くろねこ


 

 

繰り出した一撃はあっさりと受け止められ、ならばと左手の小太刀で相手の腕を斬り落とそうと振りかざす。それすらも、ただの座興だと言わんばかりに弾かれた。
悔しいと思うのなら後でもできる。

それよりも、間合いの掴めぬ相手との対峙は只管恐怖心が生まれ、慄けぬ。
目にも留まらぬ素早い動きで相手の背後に回る。掻き切ると、確かに思われた右手の脇差は空を斬り、本能的に飛び上がった。一寸先までいた場所が抉れる。
どんな握力してやがるのだ。石畳を抉るな、修繕のことを考えた。それは自分の仕事じゃないくせに。
相手の姿は見えなかった。見えぬだけで、存在しないわけではない。確実に。闇夜に紛れているのは己とて同じこと、されど経験の差か、いや、圧倒的な実力の差で、明らかにこちらが劣勢である。
そんなことは最初からわかりきっていた。第一、こちらが優勢に立てるわけがない。
そういうものだ。そうとわきまえて、それを前提にしなければまずやっていけぬもの。 
ヒュンと、風が動くたびに肌が裂け、赤い血が躍り出る。糸のように見えなくもない。縁結びの赤い糸か、冗談。
「……はっ…」
わき腹が皮一枚切られたところで、ついに小さく呻く。体中には既にいくつもの小さな傷が出来ている。
どれも致命傷とはいえぬものであったが、積もりに積もれば放っておけぬものとなるだろう。
しかも、齎す相手は人体の急所を知り尽くしている手誰。
全ての傷が戯れではなく、狙って確実な場所に付けられているものなのだ。
長引けばこちらがただただ終わるだけ。
息が上がり始めた。元々からだが弱く、長期戦は不得意とする自分。こうして一刻ほど休みなしに動いただけで隠し切れぬ疲労感が表われる。
それでも立ち、右手と左手に短刀を構えるのは覚悟が齎した気力がなせるわざ。白い小袖は薄っすらと血を吸い、まるで梅の花でも描かれているようだった。
梅に抱かれるか、それも悪くない。少なくとも、縁結びの糸より。
不意に、目の前の闇が揺れた。蜃気楼のように歪んで、影が現れる。
長身の、忍びのクセに体格のいい男。骨のように白い肌と血色の髪。顔に浮かぶ桔梗色の禍々しい文様は祈祷師か何かのようだが、男は呪い師の類ではない。
風魔小太郎。北条に仕える忍びの頭領。渾沌を呼ぶ凶つ風。闇の化身。己の最大の敵。
全てを奪い、破壊尽くした相手。殺しても足りぬ。
対するこちらはただの。いちおう才色兼備の智将と名高い。玲瓏なる花。徳川の軍師。
ただ只管、最愛の義元を殺した風魔を憎んでいたい。健気で愚かな理想主義者。
「……これ以上続けるのか?」
風魔は至極つまらなさそうに呟いて、間合いなど無視した手を伸ばした。その手は凶器と化している。篭手を最も禍々しく改造すればこうなる、という見本のような手で首を掴まれた。
「っ…ぁう……」
ギジジと、骨の軋む音がうめき声と共に響く。宙に浮いた体は反射的に片手の小太刀で手を切り落とそうとしたが、硬い手甲は逆に刃を折っただけ。
馬鹿な、これでも名匠が鍛え、戦場では刃こぼれ一つしない名刀であったのに。いや、この男を常識で考えてはいけない。
「苦しいか?苦しかろう。請えば離してやらんこともないぞ」
酸素が行き渡らず失神しそうになる手前で、風魔は僅かに力を弱める。
けれど息苦しさがなくなるわけでもなくて、寧ろ真綿で首を絞められるように、徐々に、脳内まで蝕まれていく。
慈悲をかけるような風魔の提案を睨み付けることで拒絶した。
途端、男が眦を上げる。
「ならば死ぬか」
怒気を発する風魔を、知る者はいないだろう。風魔は常に余裕を持って、尊大に相手を見下すのだ。
圧倒的な力と、圧倒的な支配力を持ち、全てを座興、戯れ気まぐれで済ませるこの男が、隠しきれぬ怒りを孕んでいる。
込み上げる笑いを堪えられたのは、それよりも苦しかったから。
怒るのに、風魔は首を絞める力を込めなかった。息を止めるまでもなく、首の骨を折ってしまえるほどの力があるというのに。これ以上はできないとでもいうのか。
馬鹿な男。
馬鹿だ、馬鹿、馬鹿。
殺すなら殺せば良いのに。なぜいつものように「消えよ」とは言わぬ?「散れ」と一言言って、そして僅かに力を込めればこんな細い首、へし折ることは造作もないであろうに。
何もいわなければこのまま終わるだろうか。あり得なさそう。
それでも放っておいた。意識が混濁していく。
あ、死ぬ。
「……っ!」
小さく息を詰まらせたのは、風魔の方だった。自分で考えるよりも体は弱かったのか全身の力が抜け、ぐったりと風魔に吊り上げられるだけとなる。
すかさず風魔は手を離した。どさりと床に落ち、急激に入り込む酸素に咽る。
しかし直ぐによろよろと立ち上がり、残った脇差を構えて風魔と対する。
中途半端。
これ以上動けば命に関わる。戦意を喪失させるため、風魔が手加減に手加減を加えた小さな一撃は水滴で岩を削るのと同じ。何れは穴が開き、岩も形を変える。
けれど、けれど。
止まるつもりは毛頭ない。
腕を折られても、足を切られても、その最後まで、殺されるまで、止まるつもりはなかった。

風魔が己の名を呼んだ。
汚らわしい、呼ぶな。が最も大切にするものを、お前が呼ぶな。
力が入らず、ふらふらと揺れる体が煩わしい。せめてもと瞳で睨み付ける。風魔が無表情に見詰めてきた。
「我を困らせるな」
聞いたか!この、他人を甚振って笑う男が困らせるなと!馬鹿なことを。それこそくだらぬことだろう。
殺せないのでしょう。
ここで、を殺せない。殺さなければ、は止まらないのに、殺せないの。
馬鹿じゃないのか。
好きだなんだと、この風魔は言う。よりにもよって世界で一番憎い仇に気に入られ、愛を囁かれるこちらの気持ちを考えたことがあるのか!馬鹿だ、馬鹿じゃないのか。
勝手に困っていろ、馬鹿。
風魔がを殺せないのなら、こちらは死ぬまで憎しんで狙い続けるだけ。
それは嫌だろう?
に、狙い続けられるのは、苦しいのでしょう?なら。
「殺せばいいでしょう」
そう、殺してくれれば全てが終れる。
第一に誰かを憎しみ続けることなど不可能だ。時間が経てば悲しみも薄れるように、憎しみだって薄れる。
それに加えてこの男。を気に入ったとかなんとかふざけたことを抜かし、座興と称して掻き口説く。縛られても、抱き方は心底優しい始終。本気で嫌がれば触れてもこない。本気で泣けばどれ程中途半端でも止める。梅が好きだと言えば閉じ込めた部屋から梅が覗けるようにしやがった。
これで、これで、愛されていないなどと思えるわけがない。これで、優しさを感じぬわけがない。
犬だって、情をかけられれば懐かずにはいられない。あ、自分で犬に成り下がってどうする。喩えだ喩え。
とにかく。その向けられた愛情が、優しさが、全てただ「座興」だと言ってくれ。気まぐれだと。理由などなく、ただそうしただけだと。
そう言ってくれればいいんだ!
「壊せるでしょう!?」
言葉は悲鳴になった。
馬鹿だ、馬鹿、馬鹿じゃないのか。
この男に、この男は、義元公を殺した男。
ただの戯れで、ただ、面白くさせるためにの全てを奪いつくした憎い男。
その男に!傾いてどうする!
与えられたものは全て気まぐれまやかし。あんな行為に意味などない。すぐに、全て消せるものだ。
それをここで証明してくれ。
は止まらぬ。殺されなければ、止められぬ。ここで死ななければ、義元公に顔向けできぬ。
貴方を殺した男に、など言えるわけがない。なら全ては「嘘」だったと証明されて、それで、として死なせてくれ。
「……壊せぬ」
低く、苦渋に満ちたように答えた風魔。途端、の体が沈んだ。
「…っ」
この大馬鹿者が。泣き崩れて、どうする。そんな言葉で、何故泣く。
刀が地に落ちた。体にはもう力が入らない。その死体のような体を風魔が抱き上げた。
あっさりと抱き上げられ、触るな、と思う心とは別に、わなわなと動かした腕が風魔の首に絡められる。何やってんの。
「首でも絞めてやれればいいのに…」
「そうか」
顔を埋めて、小さく呟く。聞き逃してくれる優しさはないのか。がぐすっ、と鼻を啜って、苛立ち紛れに風魔の首に噛み付いた。
このまま頚動脈でも噛み千切ぎってしまえと思うより先に、風魔が笑う。
「痕でも付けるか?」
お前なんて死んじまえ!何この余裕!さっきと別人じゃないのか!?
あぁ、やっぱりただ揶揄られていただけなんだ。そういうことにしよう。
というか、そうじゃないとやっていられない。
「大嫌いです」
「我はを愛しているのだがな」
なんで嘘に聞こえないんだろう。冗談に聞こえない。だから、始末に悪い。
もういっそ、何も考えるのを止めてしまおうか。
あ、でもそれじゃあそれこそ「」じゃない。堂々巡り。結局は結果など最初から解りきっていたんだろうと、誰かに指摘されるまえに認めてしまうか。

 

 

 

 


了 

 


 

世間では鬼畜で攻め攻めなサド小太郎さんが出回っているのに、どうしてうちのコタはこんなにヘタレなんだろう。       

平成十八年三月十九日 日曜日