午後の医務局、局長執務室、カタカタとキーボードを打つ軽快な音に囁くような微かな声が時折混じる。いつものように医務室の主、夏目を昼食に誘おうとやってきたキース・グッドマンはの秘書に手厚くもてなされ暖めたカップに注がれた香りのよいコーヒーを片手にソファに腰掛けてじぃっと、その音に耳を傾ける。
(くんの、声が、聞こえる)
当人はあれこれと入力しながら呟く癖に気付いていないらしい。発光する画面が白い顔を照らし瞳は真っ直ぐに向けられたまま動かぬのだけれど、赤い小さな唇が震えるように動く。
彼女の普段の声は、子供らしい高い声であることを嫌がっているのか押さえて低い、不機嫌そうな音である。しかしこうして無意識に出される声は幼く高い、あどけない声だった。
その幼い声が呟くのは医療関係の専門用語なのか、それとも全く違うものなのかもキースにはわからない言葉の羅列であるけれど、それでもキースは「くんの声が聞ける」この時がとても好きだった。
(仕事中のくんは素敵だ。とても素敵だ。だが、少しくらいこちらを見てほしいと思う)
キースが昼食に誘う、がそっけなく断る、というのはもう二人にとっては毎度のお決まりごと、この部屋でもう何十回と繰り広げられてきたやり取りで、最初にハンバーガーを食べに行ったのを最後にキースはいまだ一度だってをこの建物から連れ出すことに成功していない。それでも「今日は嫌でも、明日は行きたくなるかもしれないから」とそう前向きに捕らえ、毎日毎日(出動のない日)を誘う。
はじめはけんもほろろ「帰れ」「迷惑だ」「二度と来るな」「仕事の邪魔だ」「健康体が来るな」「そんな程度の怪我でわたしを煩わせるな」「黙れイケメン」などとつれないという言葉では足りぬほど全く持ってキースを相手にしていなかったであるが、こんなやりとりが1ヶ月も続くとの部下である医務局のスタッフが「キースさんを応援し隊」に走った。キースが来るタイミングを見計らい、美人秘書がにお茶を入れ、「折角お茶を入れたのですから、ご一緒に一杯召し上がってからお帰り頂いてもよろしいじゃありませんか」と、彼女を宥める。は自分の能力が貴重であることを知っていたが、もちろん自分だけで医務局がまわると過信もしていない。それであるからスタッフの機嫌を損ねることは得策ではないと、しぶしぶ秘書に従った。
そうして、2,3ヶ月もすれば「くんと一緒に昼食を」という目的達成はせずとも、「お昼のちょっとした時間に二人でお茶を飲む」という習慣ができていた。
「申し訳ありません、グッドマンさん。局長、今朝からずっとこの調子で。こうなってしまうと声をかけても駄目なんです。ワイルドタイーガーさんの緊急執刀でも入れば戻ってくると思うのですけれど」
「いいえ!こちらこそいつもお邪魔して申し訳ない、そしすまない。美味しいコーヒーをいつもありがとう」
今日はの仕事(?)が中々ひと段落付かず、キースが訪れても挨拶もせずずっとパソコンに向かいっぱなしであった。申し訳なさそうにの執務室に通してくれた秘書が謝罪の言葉を口にしながら隣に座る。の保護者であるユーリ・ペトロフが司法局の仕事が片付かずを迎えに来られない時に仮眠室になる執務室のソファは彼女が眠れるだけの十分な大きさがありキースと秘書が二人並んで腰掛けても狭苦しいわけではなかった。
「なんでもお風呂に入っていたら急にニュートリノの速度実験について思いついたことがあるんですって。放っておいたら家の壁紙や床に書きかねない勢いだったからってペトロフさんが朝早く局長を連れてきたんですけど」
ちらりと秘書が床に視線を投げると明らかに「重要書類!」の裏側にの字で何か書きなぐられているものが散乱している。執務室に着くなり座り込んであれこれ数式を書いていたが、お昼近くになってやっと考えがまとまったのか論文作成をしている、というところらしい。
「朝から?」
朝早い、というのが何時かはわからないが、のこの様子を見ていると定時の9時や10時といった時間ではなさそうだ。今が十二時であるので、確実に五時間以上ぶっ通しであると予想されキースはの身が心配になった。
「くん、少し休んだほうがいい」
「聞こえていないんですよ、あぁなってしまうと」
それで声をかけるけれど集中しているはぶつぶつと独り言を繰り返すだけでまるで気付いてくれない。
こういうことは何度もあったがいつもキースは心配になる。はまだ小さな子供なのだから根をつめるのは良くないし、できる限り外の空気を吸ったほうがいい。(しかし以前聊か無理にパソコンの前から引き離したことがあるが、その後暫く口を利いてくれなくなった)
さてどうしたものか、と眉を寄せていると、秘書が吐息のような笑い声を上げ、カップを持つキースの手を握る。
「?何か、」
「ねぇ、グッドマンさん局長はきっと今日一日この状態だと思うんです。よければ今日はわたしをランチに誘っていただけませんか?」
女性からの言葉を無碍にして恥をかかせてはいけない、と生真面目なキースは思う。しかしちらり、との方に視線を投げて、やはり相変わらず真剣な顔でキーを叩く音を聞く。
(ずっと画面を見ていたら目が悪くなってしまう。彼女を外に連れ出せないだろうか)
医者であるだから自分が考えるよりずっと健康管理をきちんとしているだろうとは思う。しかしキースはいつもいつもが締め切った部屋の中でカルテや書類やパソコンと向かい合うだけであることが気になった。
「すまない、私はやはりくんを待ちたい」
秘書の女性は手持ち無沙汰にしている自分に気を使って声をかけてくれたのだろう。その行為を無にしてしまうことがキースには申し訳なかったが、やはり今はが気にかかる。キースはこの大人ばかりの環境に囲まれているを心から同情していたし、彼女を子供らしく笑わせたり、幸せにすることが自分のヒーローとしての義務であると考えていた。それであるから、今を優先させることに迷いはなく、きっぱりと秘書の女性に告げる。
「そう。残念ですが、またお誘いしますね」
女性は眉を下げ、そして丁寧な動作で立ち上がるとそのまま退室した。気を悪くしたのだろうとキースは申し訳ない気持ちで一杯になる。しかし切り替えの早い男、すぐに「そうだ、どうやってくんを連れだろうか」というそこに意識をあてる。
「まだいたのか…じゃなくて、いたんですか」
そうして考え込んで暫く。カップの中身がすっかり冷えてしまってから、ぽつり、と聞きなれた低い声がキースの耳に入った。
普段の口調は極力丁寧なものであるが、素ではかなりぞんざいだ。「まだいたのか」という独り言にキースが反応したのを見て言い換える。
「やぁ、お帰り、くん」
「その言い方もどうかと思いますが、気付かなくてすみません。どれくらい待ってました?」
「そんなに長くはないし、君を見ているのは好きだ」
とても好きだ、と続けるとが嫌そうな顔をした。キースが素直な感情を告げると大抵は顔を顰める。そしてはちらり、とキースの膝の上のコーヒーカップに視線をやると、フン、と鼻を鳴らした。
「キースさん」
「なんだい?」
「お茶、飲み終わってるなら帰ってください」
「まだ一口分残してあるんだ」
残っている、のではなく「残してある」というバカ正直極まりない解答であるがキースに自覚はない。
怪我をしていない時にの執務室にいていい理由は「お茶を一杯分飲んでいる間」である。それなら飲みきらなければいいと発見したことを是非褒めてくれ、と言わんばかりの笑顔を向けるとが額を抑えた。
「……疲れた」
「それはいけない!いけないよそれは!」
これはSOSだ!とキースは受け取った。自分の疲労を表面に出さないが言葉に出すほどと言うことは相当疲労が溜まっているのだろう。そして自分しかこの部屋にいないわけで、彼女の声は自分に向けられた!とキング・オブ・ヒーロー、カップをぐいっと傾けて飲み干し、勢いよく立ち上がるとツカツカとに近づいた。
「くん!!少し時間はあるかい?」
「ないです」
「さぁ行こう!」
「聞けよ」
質問しといてシカトか!?とは驚き、そして当然のようにぐいっと、キースが腕を掴んだので更に驚いた。
「ま、待て、わたしは、外には」
「大丈夫!屋上に連れて行きたいんだ!」
あれこれ考えてを公園に連れ出すことが無理なら、それなら近場でキースが一番好きなところへ彼女を連れて行こうとそう決めていた。
このビルはシュテルンヒルドでも屈指の高さであるし、パソコン画面に向かいっぱなしのは大空や遠くを見たほうがきっと言いに違いない。そう思い当たるとあとは実行すればいいだけで、キースはなにやら慌てるを完全スルーしてその腕に抱き上げる。
この時点で、はなんだか嫌な予感がした。どうしてキース・グッドマンはこちらの腕を掴んで、そのまま抱き上げているんだろうか。そしてどうして部屋の窓を開けているのだろうか。そしてどうしてそのまま窓に足をかけているのだろうか。そういう疑問をぐるぐると頭の中にめぐらせるが答えはどうしたって一つしかない。
「ちょ、ま、キース…!!」
「大丈夫!落としたりはしない!」
言葉を満足に言い終えることもできやせぬ。にっこりと爽やか、頼もしいその笑顔を向けられてはサァっと顔から血の気が引いた。
「さぁ行こうくん!」
がっちりホールド、これは安全ベルトというより拉致のための拘束じゃねぇかと突っ込みたくなるようなキースの逞しい腕に抱きこまれ、「助けてタナトス!」とが混乱気味に叫ぶより前に、おなじみ「スカーイハーイ!」というセリフと共に二人の体はビルの外に投げ出された。
そしてその数秒後、同ビル内にある法務局、執務室にて蜂蜜入りの紅茶を片手に何気なく窓の外に視線を投げたユーリ・ペトロフは、絶叫する養いっ子が勢いよく通り過ぎていく瞬間と目が合ってブハッと紅茶を吐き出した。
Fin
(2011/10/05 18:26)
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