「うっわ、胸糞悪い」

パタンと軽い音を立ててが半分ほど読み終えた文庫本を閉じると面白そうに下界を眺めていた大天使が顔を向けてきた。相変わらず美しいとしか言い様のない顔、まさに「光のような」という形容詞が相応しい黄金の髪の大天使さまである。

は彼が、ミカエルが、自分の顔を見て一寸不思議そうな表情を浮かべたものだから「あぁ、わたしはきっと嫌そうな顔をしているのだ」と自覚してぺしり、と頬を叩いた。自分で自分を傷つける行為、というほど大層なものではないが近しい部類ではある。天使であるミカエルはそういう行為に免疫がない。驚いてすぐさまこちらの顔が腫れていないか確認するために近づいてきた。

?」
「ごめんなさい、わたし、どうもここ最近、思ったことがそのまま顔に出てしまうのね」

気を取り直したはにこりといつも通りにミカエルに微笑みかける。それで大事無いと判断したのかミカエルはほっと息を吐くけれど、そのままこちらを見下ろす体勢のままの持つ文庫本を認めて小首を傾げた。

「その本は確か」
「えぇ、そう。先日…地上の、ここからすればずっと未来だけれど、まぁそれはいいとして、2011年11月の日本で発売された、今まさにあなたが見ていた下界で起きているバベルの塔の物語についての書籍ですよ」

は膝の上に置いていた文庫本を手に取る。紫の髪に赤い独特な形状の帽子を被った、点滴とセットという奇妙な登場人物の描かれた表紙を掲げると、ミカエルは「あぁ」と頷いた。

「アップル・りんこの、救世主の物語だね。今は丁度その本で言うところの…天使レミエルが使命を帯びて神に選ばれた少女である彼女の元へ遣わされたところだよ、

丁寧に教えてくれるミカエルには礼を言って、自分も地上を眺める。といって雲から覗き込むわけでもはない。現在二人がいるのは「天界」のコンビニエンスストア。さすがのミカエルも自分の趣味のために下級天使をレジに置くことはしなかったので基本的に無人。普通のコンビニにはまず置いていないだろう妙なものが揃えてあり、なぜかATMの画面から下界の、アップル・りんこと守護天使レミエルの様子が眺められるようになっていた。

ついに趣味が高じて天界にまでコンビニを造ってしまったミカエルを見たときはは「ルシフェルだってここまではしなかった」と呆れたもの。だが、メタトロン光臨の際に天使の素養を神(は引きこもりニートと呼んで憚らないあの陰険根暗野郎)に押し付けられはしたが基本的にはヒトのままのに千里眼はなく、この機能は重宝していた。

そう自分が「あって便利」と思うものは、多分ミカエルには本来必要のないもので、それをこの天使は「私の趣味だよ」という顔であれこれの周囲に造り出す。その度には何か言いようのない切迫感を覚えるのだけれど、まぁそれは今は関係ない。

さて、自らがホームにしている2011年でよく見かける赤い機械の脇に手をついて画面を覗けば、明るい髪のかわいらしい顔立ちの天使が救世主アップル・りんこと彼女の寝室でなにやら話しているところだった。

「ねぇ、ミカエル様。あの天使は変わっているの?それとも普通なの?」
「というと?」
「わたしの知っている天使はあなたやルシフェル、それにセムヤザたちでしょう?あの子、レミエルは、彼らとは一寸違うふうに見えるわ」

レミエル、というらしい名前の下級天使。もちろんには面識がない。メタトロン付きの天使であるはその特異性から大天使や上級天使以外と関わることが滅多になく、また現在はフォース捜索のため地上に降臨しており、ますます他の天使たちとの交流の機会が減っていた。

そのの目から見て、天使レミエルは風変わりだった。何しろ「救世主」と認定されたらしいアップル・りんこを前にして胸の大きさがどうだとか、あれこれと面白いことを考えては表情を変えている。もちろん彼もミカエルたちと同じくアストラル体に違いはないのだろうけれど、その表情から温かみというものを感じられ、には不思議だった。

「なるほど、確かに私や他のアークエンジェルとはちょっと違うかもしれないね。レミエル、彼は下級天使だからそれは仕方のないことかもしれないが」
「というと?」

と、は先ほどミカエルが言った言葉を返した。からかうわけではないが、要領を得ない返事であったとミカエルは気付きちょっと口の端を上げて、目を細める。

「私や兄さん、大天使は神の信頼も厚く、また神に近い場所にいる。だが下級天使たちはそうではない。もちろん神は彼らも全て見守っておられるが…神から見て、ではなく、彼らから見て神の距離はとても遠いということだよ、。下級天使は神と自分との距離よりも、ヒトとの距離の方が近いんだ」

が半分ほど読んだ文庫本、「なんでおまえが救世主?」では天使レミエルが妙にりんこに感情移入してしまい、彼女のあれこれを案じ、その上「実体を持ってしまったのでは?」と危ぶまれるところまで来ていた。

レミエルとりんこの立場は、の知る「天使」と「ヒト」に似ている。神に選ばれた人間をサポートするために天界より遣わされた天使。少々天然なところがあって、純粋で素直で今時珍しいタイプの生き物を、神の造り出した天使が見守る。

(ルシフェルは、レミエルのようにはならなかったわ。どこまでも「神のために」とイーノックを見守った。何度も何度も、イーノックが傷つくことは躊躇わなかった。神の使命を果たす、そのためだけにイーノックを導いた。でも、レミエルは、あの天使は違う)

「相変わらず、人間不信なのね。彼は」

本を読んだ時と同じ感想をは再び抱き、不思議そうにしているミカエルを見上げた。ATMから離れ、そのままコンビニの自動ドアをくぐると何もない真っ白な世界に踏み出して歩き出す。

?どうしたんだい」
「今ここから地上に降りればアップル・りんことレミエルの時代に行けるのでしょう。わたし、行きます。邪魔をします。何もかもを邪魔して、あの引き籠り野郎にこんなことは何の意味もないんだって教えてさしあげるんです」


すたすたと歩き出したの腕をミカエルが掴む。実体のないはずの大天使の手はしっかりと腕を握り、は眉間に皺を寄せ振り返った。

「ねぇ、教えて頂戴、ミカエル。どうしてアップル・りんこが救世主に選ばれたの?」
「それは、彼女がこれまで一度も林檎を口にしていないからだ」

林檎というのは知恵の実によく似ている。知恵の実を神から奪ってヒトは口にした。林檎を食べるということは神を裏切っているということだ。そして林檎を口にしないということは、これまで一度も神を裏切っていないということであり、それは「救世主」の役目を与えられるに足る人物であるという証明になる。と、そう、大天使の言う言葉には苛立った。今すぐこの手を払い落したい衝動に駆られながら、しかし、ミカエルに対して自分の癇癪をぶつけることはしないと、そう決めている自分を思い出す。ミカエルの顔をじっと見上げ、その顔と同じ男を思い出しながらは緩く首を振る。

「おかしいわ。そんなの、おかしいでしょう?ミカエル様、それならどうしてりんこに「林檎を食べること」で能力が発動することにしたの?知恵の実を食べたから能力が与えられた。そんなこと、おかしいわ。あなたが指をぱちんと鳴らせばいいだけの話なのに、どうしてわざわざ「林檎」を「食べさせ」たの」

彼女の物語は単純だ。バベルの塔をヒトが作った。それは神に届くほどの高さ。バベルの塔の建設は神への冒涜。汚れきった地上はノアの大洪水で一度清められたけれど、まだ足りない。ヒトの罪深さはまだまだ拭いきれない。それで再び地上を一掃することになった。救世主りんこはその後の彼らを導く使命を帯びている。

それはいい。そんなことは、もうには関係ない。あれほどイーノックが戦い続けて得た一時の「洪水計画中止」がそのあとあっさり反故にされ実行された時には何もかもを諦めた。だから今回、ノアの子孫が滅ぼうと、もうそんなことはどうだってよかった。

だが、りんこのことは気に入らない。神が、あの男が考えることが気に入らない。

「バベルの塔が建設されているのは、天使たちがヒトを浚って「林檎」にしているからよ。いずれ来る人類浄化計画の後に、選ばれた人間達を、優秀な人材を保護しておくためにヒトを一時的に「林檎」に変えているなんて、そんなのへんじゃない。林檎は知恵の証。それはいいけれど、それを口にすることは神への裏切り。林檎から、生まれてくるヒトが次の地上で生きるようになる。ねぇ、ミカエル様。ヒトが林檎になんてならなければ塔の建設は終わるのに、これじゃあ卵と鶏の話じゃない」

一気に言ってしまって、は自分がいつのまにかミカエルのスーツの袖を強く掴んでいることに気付いた。はっと我に返りは「ごめんなさい」と即座に謝罪してミカエルから離れようとしたけれど、そのの腰をミカエルが引き寄せる。

「ミカエル」
「そう、確かにそうだね、。アップル・りんこ、彼女には異常なほど「林檎を食べるため」の誘惑が多い。家は林檎農園。出歩けば常に周囲に林檎をすすめられる。そして極めつけは今回の、林檎を食べなければ「救世主にはなれない」という状況だ」

ミカエルはの言わんとすることを的確に言い当てた。聡明な大天使だ。そもそもが感じることなどとうに予想済みなのだろう。はそれでもミカエルが最後まで言わないことをわかっていた。この男は、この大天使は、最後の「まるでりんこに林檎を食べさせるためだけに今回の計画があるようだ」と言う言葉は絶対に言わない。

(林檎を食べることが神への裏切りで、この地上に唯一人存在した「神を裏切ったことのない人間」はこの計画のために消える。ルシフェルにすら裏切られた神はこれで何の問題もなく「所詮誰も信じることなんてできないんだ!」と孤独面をできるようになる)

ルシフェルが堕天してから、なんだかんだと言いながらあの男の人間不信(天使はヒトではないが)に拍車がかかっていた。大天使ルシフェル。最初っから、裏切ることを予想して創ったくせに、それでもあれほど「神が全てだ」と言っていた大天使の裏切りは、あの引き籠りニートに「やっぱり私は孤独だ。唯一無二で、孤独なんだ」という思考に拍車をかけた。

地上で最も純粋なヒトであったイーノックを、神は「天使」に造り変えた。選択する自由と意志のあった生き物を神のしもべにしたことであの男は「神をあがめるように創った天使ではなく、自らの意思でここまで強く無条件に自分を信じてくれる存在」をなくした。

はミカエルを睨みそうになる自分を抑え込む。このぐるぐると吐き気さえする感情をこの大天使にぶつけたところでどうなる。彼は、この、大天使ミカエルは神の右腕。神は絶対だとそう思っている天使に何を言っても無駄なことをはよく知っていた。そしてミカエルが、ただ一度神の意志に反して「兄さんを天界に連れ戻す」という自らの希望を貫くために、それ以外の今後一切の神への絶対服従を誓ったことをは知っている。

(わたしはミカエルを味方にしたいわけじゃないし、彼はわたしの敵にもならない)

強く思い出し、はゆっくりと息を吐く。自分の腰に当てられているミカエルの手を振りほどき、一歩下がってからくるりと背を向けた。

「それでもりんこさんが林檎を食べて力を使わなければ、地上の全ての人間が死ぬ。そういう状況に変わりはないのですね。ミカエル様」

この話は気に入らない。バベルの塔をヒトが傲慢に作り上げて、神の罰を受け人類は浄化され、そして言語が分かれる。そのバラバラになった人々をりんこが導き、そしてきっと、彼女は死んでしまうのだろう。それがにはわかっていた。神は、イーノックに対してヒトであり続けることを許さなかったように、彼女も生き続けることをそのまま許しはしないのだろう。

「その通りだよ、。何があろうと、なんであろうと。それでもアップル・りんこは神に選ばれた救世主なんだ」

承知するミカエルに、はあの天使は、レミエルはどうなるのか聞いてみたかった。放り投げた文庫本を最後まで読めばレミエルのこともわかるだろう。だがは、自分は彼らに何もしてやれないのに、そのあとをただ読むことが嫌だった。

聞けばミカエルは答えるだろう。

はゆっくりとこちらに近づく黄金の天使の気配を感じて振り返り、その瞳を見て一瞬口を噤んだ。

「…ねぇ、ミカエル様。わたし、ちょっと思ったのだけれど」

多分、天使のレミエルもハッピーエンドにはならないのだろう。は、ヒトと関わった天使が最終的にはどうなるのかを思い出す。大抵の天使は、ミカエルの言葉を借りれば「神よりヒトに近い」というからか、ヒトに惹かれてしまうものだ。そして惹かれた天使は堕天する。

レミエルがりんこのために堕天するのかそれはにはわからないが、しかし、いずれりんこが救世主として死ぬその時に、それでもレミエルが、かつてのルシフェルのように「神の御心ゆえだ。イーノックは死んでも、天使メタトロンはいるからいいだろ?」と天使らしい発言をできるとは思えない。

だがはそれらの思考はすべて取り払い、もうミカエルとの間の剣呑な空気は収めてしまおうと心に決めて、にこりと見上げ、首を傾げて見せた。

「りんこさんの邪魔はしませんから、こう、さりげなくわたしがりんこさんのクラスに転校して一緒に学生生活、教育実習生に扮したアダモさんも巻き込んで学園ラブコメ、なんてどうでしょう?」

ちゃめっけと言うよりは聊か本気で問うてみれば、ミカエルは一寸考える素振りを見せた後「それで行くと私の配役は校医で構わないかな?」と真面目な顔で返してきた。

そんな展開にはならないとわかりつつはころころと喉を震わせて笑い「保険医はガブリエルさんですよ。ミカエルさまは折角なんですから担任教師とかどうでしょう」と提案して見せて、あれ、それってアダモに対しての死亡フラグになるんじゃなかろうかと、そんなことを考えた。


Fin


短い話です。
(2011/11/27 23:25)