はなのにおい
こほり、こほこほ、咳をする音がして、なんだ、と似蔵気になってそれで、そっとその音の元に近づいてみた。高杉晋助が江戸にいる場合の、鬼兵隊の潜伏先、になっていたの薬局は半年前に大火に見舞われて以後、高杉の出資により以前の二倍は大きな土地になった。持ち主であったは高杉と再会さえできれば場所、に対してもう拘りはなかったらしいから、の居場所と鬼兵隊隠れ家も出来て一石二鳥、と喜んだのは以外ないことに来島だった、とぼんやり似蔵は思い出す。(どうも、どうして来島また子は高杉を心底敬愛している、のにのことを疎んでいる様子はなかった。最初は演技か、高杉の機嫌のためかと思えば、本気で「はこの来島また子が守るっす。似蔵には指一本触らせないっす」とか、銃を構えて叫んでいた。そんな心配されなくても、似蔵さんはただの医者に興味などないと武市が突っ込んでいた)
こほり、こほ、ごほ、と咳の音が強くなった。
この、離れには確かが寝泊りしているはずだ。薬局の持ち主だというのに、高杉たちがここにいる間は、この離れから出ることを禁じられているらしい。似蔵たちは近づくな、とは言われなかったが、近づいたら何かと、高杉の気に触ることになるのだろうとは、誰もが思っていた。唯一の例外は来島くらいで、ひょこひょこ、甲斐甲斐しく離れに何かを持っていく来島のにおいを何度か、似蔵は嗅いでいる。
ごほっと、酷い音がした。その後に、何か、水音。掌か、何かに水気のあるものが飛び散った音がする。それが血の臭いで似蔵クラクラと酔いたくなったが、その前に、自分の足に何かが刺さる。
「どなた」
「行き成りコレは酷いんじゃないかねぇ」
ずぼっと、似蔵は自分の太ももに突き刺さった細いメスを抜き取って、障子の向こうに投げ返した。トスっと、畳の上に刺さる音。まぁ、怖い、と戯言としか聞こえない悲鳴が耳に障った。高杉がひっそり隠して止まない姫だ。
(近づいたら厄介なことになるんだろうか、いや、既にこの状況で厄介ごとになってんじゃないのかね)
ごほっと、咳の音は止まない。似蔵はやれやれと溜息を吐いて、縁側に腰掛けた。
「アンタ、死臭がするよ。もう長くないんだろう?」
障子の向こうのが黙って、それでその後に、するすると、障子の開く音がした。ステン、ステン、ペタペタと人が歩く音がして、ふわり、似蔵の肩に布が掛けられた。
「秋口の夜は冷え込みますから、風邪、引いたら大変ですよ」
「女に身体を心配されるとは、男冥利に尽きるねぇ」
死にかけてるのにねぇ、と似蔵が言えば、はその、似蔵の隣にストン、と腰掛けた。
「似蔵さんは見えるのでしょう」
「この通り盲目だよ」
「ひがんばなのにおいが見えるのでしょう」
ふぅっと、がゆっくり息を吐いた。そのたびに、血のにおいが濃くなるのはの口の中の血が空気に溶けるからだろう。この女、が正直ニガテだった似蔵は、いったいどうしようかと本気で悩んだ。
(殺してしまいたくなる、匂いをこの女は出している。けれど桂や白夜叉らとは違う理由で“かつての仲間”らしいこの女を殺したら、どうなるのか考えたくもない)
第一、似蔵には理解できないのだ。赤い弾丸の来島やら何やらは、しっかり利用価値、存在意義が見つけられる。だがはどうだ。この場所だって高杉に与えられ、日々幕府やら何やらから狙われているのを、高杉の睨みで守られている状況。どう考えたって、気に入らない。なのに、殺せない。
「彼岸花?」
「見えるのでしょう。消えていく光の匂いが。そういうものがあるのを、ご存知だと、思いました。なんとなく、ですけれどね」
「俺はねぇ、ただ人が死ぬ瞬間に見える命の光なら見えるさね。それに、あの人から放たれている綺麗な、光も見える」
アンタのはただの死臭だ、と言えば、ふわりと、空気が柔らかく震えた。
「死にません、死んでたまるものですか、わたしが死んだら面倒くさいですよ。お葬式とか相続権とかいろいろ」
「でもアンタは死ぬ。そういう匂いしかしない」
ザン、と空気が切れた。似蔵は抜き放った刀でから繰り出された細いメスを受け止めて、口元を歪ませる。そのまま力を強く込めて刀を振り払い、を地面にたたきつけた。ごほり、と、咳ではない息を吐いて、が蹲る、じゃりっと、砂の擦れる音がした。
「アンタの匂いはイイねぇ。クラクラするよ」
「……ッ…ぁ!!」
運の良いことに高杉は今、いない。島原だかどこかに繰り出しているのだと聞いている。一緒にどうだと誘われたが、生憎花魁の出すあの濃い匂いが得意ではなかったので断った。それに、興奮すると斬りたくなってしまう気質、高杉のなじみの遊女でも斬って面倒なことになるのはごめん被りたかった。
(こうして、姫がそばにいるってのに抱かないってことは、あの人にとってこの女はそういう、対象じゃないってことだよねぇ)
大切、には思っているのだろうけれど、ならば、多少は大丈夫なのではないかと、似蔵、クラクラの匂いでどうしようもなくなってきた自分に言い訳をして、みる。第一、バレてしまったとしても自分はまだ利用価値がある。殺されることはない。殺されさえしなければ、いくらでも挽回する自信が似蔵にはあった、から、ぎりっと、を地面に押さえつけて、その、長い髪を引っ張り、自分の方に向かせた。手で、顔に触れてみる、目の見えない似蔵にとって、人の顔を知る術は触ることしかない。
「これが、あの阿修羅姫の顔かい」
触れてみた顔は輪郭、眉根、目の大きさ、口元、肌、全てが整っていた。造形の美しさ、だけではないとわかりつつも、似蔵、言葉を吐いた。
「一晩で数千人を殺した鬼のような女だって聞いてたからねぇ。もっと、おぞましい傷でもあるものかと思ったが。なかなか、どうして綺麗じゃないか」
うぐっと、喉元を掴みあげればの小さな悲鳴が漏れた。
「アンタがこんな顔じゃなかったら、本気であの人はアンタに執着したと思うかい。守ろうと思っただろうか。なぁ、あの人は他人を上手く使ってくれる。アンタは、その顔以外に、何であの人の役に立ててるつもりなんだい」
「殿の価値を判断するのは晋助であって、おぬしには関係のないことでござろう」
咄嗟に、似蔵は右へ大きく跳んで避けた。しかし、避けたのに、その場所に襲い掛かる、一閃。
「ばん、さいさん……!!!」
がばっと、が万斉の腕に飛びついて、止める音がした。ぜぃ、ぜぃ、と荒いの呼吸が耳に付く。
「くくっ、河上万斉サンの直々の登場とは。人斬り似蔵と人斬り万斉、ここでどちらが上かはっきりさせようじゃないか」
あの人の隣にいつもいる、河上万斉が正直、似蔵は気に入らなかった。自分はきっと、あの人の捨て駒になるのだろう。けれどこの男は違う。あの人の名を呼び、あの人の傍らで片腕のように暗躍する、万斉は、一度斬ってやりたかった。
「ごめん被る。拙者、面倒な殺生はせぬ質ゆえ。――殿、寝所へ運ぶでござるよ。また無理をして熱を出せば拙者は晋助に申し訳が立たぬ」
ひょいっと、万斉はの細い体を抱き上げて、ステステと離れの部屋に戻すため歩き出す。その後姿に切りかかろうと思ったのだけれど、きっと、受け止められるだろうと安易な行動、無様にはなりたくなくて似蔵、ぎゅっと、刀を握り、収めた。
「おい、アンタ」
のゆらゆら揺れる長い髪が空気を動かす、振動、それと今もひっきりなしに匂う死臭にゆらゆら、似蔵は笑い出したくなって、声をかける。
万斉は首を動かしたの耳に、己のヘッドフォンをそっと取り付けて似蔵の言葉を遮ろうとしたのだけれど、その前に、似蔵が続けた。
「アンタが俺より先に死んだら、俺があの人に、アンタのひがんばなの匂いがどんなだったのか、伝えてやるよ」
「似蔵、」
「わかりました。それじゃあ、あなたがわたしより先に死んだら、わたしはあなたの死体から左目を抉ってあのひとに移植してあげますよ」
そりゃ、礼のつもりかい、と似蔵が笑えば、もうヘッドフォンをしきったは何も言わずに、ぎゅっと、万歳の着物を掴んで、やっと、安心したのかゆらゆら揺れる振動に息を吐いて、目を閉じたらしかった。
「似蔵」
万斉が最後に、立ち止まって、振り返る。
「なんだい」
「殿は死なぬよ。そういうふうに、できているでござるゆえ」
言い放って、似蔵が何かそう「死臭がする女が生きられるか」と言う前に、スタスタ、歩いていってしまう。その、確信めいた万斉の言葉に、一瞬似蔵「そうならいい」とか、思えてしまった自分、がいたらしいことに、気付いてしまう。あの、花の匂い。が消えてしまうのは、と、思っている自分。さっと、頭を振って、しゅっしゅ、といつも嗅いでいる、鼻薬を鼻に近づいた。
Fin
何か、無性に書きたくなった。高杉さんはを抱きません。理由がありますが、書きません。
(07/7/7 2時48分)
|