ヒステリックな叫び声とガラスの割れる音がして、ははっと顔を上げた。程よくヒーローが活躍し、ワイルドタイガーが物を壊し、ユーリが残業し、とそういう一日。やっと残業から開放されたユーリと共にがオリガの待つペトロフ家に帰宅したのは5分前のことだ。
ホームヘルパーのサポートによりユーリの実母で現在心の病を患うオリガ・ペトロフは既に夕食を終えて就寝、薬が効いているためぐっすり朝まで目覚めぬと、そういうはずであったのに、一体どうしたことか。
ユーリが疲れているだろうと思い、は珍しく風呂の準備を引き受けて玄関からバスルームに直行していた。そうしてバスタブの淵に腰掛けて流れる湯を眺めていたのだけれど、家中に響くその憎悪に満ちた罵声に顔を顰め、きゅっと蛇口を捻って湯を止めた。そのままパタパタと音の方向、オリガの寝室に向かう。
「ユーリどうし、」
「君は入ってくるな」
寝室の扉は閉ざされていた。それでも中で何が起きているのかは想像できる。ガッシャン、バン、と乱暴に物が投げつけられる音がする。オリガの部屋には割れ物は置かれていないはずだ。ではこの音は窓ガラスでも割れたのだろう。
「ユーリ」
「いつものことだ。君は耳を塞いでいろ」
扉の向こうからオリガの泣き叫ぶ声が聞こえる。普段、穏やかなときはとても品よく美しく暖かく微笑む人からは想像できぬほど、汚く酷い言葉が投げつけられていた。その一つたりとも実子に向けていいものではなく、は扉の前に立ち顔を顰めた。目を閉じ扉に額を付ければ中の様子が気配で感じられる。ユーリは暴れる母をなんとか抑え、その口に鎮静剤を飲ませようとしている。レジェンドの死から今日まで何百回もこなされた作業、慣れたものではある。だが狂人もそのようなことは学習するのか、歯を向きそれを拒んでいるようだ。「パパはもういない!死んだんだ!!」とユーリが叫ぶたびに、オリガの「お前が殺したんだ!この死神!どうしてお前が生きてるんだ!お前が死ねばよかったのに!」と言い返す。
それらを聞きながら、は唇を噛んだ。
(ユーリ、わたしは医者だ。お前はただの「家族」だ。お前がやるよりも、わたしのほうがずっとうまくやれる)
言っても聞き入れられぬから、は胸中のみで呟く。
たとえば心を病んだ人がいて、その介護は家族がするべきではない、というのがの考えだった。家族は確かに「愛」が有りその人を「どうにかしたい」と切なる思いがあるやもしれない。だが愛では救えない、これは立派な「病気」で、専門知識を持った人間(確かにユーリも一般人以上に知識はあるだろうが)とそういう扱いを職業と「割り切っている」ものが応対するのが無難なのだ。
そしてそれはけして非情なことではない。
狂人の心は平常な人間には理解できない。しかし「家族」は理解しようと務め、あるいは「平常であった頃に戻って欲しい」と「あの頃はこうだったじゃないか」と期待する。
それはいけない。それでは心が潰れてしまう。
にとってオリガははじめから「こう」だった。レジェンドと3人での幸せな「時間」を知らない。は最初に会ったときからオリガ・ペトロフを「心を病んだ人間」と認識していて、彼女を「元に戻そう」という強い希望はなかった。
医学的・心理学的に見て彼女の精神の崩壊はもはや回復の見込みはない。できることは彼女が生きていくのをサポートするのみだ。そうとはっきり診断した。
(だがユーリは違う。わかっていて、それでも、求めている)
いつか戻って欲しいと。治って欲しいと。もう一度「ユーリ」と正気の目と声で母親に呼んでもらえる事を(当人が自覚しているかどうかは別として)望んでいるのだとは気付いていた。
ユーリがレジェンドを殺めた経緯はオリガの言葉と、そしてユーリ本人の雑な説明でしか知らぬが、そこから解るのは「殺意はなかった」「ただ母親を守りたかった」とそういうものだ。
(つまり、つまり、つまりは、ただ一言で、それだけで、ユーリは救われる)
ルナティックなど必要ない。ただ一言オリガからの言葉でユーリ・ペトロフはきっと彼を苦しめる、攻め立てる自責の念・罪悪感、正当化させなければという焦燥その何もかもから開放される。
(ただ一言、それだけでいいのに)
母を守ろうとした悲しい子供に、母が向けてやるべき言葉は今のオリガ・ペトロフの口からはけっして出ることはない。彼女が息子に向けるのは夜を呪うような罵声と罵倒。だから、それであるからユーリは月を背負うのだ。
何よりも大切な親に「死ね」と言われる気持ちをは知らない。
(目を閉じて、想像してみるんだ。自分の母親に「死んで」と心から願われている自分を。大好きな母親に「お前なんか生まなければよかった」と叫ばれる自分を)
自分の命よりも大切で、愛していて、傷ついて欲しくない人が、全身から自分を拒絶する苦しみを、はただ想像するしかできないが、それを何十年も続けて、常人は常人のままでいられるのだろうか。
オリガの叫び声を聞きながら、そのままずるずるとは扉の前に蹲った。廊下の天窓から覗く満月に手を伸ばし、顔を歪める。
(あぁ、頼むから、わたしを拒絶しないでくれ)
ここでは愛というものの意味を成しません
|