表の久坂薬局の裏側は「母屋」と呼ばれる構造の、の住居が作られている。さして広くはないけれど、かつて真選組の山崎を住み込みで雇えるほどには空き部屋もあり、一人住まいにしては十分すぎる敷地である。
そこに、一応の名分は「従業員」として住み着いた人斬りの「赤い鈴」こと、赤井鈴子(偽名)が、久坂家の台所で、一刻ほど前から何やら、鼻歌まじりにカチャカチャと、クッキングなんぞ、なさっていらっしゃる。

「楽しそう、ですね」

その背、ゆらゆら揺れる真っ白いレースのエプロンの、リボンを蝶々のようだとぼんやり思いながら、自らは参戦する気などない、鈴子が台所に立ってからじっと様子を眺めていた。

「バレンタインだしねぇ。女の子のイベントだよ」
「貰って喜ぶのは殿方でしょう?」
「作る楽しみってやつだよ」

にへら、と、鈴子は笑って湯せんで溶かすチョコレートをちょいと、摘まんだ。

「甘いねぇ。愛の味だよ」

なんて、冗談めかして笑っている。その顔は、たったの一振りで何十人もの人間の血管を破裂させてきた凶悪な人斬りにはとうて見えない。
ちゃんも、作ればいいのに」
と言われても、はぁ、と生返事を返すだけで実際に立つ気はさらさら起きない。

バレンタインディ。バレンタイン。江戸に住居を構えて随分と立つが、毎年起こるこのイベントに、は完全に置き去りにされてきた。



 

 

カンタレラ


 

 

 


鈴子とキッチンでそんなやり取りをした数日後。つまりは、バレンタイン当日。は立ち寄ったコンビニに華やかに置かれているチョコレートの箱をじぃっと、数分間眺めていた。
買おうと思っていた素麺は既に手に持っている。雑誌やコンビニ弁当を買う趣味はにはなく、では早く素麺をレジに持っていって会計を済ませてしまえばいいのに、じっぃいぃぃっぃっと、はチョコレートを凝視している。

「バレンタイン、ですか……」

街中でもテレビでもラジオでも、この次期はどうしようもなく、その話題ばかりが溢れてくれる。
基本的に、にクリスマスやらバレンタインやら、横文字のイベントを祝う習慣はない。江戸城の大奥で行われてきた七夕やら桃の節句やら行事は人知れず懐古病のようにひっそりと行うことはあるが、天人が根付いてから広まった行事ごとは、あまり肌に合わなかったようだ。

「チョコレート」

ついに、は可愛らしいラッピングのされた箱を手にとって、小首をかしげる。世間が、なぜこのように騒ぎ立てるのかには正直理解できない。鈴子も、あんなに楽しそうにチョコレートを作っていた。買うのではなく、作ることにも意味があるらしい。思い人に、贈るため。とてそのくらいはわかる。が、知っているのと、理解できているのは違う。

今にも知恵熱が出そうなくらい、はじっと考え込んで、やがて、素麺と一緒に、そのチョコレートの箱をレジへ一つ、持っていった。





「ありゃ、久坂先生じゃねぇか」

偶然のパトロール中。車の中でセッチャでもしてるヤツァいねぇもんかと双眼鏡で探していた起きたは、コンビニから出てくる久坂を発見して声を上げた。

「土方さん、土方さん。面白いモンが見れますぜ。あの阿修羅がコンビニからチョコレート持って出てきやした」

そういえば、今日はバレンタインだと、車の後ろに山と詰まれたチョコレートを振り返って沖田は思い出す。S王子と名高い彼で、世間一般の評判はとても悪いが、女子への人気は、ないわけではない。いつもは悲鳴とともに道を開けられる沖田だが、今日はおっかなびっくりながらも一般人からチョコレートを渡されることが多かった。

「阿修羅も人並みに女ってことかィ。誰にやるんだか知らねぇが、あのお人も可愛らしいところがあるらしい」
「っは、あの女が色濃いに浮かれるような人間じみたところがあるとは思えねぇな。テロの道具にでも使うんじゃねぇのか」

助手席で煙草も吸えずくだを巻いていた土方が、バックミラーに写ったを眺めながら吐き捨てるように言った。無論土方も、今年のチョコレートは大量である。

「チョコを使ったテロなんて無粋な真似をするようなお人じゃあありやせんよ。土方さん、そんなかんぐりするからモテねぇんですぜ」
「テメェよかチョコの数は多いだろ!」
「俺ァSM道具が多かったんで」

さらりと、それ、人として喜んでいいの?と、突っ込みを入れたくなるようなことを言って、沖田は双眼鏡での姿を追う。

先の事件には、社僧隊壊滅以外にあまり関わらなかったからか、沖田はに対して土方のように「テロリスト予備軍」といった認識がない。亡き姉を助けてくれた恩のある医者、という思いが強いためか、どちらかと言えば、良い印象もある。近藤にしてもそうだ。近藤はを「久坂先生」と呼び、医術の腕を頼みにしているふしがある。だから、沖田がを疎む理由は見当たらなかった。

「あの人に貰える幸せもんは、どいつだ?」

背筋を伸ばして足音を立てぬように静々と歩いていくの後姿を眺め、沖田は少しだけ羨ましそうに呟いた。





真選組密偵、山崎退。久坂薬局の門の前を行ったり、着たりと繰り返していた。今日はいつもの制服姿ではなくて、普段着として使っている着物姿。いつぞやこの薬局に潜入捜査に来た時にも着ていた、軽い服装だ。

うんうんと頭を抱えて唸りながら、山崎、このままを尋ねるべきかどうか、悩んでいた。

「どうする……?どうするよ、俺。今日はバレンタインだし、さんなら『どうぞ』とかって、くれるかもしれないけど……いい加減、お袋以外から貰ったことないっていうのは俺、男としてどうなの?でも、自分から貰いにいくのもなぁ……」

一時間ほど前、屯所に帰宅した沖田の口から、どうやらさんがチョコを購入したらしいことは聞いている。

もしかしたら、自分にくれるために買ったのかもしれないと、淡い期待を抱いてしまうのは、男の子としては当然である。

(そうだ、局長もおっしゃってたじゃないか。「戦うまえから諦めるな」って!!)

がんばれ自分、と己を奮い立たせようとして、山崎の脳裏に、朝からお妙さんにチョコレートを貰いに行って見事に金銭巻き上げられた近藤が良い笑顔が浮かんだ。

(って、頼りねぇ!)

思い出して、山崎はこのまま屯所に帰ってしまおうかとすら思う。

(っていうか、さんには俺なんかよりあげるに相応しい相手もいるんだよなぁ)

ふらっと、いつぞや僅かにだけ会ったあの、隻眼に皮肉めいた笑みの似合う指名手配犯の顔が浮かぶ。
普通に考えれば、がチョコレートを贈る相手として、自分よりも、きっと、あの、高杉の方が確立が高い。けれど、僅かの時間だが、山崎が見たと高杉の関係を思えば、それはないような気がするのだ。

に触れようともしない高杉、また、高杉と目を会わせようともしない、二人に一体どんな思いがあるのか、過去があるのか、山崎は知らないけれど、それでも思いあっているのだろうということはわかるけれど、でも、今の問題、バレンタインのチョコレートを貰う人間、にはなれないような気がした。

と言って、山崎、自分がもらえるのかどうかという自信などない。

「あれ、ジミーじゃん。何してんの」

堂々巡りのように悩んで思考して、ぐるぐると回っていた山崎の背後から、だるそうな声が掛かった。

「だ、旦那……」
「よぅ」

情けなく頭を抱えたまま振り返れば、そこには、片手を挙げてだるっと、立っている銀時の姿。

いるー?銀さんチョコ貰いに来たんだけど」

山崎が言えないことをあっさりと言って、山崎が入れない門をさっさと潜って、銀時、山崎の言葉など待つこともせずにスタスタと、薬局の中へ消えていく。

「え、あ、ちょ、ちょっと!!旦那!!」

銀時は、明らかに「食料」としてチョコを貰いに来ている。いや、食料、ですらない。おそらくは「糖分」だ。
去って行く銀時の姿に呆然としていた山崎だが、すぐに我に返って自分もそのあとを追おうと、一歩足を踏み入れた。

「ぎゃぁああぁああぁあああああ!!!!」
「え?え??」

敷地内に入るか入らないか、というところで、山崎の歩みは、銀時の悲鳴によって止められる。顔を上げれば涙を流しながらこちらに向かって走ってくる銀時。

「だぁああぁああ!!!バカやろぉおお!!!!」

銀時はぎゃあぎゃあと喚きながら、どたばたと門の外へ走り去る。途中、山崎を通り過ぎたことにも気付かなかったらしい。

「え、あ……いったい……?」

呆然と銀時を見送って、山崎は首をかしげた。そして何があったのかと逃げてきた方向を振り返り、はたっと、黒い目と目が合う。

「あら、こんにちは、山崎さん」
さん!」

いつもの小袖に白い前掛け姿のは長い髪を後ろで一つに束ねただけの楽な格好で山崎に微笑みかけた。

「今、銀兄さんが着ていたんですよ」
「え、あ、はい。今すれ違いましたけど……あの、何したんですか?」

何があった、ではなく、なにをした、と聞くあたり、山崎はと銀時の関係をよく知っていると思える。あの気だるさを背負って重みでずるずると押しつぶされるような銀時をあそこまでハイテンションにさせられるのはくらいなものである。明らかに、が銀時に何かしたのだろうと、そういう予測。

「チョコレートが欲しいというから、それに近い色のお茶を出しただけですよ」

にっこりと、は微笑んで目を細める。

(……う、うわぁ…)

声には出さず、山崎は顔を引きつらせて銀時に同情した。のお茶。久坂スペシャルは、山崎にも馴染み深い。なぜだか紫色をしていたり、スカイブルーだったりと、すさまじい色、味のお茶はの茶目っ気がふんだんに含まれている。薬剤を作れるのだから料理の腕は下手なはずはないのに、、素麺とうどん、蕎麦くらいしかマトモに口に出来るものを作らない。

「チョ、チョコに近い色……ですか」

麦茶や玄米茶のような可愛らしいものではないのだろう。ごくり、と、山崎は喉を鳴らして、今すぐ屯所に帰りたくなった。

銀時は、にとって兄のような存在であると聞いている。その、銀時にさえその対応。自分などがからチョコをもらえるわけがない。

さんは、その……」

それでも、聞いてしまうあたりが山崎の、山崎らしいところだ。

「バレンタインとか、しないんですか」
「イベントごとはあまり得意ではないんですよ」

にっこりと、けれど、どこか困ったように眉を寄せて、は溜息を吐いてくる。

(ダメだ!甘い想像してた俺の馬鹿!!相手はさんだってこと、どうして考えなかったんだぁああ!!)

そういえば、夏の花火も遠くからひっそり眺めるのは好きだが、祭りの行われている場所は苦手と言っていたじゃないか。思い出して、山崎はがくっと項垂れる。

「山崎さん?どうかしましたか?」
「い、いえ……」

なんでもないです、ははっと、軽く笑ってみせる山崎に、は不思議そうに首を傾げたが、直ぐに、「あ」と、両手を叩く。

「ひょっとして、チョコ、欲しかったですか?」
「い、いえ!!そんなこと、俺なんかが貰えるなんて思ってないです!」
「ごめんなさい、わたし、そうとは知らず……」

恐縮する山崎には心底すまなそうな顔をして口元に手を運ぶ。その指先と、唇から、ほんのりとチョコレートの匂いがすることに、山崎は気付いた。

(……ひょっとして…)

ふと、山崎の頭の中に、一つの可能性が浮かんでくる。
沖田隊長が目撃したというさんの買ったチョコレートは、自分だったのではないだろうか……?

ありえる。というか、このの反応、その可能性が高い気がする。

は、イベントごとが苦手だ。それは、これまで一人だったからだろう。は一人で、風情のある月見やら雪見、花見を楽しんできた。洋風のイベントは他者がいてこそ成り立つものだ。が、苦手というのもわかる気がする。
それでも、世間があまりに騒ぐものだからと、今年くらいはと、自分で自分が楽しむためにチョコレートを買って食していたのではないだろうか。

さんらし過ぎる……!!)

誰かに上げる、などという選択肢を思いつきもしなかったのだろう。それがわかって、山崎はがっくりと、膝を突いた。

「や、山崎さん……?」

が驚いて目を開く。弱々しく「なんでもないです」と答えたものの、山崎は自分の浅はかさというか、なんとも言えない脱力感に襲われていた。

そうだよ、そうだよな。さんだったんだ。俺、馬鹿だなぁ。ゆっくりと立ち上がって、山崎はへらり、と、に笑いかけた。

「あの、さん。俺、」
「来年は、差し上げます。待っていてくれますか?」

何か言おうとした山崎の言葉を遮って、は、ぎゅっと、山崎の手を握り締め、微笑む。
の綺麗な笑顔に頭がほうけて何も考えられなかった山崎だが、じんわりと、言葉が胸の中に染み込んできて、気付く。

それは、来年も自分が会いにいける距離にいてくれるということなんだろうか。

「あ、あの、いいんですか?」

は頭の良い人だ。だから、山崎がただチョコレートが欲しいわけではないことを悟っているに違いない。だから、今すぐ買ってきてくれて、山崎に手渡すのではなく、言葉を取り繕ってしまうわけでもなく、そう、言ってくれている。

山崎は自分でも間抜けだとわかるような、呆気にとられた顔をして、じっと、の顔を見つめてしまった。

「喜んでいただけるのなら、待っていて、いただけるのなら。来年、再来年も、差し上げたいと思います」

ぎゅっと、山崎の手を握り締めたの手からは、ほんのり、甘い匂いがした。



Fin



(2008・2・10)