酷いことをしていると、何度も何度も、罵られた。どうして、どうして、そんなに酷いことばかり、するのかと、言われた。けれど。
かといって、どうすることも出来ないのだと思えば、こう、するしかないのだと、思えばその罵倒もなんだろうと、耐えられた。

(これは、潜入捜査である)


偽造した履歴書をにこやかな笑みと共に渡しながら、山崎退は目の前の、これから自分の上司になる久坂玄水を見つめた。

久坂玄水、と言えば三年前に江戸で開業して以来名医と名高く一躍江戸一番、と呼ばれるようになった人物だが、一年ほど前、突如幕府より開業取り消しの処分を受けた。しかし何故、というその、理由が定かではないためさまざまな噂が飛び交い、結果久坂はン幕府に睨まれているのだ、ということになった。その為に診療所の次に開いた小さな薬局では、殆ど噂にもならずひっそりとさびれかけているそうだ。

「山崎さん、ですね。えぇっと、山崎、タイ、さん?」

色素の薄い髪に、真っ白い肌の、ごくごく普通の女性に、見える。というのに、この女、いや、まだ少女とさえ言える久坂は目下、真選組の標的である。


一ヶ月ほど前のことだ。幕府中枢を牛耳る天導衆から直々に、この久坂を探るようにと真選組へのお達しがあった。久坂玄水が攘夷浪士と係わり合いを持っている、と言う。
それを、土方はきな臭いと嫌悪しているのだけれど、ならば尚更、久坂を探らねばならない。天導衆が態々「命令」をするのは、いったいなぜか、ということを土方は探れと山崎に命じた。山崎は表向き、この久坂玄水が攘夷浪士たちと関わりがないかを調べ、本質は、いったいどうして、天導衆、幕府がこの女を疎んでいるのか、を探ることである。

当然、聞き込みやら裏での調べは既にした。しかし、久坂が江戸に来る前はいったい何をしていたのか、交友関係、どこで医者の術を学んだのか、の一切を真選組は掴むことができなかった。

そのために、今回、こうして山崎が標的の近しい人物になることによって、探りを入れに来たのである。

「退です。山崎、退です」

まぁ、面白い名前、と久坂は小さく首を動かして、ヒラヒラ山崎の履歴書を振り、机の上に置いた。

「ここへ来る前の職業は、工場勤務とありましたけど……」
「はい、マムシ工場というところで働いていたんですが…工場長が真撰組に捕まってしまって…」

自分から真撰組の名前を出すのは布石である。真撰組の被害者、と思わせることでまさか係わり合いがあるとは思わなくなるはずだ。現に、久坂は気の毒そうに眉を寄せて、口元に手を当てた。

「それは、ご苦労なさったでしょう。けれど、工場から薬局への転職とは、思い切りましたね」
「はぁ、ずっと剣術しかやってこなかったもので……今の求人はほとんど侍不可、ってありますから…ここは、書いてなかったので…それで、その」

不審がられているのであろうか?と山崎は一瞬身構えたが、浪人は昨今溢れかえっている、多少無理矢理の転職の理由も困らなかった。久坂はつぃっと「書き忘れたんですけどね」と呟いた。

「え、じゃあ俺ダメですか、やっぱり」
「いえ。工場勤務でも扱うものが火薬から毒薬に代わるくらいです」
「何てグロイ例えしてるんですか」

びしっと突っ込むと久坂は面白そうにころころ笑った。そして、姿勢を正して山崎に丁寧なお辞儀をする。

「改めまして、私は久坂玄水といいます。これからよろしくお願いしますね、山崎さん」

あ、はい、と急な変わりように慌てながらも、山崎も反射的に頭を下げた。

こうして、山崎退の潜入捜査がはじまったのである。



+++




夜半遅く月もない新月の夜、ひっそり密やかに久坂薬局のまわりをうろつく者がいた。暗闇のために着物の柄もその顔も何もわからないが、その、人物はトン、と容易く塀を飛び越えて中に進入すると、暫くして、何事もなかったように出て行った。その、者を見たのは誰もおらず、ただ一匹、野良犬が突然と現れた、黒い生き物に驚いて、一度、鳴こうとして切り殺された、くらいだった。



+++



真夜中に目を覚ますと、見慣れない天上が目に入る。そうだ、俺は潜入捜査に来ているのだと一瞬で理解するには、宛がわれた部屋の布団が心地よすぎた。真選組の屯所にある山崎の部屋はここよりは小さいし、男所帯、いくら下っ端が雑用をこなす縦社会とはいえ、毎日布団を干す、などということはできず、万年布団、とまでは行かないが、一ヶ月に一度干されるか、という程度になっている。それに普段から監察方としてあちこち動き回っているので、ゆっくり、柔らかい布団で寝る、というのは、そういえば正直、潜入捜査のときしかない。

(実家にいたって、こんな生活できないよなぁ……)

ここでは朝はちゃんと食事が用意されて、誰にも取られることがないし、理不尽な暴力を受けることも、罵られることもない。
山崎はごろごろと何度も布団の中で寝返りを打った。勤務一週間。まずわかったことは、やることがない、ということだ。どうして自分が雇われたのかが解らないほどに、この薬局は暇である。
暇なら暇で、家事やらなにやら補充発注在庫整理などやることもあろうが、久坂は全て一人でやってしまう。山崎が薬局でやることといえば、買出しに付き合ったり、するくらいだ。折角雇ったのだから何か使ってくれ、と言って、頂いた仕事は草むしりくらいである。

店のほうも、久坂薬局は幕府に睨まれているのだ、という噂の所為で殆ど客がこない。では生活はどう成り立っているのか、と疑問に思えば久坂本人の口からは聞けないが、山崎の調査によると、“久坂玄水”の発案した薬の特許がいくつもあるので、そちらで十分に生活できる収入を得ているらしい。

それにしても、女性一人暮らしにしては、久坂は無用心に過ぎる。行く場所がないと山崎が言えば、母屋の使っていない部屋を山崎の寝室として使わせてくれることになった。その上、給料と食事まで出るのだから、これできちんと何か、仕事をしなければ申し訳なくなってくる。
真選組で散々扱き使われていた日々に慣れている所為もあるが、基本的に山崎は馬車馬の如く働いていた方が、楽らしかった。だから、今日も自分がしたこと、草むしり?を振り返って、溜息しか出てこない。もちろん、時間が多く空いてある、というのは調査には良いのかもしれない。お陰で近所の人間や出入りの業者からそれとなく久坂玄水の情報を聞き出せている。が、それで収穫があったかと言われれば否。
すでに真選組で調査できていた事柄が改めて他人の口から聞き出せただけに過ぎない。

山崎は宛がわれた寝室の、備え付けらしい小さな机に向かって表向きは雑記帳、中身は土方への報告書を書きながら何度目かになるかわからない溜息を吐いた。
久坂玄水が攘夷浪士たちと関わっている証拠を見つけなければ、真選組には帰れない。それまでこの、ぬるま湯のような状況につかっていなければならないのだ。

「あの、山崎さん?」
「あ、ハイ?!」

障子の向こうから掛かった声に、山崎は慌てて雑記帳を仕舞い込んだ。久坂の声である。山崎が返事をすると、障子の向こうで久坂が眉を顰めたのがわかった。

「まだ起きていたんですか」
「え、あ、はい。ちょっと、今日教わったことをまとめておこうと思って」
「そうですか……あの、お夜食を作りましたから、もしお腹がすいたら食べてくださいね」

トン、と廊下に何かが置かれる音。そして山崎が返事をする前に、久坂の気配は消えてしまった。
障子を開ければ、お盆の上におにぎりとたくあん、それにお茶だ。起きているか、と最初に確認するように声をかけてきたが、久坂の寝室から母屋の山崎の寝室は、向かい合わせにある。(久坂は離れで寝ているのだ)灯りがついているのが見えたのできっと、身でも案じてくれたのだろう。

「……良い人、過ぎじゃないか?」

正直、浪人は無条件で疑われてもいいはずだ。天人のせいで(という言い方は悪意があるようで嫌いだが)侍は待遇がものすごく、悪い。ダンボールのオッサン以下の扱いを受けていて当然で、久坂が攘夷浪士と係わり合いがあるにしろ、ないにしろ、突然現れた浮浪者、行く場所もない流れの山崎を、あやしんで当たり前なのである。
だというのに、久坂はまったくこれっぽっちも、毛ほども山崎を疑っている様子はない。これで、本当に久坂が黒でも、いや、黒であればなおさらに、自分に近づく正体不明の人間は警戒すべきだ、と、いうのに、これは、何なのだろう。
逆に心配になってきてしまい、山崎は首を振った。

(これは、潜入捜査なんだ)

自分に言い聞かせるように呟いて、山崎はが持ってきてくれた夜食から目を逸らした。
なんでだろうか、別段、人を騙したり、嘘をついたりすることは、珍しいわけではないし、何度も、これまで何度も、潜入捜査、スパイ・密偵の類を自分はこなしてきた。攘夷志士の夫を持った未亡人の屋敷に侵入したこともある、残されたテロリストの遺児を殺したこともある、というのに、なんだろうか、この。

(罪悪感?この俺が?うわー…嘘だろ)

正直山崎は、心底綺麗な生き物、ではない。真選組の総大将近藤の長所であり欠点の、人の悪いところを見なさ過ぎる点で、集まったのは何も土方や沖田ばかりではないのだ。
だから、クズだ何だとさえ言われる密偵なんて、気安く勤められる、のに。

「……調子、狂うなぁ…」

掌で顔を隠して、山崎は大きな溜息を吐いた。







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(2007)