の間を置く蒼穹は、ゆっくりと部屋に入ってきた。相変わらず簡素な神官服に質素な食事をありがたくいただいてその結果の、痩身。柔らかい面差しはそのまま、外国のメシアだかなんだかを、連想させた。白髪が最近は混じっているが、この人は変わらない、優しい眼をしているとルカはほっと息を吐いた。

なんだかんだと、このところの自分の身辺にはマトモな生き物がいない。は然り、陸奥、坂本もバカだが、ひょっこり、恐ろしい目をする。恐ろしい、というより彼は底知れぬ、のほうが当てはまるのだが、心底安心できる、無害な生き物、はどうやら今のところルカ、蒼穹しか思い当たらなかった。
ほっと息を吐いて、蒼穹を部屋に備え付けてあった平凡なテーブルと、椅子に促す。二時間ほど前はがお茶会を開いていた場所だ。蒼穹は袖の中からあれこれと、いったいどこにそんなに仕舞いこめたのか団子やら月餅やらこんぺいとうやらかりんとう、などといった甘やかな菓子類をテーブルの上にトトン、と並べて行く。にこにこ、と至極優しく、当然のような顔でされるものだから、ルカはただ唖然とその光景を眺めて、「いや、えっと!」と、声を上げた。

「何してるんですか、蒼穹さん」
「見舞いには甘い菓子ゆえ」

子供の見舞いですか、とルカは突っ込んでそういえば、蒼穹は攘夷戦争時代、病弱なの守役だったのだから、きっとその頃の癖が残っているのかもしれない。なんだか、ルカは妙に切なくなって、テーブルの上に乗った金平糖に手を伸ばして、カリ、と、前歯で噛んだ。ざらざらとした舌触りの後に、甘い味。いや、甘い味のあとに舌触りか、まぁ、どちらでも構わない。カリカリと口に運んで行くと、いつのまにか蒼穹がコポコポとお茶を入れていた。きっと例の不思議な袖から出したのだろう。

「新城殿、ご容態は如何か」

コトン、と湯のみをルカに寄せつつ蒼穹が問いかける。本題なのだろう、ルカは社交辞令で答えるのではなく、一度自分の中に問いを含ませてから、答えるべき言葉を吐いた。

「良好よ」

全く問題は、ない。答えれば蒼穹が表情を和らげた。その、意味は気安く知れる。ルカの背に蝶を施したのは、指示したのはだが、実際に掘ったのは蒼穹である。いくら信頼し敬愛するの言葉であったとはいえ、蒼穹、神に仕える身分、そういうことを、きっちりと把握したいのだろう。

「さっき血液検査をしてみたけれど、に会う前に見られた白血球の急激な減少は止まって、正常値に戻りつつあるわ」

症状・鬼喰いの体内変化は白血球の現象が一番大きかった。他にも細胞変化、などあるにはあったが、その専門知識のない蒼穹に説明してもあまり意味はないのだろう。蒼穹も詳しく問おうとはせずに、ルカの言葉に感心したような顔をする。

「さすがは、黒死蝶殿」

その呼び方はなんだか、こそばゆい。金の髪であった頃はその名で呼ばれれば後ろめたかったが、こうして元に戻っては、なんだろうか、この、気恥ずかしさ。ルカは一度目を伏せて首を軽く動かすと、蒼穹に、いや、誰かに問いかけたくてしょうがなかった事を、聞いてみる。

「……ねぇ、蒼穹さん。あなたは、知っているのでしょう?のこと」

聞きたいこと、知らなければならないことはきっと他にもたくさんあるのだけれど、とにかく今のルカ、あの、違和感の正体を知りたかった。
己が知る限り、久坂という生き物は記憶者。江戸以前の、この国の歴史を記憶し続けてきた稀有な生き物。それが、彼女。でも、本当に、そうなのだろうか。
本当に、それだけか?
自分は、ルカは、彼女のことを何かほかにもっと知っていなければならないような気がするのだ。知っていた、ような気がするのだ。

しかし、それは奇妙なこと。攘夷戦争中、ルカはとは会ったこともない。なのに、戦争前に、松陽のところでいつか、会ったような、気がするのだ。

「……新城殿、」
「ルーカっ!具合はどうじゃぁ!」

何か言おうとした蒼穹の、言葉を見事に遮った、どがん、と言う音。自分の家のように気安くドアを開けて来た、坂本。あ、ここは彼の家のようなものかとルカ直ぐに思い当たってそれも当然なのだろうか、と、首をかしげる。

「バカ本殿」
「なんでお前までバカ言うんだコラ。わしゃ本気で怒るぞ」

蒼穹のがっかりしたような声に坂本がぴくん、と頬を引きつらせる。バカ本、は愛称ではなかったのかというルカの突っ込みは、入らない。

「それでどうしたの?辰馬」

しかしにらみ合いになど発展させては何か、胃の弱そうな蒼穹が気の毒だと思いルカが会話に割って入ると、坂本は今更ルカの存在を思い出したように、そうそう、と手を叩いた。

「あぁ、そうじゃ。ルカの様子を見にきてのー。おんし、江戸城からこの船に連れてこられてそのまままだ何も食っちょらん」

ほら、と、今更ながらに差し出されたのは、どうやら最初から持っていたらしい、お盆の上の、カレーライス。

「陸奥がメシ作ってくれたき、食べんしゃい」

なんでカレー?とは思いながらも受け取って、ルカがテーブルの上に置く。いや、そういえば、何も食べていない、のではなくて先ほど蒼穹に菓子類を大量にいただいていたが、まぁ、坂本は知るよしもなかったのだから、いいのだろう。

椅子に座って、カレーライスをスプーンにひとさじよそって、不意にルカはくすくす、と笑い出す。

「うん?なんじゃ」

坂本が首をかしげてこちらを向くので、そのままルカは「陸奥さんってなんだか、辰馬のお嫁さんみたい」と返してみた。相方、相棒、まぁ呼び方は何でもいいのだけれど、きっと陸奥は坂本にとって一番近いのだろう、それを今は嫁、だなんて言ってみたが、口に出すと意外にしっくりときた。

「いやマジで止めてください」

なんでか標準語になって坂本は必死に言う。

「わしゃー、あんな女はごめんぜよ。それよかおりょうちゃんのようなめんこか子がえぇ」
「陸奥さんすっごい美人だと思うけど…」
「人の金玉蹴り飛ばすような女じゃあ。あれは女という宇宙生命体じゃけん」

それでもまんざらではなさそうに見えるのは、ルカのおせっかいだろうか。カレーライスを食べて、蒼穹が入れてくれた茶を飲んで、ゆっくりゆっくりしているうちに、またいろいろなことを考えたり、忘れたりしてきたのだけれど、とにもかくにも今は、目的地に付いて、いろんなことをしなければならないのだと思いルカ。ゆっくりと口の中のカレーライスを飲み込んだ。

「もう直ぐ付くのぉ」

窓の外を眺めながら坂本が呟いた。

「目的地?」
「の、近くじゃ。この船は途中までしかいかん。そっからは、ボートじゃあ」

船に変わりはないが、宇宙船を船と呼ぶ以上、ボートは英語で言わないとしっくりこないらしい。坂本の妙なこだわりに笑いつつ、ルカはもう一つ聞いてみた。

「辰馬は一緒に行かないの?」
「わしゃ、やることがあるきに。ルカも気ぃつけんしゃい」

では行くのはと、蒼穹、だろうか?坂本にあんじられ頷きながらもルカは窓の外に見えてきた、海面をじっと眺める。海の上、で止まって、そこからボート。どこへ行くのだろうか、まさか竜宮城?とは思うが、まさか、そんなものあるわけがない。いや、あったらあったで、ガメラだか、なんだかを助けないといけないのだし、いや、身投げしたら生きる希望をなくしたヒトに希望を、なんて連れて行ってくれるかも。思考回路が随分と飛躍していっていることに気付いてルカは一度ぱちん、と自分の顔を叩いた。

「某もご一緒いたしますゆえ、心配無用」
「蒼穹さんは一緒なんですね」

お茶の道具を片付けながら言う蒼穹に、まぁ、このひとがの傍を離れるとは思わずに頷いた。そうしたら坂本が間髪入れずに、突っ込みを入れる。

「まぁ、は本より重いもんなんぞ持ったことないじゃろうしのぉ、ルカの細腕で櫂を漕いでいただくのは酷じゃ」

つまりは、力仕事専用、だと言い切る坂本に蒼穹が穏やかな顔のまま坂本を見つめてきたが、そんなものを気にするようなら宇宙をまたにかけるカンパニーの社長なんてやっていられない。坂本はいつもの馬鹿笑いをして、ルカの手をぐいぐい引いた。

「じゃあ、下でが待っちょる。行くぜよ、ルカァ」






ゆらりとボートが水の上に浮かんで、櫂の抵抗力で進んで行く。あのご立派な宇宙船から出たとは思えない、なんの変哲もないただの木のボートは切りの深い海の上を浮かんで、進む。

「ほら、ルカさん。陸地が見えてきましたよ」

の白い指先をそのまま目で手繰れば、確かにぼんやりと陸のような黒い影が霧の先に見えるような気がする。
それにしてもこんなに霧の深い海をよく蒼穹は迷わずに進めるものだと感心してルカ、鬱蒼とした森の中のような視界に目が付かれて両手を当てた。すぐにが「具合でも悪いのですか?」と心配そうに眉を顰めてきたので、にっこり笑いかける。

「大丈夫よ。それにしても、随分と濃い霧だこと」

ぐるり、と辺りを見渡してみても、白い靄のようなものがかかって、殆ど何も見えない。これでもまだマシになったほうだと最初の状況、宇宙船から降りてボートに乗り始めた頃を思い出して心底感心する。何しろ、坂本たちが降ろしてくれたのは、白い、綿のなかじゃないだろうかと疑うほどに霧が深い場所だった。そこから、何を目印にしているのかは知らないが、蒼穹はさっさと進んで、やっと、の指差す方向に、陸地らしきものがある場所まで着いたのである。

「この辺りの霧は密度も濃いのです。厄介な事に水分に微量の磁力が混じっているために方位磁針も使えず、霧の濃さにレーダーも狂うとか、殿がおらねば我らもここまで来ることはできなかったでしょうな」

ボートを漕ぐ蒼穹は、その痩身にどうしてそんな力があるのか不思議なほど、軽い仕草で櫂を握っている。ボートを進ませるのは難しいのだが、まぁ、蒼穹だからなんでもありなのだろうと、思えてきた。

が?あなた、ここへ来た事があるの?」
「まさか、わたしは江戸城からは特別な理由がなければ出られません」

それではなぜ、とルカが目で問うとはその手を船から出してゆっくり、海水に浸した。

「透き通る水の底にあるものは、今も昔も変わらない。それだけのことです」

つられてルカも水底を覗き込めば、確かに、あちこちに赤い石、のようなものが散らばっている。そうか、と思い当たってを見た。記憶者、なのだ。この一見、世間を知らぬ童女のような女は、膨大な記録を体内に管理する生き物。石の並び方の一つ一つを承知している、のだろう。
今更ながらにルカは記憶者がどんなものかを目の当たりにして、感心したくなった。ただ変事常時の出来事を記録するだけ、ではないのだ。おそらくは江戸城の壁の染みの歴史から石垣の石がどこからどのような経緯でどんな人生を送った職人の手で詰まれたのかその細部まで、熟知しているのだろう。そう気付いて、ぞっと、身を縮ませる。

「新城殿、冷えますか」

蒼穹が心配そうにルカを伺い、自分の上着をルカに差し出そうとしたが、それをルカは断った。

(だとすれば、この子はおそらく自分としての意識・記憶よりも膨大な“知識”を持っていることになる。それで、どうして自我を保っていられるのだろう)

ぼんやり、海を眺めているの目はビー玉のように透き通って、何も写してはいない。
不意に、人の悲鳴が聞こえた。誰かが、襲われているらしい。ルカが小太刀を引き抜いて辺りをうかがうと、その袖をそっと、が引いた。
静かに、とは己の口元に白い指を沿え「関わるとややこしそうですから」と、言う。ルカの視線の先、先ほどの悲鳴の原点、は、陸地、砂浜である。

「あれは……?天人が、人間に襲われているの…?」

見えるのはキラキラ光る金色の髪の、男が五、六人ほどの漁師に追いかけられている光景。その漁師たちの手には銛やらが握られていて、殺気立っている。逃げ惑う天人らしき生き物は、必死の形相で走って、そのまま林の中に姿を消した。追いかけた漁師たち、そして程なくして、林から絶叫が響いた。潮の匂いにかすかに混じってルカたちのもとへ届く、臭い。

「どういう、こと?」

に止められたから、ではなくて純粋に驚いて動けなかったルカは、ややあって、気を取り戻す。
意識の中で、天人は人に災いを成すもの、だ。いや、そんな迷信的な妄想、ではなくたって、天人はひとよりも強い、強いから、弱いひとは集まって、彼らを倒すのだ、そう、思っている。悪だと、そう信じ込んでいるわけではなかったが、追いかけられる被害者は人で、追う加害者は天人だと、そう、思ってきた。

「天人と、人の違いは犬猫ほどの大差もないのではないでしょうか」

ぽつり、と、がだらり、と船に半身を乗り上げて、水面に手を浸したままぼんやり、問いかけてきた。

「違いはあるわ。成体構成が全く違う。寿命や体内時間だって、全然違う生き物もいるわ」
「確かに中には特別な力を持った天人もいます。けれど、やはり中には生まれたのが地球か、宇宙のほかの星か、というだけで、人間と能力的にも何も変わらない天人も、いるのでしょう」

ここは閉鎖空間、なのだという。この島に墜落した天人数十名と、閉鎖的な村人たち。鬼だと、罵られている天人。この島は特別な潮の流れで、流されてたどり着く事はできても、島の周辺から出ることは機械技術を駆使しない限り不可能。文明の発展しない、島の技術ではまず、外に出ることはかなわないのだ。天人たちは偶然、船が壊れてこの島に落ちた。非力な、違う星で生まれたというだけの生き物は人と変わらず、ただその肌・目・髪が見慣れた色ではないばかりに、迫害され、恐れられるのだ。

「ルカさんの髪が黒のうちでよかった。ここで金の髪など持っていたら、石を投げつけられるどころの騒ぎではありませんでしたから」

にっこりと恐ろしい事を言っては船から手を出して水に触れる。白々しい言葉だと、不意にルカは気付いてしまった。そういえば、妙なのだ。はルカのこの鬼喰いの進行を止める術を知っている。完全に消す手段を知っている、のに、ルカに「一時しのぎ」の蝶を施した。何のために、それは、ここへ来るためではないのか。ここへ来たときにルカが金の髪だと困る、からではないか。
ルカのあやしむ目などそ知らぬ顔で、見えてきた陸地を指差して蒼穹に何かあれこれと言いつけている。





寒いと、身を竦ませた。季節的には真夏だが、それでも北の地、冬よりは圧倒的にマシなのだろうけれど、それでも、肌寒い。見ればはしっかりと暖かそうな羽織を着ている。え、ずるい、と突っ込みを入れれば蒼穹が、どこから出したのかルカにも臙脂の羽織を差し出してきた。

「それで、ここに来てまず何をするの?」

上着を受け取って袖を通しながら、ルカがを振り返ると、はまた例の、笑顔を浮かべたまま小首を傾げた。

「そうですね、まず、探し物を見つけます」
「探し物」
「この地に来た理由ですよ。方々が守ってきたという、狼の骨がどこかにあると思うのですけれど、ひとに聞くわけにもいきませんし」

この地は他者が存在する、はずのない場所だ。天人と人間との立場が逆転、している場所。それで、ある意味の均等が取れているのだと考えれば、それを壊したときに己らに降りかかる厄介ごとに、今は構っている暇はない。

「蒼穹に辺りを探って来てもらいましょう」
「私も、」
「新城殿はここに残り、殿をお頼み申す」

一緒に行こうと足を踏み出したルカに、蒼穹がやんわりと制して言った。確かに、を一人きりに残したほうが何かと不安がある。ルカたちは船を林の中に隠して、海沿いでは危険だろうと、とルカは川沿いに出、そして一刻ほどしたら戻ってくるという蒼穹を見送った。

見知らぬ土地、なのにまだ、その実感がわかないのは、あまりに物事が流れるように運びすぎているためだ。ルカはまだ、いろんなことがわからないのに、物事は、ルカを丁寧に載せておわりへと進んでいって行く。

「とにかく、私たちはここで待つしかないのね」
「そういうことですね」

は頷いて、河川敷の手ごろな岩に腰掛けたくなったのか、「あちらへ行きましょう」と、歩き出す。確かに、ずっと立っているのもなんだ。それに、大きな岩に隠れるほうがいいだろう。

河川敷を歩きながら、ルカはの手を引こうかどうか、迷った。が、迷っている間にが躓いて何度も転ぶものだから、もう、どうしようもない。

、手」
「あ、どうも。ありがとうございます、瑠架さん」

それで、やっと手を差し出して、が反射的に受け取った。その、時に出された自分の名前は、懐かしい響きを持っている。

(あれ?)

『しょうがないわね、さん。そんなにはしゃいで、銀時が心配しますよ』
『大丈夫ですよ、今日はとても具合がいいんです』

一瞬ルカの瞼に、浮かんだ光景。重ねられたの掌が、ぴくり、と動いて我に返る。手の先の、は相変わらず笑顔だが、頬が強張っているように、ルカには見えた。

「…ねぇ、

手を握ったまま、ルカはまっすぐにを見つめた。真っ黒い、黒真珠の瞳がのビー玉の目と向き合う。は「はい?」と、小首を傾げた。

「……私は、貴方を知っているわ」

ゆっくりと、十秒ほど経ってからルカは、一語一句自分の中で噛み締めるようにして、呟いた。問いかけ、ではなくて、それは己に向けての確認だ。すんなりと飲み込める自分。は、ごくごく自然に、ルカと繋いだ手を引いて、払った。

「わたしも知っていますよ、今も昔も麗しき夜に舞う蝶殿、」
「そうじゃない。そうじゃ、なくて!」

声を遮って、ルカは俯き、拳を握り締めた。何か、何か、いろんな違和感があってしょうがない。

「私はを知っている、知って、いたんでしょう?!」

叫ぶように声を出したルカは、ぎりぎりと、唇を噛み締めた。言えばすんなり自分の中に飲み込める、この言葉。けれど、自覚はないのだ。どうして、どうして、そんな風に思うのか。鬼喰いの症状、とは違う。あの、殺戮衝動に意識を乗っ取られている間とは違う、この感覚。
最初から、なかったことにされている、この、虚脱感は、なんなのだろう。

「自分が存在する、ということは記憶に自分がいて初めて、できるのです。自分の存在が希薄になったのなら、自分を知るヒトの中にいる、自分を貰えばいい」

俯くルカに一瞬手を伸ばして、結局を触れずに手を引っ込めたが、ルカから顔を逸らしながら、小さく呟いた。

「どういうこと…?」
「記憶者は、段々と自分が消えていってしまうのです。鬼喰い、に似ていますね。自分の中の、自分ではない思いに囚われて、侵食されていきます」

ふぅ、と、息を吐いて続けるの顔は、ぼんやりと、何を考えているのか解らない。

自分のことよりも、他人のことのほうを強く知るようになってしまう。自分が自分であるためには、自分のことを一番知っていなければならない。自分のことを考える時間が、一番多くなければならない。けれど、記憶者には、普通のヒトが当たり前にできることが、できない。だから、“”は消えてしまいそうになった。

それで、喰ったのだろうか。ルカの中にいた“”を。そして取り込んで、自分の正気を、意識を保ったのか。そう、は言っているように、聞こえる。

「でも、おかしいわ。私にはアナタの記憶がある!あなたが社僧隊の隊長になって、会ったことはなかったけど、一緒に戦ったって言う、記憶があるわ!あなたがそのまま江戸城に戻ったのなら、この記憶はないはずよ!」
「その記憶は本物です。ただ、わたしはもっと昔に、あなた達に、会っていたらしいんですよ」
「……らしい?」
「わたしにも、その思い出がないんです」

相手の中にいる自分を奪う、ということは、その相手も自分の中から消えてしまう。そういう、ことだ。ルカの中にがいなければ、の中にも、ルカはいなくなる。そこでふと、ルカは気付いてしまった。

「……まさか、あなたが言っていたひどいことって、」
「選んでください、ルカさん」

はルカの言葉を遮った。真っ直ぐに、今度は一切の躊躇もなくルカを見つめて、言い放つ。

「あなたがアナタのままでいるためには、あなたのことをよく知っている生き物の中の、貴方の思い出をいただかなければなりません。わたしは記憶者で、代償の記憶量がひとより多かったから、ルカさん銀時さん、松陽先生、高杉さん合わせて数十年の記憶が必要でした。けれど、ルカさん、あなたは一人の記憶で補えます」
「……晋助、ね」

は言葉では答えなかったが、ルカの眼差しに一度、目を伏せて首を傾けた。ぎゅっと、ルカは掌を握り締めて、俯く。

「晋助を忘れたら、晋助に忘れられたら、私は、私ではなくなるわ」

黒死蝶でなくなっても、晋助の半身であり続けている自負がある。けれど、の言う記憶は、“思い出”はおそらく、甘くはない。容赦なく、確実に、晋助と自分の、“関係性”をも容赦なく抉り取るのだろう。

「酷いことを、するのね」

誰かを殺したり、物質的に何かを失うよりも、酷い事だとルカは思った。忘れられてしまっても、まだ自分が存在し続ける。そのことに、大切なひとに忘れられてまで存在する事に、意味があるのだろうか。

「わたしは言いました。あなたがあなたであるために、酷いことをする覚悟はあるのか、と」

おかしな言葉だ。自分が自分であり続ける、ために、自分の存在を誰かから奪って、それは、自分、なのだろうか。

「酷いことをされている気がするのだけれど」

それでもまだ、軽く言うだけの気力がルカにはあって、それで、自分が記憶を奪われるのなら「酷い事をする覚悟」と言ったの言葉は妙なものになるのではないか、そう、問いかけて、苦笑した。へらり、と、気弱な笑みにすらならなかった。空気が僅かに震えて、それで、落下するように衝動が消えて行く。はぼんやりとビー玉のような目をルカに向けて、「酷い事を、あなたがするんです」と、小さく答えた。

「高杉さんからも、ルカさんの記憶を頂くんですよ?」

ルカの記憶を高杉からも奪うのだ。ルカの意志で、高杉はルカを忘れさせられる。それは、ルカを想う高杉にとっては酷いことだ。それでも。

「酷い事、なのかしら。晋助は、私がいなくても生きていけるわ」

彼は孤高の狂犬だ。誰も、必要としない。彼は、一人で生きていける。確かに自分を失うのは半身を切られるように辛いだろうが、そもそも、その想いがなかったことにされるのなら、その、悲しみなどないはずだ。

「あの方は、あなたが必要です。ルカさん。あの方は、あなたを忘れてはいけない。奪うことはとても、酷いことなのです」

ぎゅっと、がルカの手を握り締めた。

「……どうか、よく考えてください。あなたがあなたであるために」

夕暮れぼんやり、見守りながらずぅっと遠くの山の、木の一本に鴉が止まっているのを見ていた。
不思議なことを、は言う。自分から、ルカが黒髪の日本人であり続けるための方法を示しておきながら、それを拒むように説得している。本当にルカを助けたいというのなら問答無用で施しそうなものだし、なにより、は晋助を想っているはずだ。自分から晋助を奪い、晋助から自分を奪えば、良いのではないだろうか。

「他に方法はないの?」

ぼんやりと、握られた手に視線を落としながらルカは問いかけた。完治する方法は、これ意外にはないのだと、はすぐに答える。彼女の、千年に及ぶ記録を応用して考え込んでも、なのだ。
ずきり、と、背中の蝶が少し、痛んだ。それで、思いつく。

「この刺青を定期的に彫るのは?痛みになら、耐えられるわ」

殺気やらなにやらで段々と消えてしまっても、彫りなおせばいい。失って、何もかもなかったことにされる悲しみよりは、肉体的な痛みのほうがマシだと思え、そう、いえばは弱々しく首を振った。

「あの墨は確実に手に入るものではありませんし、とても、高いんですよ」

高額、だが、それでルカは怯まなかった。これでもそこそこに、一生遊べる程度ならば溜め込んでいるし、それでも足りないようであれば、稼ぐ。貯めた金で医療免許を取得し、そこから医学界に入り論文や何やらで稼ぐことは困らないはずだ。
そう切り出そうとしたルカの声を遮って、はまた首を振る。

「混血の赤ん坊が母親の母胎にいる間に腹を割いて取り出した生き物のなりそこないの液と、羊水、それに血で出来ているんです」

あの墨は、と、言う。陸奥にムリを言って、なんとか手に入れてもらった代物。数が少なく、裏でも出回るのは数年に一度。
それに蒼穹ほどの経験のある神気の強い神官でも、一度触れれば穢れを落とすのに数年掛かるのだ。

「すぐに選べ、とは言いません。そのために、蝶を彫ったのです。消えるまでに、どうか、答えを」

ここへ来るためだけの手段として、蝶を施したわけではなかったらしい。時間稼ぎ、だ。は祈るように呟いて、そのまま、ルカから離れ、岩にすとん、と、腰を下ろした。その横顔は何を考えているのか、うかがい知れない。

「自分の中から自分が消えて行くのを受け入れるか、大切な人のなかの自分が消えて行くのを受けれるか、か」

ぼんやり、自分で繰り返した言葉はそのまま、解けてなくなってくれればいいのに浮かんで、振ってきて、払うことが出来そうになかった。
(どう、するべきなのだろうか)
考えて、考える。でも、答えを、どう探せばいいのか、わからない。自分が自分でなくなるのは、嫌だ。あの、恐ろしい殺戮衝動に身を任せて、自分ではない生き物になってしまうのは、怖い。けれど、黒死蝶でなくなってしまう、自分を守っても、なんになるのだろう。高杉に忘れられ、高杉を忘れた自分は、黒死蝶、ではない。ただ、ルカ、という名前の生き物になるだけだ。それは、鬼になるよりも、恐ろしいことだ。
考え悩むルカの耳に、パタパタと足音が聞こえる。それに反射的に顔を上げれば、息を切らせてこちらに駆け寄ってくる痩身の、蒼穹。

殿!」
「蒼穹、なんの騒ぎですか」

はい、と蒼穹が答えるより早く、ルカがを庇うように前に出て、飛んできた石礫を小太刀の柄で払い落とした。一つ二つではない。三つ、四つ、五つとひっきりなしに、振ってくる、小石。辛抱強く全部を落とす義理もなく、ルカはさっと身を前進させて石の飛んできた最初の方向に飛び込み、木の影に隠れていたらしい、人の喉に刀を突きつけた。

「参の内に止めさせなさい、壱つ、弐つ、」
「そのような脅しに屈する我らではないぞ!!」

参つ、と数えるルカに向かって、喉に刃を突きつけられた、老人は手元を振り上げる。が、寸前早くルカの左足が動き、老人の両足を払い地に叩き付けた。

「まぁ」

と、の驚いた、というよりは不満そうな声が響くがルカは構っているゆとりはない。老人の声に触発されたように、一瞬は怯んで止まった石の攻撃が再発する。蒼穹がを己の腕の中に庇い石から守るっている。ルカはどうやってこの状況を沈めるべきか悩んで、それで結局、平和的な方法に出てみた。

「待ってちょうだい。私たちは、怪しい者じゃないわ」
「問答無用で剣先突きつけておいて何言ってんだアンタ」

即座に突っ込みが入る。まぁ、自分で言って寒々しいセリフだったとルカも頷き、突っ込みを返してくれた方向、木の下にたたずみこちらを指差している、いかめしい体つきの男に視線を向けた。浅黒い肌に、無精髭。大雑把に結わいた髪に、厚く着こんだ野良着姿の中年男性だ。蒼穹とそれほど年齢は変わらなさそうだが、陰と陽、肉と
野菜、と言うように対照的に過ぎる。

「こ、これ!と、藤太!!鬼と口を利くな!穢れる!」

叫ぶ老人に向かって、ひゅん、と跳んだのは一本の針だ。それは見事に首に命中して、ストン、と、老人が仰向けに倒れる。

「蒼穹さん!!」

ルカは針の飛んできた先に叱責するように叫んで、老人に駆け寄った。隠れ潜んでいる島民たちの間に緊張が走る。ルカは老人を抱き起こして、脈を計った。

「………なんてことを」
「仕方ありません」

睨まれて答えたのは、蒼穹ではなくてだった。おそらくが蒼穹に指示したのだろう。は長い髪をさぁっと揺らして、隠れ潜む気配に告げる。

「わたしたちは鬼じゃありません。邪魔をなければそのうちに消えます」

構わないでください、と、拒絶の言葉は言いなれているのか、はすらすら、言う。ルカは腕の中の老人が目を覚まさないように注意して、申し訳なさそうに島民たちに向けていった。

「手荒なことはしたくないの。だから、お願いです」

怯えた気配が戸惑って、それでも、段々数を減らして行くのを感じた。それで、最後は自分たちだけのものになってからルカは疲れたように溜息を吐く。

「眠り薬なんて、いつ用意していたんですか、蒼穹さん」
「この程度、嗜みです」

蒼穹はさっと手元を隠して、次に袖口から手が覗いたときにはもう何もない。はにっこり、ルカに笑いかける。

「それにしても、ルカさんが乗ってくださって助かりました」

老人は死んでなどいないと即座に見取ったルカが、では、と一瞬で気付いたのがと蒼穹の“芝居”だ。とにかくは面倒を嫌うらしいから、死体の始末やらなにやらさえいやなのだろうと、思えばすぐにわかる。

「で、このおっさんはどうするの?」

ザン、と、ルカの小太刀がたちの背後に向かって投げつけられた。木の裏、まで深く突き刺さったかと思えば、くつくつと笑う声。

「気付いてたのかい。でも、まぁ、敵意はないよ」
「でしょうね」

ルカはを背に庇い、左手を振って先ほど投げた小太刀を自分の方に引き寄せる。糸かワイヤーか何か付いていたのか、ひょいっと、小太刀が浮き上がって、吸い込まれるようにルカの掌に戻った。

「気配を消して、逃げたように思わせて、それでも自分の存在をはっきり隠そうとしない、アナタ、何なの?」
「聞いてなかったのかい、おじょうちゃん。俺は藤太だ」

それは、聞いている。名前は確かにこの老人が呼んでいた。しかし、そういうことではない。ルカはきっと、眼をきつくした。しかし、それもすぐに失せる。悪い人間ならすぐに斬ればいいし、自分や、、蒼穹を欺けるのならそれこそ表彰モノだ。小太刀はまだ収めず、敵意だけ消したルカに、藤太はニヤニヤと面白そう笑う。

「アンタ、は、話がわかりそうだねぇ、いやぁ、良かった。アンタ、純粋な日本人じゃないからかね」
「なぜそのような事を?」

つぃ、と藤太を見上げたのはだ。今まで蒼穹やルカに適当にあしらわせて自分は一切関与しないでいたが、相変わらず何を考えているのか解らない、ビー玉のような目を向けている。

「見えるのさ。そういう、感じがする。信じるかい」

楽しそうに問いかける藤太には答えず、じぃっと、考え込むように虚空を見上げているだけだった。それで、ルカが変わりに答える。

「その通りだけど、それが、何か?」

開き直るわけではないが、そう、キッパリ言うと、すぐに藤太はニヤニヤ笑いをひそめて、至極真剣な目をした。そして、いかつい顔、体躯に似合わず、丁寧に頭を下げて、低い声で言う。

「同類なら、俺の妹を助けてやってくれないか」




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